第七章 【三】

 ――共にガラディアへ来てもらう。
 ランルは一方的に告げた。響希は反発を覚えたが、いつになく強い眦を向けられて言葉を失う。ランルの近衛たちは戸惑うように視線を交わし合うが、ランルの意向を妨げることはできなくて口を閉ざす。不満な表情をしながらもランルの側に従った。
 セフダニアとガラディアを隔てる結界はもうない。
 両国の曖昧領域に入り、評議会が管理しているとも言える土地を、歩きで横断している。ランルが乗ってきた馬は大人しい。暴れることもなくランルたちの動向を見守っている。
 ランルたちの後を大人しくついていく響希であるが、徐々に神経がささくれ立っていくのを感じて口を開いた。
「ランル」
 隣にいたクーリュエンが黙ったまま響希に視線を向ける。
 前を歩いていたランルも振り返った。
「俺は翠沙を追いかけて評議会に行きたい。このままガラディアに戻ることはできない」
 周囲は荒野ばかりが広がる場所だ。セフダニアを出てからしばらく経つ。土地勘のない響希には、現在地も分からない。
 振り返るランルは紫の髪を揺らせた。夜会に出席していた衣装そのままで駆けつけて来たようだが、髪を飾っていた装飾品類は全て役に立たなくなっていた。半端に崩れた髪を手櫛で整え、取り去った装飾品は近衛たちの腰袋にしまわれた。
 荒野を歩いた風が、響希の外套を静かに揺らせた。
「ここから評議会へどれほどの距離があるか知ってる?」
「知らない。だからこいつに案内してもらおうと思っていた」
 立ち止まったランルに合わせて響希も立ち止まった。
 ランルの問いに首を振りながらクーリュエンを指差す。突然のことにクーリュエンは瞳を丸くして響希を振り返った。
「前払いをやっただろう。借りは当然、返すよな?」
 恐らく反論しようと開きかけたクーリュエンの口が止まる。響希はニヤリと口の端を持ち上げて笑う。
 評議会への道のりが長いことは予想していた。だから決して断れないように前払いとして食料を与えたのだ。つまりその時から響希の作戦は始まっていたことになる。
 クーリュエンはそんな思惑にようやく気付いたのか、呆れたように響希を見た。そして溜息をつくと唇を引き結び、しっかりと戻った両腕で響希を掴んだ。
「ここから評議会までどれぐらいあるか知ってんのかよ?」
 ランルと同じ質問だ。響希は悪びれなく頷いた。
「知らないからお前に案内を頼むんじゃないか」
「あ……のなぁ……」
 クーリュエンは息を吸い込む。
「無理だ、無理。絶対ェ無理! 俺はあんな奴らのいる場所に行きたくねぇし。大体だな、結界が張ってあるんだから、行ったって無駄足だぜ」
「お前に拒否権はない。ついてきて貰う」
「いいや。俺の命はもう姐御のもんだがそれだけは」
 クーリュエンは最後まで言い終えることなく殴られた。
 響希は嫌そうな顔をしながらクーリュエンを見る。振り上げた拳をゆっくりと下ろす。
「ふざけた呼び名を改めろ」
 クーリュエンは涙目で響希を見た。響希は手加減しなかったのかもしれない。
 響希はクーリュエンから視線を外し、ランルに体を向け直した。ランルはクーリュエンに出鼻を挫かれたように佇んで複雑な表情をしている。視線を響希とクーリュエンに往復させる。
「類友……」
「お前も大概失礼な奴だな」
 ボソリと呟かれた声を敏感に拾い上げた響希は頬を引き攣らせた。
 憤然と息を吐いて声を荒げる。
「俺は評議会に行くからな。翠沙を取り戻さないといけない」
「それは駄目よ」
 響希はそのまま踵を返そうとしたが、ランルの腕がしっかりと響希を引き止めた。それは正しい判断だ。しっかりと響希の腕を掴んでいなければ、響希は声など無視してそのまま歩き出していた。
 クーリュエンが響希から一歩離れて成り行きを見守る。
「このまま評議会へ行けば、貴方にとって確実に不利な立場に転んでしまう」
 響希は苛立つようにランルを振り返った。自分がこうだと決めたことを邪魔され続けるのは気に入らない。
「セフダニア起こった今回の事件はもう伝わっているわ。原因は先にあった宝珠の暴走だけど、今回の事件を誘発させるキッカケを作った貴方を評議会は許さない。彼らは結束も強い。もしも運良く誤解を解いて貰えるとしても、評議会は宝珠を持つ貴方を見逃しはしないわ。宝珠を取り上げられて放り出されるわよ」
「そんなヘマはしない」
「セフダニアだけでは物足りず、今度は評議会を潰すつもり?」
 ランルの声が一段低められた。
 うんざりと聞いていた響希は思わずランルを見返す。静謐な紫紺の瞳が響希を見上げており、そこには糾弾する意志が潜んでいる。
「こうまで言ってもまだ評議会へ行くというのなら、私はそういう風に受け止めるわよ」
「俺は」
「宝珠を持つものが勝手な行動をしないで。考えて。評議会はスイサを殺したりしない。まだ時間はあるわ。だから、貴方はまずガラディアに来るべきよ」
 響希は不愉快さに眉を寄せる。
 なぜそこまで言い切ることができるのか。もしもそれで翠沙に何かがあったらどうするつもりなのか。
 様々な言葉が胸に浮かんだが、それらは声にならずに消えていく。
 ランルと響希の睨み合いとなった時、それまで動向を見守っていたクーリュエンが一歩近づいた。
「何をしようとしてるんだか俺には分からないけど、そうした方が得策なのは確かだ。まずは食料だけでもどうにかしないと、旅なんてやっていけないってこと、忘れてないよな? 姐御」
 響希はピクリと頬を引き攣らせてクーリュエンを殴った。
「……分かった。ひとまずはガラディアに戻ろう。後のことはそれからだ」
 響希は誰をもその場に置いて歩き出した。憤然とした足取りで、誰よりも先にガラディアへと歩く。成り行きを見守っていた近衛たちが残念そうな溜息を吐き出したことも聞き逃さない。彼らはこのまま響希が評議会へ流れていってくれたらと思っていたに違いない。
 響希は近衛たちを一瞥して荷物を背負い直した。
 残されたランルは響希の後姿を見送る。
 そしてその場に残され、うずくまったクーリュエンを見て、少し躊躇ってから「大丈夫?」と声をかける。
 響希と同じく漆黒の髪色を持ったクーリュエンは無言のまま力強く頷いた。

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 母の柔らかな腕に抱かれながら夢を見ていた。
 腕の中の幼子を起こさないように気遣っているのか歩調はゆっくりとしたものだった。その揺れる震動が子守唄のようで、意識はストンと落ちていた。
 包み込む腕はとても温かい。それを手放すことのないように意識しながら夢を見ていた。
 耳元で吹き荒れる風の音が聞こえる。
 よく耳を澄ませば、風の音は数多の断末魔だった。
 彼らの命が淡い光となって混濁し、一つに集められた光は大きな力の渦を描く。
 目を逸らすことなくそれらを見つめた。
「どうするのですか?」
 口を開かないまま問いかけた。
 この場所では意識の内で思っただけで声になる。
 何かの音がキラキラと絶えず響いていた。
 丁寧に磨かれたような硬質の床に足をつける。自分を抱く腕の温もりを決して忘れないようにしながら周囲を眺める。
 先ほどの光は少し遠くに見えた。
 恐れるように慎重に足を向ける。
 直ぐ近くに誰かの気配を感じた。
 静かな気配を持った女性だった。声を掛けたくても中々音にならない。知り合いの女性にとても良く似ている女性だ。
「あの……」
 彼女は光に手を伸ばして引き寄せる。
 一つの光となった命たちは、その光を収縮させ始めた。小さく小さく凝固する。
 二つの瞳が見守る前で、それは強いきらめきを宿した石になった。
 それを何と呼ぶのか知っている。父親を同じくする姉がとても大切に、胸に掲げていたから。
「どうするのですか?」
「お前が手を放したら、教えてやろうよ」
 女性は笑みを浮かべたような気がする。けれどどうしてかその表情を見ることが出来ず、母親を掴む手に力を込めた。この手を放したら二度と戻ることが出来なくなってしまうと知っているから。
 ――とても良い目を持っているのね。
 褒められたことを思い出しながら、石となった命たちを眺めた。
 先ほどまで眩いばかりに光り輝いていた石だが、急速に光を失いつつあった。今では消えてしまいそうだ。
 女性が不機嫌そうに溜息をついた。
 彼女が手の平を返すと、光を完全に失った石はカツンと硬い音を立てて床に転がった。石はまるで意志を持つように足元に転がってきた。しゃがみこんで石を拾う。小指の先ほどしかない小さな石。
「大切にしぃや」
 女性の声が笑いを含む。
 鮮やかに、強く。トン、と見えない何かで体を突かれた気がした。一歩後退して、意識が急速にこの場から引き剥がされていく感覚を覚える。目の前に佇んでいた女性の姿が朧になって消えていく。その姿に重なるようにして別の女性が輪郭を確かにしていく。徐々に存在を明確にしていくのは、見慣れた母親の憂い顔だった。
「大事ないか?」
 王宮の誰とも違うアクセントの言葉をかけながら彼女は覗き込んできた。
 彼女がその言葉を密かに気にしていると知っていたから、不安を与えないように微笑んで頷いた。
 カルミナ二妃は安心したように微笑みを返す。腕に抱いていたエリオスを寝台に下ろす。
 エリオスは柔らかな羽毛に包まれて吐息を洩らした。熱が離れていくことが淋しくてカルミナの腕を掴む。カルミナが少しだけ驚いたように瞳を瞠る。その様を見てエリオスは頬を染めた。いつもは聞き分けのいい子どもを通していたが、急に不安になったのだ。
「甘えるなど珍しい。だが嬉しいものよ」
 カルミナは相好を崩してエリオスの隣に腰掛けた。視線を落としたエリオスを抱き締める。
 そして、気付いた。
「エリオス……」
 エリオスは心許なくて顔を上げる。
「そなた、何を持っておるのえ?」
 問われて再び視線を落とす。
 そっと開いた小さな手の平には赤い石。
 エリオスの脳裏に先ほどの夢が浮かぶ。夢だったはずなのに、と手の平を凝視する。そこには確かに、女性から渡された石が光を反射して、あった。