第七章 【六】

 実の父親は、響希が物心つく頃には既に組長として君臨していたため、彼に父親を感じることは少なかった。常に凛とした態度を求められ続けてきた響希にとって、育ての親は慶や夾だ。彼らはいつも響希に向けて『お嬢』と呼びかける。畏敬の念と親愛を込めて囁く。『響希』と呼び捨てることは決してしない。響希を呼びつけにできるのは現組長である父親だけだ。
 響希は幼い頃からそれを不満に思っていた。しかし大人の機微を読み取れるような感性を育て、それが彼らなりの線引きなのだと悟ると不満は消えた。彼らに向けられた深い愛情を理解して感謝した。
 ――お嬢。
 響希は呼ばれていると思った。慶の声にも聞こえたし、夾の声にも聞こえた。この世界に生まれ落ち、根を張るために必要な呼び声。それは響希の足元に確かな地面をつくる。幾多の視線は響希を超人へと押し上げる。彼らの期待を負担に思ったことはない。
 戦神たちが駆けたという天空の野原。その名を冠する天野組を支え、恥じない人物になる。それが響希の目標だ。
 世界を渡ってから幾らも経っていない。けれど妙に懐かしく思えた。
 響希は眉を寄せた。
 いつもなら夜明けと共に意識が冴える。しかし今日は何かが違う。夜明けが近いのかもしれないが体が重たい。手足が鈍痛を訴えていて動かない。これでは敵が来たときに動けない。手足の鈍痛に比例して頭までも痛みを訴えてくる。
 なにがあったのだろうか。
 響希は瞼を開けて息を呑んだ。
 目の前に大きな獣がいた。息遣いが荒く、獣が洩らした吐息は冷たい礫となって響希の頬を擦り落ちる。獣独特の臭気が漂ってくる気がした。それほど近くにいる。けれども野性の獣とはどこかしら異質な気配を放っている。
 獣の瞳は真紅に煌いていた。闇の中でも決して見失わない色。その瞳が真っ直ぐに響希を見つめていた。
 獣と響希の視線が交錯し、しばらく経つ頃。獣は不意に響希の上からおりた。
 響希は体を起こす。目の前には驚くほど大きな獣が鎮座して、響希を見上げている。先ほどまで体が重かったのは、何のことはない、この獣が体の上に乗っていたからだ。
 体を起こそうとした響希は無意識に銃を探そうとして舌打ちした。懐に入れた手は、軽い胸当てに阻まれただけだった。響希は視線を獣に戻す。闇の中でもどこか光を失わない。見事な漆黒の獣だ。
 最初こそ驚いた響希だが直ぐに冷静に立ち返った。現状を把握すると獣から距離を取る。銃がないとなれば剣がある。こちらの世界に来てから慣れるようになった剣を手にして獣を睨む。
 まるで黒豹だ。地面に座り、響希を見上げている黒豹はユラユラと尻尾を揺らせている。しなやかそうなあの体で跳ばれたら、喉笛など一瞬で噛み切られてしまうだろう。
 響希は顎に力を入れながら睨みつけた。ヒヤリと冷たいものが背中を流れる。
 不意に獣の瞳が細められた。
 来る、と確信した響希は肩に力を込める。だが予想は外れた。獣は四足で静かに立ち上がり、尻尾をゆっくりと揺らしながら響希に近づいてきた。犬に似た仕草だが安心などできない。獣の瞳には決して飼い馴らされない野性が潜んでいる。迂闊に手を出そうものなら腕ごと持っていかれるだろう。
 響希はどうするべきかと脳裏で巡らせながらそのまま剣を構えた。どちらにしろ敵なら斬るまでだ。
「それ以上、俺に近づくな」
 放つ声は痛いほどの緊張と威圧に溢れていた。
 響希は告げてから後悔した。獣相手に言葉など通じるわけがない。しかし黒豹はまるで言葉を理解したかのように歩みを止め、そのまま響希を見上げた。
 驚くべきことは更に起こった。
「ルヴァイヤ様の忘れ形見、キョウキ様」
 黒豹が人語を発したのだ。
 目を瞠る響希の前で、黒豹は変化した。獣から人間へと、まるで夢でも見ているのかと思うほど自然に、黒豹は人間の男へと姿を変えた。
 足首まで届く長い髪は尻尾のようにユラユラと揺れて光を零していた。先ほどまで闇に浮かぶ黒豹だったというのに、人間へと姿を変えた彼は白を纏う男だった。纏う服から髪色まで、全てが白く染め抜かれている。先ほどまでの黒豹と被る所があるとすれば、真紅の瞳と、その眼差しの強さだろうか。
 響希は訳が分からなくて二の句を継げない。構えた剣も下ろされる。
「花涼月へと渡られた貴女を影ながら見ておりました。声を掛けようと何度も思いましたが、時に縛られたこの身ではそれも叶いません。先ほど貴女が解き放ったサイ王の力を少々取り込み、ようやく現へと姿を保つことができています」
 響希と同じほどの背丈で男は淡々と告げる。響希が手にしている剣をそっと見やると、それだけで響希の手から剣が離れた。あ、と思う暇もない。まるで力任せに引き剥がされたかのように奪われた剣を追いかけようとした響希は、目の前に迫った男の顔に息を呑んだ。
「その宝珠を持つ者が我らの主です」
 男は視線を響希の胸元に落とした。むろん下心などではない。響希の胸元には宝珠が隠されている。男は服の下に隠された宝珠を見るように瞳を細める。
「懐かしい、気配だ」
 思い出に浸るような声を出した男は、再び視線を響希に落とす。剣は先ほど遠くへと弾いていた。しかし彼の喉には別の小型ナイフが突きつけられていた。
「俺は間合いに入られるのが嫌いだ」
 剣呑な声を出す響希に男は軽く微笑んだ。そして離れる。
「俺の母を知っていると言ったか」
「はい」
「母はやはり、こちら側の人間なのか」
「そうです」
 微笑みながら淡々と答える男を睨みながら、響希は拳に力を込めた。
 その時、空に光が走った。地平を白く染めて太陽が顔を出そうとしている。空を走った光は響希を包んで世界へと広がった。
 響希はその眩しさに瞳を細めて腕を翳した。もちろん男に向けるナイフの先はそのままだ。
 響希と同じく朝日を浴びた男は残念そうな顔をした。
「ああ、陽の光は体を溶かす」
 その言葉に偽りはない。男の体は徐々に光に溶けていく。白い服はそのまま光となって透けていく。男は最後に響希を見ると囁いた。
「どうか貴女に、ルヴァイヤ様の導きを」
 その言葉の直後、男は獣の姿に戻った。
 目を瞠る響希の前で、そのまま消えるかに思えた彼だったが、彼は一度周囲を眺め渡した。少し離れた場所にはランルたちが眠っている。響希たちのやり取りに目を覚ました様子はない。彼は何を確認しようとしているのか、しばらく探るようにそちらへ視線を向け続けたが、やがて跳躍して宙に掻き消えた。鮮やかで無駄のない動きだ。響希は呆然と立ち尽くした。
 彼との対峙を証明できるものは何もない。過ぎ去ってみればただの夢だったのではないかとも思える。
 白む空を見上げた響希は息を吐き出した。そしてランルたちに向かって歩き出す。荒野のただなかで皆が野営している。近衛たちはその状況に酷い嘆き声を上げていたが、ランルが一喝すると大人しく現状を受け入れた。それでも不満は残っているらしく、響希とクーリュエンを少し遠くに追いやって寝ずの番をしていたはずだった。けれど響希がそちらに近づくと、皆が健やかに眠っている。近衛になった者たちは新人が多いと聞くから、慣れぬ現状に疲れが溜まっていたのかもしれない。特にランルの現状は、彼らにとって予想外だったはずだ。響希としてはそちらの方が都合がいい。あの場面を見られて下手に騒ぎ立てられても困る。クーリュエンの寝息が聞こえてきて、響希は立ち止まる。
 響希は「それにしても」と表情を険しくさせた。
 何の前触れもなく、あの男はなぜ自分の前に現われたのか。何が起こっているのか、まるで分からない。男から引き出せた情報は推測を確信に変えただけで、新たな情報とは呼べない。得体の知れない何かに踊らされているような気持ちになる。急に現われたあの男は何の符牒なのかと、分からないことに苛立ちが募る。
 響希は歯軋りして顔を上げた。ランルの側で眠っていた馬が顔を上げて響希を見た。動物は気配に敏感だというが、黒豹が来ても馬は騒がなかった。そのことに気付いた響希は不思議な気分で馬を見やる。やはりあれはただの夢だったのかと首を傾げた。

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 ザラリとした、何とも言えない感触が素肌を滑っていく。
 李苑は肌を粟立たせながら唇をきつく引き結んでいた。体を仰け反らせると首にジュラウンの指が触れる。目尻に浮かぶ涙が優しく拭われる。けれど押し潰されるように体全体で圧しかかられ、李苑はとうとう小さな悲鳴をあげた。
「私が真の巫女になるって、どういうことよ……? だからって何でジュンにこんなことされなきゃいけないのよ!」
 先ほどまで冷え切っていた彼の体は今や熱い。
 李苑は戸惑いながら怒鳴りつけた。涙と息苦しさで心臓の音もうるさい。
「評議会は巫女が二人存在していることを知りません。スイサの存在は明るみに出されましたが、彼らはまだリオンの存在を知らない」
 紗幕から入る光は寝具のある空間を非常に朧にさせていて、李苑にはジュラウンの顔もよく見えなかった。両腕を寝台に押し付けられたまま、荒い呼吸を繰り返す。
「スイサが実際に宝珠を操らない限り、評議会は彼女を巫女だと断定することができない。今は状況から推測しているに過ぎない。それでもスイサを強引に引き込んだのは、それほどまでに巫女を欲していたからです。今の彼らにとっては巫女など肩書きだけあれば充分なのです。巫女を掲げたことで生まれる、宝珠国に対する牽制だけを狙っている」
 李苑は固く瞼を閉じた。ジュラウンの手が強引に李苑の服を奪い、素肌を滑る。もはや李苑の脳裏に説明など入っていかない。ジュラウンの言葉を聞くよりも、彼の熱を止めたい気持ちが強い。ジュラウンの言葉を考えている余裕などない。
「それなら貴女が先に巫女を名乗ってしまえばいい。そうすれば評議会はスイサを巫女と掲げることはできなくなる。スイサも、評議会に向かう意味がなくなります」
「そんなの、どうやって名乗るっていうのよ! 翠沙に証拠がないなら私だって同じじゃない!」
 反射的に李苑は怒鳴りつけていた。
 李苑と翠沙とどちらが巫女かと問われれば、誰もが翠沙を指差すだろうと確信していた。李苑には翠沙と違って宝珠の力を操ることなどできない。誰かの怪我を癒すこともできない。幼い頃から自分で培ってきた戦闘能力しかない。
 ジュラウンは微笑んだ。
「宝珠の巫女には隠された役目があります」
 李苑は涙目になりながらジュラウンを見た。
「宝珠の力を操るだけが巫女の役目なら、私たち管理者とさほど変わらない。代わりは幾らでもいます。管理者に選ばれなかった候補者たちにも、僅かながら宝珠を駆使する力はある」
 まるで楽しい内緒話を明かすかのような表情で、ジュラウンは李苑を見つめる。
「巫女と管理者を決定的に分けるものは、血です」
「……血?」
「そうです。巫女には、増えすぎた血を統制する役割が与えられている」
 ジュラウンの唇が李苑の肌に触れた。胸から腹へと滑っていく。
 李苑は息を詰めた。両腕を掴まれたままなので抵抗することができない。次第にその力も失せていく。
「巫女の血は管理者を定める為のもの。巫女と交わった者のみが管理者たる資格を得られ、それまで曖昧だった候補者たちの権利は未来永劫失われる。巫女から生まれた子どもは必ず次の管理者に選ばれる」
 抵抗が失せた李苑に気付いたのか、ジュラウンは李苑の両腕を戒めていた手を外した。それでも李苑は暴れようとしない。体力が底をついたのかもしれない。李苑は顔を横向けて荒い呼吸を繰り返す。肌が扇情的に染まり、呼吸と共に小さな胸が上下に揺れる。
「イフリートの宝珠。私以外は誰一人として管理者の資格を失い、争いは止む。そうなれば李苑が巫女であると誰もが気付くでしょう。またとない証明になる」
 李苑は茫洋とした前途を見つめるように瞳を緩ませた。ジュラウンの言葉に偽りはないと知らず確信していたが、全てを話しているわけでもないと感じる。それが何なのかは分からない。気付かないふりをして、このまま最後まで抱かれてしまえば、きっと大切にして貰えると思った。失った両親の庇護下に再び戻るような感覚だ。それはそれで幸せなのかもしれない。物語のなかで憧れたお姫様に、現実としてなれるのだ。
 李苑は抵抗をやめた。黙ったままジュラウンの口付けを受け入れる。
 瞼を閉ざそうとしたとき、風が動いたことに気付いた。力石によって生まれる送風とは全く異なる風だ。
 この密閉空間にどこから入り込んできているのだろうかと視線を巡らせた李苑は、体を起こした。薄闇に包まれた部屋のなかで一つだけ光が見えた。先程まではなかった光だ。
 ザーイが閉じていったはずの扉が開いていた。風はそこから流れ込んできている。外から零れる光は異彩を放って李苑に示していた。選べる道はまだある、と。
 ジュラウンが腕を伸ばしてきたけれど、突如として現実が飲み込めた李苑はその腕を振り払っていた。
「リオン」
 光の中には見知らぬ少年と少女がいた。二人は室内で何が行われているのか悟ったのか、入口で体を強張らせていた。
 李苑は奥歯を噛み締めて動いた。隙をついて逃げる。驚くジュラウンを死に物狂いで突き飛ばす。寝台から転げ落ちるようにして李苑は紗幕を破り取る。寝台のシーツで体を隠しながら素早く立ち上がり、溢れた涙を腕でこすり取った。
「やっぱり私は納得できない! ジュンと結婚なんて絶対してやんない! 変態! スケベ! 強姦魔!」
 恐らくジュラウンには言葉の半分しか意味が理解できない。寝台に体を起こし、呆気に取られている。李苑はそんな彼に指を突きつけて叫んだあと、クルリと踵を返した。沸々と湧き上がる怒りで頭の中は真っ白だった。屈辱で顔は真っ赤だ。
「私、もうザーイだって信用しないんだから!」
 李苑は扉に走った。入口で固まっている二人目指して全速力で駆けた。入口を塞ぐ二人のうち、抵抗が少なそうな少女の手を掴んで部屋を出た。驚く少女の声には耳を貸さない。部屋を出れば直ぐに解放するつもりだった。逃亡を邪魔されないために少しの時間だけでも人質が欲しかっただけだ。
 しかし直ぐに我に返った少年が李苑を止めようとしてきた。李苑は器用に彼の腕を避ける。
「ペリメーゼを放せよ!」
 少年の苛立った声に李苑は振り返った。ペリメーゼなる少女を取り返そうと、少年は必死の形相をしていた。ただの少年でないことは直ぐに分かる。いちいち隙のない攻撃を仕掛けてくるのだ。少年にとってはペリメーゼを取り返せばいいだけだが、李苑が後ろ手にしているため、ペリメーゼを取り戻すにはまず李苑を倒さなくてはいけない。少年の攻撃には容赦がなかった。
 李苑と少年と、戦闘に慣れた動きに互いを怪訝に思った時だ。
「ペリメーゼ皇女!」
「ゲイル!」
 廊下側からはザーイが。そして部屋からはジュラウンが止めに入った。
 まるで三竦みの状態になりながら李苑は立ち尽くした。綺麗に着飾っていた面影はなにもない。李苑の身を飾るのは今や、天蓋から下ろされていた紗幕だけ。そんな姿を見たザーイはさすがに言葉を詰まらせたようだった。
 李苑はその場の誰をも睨みつけて息を吸い込んだ。後ろ手にしていたペリメーゼの手を強く握り締める。先ほどの呼称を信じるならば皇女を人質に取っていることになる。だが好都合だと李苑は内心で思った。このままファイナンのいる部屋まで逃げ戻ったところで二の舞になるのが落ちだ。ザーイたちが身分を掲げて押し入ってくるのなら、女官であるファイナンは拒否できない。だが間に入るのが皇女ならばどうだろうか? 効果はあるはずだ。目の前の男たちには身分という壁をつくり、容易く自分には近づけないようにしてしまった方がいいのだ。
「私、今日からペリメーゼ皇女と一緒に暮らす! 男禁制よ! 宝珠の巫女の命令!」
 李苑は高らかに宣言した。