第八章 【一】

 セフダニアを離れた馬車は一定の速度を保ちながら荒野を走っていた。窓には変わり映えのない景色が流れていく。
 翠沙は揺られながら翡翠色の瞳で風景を眺めていた。
 自分でも何を考えているのか良く分かっていない。これから何を考えるべきなのか。心は迷いに揺れている。瞳に映る景色が殺風景なもので良かった、と無感動に思った。人々の暮らす様子が目に映ったりなどしたら余計に心は揺れてしまいそうだから。
 翠沙は体を動かさないまま視線を少し動かした。翠沙が乗る馬車とは別に、幾らか等級を落とした、それでも優雅さを保った馬車が追いかけてきていた。そこにはサウスが乗せられているはずだった。彼が所有する宝珠の存在がそれを教えてくれている。同時に、翠沙はこの場に響希がいないことも感じ取っていた。彼女はセフダニアに置き去りにされたのだ。
 翠沙は軽く瞳を瞬かせた。それがきっかけになったのか、幼い少年の声がかけられた。
「巫女さまにはさぞお疲れのことと存じます」
 翠沙は視線だけを彼に向ける。揺れる馬車の中で器用にも歩いてくるのは十歳に満ちていないだろう少年だった。名をトーグルという。短い赤銅色の髪が柔らかな輪郭を覆っている。賢そうにきらめく青い瞳は真っ直ぐに翠沙を捉えている。子ども特有の活発さは感じさせず、幾つも歳を重ねた大人の落ち着きを宿している。そんな様子はガラディアのエリオスを彷彿とさせる。ただ、エリオスには溌剌とした光を失わない強かさがあったが。
 トーグルは翠沙が何を思っているのか露知らず、彼女に近づいた。
「このような馬車に巫女さまをお乗せしなければならないなど、評議会も本意ではないのです。けれど、今しばらくのご辛抱をお願いします。あと数日で神殿に着きますから。そうすれば多くの出迎えがあります。どうか、ご安心下さい」
 およそ子どもには似つかわしくない口調だった。
 恐らく神官になるべく生まれて間もない頃から神殿に預けられた子どもなのだろう。口調には評議会に寄せる信頼がありありと含まれている。猜疑心の一つも覚えたことがないに違いない。
 翠沙はトーグルをただ見つめた。トーグルは無心に翠沙を見つめ返す。不意に翠沙が微笑み、トーグルの頬に赤味が差した。
 翠沙と共に馬車に乗るのはトーグルしかいない。身の回りの世話はすべてトーグルが引き受けている。とはいえ食事や着替えの用意は別の馬車に乗る神官たちがするため、トーグルに課せられた仕事は話し相手くらいのものだった。評議会までの移動距離は長く、移動速度も遅い。
「私は中央でなにをされるのかしら」
「心配なさらないで下さい」
 トーグルは少し慌てたように両手を振った。
「私たちは巫女さまを守るためにお招きしているんです」
「守る?」
 翠沙は笑わずに問い返した。トーグルは静かに頷く。
「世界は本当に長い間、巫女さまの出現を待っていました。けれどその長さに巫女さまの尊さを忘れ、利用しようと企む者たちも後を絶ちません。嘆かわしいことです。巫女さまはまだこちらの世界に現れたばかりで何も存じていないでしょう。それではただ良いように利用されてしまいかねない。巫女さまには最も安全な場所で、世界を導いて貰いたいのです」
 トーグルの口調は真摯で純粋だった。巫女に対する心酔が見て取れる。だからこそ翠沙と二人だけで馬車に乗ることを許されたのだろう。
 翠沙はセフダニアで馬車に乗せられる直前、その場での最高責任者であろう祭司から任命を受け、トーグルが頬を紅潮させていた場面を思い出した。翡翠色の瞳を軽く伏せる。一拍置いて、彼を見る。
「私を守って下さるのね」
「はい」
 トーグルは神妙な面持ちで頷く。欠片の嘘も挟まれない神官の誓い。
 翠沙はただ「ありがとう」と平淡な声で返した。先ほどまで心を寄せていた外の風景に再び視線を向ける。何も考えたくなかった。サウスが乗せられている馬車を見て瞳を細める。長い沈黙が下りた。
「一つ……質問を許していただいてもよろしいでしょうか」
 先に沈黙を破ったのはトーグルだった。視線を向けられると彼は気まずそうに俯いてしまう。小さく震える唇は緊張の度合いを示していた。
 翠沙は初めて小さく微笑みを向けた。
「ここに貴方を叱る者はいないわ。普通の話し方でいいのよ」
 トーグルは意外なことを言われた、というような瞳で翠沙を見返した。落ち着きなく視線を彷徨わせてかぶりを振る。
「恐れ入ります」
 たとえ王族の子どもであってもこの年齢からこんな堅苦しい喋り方はすまい。何も考えずに楽しさだけを求めて無邪気に友人と走り回っている年頃だ。
 翠沙はトーグルの隣に移動する。心持ち身を引いた彼の腕を取って抱き締める。エリオスと同じくらいの背丈だ。硬直したように身じろぎしない彼に微笑みかける。間近でその笑顔を見たトーグルは顔を赤くすることも忘れて絶句した。翠沙はトーグルの腕を掴んだまま元の位置に座る。そうするとトーグルも操られたようにのろのろと翠沙の隣に腰を落ち着けた。
「トーグルには家族がいる?」
「僕の家族は……セフダニアにいました」
 トーグルの口調は和らいでいた。けれど視線を揺れる床に落とした表情は暗い。零された内容に翠沙も表情を強張らせる。
「僕だけが修行で神殿にいました。一年に一回だけ許される帰省だけが楽しみだった。けれど、もう永遠に会えなくなってしまった」
「そう……」
 セフダニアの住民は消えたまま戻らない。サイ王が起こした宝珠の暴走が明らかになった今、生存は絶望的だ。トーグルは大きな瞳を潤ませて翠沙の腕を掴んだ。敬愛する巫女を気遣わせてはいけないと思ったのか、気丈な笑みを見せる。
「これからは大丈夫です。巫女さまが戻られれば、もう、あのような事態は起こりません」
 どこか縋るように見上げてくる純粋な瞳に胸を衝かれた。翠沙は脳裏にセフダニアで会った神官を思い浮かべる。忌々しさに内心で臍を噛む。
「巫女さまは……なぜ、今まで異界になど……」
 ぼんやりとした呟きを落とした後、トーグルはにわかに我に返ってかぶりを振った。慌てて側を離れていく彼の背中を見つめて、翠沙は両手を下ろす。簡単に答えを返せない質問だ。彼が勝手に補完してくれるのならそれに任せたい。
「ごめんなさいね」
 揺れる馬車の音に紛れて翠沙の声は届かない。
 翠沙は視線を窓に向けた。ただひたすら時を待ち続けた。
 そうしながら、トーグルの言う通りだと思う。もう少し早くこちらの世界に現われていれば、サイの暴走は最悪の事態を迎えることはなかったかもしれない。世界がこれほど混迷していることもなかったかもしれない。どちらも、考えても埒が明かないことだ。そしてその考えは、世界を渡った決意を無にする意味も含んでいる。
 翠沙はやりきれない思いを抱えて瞼を閉じた。瞼裏に潜む闇に身を委ねる。花涼月球に渡ってから、何度も心を抉られるような場面に直面してきた。これからもそれは続くだろう。
「――」
 翠沙は小さく呟いた。丁度、馬車の音が消えた合間のことだったため、トーグルが視線を上げた。しかし翠沙は気付かない。自分が呟いたことにも気付かないまま瞼を開ける。遠く離れてしまった友人たちに想いを馳せる。
 李苑と響希。彼女たちに何も告げぬままここまで来た。伝えるべきことは沢山あるのに、もう届かない。
「あの……」
 翠沙の様子に不安を感じたのだろう。トーグルが声をかけた。けれどその声は途中で諦められる。翠沙もまた気付かないふりをする。
 馬車はそのまま走り続けた。

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 セフダニアから評議会まではかなりの時間を要した。
 馬車の中で眠り、目覚め、食事を摂った。物資調達のために町を経由することも数回あったが、翠沙の乗る馬車はいつも荒野に置き去りにされた。もちろん精鋭だろう武官たちが護衛のために残ってはいた。だが翠沙にしてみれば単なる監視に他ならない。そんな不満も封じ込めて、馬車はただひたすら荒野を走り続けた。
 ようやく評議会に着いたと告げられたとき、翠沙は思わず溜息を零さずにはいられなかった。
 長らく窮屈な馬車に閉じ込められていたせいか倦怠感を覚える。眩しさに瞳を細めながら陽の目を見る。馬車の中は快適さが装われていたが、久しぶりに感じる外の空気には敵わない。少し冷たい風を吸い込むと解放感が胸に満ちる。
 率先して扉をあけたトーグルに続き、翠沙も馬車を下りた。
 眼前には見上げるほど立派な神殿がそびえていた。建物を囲むように外廊が造られ、幾本の太い柱が天井を支えている。絡み合う蔦模様が彫られた柱は清廉さを示すように白い。幾つかの尖塔には旗が翻っていた。緑と金で成す紋章が描かれている。
「評議会は世界で最も大きな組織です。これからはここが巫女さまのお住まいになります。お気に召されれば嬉しいのですが……」
 窺うようなトーグルの視線に応えることなく翠沙は神殿を見つめた。門から神殿入口までの長い外廊は穏やかな陽光に照らされている。少し褪せた様子は、建設から今までの長い年月を感じさせた。
 トーグルは翠沙の手を引いた。その感触に我に返り、翠沙はトーグルを見下ろす。二人とも近くの町で新調した衣装を身につけている。翠沙は髪色に合わせた淡い翡翠の肩掛けを羽織い、トーグルは見習い神官の正装である青い神服に袖を通している。地元と呼べる土地に戻れて嬉しいのか、トーグルは硬い表情をしながらも瞳に安堵を滲ませていた。
 翠沙は視線を巡らせた。
 評議会の門扉を潜る前に、サウスを乗せた馬車だけが別の方向に走り去るのを見ていた。彼がどこに連れて行かれたのか分からない。トーグルには恐らく知らされていないだろうと思い、尋ねることはやめた。サウスの代わりに調査団を乗せた馬車が次々と門扉を潜り抜けて玄関先に停まる。馬車から降りた彼らが道の両脇に配して道を作るのに合わせ、神殿からも複数の神官たちが姿を現して道を作った。
 そんな中、トーグルに近寄る者がいた。セフダニア城で翠沙を初めに発見した祭司だった。およそ祭司には似つかわしくない頑強な体つきをした彼は、厳めしい顔つきのままトーグルを労い、そして翠沙に顔を向けた。
「長らくご不便をおかけしました。先触れの者が貴方さまの到着を告げております。お疲れのところ申し訳ありませんが、これより貴方さまには、最高評議会を務めますルクにお目通りしていただきたい」
「ルク?」
 翠沙は眉を寄せた。
「大司教のことにございます」
 男は頷きながら翠沙に告げた。言葉の端々に蔑視が含まれており、翠沙は不快感に顔をしかめる。トーグルの手を放して両手を前で組んだ。背筋を伸ばして祭司を見上げる。
「ルクのことなら知っています。私が問いたいのはそのようなことではありません。いつからここは、議長と司教を兼任できるようになったのでしょう」
「巫女さまがご不在の時に采配を揮われるのが大司教にございます。議長とを兼任していただくことが、最も混乱が少なく、人心にとっても不安の少ない策でございました。巫女さまのご不在時に決定された苦肉の策でございます。お気に障られたのならご容赦を」
 翠沙を見下ろす瞳には疎んじる光が浮かんでいた。言葉を繕っても高圧的な態度は崩れない。咎める翠沙の響きに動じることもない。憎らしくも淡々と反論を封じる。
「ここから先、トーグルでは位が合いませぬゆえ私が先導いたします。どうぞ、こちらへ」
 男は翠沙を一瞥して歩き出した。
 翠沙は歯痒い思いで彼の背中を見つめる。歩き出そうとしたが、思いとどまって隣のトーグルに視線を移す。彼は険悪な雰囲気に知らず怯えているようだった。そんな彼に翠沙は微笑みを向ける。トーグルは緊張を解いたのか、肩から力を抜いた。
「また後で会いましょう」
「――はい」
 トーグルは少し躊躇うような仕草を見せたが、翠沙に倣って軽く微笑み、頷いた。翠沙が体を戻して歩き出そうとすると、前方で男が振り返っていた。トーグルとのやり取りを窺っていたらしい。翠沙に視線を向けられると直ぐに体の向きを変える。視線だけで「ついてこい」と示す。
 人の列が神殿の入口まで真っ直ぐに伸びていた。到着した当初はまばらだった人の列だが、短いやり取りを交わしているうちに完成していたらしい。固める人々は例外なく評議会に与する神官たちだ。彼らの視線を痛いほど感じながらも翠沙は前だけを見つめ続ける。一歩を踏み出した。
 側面に花模様が彫られた階段をのぼる。広く、段差の低い階段には砂粒の一つも落ちていなかった。翠沙は来る途中で横切った砂漠を思い出す。砂漠の彼方に目を凝らせば陽炎が見出せた。宝珠の力を感じ、陽炎の向こう側に李苑の存在を感じた。思えば李苑のすぐ近くまで迫っていながら今はとても遠い場所にいる。
 階段をのぼり切った翠沙は佇んだ。人々の影を映す水面鏡のような廊下が広がっている。等間隔であけられた天井の明かり取りから昼間の太陽が光を降り注いでいた。不思議なことに艶やかな廊下は陽光を反射させない。まるで吸い込んでいるようだ。神殿の奥に向かうにつれて太陽の光は届かなくなるが、廊下に封じ込められた陽光が帯を作るように奥へ向かっていた。
 先導していた祭司は殊更ゆっくりと進んだ。両端に佇む神官たちが次々と翠沙を値踏みする。指導があったのか、翠沙に声をかける者はいない。しかし目深いローブの奥から覗く瞳は好奇心に満ちていて、翠沙は居心地の悪さに表情を強張らせる。内心では辟易していた。
 ふと翠沙は、道をつくる神官たちとは全く異なる男を視界の先に見つけた。
 終着点なのだろう。神官たちの道はそこで途切れている。待ち構える男は翠沙の視線に気付いたように眉をあげて、軽い笑みを唇に浮かべる。
 翠沙は歩調を強く転じた。先導していた祭司を追い越す。晒される好奇の視線をすべて無視し、祭司がかける声にも応じない。
 評議会の権威を見せ付けるように、最下層の神官が出揃う玄関口。そこにおさまりきらない高位の神官は更に奥に控えている。だが翠沙にはわざわざ回り道をして、評議会に集う全ての者の好奇心を満たしてやるつもりはなかった。辺りの神官たちと色を違える神官服の男に、早足で歩み寄る。
 神殿では位ごとに衣服の色が分けられている。一つ階級をのぼるだけで、その権力は歴然たるものになる。幾ら名前を変えようと、内部に満ちる黒い思惑は変わらない。古い体制も変わらない。
 ならば評議会とは――己が知るものが名を変えた、成れの果てか。
 翠沙はまなじりを強めながらひたすら歩いた。呼び止めようとする祭司の声はもう消えていた。翠沙も振り返ることはしない。外の光が徐々に潰えていくのを感じながら、視線の先に佇む男だけを見つめ続ける。
 巫女が不在のため、評議会は世界に及ぼす権威を失った。誇っていた勢力はいまや、宝珠を内包するガラディアやイフリートに飲まれようとしている。セフダニアが倒れたのは彼らにとって喜ばしい事態なのかもしれない。
 ようやく現れた巫女は、彼らにとって希望の存在だろう。
 否、希望という爽やかなものではなく、執念と呼ぶに相応しいものへ昇華されているのかもしれないが。
 翠沙は自分が冷笑を浮かべていることを客観的に感じながら男の元へ歩いた。
 居並ぶ神官たちの中、一人だけ雰囲気を違える者。まとう衣装には絢爛な刺繍が施されている。翠沙を見つめる眼差しは誰よりも強い。この中では彼が最も高位に位置する者だ。
 先導してきた祭司に負けない、高圧的な眼差しが翠沙を射抜く。
 翠沙は冷笑を花のような微笑に変えて彼の前に立った。
「――私が、宝珠の巫女。総出の出迎えはありがたく頂戴します」
 翠沙が優雅に礼をしてみせると、神官は恭しく頭を下げた。胸の前に両手を組み、長い袖で隠して相手から肌を見せないようにする。ゆったりとした動作は余裕があると思わせるためだ。神職に就く者が慌てれば不信感を抱かれる。翠沙は彼の頭が上がるのを待ってから口を開いた。
「道中、トーグルより伺いました。巫女に関して不穏な動きがあるそうですね。そのため、こちらにて私を保護してくださると」
 男の視線が翠沙を越えて背後に注がれる。翠沙が軽く体をずらして振り返ると、追い抜かしてきた祭司が控えていた。神官の視線に頷いて応える。
「神官を目指す純粋な神徒です。セフダニアでの調査に随行させておりました。潔斎に入った時期でしたので、巫女をこちらにお招きするまで側につかせておりました」
「そうですか。それは丁度良かったですね。ですが言葉は巫女の不興を買うことになる。後で指導なさい」
「は……」
「巫女を保護下に置くなど畏れ多い。巫女は評議会の上にあるのであって、下にあるのではない。この世に並び立つ者もいない、至高の存在なのです」
 神官は瞳が隠れるほど細い目で微笑む。祭司は目礼して口を噤んだ。
 翠沙は体を男に戻して顔を上げた。
「私の意はここに。つまらぬことで煩いたくありません。巫女の力が必要ならば再びお貸ししましょう」
 悠然とした口調で翠沙は肩をそびやかした。背後の祭司が不愉快そうに鼻を鳴らしたのが分かる。だが翠沙は態度を改めない。一対の緑柱石を挑戦的にきらめかせて男を射抜く。儚げで弱々しい翠沙の姿はもうそこにはなかった。凛とした声は澄んで響く。
「ここは私にとって特別な地。高位神官である貴方になら、情報に惑わされぬ真実が見えるはず」
「もちろんです」
 男は微笑みを崩さずに頷く。
 翠沙もゆっくりと頷いた。男の答えに満足したように。
「ルクの元へ案内を」
「お望みのままに――我らが巫女よ」
 言葉には力が含まれていた。
 男は青い神官服を翻して翠沙を招いた。
 翠沙はスッと息を吐き出して男の後に続いた。