第八章 【二】

 神殿の中で風は動かない。堅固な建物は牢獄に似ていて気が滅入る。足元から湧き上がる光も、今の翠沙にとっては煩わしいものでしかない。周りを囲む神官たちの視線が気に障る。
 金の刺繍が施された神官服をまとう彼らの視線は一心に翠沙へ注がれていた。
 これまでの巫女たちは、元から力を持って生まれた娘が神殿に召されて力を覚えてきたり、または相応の歳になった娘が突如として力を発揮して神殿に迎え入れられたりといったことが多かった。だが翠沙は出自から全く異なる。異界の存在となれば彼らが身辺を探ることもできない。セフダニアの事件をきっかけにして表に現れた翠沙は、神官たちの好奇心を疼かせるに充分な要素を備えていた。
 ――李苑が見たらなんと言うだろう。
 先導する男に従いながら翠沙は薄い笑みを浮かべた。懐かしい友人の姿を思い描く。
 少し歩くと神官たちの姿もまばらになってきた。更に歩くと完全に絶え、案内する男と翠沙の二人だけとなる。白地に青いローブを纏う神官は一度も振り返らない。いつの間にか床に染み渡っていた光も消え、二人は艶やかな鏡のような廊下を歩いていた。男の踵が固い音を響かせる。
 ほどなく大広間に出た。突き抜けるような高さの天井を仰ぎ、翠沙は知らず吐息する。正面には女神像があった。創生の巫女をモデルにして造られた像は両の瞳を閉ざし、静かな面持ちを広間に向けている。七色に煌くステンドグラスを背景に立つため、ひとたび光が差せば、集う神官たちの目にはさぞや神々しく映ることだろう。
 翠沙は瞳を細めて女神像を見上げた。しばし瞳に女神像を刻んだあと、おもむろに振り返る。しかし翠沙の視線は今しがた歩んできた廊下ではなく、通路の真上に向けられていた。
 通路から真正面に位置する女神像と相対するように、壁面にもう一体の女神が描かれていた。歩む者たちを抱きしめるように両手を広げた姿で、像とは異なり微笑みを浮かべて。
 神殿が建造された当初からこの広間は存在している。何百年を巫女と共に過ごしてきた神殿は、もう歴史的建造物だ。そうにも関わらず壁画や女神像に少しの曇りも見られないのは、低位の修行者たちが磨いているからだろう。
 広間の壁には幾つか窪みがあり、炎が入れられていた。だがそれは、良く目を凝らせば力石で補われた光だと知れる。巫女のいない神殿には、全てを力石で補えるような財力も残されていないのだ。
 翠沙がしばし足を止めている間に、案内役の神官は広間の反対側に辿り着いていた。扉の前で振り返り、翠沙の様子を見つめる。彼の足音が消えたことに気付いた翠沙はようやく視線を彼に向け、そちらに歩いた。
 向けられていた視線は冷ややかなものだった。黒檀のような瞳が翠沙を捉えている。
「ここより先に、私は出入りを許されておりません。どうぞ、お一人でお進み下さい」
 両開きの扉には重たげな装飾が施されていた。
 男は事務的に告げて扉を開ける。道を譲るように体をずらし、翠沙に頭を下げる。
 翠沙は目の前に開けた道に瞳を瞬かせた。扉の向こうにはまだ延々と回廊が続いている。思わず溜息をつきそうになって慌てて飲み込む。横目で男を窺うが、彼は頭を上げない。恐らく翠沙の足元を確認しているのだ。彼の視界から翠沙の足が消えない限り、彼は顔を上げないだろう。
 翠沙は男の肩に触れた。
「ここまでの案内、感謝します」
 翠沙は笑みを刷く。そうして先に続く廊下を振り返った。奥からはどこか威圧的な空気を感じ、懐かしさを覚える。人心も世界も様相が変わってしまったようだが、根本的ななにかは変わっていないのだ、と翠沙は前を見据えた。
 開いていた扉を自分の手で閉める。重いかと思われた扉だが、片手で難なく動かせた。単なる見せかけだけだったようだ。
 翠沙は閉めた扉の前で溜息をつく。
 長い廊下は湾曲して伸びている。扉を閉めた音が反響して奥に吸い込まれていった。
 評議会はとても広大な土地を有している。建てられたこの神殿も大きい。全てを回るとなれば一日あっても足りないだろうと想像できる。転校や入学で、初めて校内を見学するときのような冒険心が湧く。
 ガラディアやイフリートのような国と違い、評議会には自治する町がない。しかしここは一つの国と呼んでもおかしくない。
 幾つもの梁が高い天井を支えていた。一本一本には細工師の手が加えられて優美な線を描いていた。色や素材を変えた絵柄が掘り込まれている。柱は翠沙の視線に晒されて蒼く煌いた。
 翠沙は静かに歩き出しながら、瞳を細めてそれらを眺めた。陰鬱な気分を忘れる。芸術品の鑑賞をするように巡り始める。おそらく翠沙が通されたこの廊下は、特別な人物しか通ることが許されない廊下だ。誰かとすれ違うこともない。一本道のようで迷うことはないが、道の先が湾曲しているため、どこまで行けば良いのか終わりが見えない。
 しばらく歩いていると扉が幾つも確認できた。しかし翠沙はどの扉にも入るつもりはなかった。興味を覚えて扉を開けることもしない。長い回廊の奥から、自分を手招きする不思議な空気があることに気付いていた。
 長い距離を進むうち、途中途中に存在する窓が外の世界を思い出させた。しかし窓は嵌め殺しのため開けることはできない。
 翠沙は次第に急かされるような気分で早足になっていく。
 軽い溜息をついたとき、ようやく変化が表れた。
 一定間隔をあけて幾本も建てられている巨大な柱の影に、青年がいた。ちょうど窓を背にして立っている。陽の光に照らされて、本来は青いであろう男の髪は白く染まっていた。
 男は翠沙に気付くと窓から背中を離した。翠沙を待ち伏せていたのだと匂わせる仕草や視線だった。
「あなたが宝珠の巫女か」
 低い声だ。
 翠沙はやや驚きながらも彼の前に進み、見上げた。李苑や響希が側にいれば緊張していると思わせる面持ちだ。頬の筋肉に力を入れながら翠沙は告げる。
「いかにも。私が、あなた方の望む宝珠の巫女」
 奇妙な言い回しに男は軽く瞳を瞠る。次いで苦笑した。
「ルクよりも先に、一目見ておきたかった」
 翠沙を見下ろす男はどこか危険な光を瞳に含ませていた。体格は、李苑たちと同年代だと思わせるものだ。しかし彼を取り巻く雰囲気は親しみを根こそぎ奪っていくもので、翠沙は警戒心を強めた。男の言葉に眉を寄せる。不躾なほど眺められて唇を引き結ぶ。
「――無礼者」
 翠沙はささくれ立つ心のまま男をねめつけた。好奇の視線に晒されるのには慣れているが、どうにもこの男の好奇だけは耐え切れない。薄く溶かれた水飴を全身に浴びたかのような不快感に腕をさする。
「巫女は人にあらず。かような関心など厭わしい。用がないのなら去ね」
 翠沙は冷ややかな視線を向けた。李苑と響希が聞いたなら目を瞠って翠沙に駆け寄るだろう。それほど普段の様相とは違っていた。
 翠沙は男を一瞥すると顎を逸らせ、男の側を通り抜けた。元よりこのような中途半端な場所にルクがいるとは思えなかったので、落胆は少ない。しかし無駄な時間を取られた、と苛立ちは覚える。
 袖を通している服はとても歩き難いものだった。身を飾り、華やかさを与えるために作られた衣装だ。足元に視線を向けると薄い裾が床を覆っている。翠沙が歩くと足に絡みつく。自由を奪う、華美な、巫女としての装束。
 翠沙はそれでも慣れた様子で裾を捌きながら男を通り過ぎる。しかし直ぐに、背後で朗笑が上がって眉を寄せる。思わず振り返ると、男が窓に背中をつけたまま笑っていた。
 男は神官服を纏っている。どのような立場の者かは分からないが、この奥深くにまで入り込めるということは、かなり高位の者であると想像できる。先ほどまで近寄り難い雰囲気を醸していた男だが、朗らかな笑い声を響かせる彼には、まるで同級生のような親しみやすさを感じた。
 翠沙は思わず足を止めて男を見続けた。しかし男の笑い声はやまない。翠沙は徐々に苛立ちを募らせる。いつまでも笑い止まぬ男に業を煮やし、もうこのまま立ち去ってしまおうと踵を返す。
「宝珠の巫女とは煉獄にも等しい器のこと」
 翠沙は三度、振り返った。これまでと違うことは、翠沙の表情が違う意味で強張っていたことだ。親しい者が見たら『恐怖』が宿っていることに気付いただろう。
「――と、あなたは仰ったそうではないですか」
 確実に翠沙の関心を掴むことに成功した男は口許を歪めて笑っていた。それは爽やかとは程遠い、いびつな笑みだった。
 翠沙は立ち竦む。笑っていない彼の瞳に悪寒が走る。まるで足が床に縫いとめられたようだ。去らなければと思うのに足は動かない。
「なぜ、今をして戻られたのです」
 優しくすらある男の声に背筋が凍る。青年が一歩、翠沙に近づく。翠沙は彼の瞳から視線を逸らすことなく見上げ続ける。
 不意に男から笑みが消えた。翠沙に向けられたのは痛いほどの敵意。まるで戦神の前に立たされたように慄いて、翠沙は胸元で両手を握り締めた。手の平にじわりと汗が滲むのが分かる。
「戻るのなら、もっと早くに戻るべきだった」
 苦々しく吐き出された声には、理不尽だと言わんばかりの怒りが込められている。もどかしい思いが渦巻いていた。翠沙は視線を逸らそうとしたが許されない。男は翠沙の顎を掴むと強引に上向かせる。男の指が柔らかな頬肉を圧迫した。乱暴な力だ。翠沙が顔を歪めて小さな悲鳴を上げても、男は掴む力を緩めなかった。
 翠沙は痛みに視界が滲んで瞳を閉ざす。
「もっと早く戻られたなら――セフダニアが滅びを迎えることもなかったのに」
 声を張り上げられたわけではない。しかし込められた悲痛さは、翠沙の胸を強く衝く。
 その言葉に瞳を瞠らせた翠沙は、次の瞬間、突き飛ばされた。
 軽い翠沙の体は簡単に浮いた。男の力に逆らえぬまま壁に叩き付けられる。何が起こったのか分からない。翠沙は痛みを感じるよりも先に、驚きに瞳を瞠らせたまま視界が回るのを見た。次いで、背中から全身へと、鋭い痛みが駆け巡ったのを知る。
 華奢な体が床に落ちた。
「どうせなら二度と戻らなければ良かったのだ。下手な希望を与えてなんになる」
「下手な希望、ですって……?」
 どうやら口の中が切れたらしい。舌に血が絡みつくのを感じた。
 翠沙は唇の端を伝い出てきた血を手で拭い、立ち上がる。この胸に湧き上がる衝動は一体なんだろうか。自分でも分からない。
 与えられた衝撃が大きいのか、翠沙はよろめきながら立ち上がる。そんな翠沙を見て、男がわずかに息を呑む。暴挙に及んだ彼でも、巫女の存在は恐ろしいのだろうか。
 翠沙は壁に背中を預けて息を大きく吸い込んだ。瞳を閉ざし、再び開く。
「そう。己の行動に満足できなければ八つ当たりをするのね」
 男が眉を寄せて睨むが、翠沙は屈しなかった。壁から背中を離して男を見る。
「セフダニアの罪を見逃したのは貴方か」
 本気で男の手が振り上げられれば、翠沙は壁に叩き付けられるだけでは済まないだろう。しかし翠沙は怯まない。なんの秘策もないまま男を見上げて口を開く。
 たとえ巫女の不在が長くとも、評議会は世界の目だ。セフダニアがいかに隠蔽しようとも、宝珠が絡む危険な兆候を隠し通すことはできない。サウスがセフダニアから逃れ、世界を旅することができたのも、評議会がそれを黙認していたからに他ならない。
「巫女の役目は世界の平定。崩す者に容赦はしない」
 ――私が、戻ったからには。
 翠沙は心の中だけで呟いてサウスの姿を脳裏に描いた。口腔に充満する嫌な匂いに顔をしかめながら、頬に手を翳す。少し力を込めて傷を癒す。男が気付かないうちに鈍い痛みは緩和され、次第に痛みは消えていく。
 翠沙は顔だけを先に廊下の先に向けた。次に体ごと廊下の先に向き直り、そしてその場を立ち去った。男が動く様子はない、と廊下を流れる風が教えてくれた。