第八章 【三】

 青年と別れた翠沙はかわり映えのない廊下を進んでいた。
 しばらくして広間に出る。先ほどの神官と別れた広間とは異なる空間だ。
 天窓はステンドグラス。通過した光は七色に煌きながら床に魔法陣を描いている。評議会に張られた結界の基礎を成す一つだ。正常に機能していることを示すように、魔法陣からは揺らめきながら力が立ち昇っている。
 翠沙は扉の先に広がっていた光景に息をついた。
 広間には等間隔で幾つも扉があった。他の魔法陣に繋がる扉も含まれているだろう。高位神官でなければ立ち入ることを許されない根幹の場所。
 だが正直、翠沙にはどの扉を開いたら目的地に繋がるのか、想像もつかなかった。今回は案内役もいない。ここにきて迷子になったことを自覚する。
 翠沙は途方に暮れた。待ち伏せていた男から早く離れたくて足早に歩いてきたが、それももう終わった。男も追いかけてこない。今更戻ってあの男に案内を請うなど願い下げだ。
 翠沙は扉を閉めて中央に進んだ。魔法陣に近づく。そうしながら天井を見上げて瞳を細める。欲望が表面化していた神殿の入口とは違い、奥まったここには幻想が漂っている。燦々と降り注ぐ陽光の中で深呼吸する。まるで李苑が側にいるかのような暖かさを覚える。響希が見守っていてくれるかのような安堵感が胸を占める。
 気持ちを改めて周りに視線を向け、配置された扉を眺める。
 良く観察すればそれぞれに雰囲気が違う。決意して『月』が描かれた扉を押し開ける。
 ――青が翠沙を飲み込んだ。
 瞳を閉ざす。温められた体が冷えていく。目に見えない幾多の亡霊に抱きしめられたかのような錯覚。翠沙は扉を開いた状態のままで立ち竦んでいたが、やがて恐々と瞳を開けた。
 目の前に広がる光景に双眸を瞠らせた。
 薄ら寒さを感じさせる青が部屋には満ちていた。どこよりも清冽な空気が翠沙を囲む。良く来たねと歓迎するように頬を撫でる誰かの意志を感じる。部屋に潜む空気が懐かしくて瞳を細める。吐息さえも蒼く染められそうだ。
 ガラディアよりも、セフダニアよりも、大きいのではいかと思われる神殿。
 足を踏み入れた翠沙は途方に暮れて怖じる。何百もの視線が様々な意志を持って翠沙を貫く。唇を引き結んで額に汗を浮かべる。誰もが自分の行動に注視していると悟って背を伸ばす。凛として見えるよう意識して表情を改める。両手を腹の上に組んで静かに呼吸する。そのまま部屋の中央まで進み出た。
 前方に控えているのが議長――最高位の大司教だろうと見当をつける。
 彼が座る椅子はまるで玉座のようだった。
 巫女のために存在する評議会。
 しかし、立ち上がりもしない大司教の態度が、それはただの名目で、巫女と評議会を隔てる壁を示していた。長らく不在を通した巫女を、評議会は蔑視している。彼らが欲しているのは巫女そのものではなくなった。
「実より名を選ぶか――」
 翠沙は誰にも聞こえないよう吐き捨てる。
 様々な人種でまとめられた評議会。宝珠国を唯一裁ける司法機関。
 翠沙は前に進み出た。立場で言えば大司教であるという彼の、値踏みするあからさまな視線にももう眉を寄せたりはせず、ただ微笑んだ。
 ルクが口を開く。
「話は聞いている。そなたが宝珠の巫女殿か」
 紡がれる声に翠沙は瞳を伏せて頷いた。少し狭い部屋には高位神官が両脇に配されている。彼らは無表情のまま翠沙を眺めている。その視線を感じながら、翠沙は視線を真っ直ぐに大司教へ向けた。
 本来は白であろう礼服を青く反射させ、皺に隠れそうな細い瞳が翠沙を眺めている。その瞳はまるで面白いものを見つけたときのような好奇心に溢れていた。翠沙の姿は彼にとって見世物と同じ意味しか持たないのだろう。
「再びこの地に戻ったからには、役目を負うて貰わねばの」
 椅子に腰掛けたまま両膝を組ませたルクは翠沙を眺める。
 天から響くかのように厳かな声。しかし彼の唇にはずいぶんと人間染みた冷笑が浮かんでいる。翠沙に嫌悪感を抱かせるには充分な笑みだ。
 聖堂に満ちる青い光を唯一消す、天からの外光。丸い天窓から注がれる光は評議会を住まいとする者たちに聖光と呼ばれ、おいそれと浴びることを許されていない光だった。しかし翠沙には関係がない。静かに足を踏み入れてルクを見つめる。
 ルクは微かに双眸を瞠らせた。白い光の中で、翠沙の姿はひどく神懸って見えた。緑の短髪に光が注いで煌かせていた。翠沙の周囲だけ空気が違う。まるで聖書の一場面を飾る絵のようにも思えた。
 ルクは知らず身を乗り出して魅入る自分に気付き、クッと唇の端を持ち上げると体を戻した。翠沙は一連の時間を微動だにせず、ただ見つめていた。ルクが我に返って笑うのに合わせ、対照的な微笑みを浮かべてみせる。
「そなたの名を訊こう。宝珠の巫女」
 片手を翠沙に伸ばし、口を開く許可を与えた。その尊大な態度に翠沙は間を置く。糾弾の言葉を口に乗せようとする。だが途中でそれは飲み込まれ、視線を床に落とす。そのままいつまでも声を発しない。
 ルクは眉を寄せて促した。
「どうした。早くせぬか」
 人の上に立つことに慣れすぎているのか、ルクは短気だった。翠沙に投げる声には明らかな苛立ちがある。椅子の手摺を軽く打つ。その音に翠沙は顔を上げて瞳を瞬かせた。微笑みを消し、少しだけ瞳を細めてルクを見上げる。
「――クルジェ=フェイ。それが私の名です」
「クルジェ=フェイ。良い名ではないか」
 ルクは破顔して椅子に座り直した。少しの間をあけて笑みを深め、ことさら悠然とした動きで手摺に頬杖をつく。浮かべる笑みは歪められた。翠沙を捉える瞳は純粋とは言いがたい。
「呪われた女の名だ」
 低い笑いと共に紡がれた言葉は異質さを持って聖堂に響いた。
 侮蔑も露な声だった。
 翠沙は一度だけ瞳を瞬かせ、腰を折って礼をした。本来なら巫女は誰にも頭を下げる必要のない存在だ。翠沙を出迎えた神官が諭していたように、評議会で巫女を待つ神官たちは誰もが知っていることだ。だがルクは翠沙の態度に満足げな表情を浮かべた。周りに居並ぶ神官たちも、それを当然のように受け止めている。
 翠沙は落とした視線の先で自分の爪先を見つめ、微かに笑った。お辞儀をするときは頭だけの動作にならぬよう腰から深く折り曲げ、自分の爪先を数秒見つめてから、ゆっくりと体を元に戻す。体育の授業で習ったことを思い出したのだ。
 かすかな望郷の念を抱きながら顔を上げた翠沙は、誰かを捜すような仕草をするルクを見た。やり取りを観察していた神官たちが目配せしあい、誰もがルクに向かって首を振る。ルクの捜す人物はこの場にいない、という意味だろう。
 ルクは不機嫌に表情を歪めて立ち上がった。裾に羽毛をあしらった紺色の外套を鳴らせ、翠沙の側まで下りてくる。
「来るが良い。巫女に相応しい部屋を用意してある」
 翠沙を一瞥して通り過ぎる。その仕草は不快さを感じさせるものだったが、翠沙は表情を変えることなく、黙ったまま従った。踵を返す一瞬を縫って神官たちを眺めるが、彼らはルクの言葉に違和感を覚えた様子もない。やはり巫女の不在は長すぎたのだ。
 老人にしては力強い歩調のルクに、翠沙は遅れないよう半ば走りながら従う。ルクが扉に近寄ると、控えていた二人の扉守が慇懃な態度で扉を開けた。先ほど翠沙が通ってきた広間に入る。中央の魔法陣を跨ぎ越して、一番近い扉に寄る。ルクが辿り着く前に二人の扉守が追い抜いて先に辿り着き、やはり扉を開けた。
 扉の先には再び長い廊下が伸びていた。その先は薄い闇に満ちている。またしてもあのように長い廊下を歩かなければいけないのかと、翠沙はややうんざりと思った。
 翠沙は背後に二人の神官の存在を感じた。護衛というより監視に思える。
 ただ黙々と長い道のりを進む。一人で長い廊下を歩いてきたときよりも圧迫感を感じる。ときおり差し込む自然光が宥めるように翠沙を撫でるが、この場には李苑も響希もいない。体の底から湧き上がる恐怖が寒さをもたらす。自身を抱くように腕を回す。
 翠沙は少しだけ視線を落として憂い顔を浮かべた。
 李苑たちはどうしているだろうかと思った。
 李苑は一度縁を結んだイフリートで過ごしている。瀕死の李苑を癒したジュラウン王が側にいれば、彼女に危害が加えられることはないだろう。無条件で信じられた。彼と言葉を交わしたのはセフダニアでのほんの数時間のことだったが、翠沙は直感していた。イフリートは古来より巫女にとって特別な場所だった。そんな場所に今の李苑がいることは、当然のことのような気もした。
 次に翠沙は響希を思う。彼女とはセフダニアで別れたきりだ。評議会に向かうとき、なにを考えているのかサウスも姿を現し、共に評議会へ行くと告げた。響希はセフダニアに一人で残されたことになる。その数日後、セフダニアで大量の血が流されたことを、翠沙は評議会に向かう馬車の中で知っていた。ジュラウンとランルが張った結界が一瞬の強い負荷に耐え切れず壊れ、余波が城に及んだのだ。情報として誰かから聞いたのではなく、巫女としての感覚として知ったため、詳細までは分からない。だがそのことを悟った途端、愕然となる自分がいた。セフダニアに残してきた響希は巻き込まれなかったか、それだけを思って震えた。
 翠沙は廊下を歩きながら顔を歪めた。もしも響希が、消えた自分を捜してセフダニアに留まっていたなら、と。セフダニアに力が及んだのは翠沙が離れて数日後のことだ。それまでずっと響希がセフダニアにいたとは思いがたいが、それでも可能性は捨てきれない。不安は消えない。どうか李苑のもとへ、無事に辿り着いていてと祈りを込める。
 翠沙は顔を上げた。ルクが進む方向には何があるのか。不安に潰されないため、意識を切替えようとした。窓の外にも視線を向ける。季節など関係ないとばかりに色とりどりの花が咲き乱れていて、その華やかさは少しだけ翠沙の心を慰めた。庭園は驚くほど広い。視界の端までずっと続いている。噴水が置かれ、休憩用の宮もある。和やかに談笑しているのは神官たちだろうか。彼らの様子があまりに自分の暗澹たる気分と掛け離れていて、翠沙はまるで映画を見ているような気になった。
 庭園の向こう側には背の高い外壁があった。相当な年代物らしく、古びた雰囲気を醸している。どうやらその建物は評議会に住まう者たちの居住区になっているようだ。庭に面した入口は広く造られており、大勢の行き交いが認められた。
 翠沙は二人の友人たちを心から締め出すことに成功すると、改めた気分が崩れないうちにとルクの背中に視線を戻した。
「セフダニアを裁いたのは貴方ですか。ルク」
 静かな問いかけにルクが振り返った。不愉快そうに眉を寄せている。翠沙を一瞥すると、視線はそのまま元に戻される。
「宝珠に関する決定権は我に委ねられぬ。議会の進行者も、その都度、連合の中から選出されるのだ」
「では、セフダニアに宝珠返還を要求したのは?」
「それも皆の総合意見をまとめた結果だ。セフダニアの第一皇子はいまだ宝珠を所持しておる。此度は共に評議会へ参ったそうだな。後に、そなたへ返還する用意を整えさせる」
 翠沙は顔をしかめた。サウスが共に来ると姿を現したのは、それをするためなのかと疑問が湧く。愛想がなく、強い言い切りの言葉は、それ以上の追求を遮断するようだった。会話を継続させようとする意思がないのだろう。それを感じ取って、翠沙は口を閉ざす。
 しばらくの距離を歩き、翠沙は再び口を開いた。
「私をここへ招いたのは貴方の決定によるものでしょう」
「正確には現場に居合わせた評議会の者の判断だ。だが、巫女はもともと我らに所有権がある。正しい判断だったと私は思う」
 強い物言いに翠沙は絶句した。彼らの本音がこれ以上ないほど明らかに見えた。両拳を握り締める。もしもサウスが宝珠を持っていなければ、評議会は決して彼を翠沙と共に招こうとはしなかっただろう。今回サウスの言いなりに評議会へ招いたのは彼らの都合だ。評議会という特別な地で、巫女に宝珠を返還する儀式を執り行う。そんな光景を浮かばせたのだ。そうすれば評議会は揺ぎない巫女を抱えたとして、かつての権力を取り戻すだろう。
 翠沙の脳裏に、先ほど廊下で出会った男の顔が浮かんだ。
 ルクは単に、翠沙もサウスも、都合の良い道具としてしか捉えていない。分かっているつもりで分かっていないかった複雑な感情を制することができず、翠沙は湧き上がる苛立ちを、唇を噛むことで耐えた。震えそうになる肩を必死で宥める。翠沙をここまで運ぶ馬車で話し相手になったトーグルのように、純粋な者たちばかりが上に立つわけではない。むしろ、上に立つ者ほど腹に黒さを抱えている。
 一本道だった廊下がようやく終わりを迎えようとしていた。
 ルクの前に大きな扉が立ちはだかった。
 ルクが歩みを止める前に、扉が向こう側から開かれた。まるでルクが来ることが見えていたかのようなタイミングだ。大きな両扉が軋みながら開かれる。扉の向こう側には見習いと思しき神官服をまとう少年が二人いた。トーグルと同じ立場の者だろう。彼らはルクを拝することなく頭を下げ続ける。
「こちらだ」
 翠沙が通ってきた玄関と繋がっているだろう大きな広間に出たルクは、初めて自分から翠沙を振り返ると腕を上げた。促そうとしたのか口を開き、その動きが途中で止まった。ルクの視線は翠沙ではなく、別の場所を見ていた。翠沙もルクの視線を追いかける。振り返り、そこにあった影に瞳を瞠らせる。
「申し訳ない。遅れてしまったようですね」
「なにをしておったのだ。それもこのような中途半端なところで出くわすとは。ああ、ああ、嘆かわしい」
「とても綺麗な花に目を奪われましてね。少々時間を忘れてしまいました」
 穏やかな口調で話すのは背の高い青年だ。屈託ない笑みを浮かべてルクに話しかけている。ルクもまた、翠沙に向けていた表情や声をガラリと変えて青年に話しかけていた。呆れを示すように額に手を当て、かぶりを振りながらため息を吐き出す。
 途中、青年がさも今気付いたというような仕草で翠沙を見た。
 翠沙はまだ驚きから抜け出せないまま彼を見つめる。翠沙に見つめられた青年は優しげな笑みを刻んで翠沙に体を向けた。
「こちらが宝珠の巫女どのですね。初めまして。私はエルヴェバルト。位は“ルク”に次ぐ“イヴェスト”。そして」
 翠沙の戸惑いをよそに青年は自己紹介を始める。
 ルクと会う前に廊下で待ち伏せ、セフダニアで起きた事件に対する巫女の不明を責めた青年だった。まるで先ほどの人物は双子の別人だったのではないかと思わせるほど雰囲気が違う。翠沙に向けられる笑顔はとても優しい。ルクに会う前にぶつけてきた激情はどこへ行ったのかと思うほどだ。
 だが翠沙は背筋を凍らせていた。青年の瞳が翠沙を真っ直ぐに捉えて細められる。その瞳だけは、翠沙が出会った男と重なって見えた。
 エルヴェバルトと名乗った青年は翠沙を見つめる。翠沙は巧妙に隠された憎悪を感じて後退しようとした。だがそんな翠沙を逃がさないようにエルヴェバルトは口を開く。
「貴方の伴侶です。宝珠の巫女どの」
 翠沙は双眸を見開かせた。深い湖に投げ落とされたかのような衝撃を感じた。
 エルヴェバルトの傍らではルクが満足そうに老体を揺らす。その態度から、彼が今回のことを勧めたのだと悟る。エルヴェバルトの手が伸びてくるのを知って、翠沙は下がろうとした。しかし彼はそれよりも早く翠沙の手を掴む。翠沙は抵抗もできずに放心したままだ。
 エルヴェバルトは薄い笑みを浮かべ、翠沙の手を持ち上げると、その甲に恭しく口付けを落とした。