第八章 【四】

 伴侶だという男を見つめる。
 かつて宝珠の巫女として君臨した翠沙にとって、それは信じられぬ話だった。双眸を瞠らせ呆然と彼を見上げる。
 エルヴェバルトは驚く翠沙を微笑ましく見つめるだけだ。一見すればこの話を心から喜んでいるように見える。巫女の伴侶になれる幸運を。しかし彼の瞳には隠しきれない昏い感情が滲み、それがかろうじて翠沙を現実に呼び戻した。
「どういうことです。ルク」
 最初の動揺が去ったあと、硬い声をルクに向ける。
「私に伴侶など――」
「先ほどの言葉を聞いておらなんだか? この者は“イヴェスト”だ。我に次ぐ権威の持ち主であるぞ。なんの不満もなかろう」
 ルクは不愉快な声で応じる。浮かべていた笑みは消え、疎ましそうに翠沙を睨む。だが翠沙は怯むことなくその視線を受け止めた。
「ルクである貴方なら、それが何を意味しているか分かるはず。平定を掲げておきながら、乱すような真似をなぜなさるのですか」
 翠沙の声はとても静かだった。努めて冷静に諭そうとしていた。しかし元々静かだったその場所には凛として響き渡り、ルクにとっては上から押さえつけられるような声に聞こえた。
 ルクが笑みを歪める。
「これは異なことを。世界が乱れると知りながら姿を消したのは巫女ではないか」
 翠沙の頬に朱が走る。その様子を見て取りルクは胸を反らせた。
 この場所は外来の者にも広く開放されている場所らしく、気付けば多くの者たちが集っていた。高位の者ばかりではない。修行者たちも通りすがる。神官たちがルクの姿に瞳を瞠り、次いで翠沙たちの様子に興味を覚える。何事なのかと足を止める。その中には神殿の入口で翠沙を出迎えた者たちもおり、彼らは憶測のみで囁きを交わす。
 翠沙は彼らに急かされて口を開いた。
「長らく存在がなかったせいで忘れておいでか。巫女は貴方がたの約束に縛られることはありません。伴侶など、私は認めない」
「貴様、我を愚弄するか!」
 悠然とした態度を保っていたルクが一喝した。大勢が注視するなかで意見されることに耐えられなかったのかもしれない。顔を赤く染めて激昂する。彼の声は神殿内に響き渡り、瞬く間に遠くまで運ばれた。
 あまりの大声に翠沙は首をすくめる。萎縮したわけではないが、ルクはその仕草を怯えと取り、少しだけ怒気を静めた。そんな彼の心情も翠沙には易々と理解できてしまう。どうやら彼はお世辞にも良き理解者とは言えないようだと苛立ちが生まれる。
 ルクは忌々しげに舌打ちすると足を踏み鳴らせた。
「ルク。人が集まり出しましたよ。話は部屋へ戻ってからにしましょう」
「分かっておるわ。元々そのつもりであったしな」
 エルヴェバルトが促すと、ルクは鼻を鳴らして吐き捨てた。エルヴェバルトの背に庇われるような形となった翠沙を睨む。集った者たちを一瞥すると、広間から続く階段に足をかけた。彼の背後は従者が固める。足音も荒くのぼっていくルクを必死で追いかける。
 エルヴェバルトはルクの背中が見えなくなるまで見送り、やがてため息を落として振り返った。蒼白な顔をしたまま動かない翠沙を見やる。
「私たちも行きましょう。巫女殿」
 好奇の視線から守るように、エルヴェバルトは大きな外套を広げて翠沙を包んだ。傍目からは『怯える巫女を守る騎士』に見える図だが、実際に翠沙の背を押した手は乱暴だった。翠沙はつんのめるようにして足を踏み出す。
「大丈夫ですか」
 翠沙は押されてたたらを踏んだのだが、エルヴェバルトはそのような暴挙を周囲にまるで悟らせぬように声をかけた。覗き込む顔は心配そのものの表情を浮かべている。
 翠沙は睨み付ける。見ていた観客は、一連がエルヴェバルトの芝居だと気付かない。抗議しようとした翠沙だが、それよりも先にエルヴェバルトが微笑みの仮面を貼り付けたまま再び翠沙の背中を押す。強い力に翠沙は再びよろけ、言葉を発することも叶わない。
 まとも歩けない翠沙を見たエルヴェバルトはクスクスと笑った。
「仕方ない人ですね」
 周囲に聞こえるように話しかけ、翠沙を抱え上げた。
 翠沙は何度もよろけたため眩暈を覚え、話す気力も削がれていた。黙したまま抱えられる。エルヴェバルトはそのままルクの後を追いかけた。
 階段を一段上った瞬間、温かな何かが体を通り抜けた。そして翠沙は、広間のざわめきが遮断されたことに気がついた。小さな力石が配されていることも感じる。恐らく、広間と階段を隔てるような結界が働いているのだろう。財力の衰えから充分な力石がないと思われていた評議会だが、要所要所には惜しみなく使われているようだ。これから向かう場所は力石が配されるほど重要な場所なのだと推測できる。
 二階に上ると人の気配はなく閑散としていた。螺旋状の階段はまだ続くようだが、エルヴェバルトは広間から自分たちの姿が見えないところまで上ったことを確認すると、翠沙を床に下ろした。人前で見せた優しさはない。投げ捨てるように翠沙を下ろす。
 翠沙は慌てて床に足をつき、痛みに眉を寄せた。しかしエルヴェバルトは翠沙の様子など気にしない。翠沙が小さな悲鳴を上げたのを聞いて笑ったほどだ。逃げられることを懸念してなのか、彼は螺旋階段の入口に立ち塞がって翠沙を追い立てた。
 翠沙は悔しさに奥歯を噛み締めながら前を見据える。逃げるつもりなど欠片もなかった。逆に言えば、逃げるつもりならここに来るまでに幾らでも逃げられた。巫女だからと監視は緩く、隙は多くあったのだ。
 評議会に来ると決めてから覚悟をしてきた。そして、ルクと話をしなければいけないと、先ほどのことでも強く思った。逃げることは考えないけれど、背後をエルヴェバルトに固められていると閉塞感に息がつまりそうだ。
 螺旋階段には窓が設けられていない。世界一般の発光体である砕かれた水晶が天井に散りばめられ、様々に細工された壁を浮き立たせている。
「もっと早く歩けないのか」
 せめて気持ちをもう少し明るく持とうと、壁に描かれた繊細な柄に見入っていたのだが、エルヴェバルトに背中を押されて足がもつれた。悲鳴を上げてバランスを取ろうとしたのだが、巫女装束の裾が足に絡んで体が傾ぐ。無重力に包まれて悲鳴を飲み込む。壁に肩を打ち付けながら「落ちる」と覚悟を決める。宝珠がなくても『癒し』の力だけは備わっているのだから、大怪我をするようなことになっても構わない――と自虐的になっていたのかもしれない。
 覚悟を決めた翠沙だが、実際には直ぐ後ろにいたエルヴェバルトにぶつかっただけで、最下層まで落ちる羽目にはならなかった。舌打ちが聞こえて乱暴に剥がされる。
「とろい奴だな。そんなのでルクに意見しようというんだから呆れるね」
「諌めることもできない貴方には分からないかもしれないわね」
 翠沙は唇を引き結んで進む先を見上げた。エルヴェバルトが何か言ったようだが、翠沙は相手にしないで無視を決め込んだ。このような所で挫けてしまうわけにはいかない。足を踏み出した翠沙だが、走った痛みに顔をしかめた。乱暴に降ろされたときの痛みが、ここに来て限界を迎えたようだ。打ち付けた肩にも鈍痛が響く。無視して階段を上るには強い痛みだった。
 その場で治してしまうのが最もいいのだが、エルヴェバルトの前で治癒を行うことは躊躇われた。付け入られる隙は少ないほうがいいと考える。
 足を踏み出すと鋭い痛みが走り、悲鳴を殺す。もしかしたら骨にひびが入っているのではないかと考える。だが翠沙はあえて噛み締めるようにしながら進んだ。痛みのため先ほどよりも速度が遅くなる。背後からは殺意すら感じる。
「評議会はサウスをどうするつもりなの」
「お前には関係がないだろう」
「あるわ。私は宝珠の巫女ですもの。管理者の行方は覚えていなければいけない」
 無言でいると痛みに耐え切れないような気がした。無言でいると、速度を気にしたエルヴェバルトの機嫌も悪くなっていく一方だ。その両方を食い止める意味でも翠沙は口を開いていた。返ってきたのはある意味予想通りの答えだった。
 翠沙は軽い笑みを浮かべて受け流す。
「セフダニアの宝珠を私に返還させるということだったわね。サウスは今、どうしているの?」
「お前が知るようなことではない!」
 鋭い声で一喝され、翠沙は思わず足を止める。
 振り返ると昏い双眸が翠沙を捉えていた。その瞳が宿す負の感情に背筋が凍る。
「それほど知りたければルクに問えばいい。私から巫女に教えることなど、一つとしてない!」
 乱暴に肩を掴まれて壁に押し付けられる。先ほどぶつけた肩だ。怪我に上塗りに翠沙は今度こそ悲鳴を上げた。
「痛……いっ」
 痛みが酷くてエルヴェバルトの言葉など聞いていられない。目を硬く瞑って痛みに耐える。目尻に涙が滲んだのを屈辱の中で知る。翠沙がいかに訴えようと、彼の力は緩まない。男女の力差すら忘れたように、全力をかけて押し潰そうとする。
「お前はこれから一生、私の傍で暮らすんだ。否など言わせない。今のお前に何ができる。宝珠の巫女という肩書きを掲げていても、お前は何もできない無力な女だ……!」
「ああ!」
 負荷に耐え切れず鎖骨が折れた。鈍く押し寄せていた痛みの波が鋭くなる。意識がどこかへ飛んでいく。翠沙は無意識のまま拳を振り上げた。
「放しなさい……!」
 喉の奥から悲鳴を絞り出してエルヴェバルトの頬を張った。
 エルヴェバルトはようやく手を外す。解放された翠沙はその場に崩れ落ちた。
 痛みに意識を手放す前に、残された無事な手を砕けた骨に当てる。治癒の力を注ぎ込む。エルヴェバルトの前だということも忘れ、本能のままに力を揮った。押し当てられた手は淡い光をまとって柔らかな力を傷口に注ぎ、痛みを取り除く。折れた骨は一呼吸する間に元に戻った。
 翠沙は脂汗が浮かんだ額を拭い、荒い呼吸を整える。座り込んだままでエルヴェバルトを振り返った。
 彼は今の場面を見ていなかったのか、翠沙に背中を向けたまま直立不動で立ち尽くしていた。全身が強張っているのが分かる。
 翠沙は軽く息をつき、壁にすがるように立ち上がった。癒したのは鎖骨だけで足の怪我には触れていない。立ち上がった瞬間に痛みを訴え翠沙は顔をしかめたが、もう一度座り込むのは不自然な気がして諦める。壁伝いにエルヴェバルトを抜いた。
 追い越しざまに見えた彼の横顔には苦渋が浮かんでいた。それはサウスに向けられたものなのか、翠沙に向けられたものなのか、判断はできない。もし翠沙に向けられたものであっても、翠沙が彼に向ける感情は変わらない。
 翠沙は呼吸音が木霊するのを煩わしく思いながら、重たい体で階段を上った。