第八章 【五】

 長い螺旋階段を上った先はずいぶんと見晴らしが良かった。透明な遮壁に囲まれていて風の声こそ聞こえぬものの、降り注ぐ陽光は紛れもない本物だ。閉鎖的な螺旋階段に息をつめていた翠沙の目に、それは素晴らしいものとして映った。
「ずいぶんと遅かったではないか」
 最上階に位置する最高祭司『イヴェスト』の私室へ続く廊下。同時にそこは評議会の最高権力者、大司教『ルク』の私室へ続く廊下でもあった。透明な壁からは宝珠の力が感じ取れた。過去に宝珠の管理者たちの力を借りたか、一般に普及している小さな力石を集めて力を紡いだのだろう。維持する力にも相当なものが必要なはずだが、世界に通じる権力を持つ評議会ならば助力を惜しむ国などないはずだ。真に宝珠を内包する宝珠国以外は。
 翠沙たちが立つ場所からは評議会の全貌が見渡せた。
「見るがいい、クルジェ=フェイ。今日からお前はここの主となる」
 ルクに促された翠沙は黙したまま歩みを進める。
 微かに足を引きずって歩く翠沙に気付いたはずだが、ルクは気にも留めず外を指した。
「先ほどのことは忘れよう。なに不自由ない生活も約束しよう。今からそなたは宝珠の巫女として、新たにこの評議会に君臨する存在となる」
 外を眺めながら語るルクの瞳は、まるで少年が夢を語るときのように輝いていた。
 翠沙は聞き流す。足の痛みは強くなる一方だ。親友たちから遠く引き離されたこの地で『自由』など約束されても困る。遮るものは何もないと思えるのに、手を伸ばすと確かにそこには壁の感触があった。決して先には行けない。なまじ外が見えるだけに、牢獄よりも悪い。
 翠沙は嫌な動悸を抱えながらルクを横目で窺った。
「落ち着いて話せれば場所は問いません。私が聞きたいのは先ほどのルクの言葉です。あれは本気なのですか?」
 ルクの頬がかすかに引き攣る。瞼は垂れ、頬は削げ落ち、幾重にもなる皺が刻まれていたものの、内なる力を感じる。現役を退くには至らない。皺に隠れて細くなった瞳を翠沙に向ける。
 怒気を感じた翠沙は体を強張らせた。脳裏に警鐘が鳴る。しかし敢えてそれを無視する。
「私がここに戻ったのは」
「黙れ」
 吐き捨てるような声音で遮られた。
「大人しくしておれば温情を与えてやったというに、もう我慢ならぬわ。我に意見などできる立場と思うたか」
 翠沙は訳が分からず双眸を瞠らせる。忌々しそうな舌打ちが耳に残る。
「宝珠の巫女など――存在すら疑わしい者を崇拝しなければならんなど、虫唾が走るわ。そなたなど、どう見てもただの小娘ではないか」
「ルク」
 あからさまな侮蔑に翠沙は眉を寄せる。非難の眼差しを向けた。なんて短気なのだろう。これで『大司教』とは良く言ったものだ。評議会の最高権力者が“これ”なら、他の神官たちも巫女をどう捉えているかも分かろうというものだ。眩暈を起こしそうだ。
「ルク」
「お主と話すことなどないわ。エルヴェバルト。連れて行け」
「はい」
「お待ちください、ルク!」
「話しかけるでないわ!」
 去りかけたルクに慌て、引き止めようと手を伸ばした翠沙は痛烈に振り払われた。遠慮の欠片もない勢いで腕が振られる。翠沙の頬に当たり、翠沙は倒れた。悲鳴を上げることもできない。翠沙は殴られて麻痺した頬に手を当てると呆然と見上げた。冷徹な視線が向けられていた。
「お主が真に巫女かなど、どうでもいいのだ。本当に宝珠を扱わねばならぬ日など、当分来るまい。それでも大衆を納得させるためには必要だ。お主はここで宝珠の巫女としてエルヴェバルトと婚礼を挙げ、子を儲け、暮らしていけば良い。宝珠国を押さえ込む駒だ。巫女ではないと発覚しても、それまでに宝珠国は我の傘下になっておろうよ」
 翠沙の脳裏にランルやジュラウンの姿が浮かんだ。たとえ時間をかけたとしても、彼らがルクの思い通りになるとは思えない。それでも口にはしない。
 殴られた鈍い痛みが今頃湧いてきたようだ。
 翠沙は口を開くことができない。癒すことも忘れてルクを見上げる。ここまでの露骨さは想像していなかった。失望よりも深く絶望した気がした。
「セフダニアの宝珠は予定通り返還してもらおう。第一皇子は留めておろうな?」
「ええ。大人しくしております」
「そうか。ならば良い」
 エルヴェバルトの言葉に気を良くしたのか、ルクは笑みを浮かべた。
「イフリートの若造に好きにされてたまるものか。エルヴェバルトよ。一日も早い朗報を期待しておるぞ」
 そんな言葉にエルヴェバルトは苦笑して頭を下げる。ルクは彼の肩を叩いて踵を返した。目と鼻の先にあった彼の私室へ向かう。彼の後ろ姿が消えるのを見守っていた翠沙は、直後に目の前に壁ができたことに驚いた。侵入者防止の仕掛けなのだろうか。翠沙たちは階下へ戻るか、代わりに現れたもう一つの部屋にしか進めなくなった。
 展開についていけず、座り込んだままだった翠沙は乱暴に腕を取られて悲鳴を上げた。その悲鳴すら怪我に響く。痛みは増した。
「先日の世界会議でイフリート王に馬鹿にされたと苛立っているからな。最近は特に機嫌が悪いんだ」
 翠沙は若葉色の髪を持つ青年を思い浮かべる。エルヴェバルトの言う、彼が人を馬鹿にするという場面が想像できない。穏やかな瞳をした青年だった。李苑を保護してくれているはずの彼に悪印象も抱けない。顔をしかめる。
「更にお前はイフリート王と同じようなことを言うし。あれでは殴られるのも当然だろう」
 言葉が出せない代わりに翠沙は腕を乱暴に振り解いて睨みつけた。頬は青く腫れている。響く痛みに意識が遠のきそうだ。
 エルヴェバルトは軽く笑う。距離を取る翠沙を馬鹿にしたように見下ろす。
 外の風景は赤々と沈みだしていた。荘厳な神殿は斜陽に染まり、一層仰々しく光を反射させる。
 エルヴェバルトにつられるように視線を動かした翠沙は瞳を細めた。
 風景と自分との間には紛れもない壁があるのに、こうも眩しく感じられることが不思議だった。あまりに長く世界から離れていたせいで、その感覚を忘れていたのだろうか。
 唇を噛み、痛みに瞳を歪ませて。立ち尽くしたまま世界を眺める。痛みは慢性的な物に変化し、我慢できないほどではなくなった。
 突然抱え上げられた翠沙は悲鳴を上げた。
「なに……っ」
「その足では部屋までも辛いだろう。俺にはまだやらなければいけないことが残っている。いつまでもお前につきあっていられない」
 勝手な言い分だった。
 抱え上げて運ぶという言葉には優しさを感じさせるが、彼の行為に限ってはその範疇から外れる。彼は言葉通り、翠沙にかける時間を面倒に思ったから抱えたに過ぎない。歩調は翠沙を気遣うものとは程遠い。乱暴に揺られた翠沙は眉を寄せた。つかまれた腕の力も強くて再び骨が鳴る。荷物のような扱いだ。
「自分で歩けます……!」
 舌を噛みかけながらようやく叫んだ翠沙は笑われた。既に扉の前だった。言葉には何の意味もない。気付いた翠沙は紅潮する。
「あとでまた来る。それまでに少しは見られる顔にしておけ」
 扉を開けたエルヴェバルトは文字通り翠沙をそのまま投げ入れた。翠沙が体勢を立て直して顔を上げる頃には、扉は閉められている。
 翠沙は屈辱に拳を握り締めた。