第九章 【一】

 響希は夜空を見上げながら髪紐を解いた。ゴムはいつの間にか手元を離れてしまったため、現地で調達したものだ。ゴムと違って伸びないため最初は結びにくく感じたが、今では手慣れたもの。よほどのことがない限り解けてこない。
 腰半ばを過ぎる長い髪は、夜に溶けるように背中を滑った。
 ランルを伴ってガラディアに向かう道中だ。
 評議会へ向かうことを諦めたわけではない。向かうには準備が必要だと気付いただけだ。ランルと共にガラディアへ戻れば色々と融通が利く。そんな打算を抱え、彼女の護衛を兼ねてガラディアに向かっている。
 途中、黒豹の出現という珍妙な事態に襲われたりしたが、他には主だった異変のない単調な道のり。
 セフダニアまではそれこそ全力で馬を駆らせてきただろうランルだが、戻る今はどうも真剣味に欠けていた。近衛たちが苛立ちを見せるほどゆっくりと歩いている。ランルが城を空ける時間が長ければ長いほど彼らに咎めがいくだろうから、彼らの苛立ちは当然なのかもしれない。
 今は近衛たちやクーリュエンは側にいなかった。彼らは薪拾いに行っている。ランルの側には、馬と響希だけが残っていた。
 セフダニアの被害から完全に抜け出ていない野原。荒れ果てた建物が大地に埋もれている。元々ここには誰も住んでいなかった。建物は遥か昔に移民していった人々の残骸だ。屋根も崩れた建物では雨風を凌げない。逆に崩壊の危険性があるため、一行は村の広場だっただろう場所に野営場所を決めていた。  響希は紐を弄びながらランルに視線を向けた。
「少し聞きたいことがあるんだが」
「なに?」
 ランルは響希があらかじめ拾っていた枝に火を灯していた。組み木に入れて絶やさぬように調節する。あまり大きくならないように無駄な枝を省き、響希を振り返る。
 紫紺の瞳には炎が宿っていた。揺らめく炎影が底知れぬ不安を掻き立てる。
 響希は問いかけをためらって視線を外した。ランルは不思議そうに首を傾げたものの何も言わず、視線を炎に戻した。セフダニアから吹いた少し冷たい風が地面を駆ける。炎が揺れる。
「……ルヴァイヤって名前を知ってるよな?」
 本当に訊ねたいのはそれではない。しかし直接聞くのはためらわれ、遠回しに別の話題を選ぶ。少しの間を空けた問いかけに即答はなかった。視線を上げるとランルの瞳とかち合う。その瞳には強い訝りが満ちていた。
「ガラディアで、俺らが泊まっていた部屋に肖像画があった」
「ええ……」
「そこに描かれてた女だ」
 ランルは瞬きもせず響希を見つめた。その静かな眼差しになぜか圧倒されて、響希は顎を引く。その仕草でランルは我に返ったように瞳を瞬かせた。ため息のように呼吸しながら呟いた。
「貴方にはあの文字が読めたの?」
「は?」
 単なる布石でしかない切り出しに問い返された響希は瞳を瞠る。次に用意していた言葉は瞬く間に消えた。
「読めたっていうか……実際に読んだのは翠沙だが」
「ああ。そうね」
 ランルは怪訝な表情を崩すと微笑んだ。視線を炎に移す。燃やすものがないため炎は消えようとしている。早くクーリュエンが戻ってこなければ本当に消えるだろう。横着しないで最初から宝珠で近辺を隔絶してしまえば良かったかもしれない、とランルは思う。そうすれば寒さも凌げるし、明かりも充分に保てる。
「私にはあの文字が読めないの。そう。あの女の人はルヴァイヤというの……」
「ガラディアと、何の関係がある奴なんだ?」
 ランルは炎に移していた視線を上げて響希を見た。そのまま少し見つめあい、フッと視線を逸らす。炎に照らされた頬は染まり、不思議な妖しさを醸していた。
 響希は惹き込まれそうに体が傾いだことに気付いて地面に手を着いた。瞳を瞬かせて誘惑を振り払う。改めてランルを眺める。
「私は良く分からない。まだそこまで学んでいなかったから」
 眉を寄せた響希が口を開く前に、ランルは続けた。
「あの部屋はもっとも格が高い客人に与えられる部屋だから、ガラディア王朝に深く関わっている人なんでしょうね」
 どこか寂しげにランルは瞳を細めた。声音に含まれるやるせなさに響希は複雑な表情をしたが、不意に気付いて「おい」と低く呟いた。
「もっとも格が高い客人……?」
 ランルは悪びれなく笑いだす。
「ちょっとした八つ当たり。あの頃の私って、思い通りにならない周りに苛々してたから」
「八つ当たりって……!」
「カルミナ二妃や貴族たちの敵意をひしひしと感じなかった?」
 響希は絶句した。ランルは肩を震わせて笑いを堪える。
「凄く楽しかったわ、貴方が宝珠の持ち主だと知った瞬間の周りの反応。まるで憑き物が落ちたように、皆は物凄く納得したような顔してたもの」
「あのな……」
 響希は額を手で押さえた。力なく呻く。楽しげなランルに舌打ちする。
 憤りを込めてため息をつき、荷物を手繰り寄せると一冊の本を取り出した。セフダニアから持ってきた本だ。保存状態はいいが妙に古臭さを感じさせるその本に、興味を覚えたようにランルが体を乗り出してきた。首を傾げている。
「ずいぶんと古い本ね。どこから持ってきたの?」
「セフダニアの王家の書庫」
 ランルの目が丸くなった。響希はニヤリと笑って投げ渡す。その衝撃だけで昔ながらの本は綴りを緩ませてしまい、ランルは慌てて受け取ると胸に抱いた。響希を睨みつける。
「貴方ね。なんてものを持ち出してくるの。それも、こんな乱暴にして」
 ランルは本を労わるようにその表紙を撫でた。くすんだ色を取り払う。解けかけていた綴紐を硬く結び直して補強する。皇女であるのに慣れた手付きだ。思わず感嘆するとランルに睨まれた。響希は肩を竦める。
「李苑に読ませようと思っていたが、ランルにもそれは読めるだろう? なにが書いてあるのか教えてくれ」
「え?」
 補強し終えたランルは中身も確かめようと表紙を開いていた。しかしその手が止まる。響希を見つめて唇を引き結ぶと、ためらう様子を見せながらもページをめくった。
 目次もない真っ白なページ。その次のページを開くと文字が敷き詰められていた。響希が悩んで放棄した箇所だ。数日前に響希がそうしたように、ランルもまた眉間に皺を刻む。
「旧文字ね。残念だけと、私にもこれは読めないわ」
 ランルは一通り目を通したあとに告げた。静かに本を閉じて響希に返す。
「読めないのか?」
「使われてるのは旧時代の古代文字。それをまた後からセフダニアの学者が独自の解釈を加えながら写本したようよ。サウスになら読めるかもしれないけど、私には無理だわ。ああ、ガラディアにも研究者はいるから、彼らなら解読できるかもしれないけど……」
 響希の期待は萎んだ。渡された本に視線を落とす。綴紐は固く結ばれ、響希がつかんでも緩む気配はない。頑丈な表紙を開くと頭が痛くなるような文字が刻まれている。
「そういうものなのか」
 ただでさえ読みにくい古代文字に、セフダニアでのみ使用されていた古代文字が混在していれば難易度は上がる。セフダニアの考古学者にしか読解できないかもしれない。もしくはランルの言う通り全ての課程を終えているであろうサウスか。ガラディアの研究者にあまり期待するのは酷なようだ。
 響希は悔しさに唇を噛み締めて文字列を目で追いかけた。しかし一つの単語を拾うだけで精一杯で、意味がさっぱり見えてこない。
 ランルが苦笑して視線を戻した。炎が消えかけている。燃やせそうな物はもうない。先ほど予想していた通りの結果にため息をついて、ランルは宝珠を使った。炎の中に白い光が生み出され、光度は保たれる。だが熱はもう感じない。クーリュエンたちが戻らないまま結界を張ることはためらわれるため、しばらく寒風に耐えていなければいけないだろう。
 響希はランルの行動を眺めながら、ふと思いついた。
「ガラディアの本ならどうだ?」
「え?」
 響希は本を脇に置いた。投げた、と言っても過言ではない。その乱暴な仕草にランルは眉を寄せたが、響希は無視して体を乗り出す。
「ガラディアにも王家の書庫はあるんだろう? セフダニアと似たような文献があるかもしれない」
「見てどうするつもりなの? 何を知ろうとしているの、貴方は。目的が定まらないまま興味本位で覗いては後々悔やむことになるかもしれないわよ」
 高揚は一瞬にして消えた。評議会に連行される前の、翠沙の言葉が蘇る。ランルの眼差しが翠沙に酷似していて驚いた。まるで刺し貫かれるかのようだ。呼吸すら許されぬ雰囲気に息を呑む。
 張り詰められた緊張を破ったのはランルが先だった。
 ランルは視線を外してため息をつく。軽く肩を竦めて笑みを零す。
「なんてね。あまり気にしないで」
 しかし響希の表情は強張ったままだ。ランルは明るい表情を見せる。
「本当は私が知らないだけ。セフダニアに王家の書庫があるって聞いて、いま初めて、ガラディアにもそんな書庫があるのかしらって思ったの。私、王位を継いだのに何も知らないのよ。貴方に教えられることなんて何もないわ。……悔しい」
 明るい声音は最後に本音を洩らして消えた。
「何も知らないってことはないだろう。第一皇女だったんだし……」
「第一皇女なんて飾りよ。ガラディアの者たちは男が王位に就くことが当然だと思ってる。私が宝珠に選ばれたときは、それこそ天地が引っくり返ったかのように大騒ぎだったわ。それまで私は何も学んでこなかった」
 ブツリと、枯れた大地に根付いた雑草を引き抜いて、ランルは洩らした。
「お母様はもともと子どもができにくい体質だったみたい。私は難産で、それからは二度と妊娠できない体になったの。私が男だったら何も問題はなかったんでしょうけど、継承権をどうするかということで、議会は結構揺れたらしいわ。最後はお父様の一存で、私にも継承権を与えるということにしたの。でもその代わりに次の王妃選定が行われた。他でもないお母様に勧められてね」
 ランルが手を開くと、摘み取られた雑草が風に流されて闇に消えた。紫にきらめく髪を手で梳くと、ランルは瞳を細める。
「ライール=ガラディア=サラン」
 ランルは地面に自分の名前を綴った。響希には見たことのない異国の文字だ。
「サランという言葉は、王を意味する」
 ランルは膝に頬をつけながらその文字を眺めて笑った。瞳が潤んでいるように見えたのは、暗闇と光が見せた錯覚なのか、判然としない。響希は眉を寄せる。
「そのときの私にはまだ何も分かってなかった。お母様が名付けたその願いも、いつの間にかランルっていう愛称に消えてしまったわ」
「今ならその意味を知ってるんだろう? 堂々と名乗ればいいじゃないか」
「名乗る自信なんてないわよ。この宝珠がいつエリオスに渡ってしまうのかと、今だって震えているのに」
 今ではランルの拠り所となった宝珠。父の形見ともなったそれが、兄弟とはいえ他人の手に渡ってしまうのは嫌だ。
 ランルは地面に刻んだ名前を乱暴に掻き消した。立てた膝に顔を埋める。紫の髪が彼女の表情を覆い隠す。
「ガラディアは血の広がりを好まない。二妃は先々代の王の兄弟の娘。宝珠管理者が生まれる可能性は高いわ」
 ランルは言葉を区切った。隠していた顔を上げ、虚空を見つめる。
「ランル?」
 彼女の様子に不安を抱いた響希は呼びかけた。警戒心を強めたが、誰かが向かってくる気配はない。クーリュエンの姿はいつの間にか見えなくなっており、近衛たちの姿もなかった。
 ランルは無言のまま立ち上がる。周囲を一瞥すると、響希を見下ろす。
「ガラディアの宝珠は王の代替わりと共に継承者に渡されます。けれど、宝珠が私に興味を示した最初の日、お父様は私を継承者に定めました。その場で宝珠を私に渡した」
 どこか硬い声音。真っ直ぐに立つランルを見上げながら響希はただ聞いていた。小さな炎の揺らめきと共に、脳裏にその日のことが浮かぶような気がした。真の意味で宝珠を継承したランルは今よりまだ少し幼く、渡された宝珠を大切に握り締め、灯った責任感に唇をしっかりと引き結んでいた。
「その日から私の周囲は慌しくなった。第一皇女と第一王位継承者は、似ているようでも意味は異なる。私は第一王位継承者として、何にでも制限が伴うようになったわ。そんなときにサウスと出会って、惹かれたのは当然だったのかもしれない。彼は元々宝珠の管理者で、私に一番近い存在だったんだもの。けれど私と違って、自由奔放で、その在り方を羨ましく思った。彼のことを調べていくうちにセフダニアまで辿り着いて、そのことは本当にショックだったけど、今はやっと気持ちに整理がついてきたところなの」
 響希から視線を逸らし、ランルは虚空を見つめる。その言葉がどこまで本当なのか端からは窺い知れない。
「私はこれ以上、何も失くすわけにはいかないのよ。キョウキ……」
 響希がしばらく待っても続きは語られない。ランルは響希に背中を向けると、そのまま歩き出した。
「どこへ?」
「顔を洗ってくるわ。少し離れてるけど、この先にガラディアの支流が続いていたはずだから」
「近衛が戻るまで待っていたらどうだ」
 自分がランルについていけばクーリュエンたちが戻ったときに慌てるかもしれない。響希はそう思って声を掛けたが、ランルは首を縦に振らなかった。
「直ぐに戻るから、大丈夫。この辺りはもうガラディアの結界内だから、宝珠も操りやすくなってるわ。危険はないはずよ」
 ランルは振り返らないまま馬の手綱を取った。慣れた様子で飛び乗ると走り出す。腰を浮かせた響希だが、ランルが振り返りもせず走り去ってしまうと、そのまま腰を下ろした。先ほどの言葉が脳裏に渦巻く。
 手持ち無沙汰なまま薪の残骸に視線を向けて力を操った。ランルが去ったことで光は消えようとしていたが、響希の新たな力に反応し、再び光度を取り戻す。
 響希はそれを確認してからクーリュエンの姿を捜した。彼はまだ目の届く範囲に戻っていない。
「どこまで行ってるんだ、あいつ」
 薪を拾って来いと強引にクーリュエンを追い出したのは響希だった。それにあわせるように、ランルも近衛二人に手伝って来てと追い出した。新人近衛は渋々ながら腰を上げ、悪態をつくクーリュエンと賑やかな喧嘩を繰り広げながら遠ざかっていった。
 響希はため息を吐き出す。
 ランルが置いていったセフダニアの本を拾い上げた。丁寧に綴り直された本は、なぜだか荘厳さを感じさせた。ランルの手に触れたことで宝珠の気配が宿ったのだろうか。響希は馬鹿馬鹿しい考えを鼻で笑ったが、一枚をめくろうとは思えなかった。翠沙の瞳がやけに強く甦ってくる。
 本を丁寧に荷物にしまい、響希は荒野を見渡す。見据える先は闇だ。
 飲み込まれそうなほど深い闇が、口を開けているような気がした。