第九章 【二】

 響希から離れたランルは馬を駆りながらガラディアの支流へと向かっていた。
 背中に突き刺さる響希の視線を感じるが振り返らない。馬を全速力で駆っていると不意に悪寒を感じ、体を震わせた。風邪を引きかけているのかもしれないと思った。
 馬のたてがみを撫でたランルは速度を落として並足にした。たった数分駆けただけなのに息が上がっている。体力がずいぶんと落ちているらしい、と苦笑する。
 響希から充分に離れたことを確認して嘆息する。先ほどのやり取りを思い出して瞳を細める。
 肖像画が置かれた客室。
 ルヴァイヤなる人物が描かれた肖像。本当は、部屋の意味を知っていた。書物に残すことは禁じられ、王族だけに口伝されてきたことだ。ランルは物心ついた頃に、父王から部屋の意味を教えられた。カルミナは知っているだろう。エリオスはまだ知らないかもしれない。ガラディアに残る王族はランルとカルミナ、エリオスだけになってしまった。
 ルヴァイヤとは、かつてのガラディア王妃の母親を示す名前だ。
 過ぎてみれば響希に嘘をつく必要などなかった。けれどガラディア王族だけに口伝されてきた秘密を、いくら同じ宝珠の管理者とはいえ、積極的に教える必要もない。いや、もしかしたらルヴァイヤに良く似た響希だからこそ嘘をついたのかもしれない。問いかけられた瞬間、ランルは言葉に詰まった。
 馬の背に揺られながらランルは空を仰いだ。ガラディアに残してきた騒動を思い出す。
 ランルのために開かれた宴席。本来の目的は婚約者の候補者選び。けれど主役が消えたことで、宴席は解散を余儀なくされただろう。ガラディア内で名のある貴族たちを集めた宴席だったため、のちのち政務に障害があるかもしれない。残された臣下たちが必死で彼らのご機嫌を取っただろうことが予想される。
 ランルは馬を止めた。そのまま滑り落ちるようにして地面に降り立ち、奥歯を噛み締める。馬の瞳が不思議そうにランルを見つめた。ランルは馬をそのまま待たせて歩き出した。ガラディアのせせらぎが聞こえてきていた。
 城を出る間際に出会った、カルミナを思い出す。エリオスを寝かしつけた後らしいかった。宴席に戻ろうと駆け急いでいたところ、ランルと鉢合わせになった。彼女は当然ながら険しい表情で糾弾してきたが、ランルは説明もそこそこに、逃げるように城を飛び出した。その後をすぐに近衛に追わせたのはカルミナの采配だ。自覚が足りない、と怒鳴りつける彼女の声が聞こえたけれど、ランルは聞こえないふりをして城を飛び出した。
 今度ばかりは駄目かもしれない、とランルは足元に視線を落とす。
 カルミナとはこれまで何度か衝突してきた。エリオスが生まれる前から彼女の地位は特別なものとされ、エリオスが生まれた後は特に顕著となった。発言力は一妃と並ぶ。そしてその苛烈な性格で、彼女は王宮をたびたび騒然とさせてきた。
「お母様……」
 ランルは零した。
 清流の匂いはランルを励ますように体を包み込んだ。微かな冷気に体を震わせるが、その冷気が今は心地良かった。胸元の宝珠をそっと握り締めて瞳を閉ざす。限りなく落下していきそうな思考を振り払う。
 何があっても、両親が残した責務を放り出すわけにはいかない。サウスと共に行きたいと思った心を甦らせるわけにもいかない。宝珠がなくなれば、何の特産もないガラディアは直ぐに他国に吸収されてしまうだろう。だからといってエリオスにすべてを背負わせて逃げるなど許されない。ランルが消えたガラディアを、評議会が黙って見ているとは思えない。
 評議会、とランルは小さく呟いて前を見据えた。
 古来より世界に絶大な力を示してきた評議会だが、宝珠の巫女を失ったことで、ここ数百年は権力を縮小させてきた。巫女を取り戻した今、彼らはその権力を復活させようとするだろう。古い文献の史実によれば、巫女はすべての宝珠を管理し、宝珠国を従わせていたとある。管理者が評議会の意に従わなければ、巫女を使って宝珠を取り上げることが可能となる。
 ランルは翠沙を思い出した。
 彼女はクルジェ=フェイと名乗った。創生の巫女とも呼ばれ、歴代巫女の中で最も力を持っていた巫女の名だ。なぜその名前が今出てくるのか、分からない。翠沙が本当にクルジェ=フェイなのかどうかも不明だ。翠沙自身がどのような意図でこの世界に存在を示したのかも分からない。不明瞭な部分が多すぎる。この世界に戻ったのは、あるいは彼女自身の意志ではなかったのかもしれないが、そこには何らかの意図が潜んでいるはずだった。
 頼りなげに見えたが、その実、誰よりも強そうな意志を閃かせていた彼女が、ただ黙って評議会に身を委ねるとは思えない。もしも翠沙がこのまま評議会に留まるようであれば、それは彼女自身の意志になる。響希はそれに気付いているのだろうか。
 異世界から招かれた管理者たちの意味はまだ良く分からないけれど、彼女たちを繋ぐ糸がこちらの世界での希望になれば良いのにと、思わずにはいられない。こちらの世界を何も知らない李苑と響希だけが、今のランルに許された采だ。
 目の前にはゆるやかな川が広がっていた。ガラディア全土を流れる川の一端だ。ランルは足を止め、辺りを包む冷気に身を浸す。息を吸い込むと肺一杯に心地良さが広がった。こうしているときだけ、わずらわしい何もかもが流され、無に浸ることができる。
 ランルは目を開けて笑みを零した。もう一歩踏み出せば支流に足がつく。
 闇色が周囲を染める中で、清らかに澄んだ蒼がランルの瞳に映っていた。振り返ると馬の姿が遥か彼方に小さく見える。宝珠による力でわずかに空間転移していた。もしくは、ガラディアに眠る力に自然と引き寄せられたのか。
 ランルは足を踏み出した。響希が見ていたら驚愕して怒鳴りつけ、有無を言わさずランルを引き戻しただろう行動。ランルが取ったのはただの自殺行為だ。
 だが、通常であれば水面に沈む足は、あろうことかしっかりと水面を踏みしめた。足首を舞った裾が微かに水面に触れただけだ。ランルは当然のようにその事象を受け止めて、両足を水面に乗せた。かつてイフリートのジュラウンが為した技だった。けれど他国の彼が無理に従わせていたときと違い、水はランルに従順だった。宝珠を駆使して無理矢理押さえつけることなく、水はランルに協力する。自国の結界内なのだから当然とは言える。ランルが三歩ほど岸辺から離れたとき、宝珠はランルの胸元で光り輝き、輝石と呼ぶに相応しいきらめきを見せた。
「――――」
 唇が微かに言葉を刻むが、その音は水音に砕かれた。
 川の流れはランルを中心にして止まっていた。あたかも昔から湖だったかのように、水が停滞し始めた。せき止められた流れが他に支障を及ぼすことはない。すべての流れが止まる。夜だったことで目撃者は少なく、騒動は広がらない。
 ランルはそのまま歩き続けた。跳ねた水滴が裾に付着すると、そこからジワリと波紋を広げる。旅で汚れた服は、水滴が広がるに任せて汚れを落とし、浄化されるように純白に変わっていく。
 川の中央まで進んだランルは水面を見つめた。キラキラと光る水面は正確にランルを模写していた。ランルは何の感慨もなく自身を見つめる。
「――スイサ」
 意図せず呟いた直後、その言葉が魔法となったかのように、ランルの意識が現実に引き戻された。冷水を浴びせられたように全身が硬直した。水面に映っていた自身を見ていたランルは息を呑む。映る姿はランルとは似て非なる者へと変化し、どす黒い笑顔がランルを見つめた。
 ランルは瞳を瞠らせる。その間にもランルの姿を真似た闇が、輪郭を崩して川の中で広がった。同時に水が血のように濁った。
「きゃ……」
 宝珠による力で本来の流れを失っていた川は、まるで止められていた時を奪い返すように凄まじい勢いで流れ始めた。水面に立つランルの足を攫った。細かな飛沫が腕のようにランルの足をつかむ。バランスを崩したランルは倒れる間際に信じられないものを見た。細かく弾ける飛沫がランルを覆うように網を張り巡らせたのだ。
 ランルはとっさに宝珠を握り締めた。尻餅をつくと同時にランルを覆う網がほどけて頭から血の洗礼を受けた。宝珠の加護を受けた自国の川で、ランルは溺れた。
 血のような川、ではなく、もはや血そのものだ。
 引きずり込まれたランルは訳の分からない現状に混乱した。必死で腕を伸ばすが何にも触れなかった。響希と離れたことを悔やむ。粘りつく血に吐き気がする。呼吸も続かなくなり、必死に水面に顔を出した。喘ぐように助けを呼ぼうとしたが、拍子に血の臭気が口に入ってきた。吐き出す方が先になる。
「誰か……!」
 どんな激流であってもランルを決して飲み込まなかった川は、今では完全にランルの敵に回っていた。ランルを沈めこもうと躍起になっている。赤黒い血の川がランルの自由を奪って歓喜している。
 ランルは宝珠を揮おうとしたが、宝珠の力が引き出せないことに気付いて愕然とした。混乱していて力が引き出せない、ということではない。幾ら混乱していても、生命に関わることであれば力は尚のこと強く生まれるはずだった。
 本格的に沈みかけたランルは、川岸に何かの姿を見た気がして必死で助けを求めた。声ならぬ声で呼びかけ、何度も浮き沈みを繰り返し、狭い視界でその姿を捉えようとする。
 唐突に、ランルは身動きの取れない状態から復帰していた。
「―――出して!」
 馴染んだ宝珠の感覚が全身に戻ったと確信した瞬間、ランルは本能のままに叫び、宝珠の力を揮った。宝珠はこれまで以上に力を発揮した。ランルは川から高く放り投げられる。まるで川が、取り込めなかった悔しさに、全力でランルを投げ捨てたかのようだ。ランルは遥か高みに放り投げられて悲鳴を凍らせる。見下ろした川がとても遠く、遥か下に映る。
 体が重力のまま落下し始める。今度こそ何もできないまま川に叩きつけられようとする。
 意識を失いかけたランルだが、その寸前で、体がまた別の何かに支配されたことを知った。
 強い衝撃を感じた。固く目を瞑ったランルは、体が何度か地面に転がったことを悟った。そして、頬に乾いた大地が触れたことも。
 あのまま単に落下したわけではない。何かが地面までの距離を縮めたのだ。
 ランルは受けた衝撃のまま、のろのろと起き上がって顔をしかめた。腹を押さえて地面に突っ伏す。悪寒と吐き気に顔を歪める。体からは死臭が漂っているようで気持ちが悪い。
 それにしても自分は一体どうしてしまったのか。危機から救ってくれたものは何なのか。ランルは痛む体のまま顔を上げて、小さな悲鳴を上げた。
 目の前に巨大な獣がいた。手を伸ばせば届く距離だ。
 真紅の瞳に黒銀の体毛。すらりと伸びた体躯はしなやかさを感じ、大きな足は脚力を感じさせる。
 獣は荒い息を吐きながらランルを見つめていた。
 ランルは新たな恐怖に捕らわれる前に、獣が濡れそぼっていることに気付いた。この獣が川から自分を救い上げてくれたのだと悟る。
 恐怖も忘れて獣を見ていると、獣は微かに笑ったかに見えた。口から覗いた牙は白く鋭い。真紅の瞳がランルを一通り眺めると獣は体を翻す。重そうな尻尾をぶらりと揺らせた次の瞬間、跳躍した。地面がへこみそうなほどの力だ。獣はそのままランルを一度も振り返らないまま走り去った。
 ランルは呆然としていたが、ゆっくりと起き上がると地面に座り込んだ。
「……何……?」
 体が震える。腕を抱え、何とか震えを止めようとした。音を立てて血の気が引いていく。
 ランルは自分に視線を落として眉を寄せた。先ほどまで血の川で溺れていたはずだったのに、腕にも服にも血の名残は見られない。まさかと思って川を振り返り、絶句する。川はランルが馴染んでいる清流に姿を変えていた。先ほどまでの異変を一切感じさせない。
 ランルは再び自分の姿を見下ろした。実は服すら濡れていない事実に気付いて瞬きする。宝珠に操られるようにして向かった川の中心で、なぜあのような異常現象が起きたのか分からない。
 ランルは先ほどまでの恐怖を思い出しながら、一つ思い出していた。
 水面に映った自分の姿がどす黒い笑みを湛えたとき、その瞳が誰かの瞳に重なった。それは翠沙のものだ。彼女はただランルを見つめただけではなく、残酷な笑みを浮かべて川を血に変えたのだ。
 ランルはそんな馬鹿なと体を震わせた。
 あれがただの幻だったとしても、その姿は強烈にランルの記憶に刻まれた。翠沙を見るたび、今のできごとを思い出すだろう。生涯忘れることはできない。
 しばらく呆然としていたランルは遠くからの呼び声に気付いて振り返った。ガラディアの支流を辿るようにして二頭の馬が駆けてくる。黒い馬身に鞍をつけ、駆けてくる馬の額飾りにはガラディアの紋章が刺繍されている。外套を留める金具にも同じ紋章が刻まれている。近衛たちだと知れた。
 ランルは自分を叱咤して立ち上がった。近衛を見た瞬間、体の震えは止まっていた。彼らに無様な姿は見せられない。髪を直し、血に呑まれた体の違和感を忘れたようなフリをして彼らを待った。
「陛下!」
 その呼び名はランルの胸に苦さを広げた。
 近衛はランルに砂埃がかからない位置で馬を下りると駆け寄った。もう一人の近衛は遠くに待たせていたランルの馬を引き、同僚の馬の隣に並ばせる。そうしてからランルに向き直った。
「なぜ勝手をされるのです! 貴方がキョウキと共にいると仰るから、私たちも仕方なく貴方の側を離れましたのに!」
「ごめんなさい」
 響希の側より安全なところはないと豪語したのはランルで、だから貴方たちも薪拾いを手伝って頂戴と強引に追い出したのもランルだ。ランルは素直に謝ったが、近衛たちの憤りは消えない。説得は諦めてかぶりを振る。
「城まではもう近いわ。結界が揺らいでないか、様子を見に来ただけです」
 ランルは静かに告げながら川を指した。近衛たちは納得がいかないようにランルを見つめたが、ランルはそれ以上を説明しない。川を直視する勇気がまだ持てない。川を一瞥して背中を向け、近衛たちが連れてきた馬に近づいた。大きな黒い瞳がランルを見つめる。ランルは小さく微笑んで馬の額を撫でた。
「今日は野宿しないで城に戻りましょう。ここまで来れば、宝珠が城まで導いてくれますから」
 近衛たちはその言葉に驚嘆と歓喜の声を上げた。その声を背中で聞きながらランルの表情は晴れない。実はランルにはセフダニアからガラディアまで、時間をかけずに移動することが可能だった。力を増した宝珠をもってすれば、多少体に負担がかかるが、できないことではないだろう。しかし今回はその方法を皆に伝えることなく、歩きで戻ることを選んだ。城に戻りづらかった。響希が宝珠に詳しくないことも手伝って、その目論見は成功していたのだが、ここにきて考えが変わった。
 今は一刻も早く城に戻りたい。何が起きているのか知りたい。何よりも、得体の知れない恐怖から逃れたい。
 努めて平気なふりをしながらランルは馬にまたがる。近衛たちに守られながら行動することに初めて安堵を覚えた。そして、そんな自分に辟易しながら、響希が待つ場所まで戻った。