第九章 【三】

 直ぐに戻ってくると思っていたが、ランルの帰りは遅かった。
 響希は手ぶらで戻ってきたクーリュエンと共に辺りを警戒する。先ほど、近衛たちが戻ってきたところだ。彼らはランルの不在に青ざめ、響希に短い罵声を浴びせて迎えに行った。ランルは自分の失態に落ち込んでいる頃だろう。
 そんな様子が想像できて苦笑をもらす。響希は向かいに座るクーリュエンに視線を向けた。戻ってきてから、彼は不気味なほど大人しい。宝珠の光に照らされて影が揺れていた。
 交わす言葉を持たずに沈黙が続く。寒さを覚えて腕をさする。
 不意に、クーリュエンが顔を上げた。つられるように視線を追った響希は笑みを浮かべる。遠くに見えたのはランルの姿だった。両脇には近衛たちもいる。無事な姿に安堵する。
 しかしランルの姿が大きくなるにつれて響希は眉を寄せた。近衛に怒られて落ち込んでいるのかと思ったが、どうやら様子が違う。ランルは憔悴していた。顔色が悪く、青ざめているように見えた。まるで思いつめているかのような瞳だ。
「このまま城に戻ります」
 馬を下りたランルは響希を見つめて告げた。そこには強い意志がある。一体何が彼女をこうまで変えたのか。追及しようとした響希だが、近衛に阻まれてできなかった。ランル自身にもはぐらかされる。仕方なく、響希は疑問を胸に封じた。
 この場で夜明かしする予定だったが、まだ幕も張っていない。仕度は簡単に済んだ。
 城に戻れると決まった近衛たちは浮き足立つ。そのまま馬で走り出していきそうな雰囲気だったが、さすがにランルが許さない。響希たちは馬を持っていないため、置いていくことになってしまう。近衛たちは手綱を引いて歩くことを承諾した。
 ガラディアの支流へは十数分で辿りついた。
 緩やかな流れだ。
 響希はその広大な川を眺めながら、この世界に来たばかりの頃を思い出した。李苑と翠沙と離れることになるとは思いもしなかった。とても不思議な気分にさせられる。
 ランルが川に近づき、皆の注目を集めた。その背中が強張る。緊張したのだろうか。響希が不審に思って声を掛ける前に、ランルは足を踏み出した。川面に立ってみせる。以前のように川底を歩いて渡るような真似はしないらしい。宝珠には色々な使い方があるのだと改めて実感し、近衛たちに続いて響希もランルの背中を追いかけた。
「なぁなぁ姉御。姉御にはあれができないのか?」
 不愉快な呼び名に眉を跳ね上げ、響希はクーリュエンを殴った。涙目で「ひどい」と訴えられたが無視をする。前にも忠告した。聞かない彼が悪いのだと鼻を鳴らす。どこでそんな言葉を覚えてきたのか、追求する気も起きなかった。
 背後で騒がしくするクーリュエンたちに、近衛たちが嫌そうな目を向ける。しかしそんな眼差しに動じる響希ではない。
「少しは静かにしていられないのか。こんな者たちが側にいたら、王の品性まで疑われてしまう」
「今が人目のない夜で良かった」
 響希たちが鉄の心臓を持っていることに気付いたのか、近衛たちの言葉はあからさまな物に変わっていた。険悪な雰囲気にランルは気付かない。騒ぎの切欠を作るのはクーリュエンだけで、近衛たちとの応酬に響希は加わらないため、ランルはそのやり取りを「仲が良い」としか思っていないのだろう。
 今もまた、近衛たちの呆れた声を聞きとがめたのはクーリュエンだけだった。
「はーん。お前らみたいな近衛しか持てない王さまってのも同情するぜ」
「お前に同情されてもな」
 年齢的にクーリュエンと近い彼らは直ぐにその挑発に乗りかけるが、今は事情が違った。近衛よりも先に口を開いたのは響希だった。
 クーリュエンは響希を無視して近衛たちに指を突きつける。
「今からでも言動を慎んだ方がいいのはお前らだぜ」
「もう遅い」
「城に戻って解任されて、泣くのはどっちかな」
「お前だろうな」
 不毛な主従の応酬。近衛たちは口を開けたまま二人のやり取りを眺めた。クーリュエンが不意に響希を振り返り、泣きそうな顔で詰め寄った。
「俺は解任されるのかっ?」
「さぁな」
 響希は岸辺に立ち、ランルの行動を見守った。クーリュエンが視線を合わせようとしてくるが、意識して合わせない。
「俺は馬鹿にされてる姐御を助けようとしただけだぜっ?」
「馬鹿にされてるのはお前だけだ」
「知性有り余る俺に何を!」
「脳が小さすぎて知性が入ってかないだけだろう」
 響希が視線を逸らせるたび、クーリュエンは律儀に回りこんで視線を合わせる。そんな二人のやり取りに馬鹿馬鹿しさを覚えた近衛たちは踵を返してランルに意識を戻すのだ。
 ランルが笑みを湛えながら振り返った。
「渡っても平気よ」
 水面に両足をつけたランルが手を振る。近衛たちは直ぐにその言葉に従った。最初は恐々と、次に誇らしげに、二人は水面に降り立つ。その姿にクーリュエンは「おお」と顔を輝かせた。宝珠とは縁もない彼であろうから、新鮮な驚きなのだろう。しかし怯えることはない。クーリュエンはためらうことなく岸から跳ね、両足で水面に着地した。最後に響希が水面に足をつける。もちろん、響希が歓声を上げることはない。クーリュエンは唇を尖らせた。
「なんだよ。感動薄いなぁ」
「ガキの感受性と一緒にするな」
「純粋な心を失わないと言え!」
 やり取りを聞いたランルが楽しげに笑った。
 全員が川に足をつけたことを確認すると、一度瞼を閉ざした。その瞬間ランルの体が緊張するのを見て、響希は眉を寄せる。ぎこちない仕草で深呼吸する様を見る。
 宝珠の力が揮われた。皆の体が水に同化して揺れる。クーリュエンが瞳を瞠ったのも束の間、凄まじい速度で周囲の風景が流れ出した。川の流れに沿っての移動が始まった。
 馬たちは暴れる可能性があるため、鎮静作用のある草を噛ませていた。今は虚ろな目をして大人しくしている。
「……あいつにも草を噛ませるべきだったな」
 響希は呟いた。その声を拾ったランルは笑う。
 近衛たちが白い目を向ける中、クーリュエンだけが1人で騒がしく、楽しげに風景を堪能していた。


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 エリオスは労わりを込めて両手を握り締めた。その中には大切な宝物がある。夢の中で出会った女性からの贈り物だ。敬愛する女性にとても良く似ている女性だった。恐らく何らかの関わりを持つ人物なのだろうと思う。そんな人物に贈られた物だからこそ大切にしようと思った。
 エリオスは幸せそうな笑顔を浮かべる。それを見た女官たちも幸せそうな笑みを零す。
 エリオスはすべての者に愛されるような子どもだった。大切に育てられていても、ありがちな傲慢さは一つもない。とても素直な少年だ。そんなエリオスを、周囲も誇らしく思っている。
「夢だと思っていたのに」
 エリオスはぽつりと洩らす。
「何が夢なのですか?」
 側にいた少女が首を傾げて問いかけた。エリオスの婚約者、リュイアだ。エリオスが彼女に微笑みかけると、リュイアは頬を染めて俯いた。二人を見守る者たちは一様に頬を緩める。何とも初々しい、可愛らしい恋人たちだった。
「巫女姫様にとても良く似た人が出てくる夢を見たんです」
「巫女姫様?」
 リュイアは瞳を瞬かせる。エリオスは小さく頷いた。リュイアから視線を外し、うっとりと頬を緩ませる。
「とても綺麗な人だよ。リュイアより髪は短くて、何の飾りもないけど、でもそんなの関係ない。すごく優しくて、強い人だ。まとった光で、僕たちを守って下さるんだ」
「まぁ。リュイアには髪を短くするなんて考えられませんわ」
「どうして? ランル姉さまだって髪が短いよ?」
 唇を尖らせたリュイアはますます不機嫌になる。
「エリオスは何かと言うとランル様なのね。まるでリュイアのことなど目にないよう。私は今日を楽しみにしていたのに」
 床に直接置いていたクッションから立ち上がった。幾重にも重ねた白い衣装がエリオスの視界を舞う。ここでようやく彼女の機嫌を損ねたことに気付き、エリオスは体を乗り出して彼女の腕をつかんだ。
「待ってよリュイア。僕が悪かった。楽しみにしてたのは僕も同じだよ。もう少し一緒にいよう」
 足を踏み出しかけていたリュイアは振り返った。真摯な眼差しに見つめられると、それだけで満足した。生まれる前から決められていた婚約だったが、リュイアは初めて会ったその日に恋をしていた。そんな恋人が他の女性を想って頬を緩めるのは不愉快だ。
 リュイアはくるりと瞳を回す。婚約していても、事前に面会の申請をしなければ、エリオスには会えない。今回は許可が下りるまで1ヵ月待った。ここ最近は城中が慌しいため、次に会えるのはいつか分からない。ここで帰るのはリュイアとしても、本意ではない。なんとか苛立ちを宥めて、エリオスに笑顔を向けた。
「いいわ。許してあげる。でも、リュイアと一緒にいる間はリュイアのことだけ考えて。リュイアはいつだってエリオスのことだけ考えているのよ」
「ありがとう、リュイア」
 情熱的な瞳に、エリオスは少し戸惑いながら頷いた。これで仲直りしてくれるのなら我慢できる。リュイアはこれからの自分に必要な人物になる、と冷静な部分で判断し、この婚約に賛成していた。周囲の言うように、一緒にいる時間が多ければ、いつかは恋もできるだろうと考えている。
 見守っていた女官たちは二人のやり取りに微笑んだ。リュイアがエリオスに熱を上げているのは周知のことだ。恋の鞘当もほほえましいものだった。
 エリオス以外目に入っていないリュイアは、はつらつとした笑顔を見せた。
「では外に行きましょう。庭師がとても綺麗な花を見せてくれたのです。あとでエリオスと一緒に来て下さいって、誘っていただいたのよ」
 エリオスは「あ」と声を上げた。急に腕を引かれたため、手にしていた石が床に落ちたのだ。深紅に染まった小さな石は、リュイアの足元を転がっていった。
「なぁに?」
 リュイアが拾おうと腰を屈める。その小さな指が石に触れようとするのを見た瞬間、エリオスは衝動のままリュイアを突き飛ばしていた。
「駄目!」
「きゃあ!」
 リュイアが倒れた先には柔らかなクッションがあり、リュイアを優しく受け止めた。けれど問題はそんなことではない。エリオスは石を拾って安堵したあと、我に返ってリュイアを見た。彼女は瞳を大きく瞠ってエリオスを見ていた。その瞳に傷ついた光が宿り、エリオスは後悔する。
「ひどい!」
 謝る前にリュイアは叫んだ。見る間に涙が盛り上がる。愛らしい大きな黒瞳を濡らせてエリオスを見つめる。リュイア付きの女官が慌てて駆け寄り、彼女の衣装を整えた。少し乱れた自慢の髪も結い直す。怪我がないかと問いかけるが、リュイアは女官たちの言葉など耳に入っていなかった。女官たちの手を振り払い、立ち上がるとエリオスを睨みつける。大粒の涙がぼろぼろと頬を伝い落ちる。
「リュイアを突き飛ばすなんて!」
 鼻をすすり上げ、顔を赤く紅潮させながらエリオスにつかみかかった。
「それを渡しなさい! そんなもの、リュイアがお外に捨ててきてあげる!」
「だめ! 突き飛ばしたのはごめんなさい! でも、これだけは誰にも触らせたくなかったんだ! ランル姉さまにだって同じことだよ!」
 エリオスは石を持ってきたことを後悔していた。部屋に置いておけば、掃除に来た女官が触ってしまうかもしれないと思ったのだ。エリオス自身も、少しでも石から手を離していたくなかった。
 リュイアはランルの名前を聞くと、更に頭に血を昇らせた。
「さっきリュイアの前でランル様の名前を出さないって誓ったわ!」
「そ、そんなこと誓ってない!」
「同じことよ!」
 リュイアは大声で叫んだ。
「リュイアはエリオスを独り占めしたいの! 誰にも渡したくないの! リュイアのことだけ考えてくれなきゃ絶対に嫌!」
 リュイアは大声で泣き出した。女官たちが宥めても聞き入れない。癇癪を起こして彼女たちに拳を振り上げる。もちろん小さな子どもの力で大人に大怪我を負わすことは不可能だが、それでも、それなりには痛い。八つ当たりを受けた女官が痛みに顔をしかめる。
 うろたえていたエリオスは次第に落ち着きを取り戻してきた。女官の一人が叩かれたとき、小さな唇を引き結んでリュイアに近づく。
「リュイア」
 エリオス付きの女官が危ないからと止めたが、エリオスはかぶりを振って制止した。
「聞いてよリュイア」
 リュイアは泣き叫ぶままエリオスにも拳を振り上げた。女官たちが悲鳴を上げたが、エリオスは怯まなかった。振り下ろされた拳をしっかりとつかむ。気付いたリュイアは手を引き抜こうとしたが、エリオスは彼女の手を放さなかった。
 リュイアはようやくエリオスを見た。衝動にしゃくり上げる顔は酷いことになっていたが笑わない。真剣な眼差しでリュイアを見つめる。
「僕はリュイアが好きだよ。でもリュイアのことだけを考えることはできない。それが我慢できないなら、僕はリュイアとの婚約を解消しなくちゃいけない」
 好きだと言われたリュイアは胸を高鳴らせたが、続く婚約解消の言葉には青褪めた。エリオスが真剣だと分かっているだけに焦りは大きかった。
「リュイア。我慢はできる?」
 そう問われてしまえばリュイアは頷くしかない。鼻を啜って小さく頷く。どうなることかと見守っていた女官たちは胸を撫で下ろし、尊敬するようにエリオスを見た。リュイアは可愛らしいが癇癪持ちで、ひとたび爆発すれば昔ながらの女官にも宥めることは困難だった。
 エリオスは笑顔を見せた。
「ありがとう、リュイア。さっきは突き飛ばしたりして本当にごめんね」
 リュイアは黙ったままかぶりを振る。不満は解消されないが、エリオスを失うくらいならマシだと思った。エリオスに促されるまま、先ほど叩いた女官たちにも謝罪した。
 リュイアが素直な姫に戻ると、エリオスはふっと息をついた。少しだけ困った姫だと思うが嫌いにはなれない。ただ、リュイアが期待する特別な好きにもなれない。この婚約は、宝珠を継ぐ皇子の伴侶として相応しい血筋を神官たちが選出した。エリオスが宝珠を継ぐことになってもならなくても、困らない血の持ち主がリュイアだ。だからエリオスが否を唱えても簡単には破棄できない。特別な好きではなくても結果は変わらない。それをどうにかして付き合っていかないといけないんだ、と漠然と悟ったエリオスは複雑になった。
 そして気付く。
 リュイアをつかんでいた手に、石も持っていた。決して誰にも触らせたくなかった石を、結局はリュイアに触れさせてしまった。不可抗力だと分かっていたが、エリオスは苛立ちを覚えた。
 リュイアを見ると、彼女は涙を拭い、小さな笑みをエリオスに見せた。エリオスにはそれも腹立たしく感じられてそっぽを向いた。その瞬間、リュイアが絶望したような顔をしたことに気付き、慌てて笑顔を見せる。その笑顔に救われた顔をしたリュイアだが、彼女から強張りは解けなかった。
 エリオスは胸に生まれた小さな苛立ちを解消しようと庭に誘った。女官たちにはリュイアのご機嫌を取っているように映る。互いに目配せし、庭には小さな恋人たちだけで行かせることにする。エリオスにとって、それは望むところだった。平常心に戻るまで、少しの時間が必要だ。
 エリオスの心情をすべて悟ったわけではないだろうが、リュイアは不安そうにエリオスを見た。いつもなら彼なりの優しい言葉をかけてくれるが、今はその言葉がなかった。単に微笑みを返してくるだけだ。女官たちを振り返るが、彼女たちはリュイアの不安に気付かない。エリオス様ともっと仲良くなるチャンスですよ、と笑顔で送り出す。
「あの……エリオス。さっきは、本当に、ごめんなさい」
「僕も悪かったって謝ってるじゃない。いいんだよ、もう」
 返された声に嫌悪感はない。しかし不安は増していく。続けようとした言葉は喉で消え、視線は床に落ちた。促されるまま部屋を出る。廊下を歩きながら、少し恐ろしくなる。
「リュイア。部屋に戻る?」
 様子の違うリュイアにエリオスは歩調を緩めて尋ねるが、彼女はかぶりを振った。笑顔を作る。
「そう。じゃあ、行こう」
 エリオスはリュイアの手を握り直すと再び歩き出した。
 繋いだ手と反対の手には石が握られている。その小さく冷たい存在を感じながら、エリオスは妙に虚ろな気分になることを止められなかった。