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第一話

【一】

 イリア=カーデは船底で息を殺しながら出港するのを待っていた。
 身を潜めるのは食糧袋の隙間。防腐剤独特の匂いが漂うなかで涙が出るほど強く目を閉じる。膝頭で握った拳が色を失うほどに力を込めて。
「大っ嫌いなんだから……!」
 脳裏には父の姿。思わず声に漏らして唇を引き結ぶ。ここまで腹を立てたのは久しぶりだ。
 イリアは勢いのまま家出しようとしていた。
 この場に腰を落ち着けてからしばらくが経つ。もう出港しただろうかと視線を巡らせてみるが、この部屋には舷窓がないため外の様子は分からない。先ほどから誰の気配もしなかった。
 食糧袋に再び背中を預けてため息を漏らしたとき、頭上で大きな歓声が上がり、天井が軋んだ。唐突な音にイリアは飛び上がって驚いた。思わず悲鳴を上げかけて口を塞ぐ。飛び出しそうな心臓を宥めて身を固くする。視線だけで天井を見上げ、恐る恐る息を吐き出す。
 遠くで誰かが走り回る音がした。縄が擦れる音も聞こえてきた。わずかながら船の揺れが強くなった気がする。
 船の向かい先はミフト大陸。二人の王を抱える広大な国家で、ジェフリスとは友好同盟を結んでいる。そのため行き交う旅行者は毎年結構な数だと聞いていた。イリアの姉であるヴィダ=カーデも現在はミフト大陸で暮らしている。彼女はミフトから留学していた青年と恋におち、そのままミフトへ移り住んだ。イリアも何度か遊びに行ったことがある。不自由しているといった話は聞いたことがない。無鉄砲にも着の身着のまま飛び出してきたイリアは、ヴィダを頼りに海を渡ろうとしていた。
 久しぶりに会えると思うと心躍るが、浮かんだ笑みは弱々しい。
 原因は二つ。
 父と喧嘩別れしてきたこと。
 そして、現在イリアは密航中であるということだ。
 何しろ乗船には専用の許可証が必要で、発行までに時間もかかる。手続きには身分証明も必要だ。急がせようとすれば身辺を探られるだろう。父にバレる前に、何としても出港しておきたかったイリアが取れる手段は、密航だけだった。
 心は痛んだが苦肉の策だ。商人たちに船の行く先を何度も確認し、イリアは侵入に成功した。
 このような事態になったのもすべて父が悪いのだ、と心苦しさを無理に捻じ曲げて八つ当たりする。船長には誠心誠意謝り、上乗せした旅費を父に請求する手続きをさせてもらおうと心に決める。
 そのとき、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
 イリアは首を伸ばして扉を見ようとしたが、扉の開く音がし、慌てて床に伏せる。隠れている荷物が大きいので見つからないはずだが用心するに越したことはない。見つかるにしても、港から遠く離れた場所ではないと、直ぐに港へ戻されてしまうだろうことは明白だった。
 部屋に入ってきたのは1人のようだった。鉱石ランプが部屋を照らす。その眩しさにイリアは瞳を細める。
「今回も結構な量だったよなぁ」
 男の独り言に耳を傾けた。
 どうやら男は荷駄の点検係らしい。一歩ずつ立ち止まって確認作業を行っている。静寂の中、走り書きする音が微かに聞こえてくる。
 イリアはその姿を確認しようとした。けれど直ぐに首を竦める。再び扉を開く音がした。
「ここにいた。もう点検かよ。ご苦労だな」
「さっさと済ませねぇと落ち着かない。船長命令だし。仕方ねぇだろ」
 新たに入ってきた男は揶揄りながら近づいてきた。応じる男は苦々しく毒づく。
 イリアは何とか二人の姿を確認できないものかと荷物の隙間を探したが、荷物は間隔をあけずに何列も積み重ねられているため、諦めるしかなかった。まさかよじ登って覗き込むわけにもいくまい。
「ま、それは仕方ねぇとして。早くしねぇと皆で食っちまうぞ」
「残しておけよな!」
 怒鳴り声に笑い声。
「せいぜい祈っておけよ」
 イリアは再び荷物に背中を預けながら頬杖をついた。密航する前に聞いた情報を再確認する。
 今回はオーカキス島を経由してミフト大陸へ渡る航路のようだった。順調なら明日の朝に島に到着する。最速で進めば明後日にはミフト大陸へ着くだろう。ただの商船に、これ以上の速度を望むのは不可能だ。
 外観で船の艤装も見て回ったイリアだが、2本柱の帆船であること以外、詳しいことは分からなかった。外国の船だからなのか船籍は登録されておらず、船長の名前や顔も不明だ。出港準備をしている間も外に出てくることはなかったようだ。
 もし海が凪いだら一週間以上かかる場合もある。
 イリアは二人の会話を聞き流しながら、船長への言い訳を考え始めた。
「船長もマメなこって。どうせ直ぐ他の商船襲うんだ。こんなに詰め込まなくても良かったんじゃねぇのか? 船足が落ちるぜ」
「俺に聞くなよ。文句があんなら直接言え」
 何とはなしに二人の会話を聞いていたイリアは、はたとして目を瞠る。聞き流していたため前後の会話は思い出せない。けれど、商船を襲う、という言葉だけが妙に強く心に響いた。
 男は無意味に豪快な笑い声を上げる。
「馬鹿言うなよ。逆らったら俺らはあっという間に風の加護を失っちまう。赤の奴らを一番憎んでんのはアイツなんだ。あんなナリでも前任よりオッソロシイぜ」
「確かにな」
 陽気に笑った男はもう1人の男を叩く。
「風の加護がなかったら、海賊なんて稼業は今頃廃業だろうからな!」
 イリアは顔色を失った。
「ほどほどにして、お前もさっさと来いよ!」
 遠ざかる声と扉が閉まる音。
 1人は去ったようだが、もう1人は残ったようだ。荷物の点検作業を再開したようで、途切れていた足音が再び響く。
 荷物の影で、イリアは震えた。男たちの言葉は冗談に聞こえなかった。正真正銘、言葉通りの意味なのだろう。
 イリアは震える手を伸ばす。冷静に逃げる算段ができるほど大人ではない。焦燥のまま荷物の間を這い、扉に近づく。
 しかし、というか。やはり、というか。
 焦りのまま動いたイリアは大失敗をした。食糧袋の紐に足を引っ掛け、派手に転んだのだ。悲鳴は上げなかったものの、比較的軽かったその荷物はイリアの背中に落ちてきた。弾みに別の袋の紐が解ける。中から米が零れてくる。床に散らばって音を立てる。
「なんだ?」
 男の不思議そうな声を、イリアは身動きが取れないまま、蒼白な顔で聞いていた。


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 強いノックの音に応えたのは不機嫌そうな男の声だった。
 イリアを捕らえた男は扉を開く。イリアの腕を後ろ手にひねり上げたまま部屋に押し込んだ。遠慮のない力に、イリアは悲鳴を上げる。
「何するのよ!」
 突き飛ばされたイリアは足がもつれて倒れこむ。頭を打つようなことはなかったが、腕を擦りむいて血が滲んだ。直ぐに立ち上がり、振り返って男を睨みつける。
 イリアの視線の前で、男は冷笑を浮かべていた。
「こいつは?」
 声は、目の前の男ではなく、後ろから聞こえてきた。
 イリアは体を震わせて振り返った。
 部屋の中央に1人の男がいる。赤銅色の髪が印象的だった。肩を少し過ぎた所まで伸ばされた髪は、後ろで1つに束ねられている。癖毛なのか、髪の先が跳ねていた。
 彼の視線にイリアは顎を引く。
 ただ見られているだけなのに、彼の視線には圧力を感じた。黙ったまま様子を窺っているとニヤリと笑われる。
「倉庫の中に隠れてやがったんですよ」
「ほう」
 イリアを見つめる瞳の中に揶揄が浮かぶ。椅子に長らえていた体を起こし、少し重たい足取りで歩いて来る。イリアは逃げたい衝動に駆られたが、両足は動かなかった。それに、背後では男が扉を塞いでいる。イリアは少しでも自分に有利に働くよう仁王立ちしているしかなかった。
「分かった。俺が預かろう。荷物の確認は終わったのか?」
「数は揃ってます。いつも通り、余分なバラストも捨てました」
「ご苦労だったな。戻っていいぞ」
「はい」
 バラストとは船体の安定を保つために乗せる重量物のことだ。なぜそんな物を捨てたのか疑問に思ったイリアだが、直ぐに答えに辿り着く。商船に偽装するためバラストを多く乗せ、船体を沈めて積荷が多いと思わせたのだ。
 最初から騙されていたのだと、イリアは悔しく歯噛みした。
 イリアを部屋まで連れてきた男は、イリアのそんな悔しげな様子を一瞥すると鼻を鳴らし、悠々と部屋を出て行く。その扉が閉まる前に腕を伸ばしたが、横から別のものに邪魔されて跳ね返された。
「海賊船に乗り込んでくるなんて、肝の据わった女だな」
 床に尻餅をついたイリアは顔を上げた。目の前には船長がいる。先ほど阻んだのはこの男だ。
 陽を浴びれば印象が違うだろう赤銅色の髪。
 先ほど男たちが交わしていた『風の加護』という言葉。
 そして、海賊船の船長。
 イリアはこの男に心当りがあった。
「……海賊、ダルス」
 男は軽く瞳を瞠らせる。推測が当たった証拠だ。だとしても、イリアは面白くない。睨みつけているとダルスは再びニヤリと笑って口を開いた。
「良く知っているな」
「有名だもの。私だってそれくらい知っているわ」
「それはそれは、光栄です」
 貴族たちがするように、わざと紳士的な礼をするダルスを忌々しく思いながらイリアは立ち上がった。少し後退してダルスから距離を取る。
「誰の差し金だ?」
「誰でもないわ。私、商船と間違えて乗ってしまっただけよ。だから下ろして頂戴」
「そんな言葉を信用するほどお人よしじゃなくってね」
 イリアを見下ろす視線は鋭かった。言葉など最初から信用していない。イリアが欠片でも嘘を混ぜれば瞬時に見抜き、殺すだろう。他者を警戒し、常に猜疑心に囚われている瞳だ。他人を疑うことに慣れている。
 このような男に出会ったのは初めてで、イリアは背中に汗が滲むのを感じた。
「例えその話が本当だとしても帰すわけにはいかないな。次の街で売り飛ばせばいい金になるだろう」
 ダルスの瞳に囚われていたイリアは目を剥いた。絶対に実行するだろうという、妙な確信があった。
「そ、そんなことしたら、お父様が黙ってないわよ! 直ぐに貴方を捕まえに来るわ」
「ずいぶんと高貴な姫君のようで?」
 笑い声を上げる代わりに痛烈な嫌味で返された。
 イリアは頬を紅潮させて視線を逸らせた。その瞬間ダルスの手が伸び、頬をつかまれる。強引に視線を合わせられた。屈辱に怒りが溜まる。
「放しなさい!」
 力任せにダルスの手を振り払う。
「奴隷に強気な態度は必要ない」
 逃げようとしたイリアは腰をつかまれて引き寄せられた。両手を固定され、床に組み伏せられる。その衝撃に息を詰まらせる。床に腹ばいとなったまま背中にダルスの体温を感じた。
「方法なら幾らでもあるがな」
 耳元で囁かれ、首筋を這うような吐息に身をよじる。何か武器はないかと探したが、視界にあるのは役に立たない調度品ばかりだった。
「放して!」
 涙目となったイリアは振り返った。
 間近で視線が交差する。
 深海を宿したイリアの瞳と、透き通る水底に生まれた苔藻のようなダルスの瞳。
 イリアは怒りも忘れてその色に囚われた。晴れた日の海。水面の光がそのまま深海に落ちてきたような色だ。見つめ返すダルスの瞳も瞠られる。訝るように、眉が寄せられる。
「お前は」
 その言葉を最後まで聞くことはできなかった。部屋の扉が強く叩かれ、ダルスは素早く立ち上がる。
 視線の呪縛から逃れたイリアは安堵したが、まるで逃げるように扉へ向かったダルスの背中を訝しく見つめた。
「どうした?」
 横柄な態度に似合わず自ら扉を開けに向かう。その様子にも違和感があり、イリアは戸惑った。強い力でつかまれたため、手が痺れている。感覚を取り戻すように手を動かしながら立ち上がる。
 開かれた扉の向こうからは男が顔を覗かせた。なぜか驚いている。ダルスが扉を開けたことに対することか、別のことか。イリアを連れてきた者とは別の男だった。
 彼はダルスの視線に促されて口を開く。
「操舵室がえらい騒ぎなんです。何かやばいって。猛スピードで艦が迫ってるんですよ」
「まさか、ばれたのか?」
 ダルスは舌打ちすると踵を返した。イリアの脇を過ぎて部屋の奥へ向かう。そこには様々な設備が整えられていた。ダルスはその中の1つを操作して通信機を手にする。
 彼の背後から様子を見守っていたイリアは少し近づいた。壁に埋められた小さな鉱石が1つ煌き、通信を促す。どうやら操舵室へ繋がる通信らしいと気付く。
「俺だ。来ているのは軍艦か?」
 端的な問いに、通信機は応答する。しかしスピーカーにはなっていないため、操舵室の声がイリアに聞こえることはない。微かにくぐもった音が聞こえてきただけだった。ダルスの顔つきが見る間に険しくなった。舌打ちが零される。
「艦影は1つ……カーデ艦か」
 零れた単語にイリアは瞳を瞠らせた。国を守護する艦の1つだ。先ほど出港してきた第八領に駐屯している。
 ダルスは通信を切ると直ぐに廊下へ向かった。報告に現れた男を連れて去っていく。まるでイリアのことなど忘れたかのようだ。イリアは慌てて追いかける。この機会に逃げることも考えたが、カーデ艦が迫っているなら先にそちらを確認したい。
 ダルスたちは早かった。イリアが全力で走らなければ追いつかないほどだ。一度甲板に出て再び船内へ入る。甲板上で遠くの海を確認したが、まだ肉眼で艦影は見えなかった。もうダルスの姿は見えず、足音を頼りにイリアは進む。
「通信が入ってるぜ、船長」
「通信だぁ?」
 前方からそんなやり取りが聞こえてきた。
 息を切らしながらようやく辿り着いた部屋には複数の男たちがいた。当然、皆が海賊だろう。誰もが屈強そうに見える。しかし不思議なことに、ダルスが一番年若いようだ。緊張感漂う部屋の中で、ダルスに向けられる瞳には敬意と畏怖があった。
 イリアは部屋の入口に立ち尽くしながらダルスを見つめた。八番艦隊カーデの戦艦は海上でダルスと良く衝突している、馴染みの海軍だ。今更通信などと馬鹿げたことをする理由が分からないのだろう。ダルスが嫌そうな顔をしながら通信機に耳を押し当てる。
「なんだ」
 不機嫌な声でダルスは訊ねる。
 会話に興味があったのか、他の男たちが心持ちダルスに顔を近づけた。
 それに気付いたのかダルスは通信機を離し、音声をスピーカーに切替えた。緑柱石の瞳で頭上のスピーカーを睨みつける。
「おい?」
 スピーカーからは何も流れてこない。もしや故障なのかと思ったとき、向こう側から気配がした。押し黙って唸り声を発する。カーデ艦、ヴェラーク艦長の声だ。
 彼は不機嫌そうな声を発したあと、海賊と通信するなど本意ではないのだということを強調させるように、実に実に不本意そうな声で、こう述べた。
「私の娘を返してくれ」
 操舵室に集う海賊たちは、誰もが絶句した。

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