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第一話

【ニ】

 その言葉を理解した瞬間、不覚にもダルスは隙だらけになった。
 スピーカーから聞いていた他の男たちも同じだ。イリアに視線が集中する。
「……おい、お前……お前の名前は……?」
 イリアは視線を逸らせ、逡巡した後に向き直る。
「イリア=カーデよ」
 空気が凍りついた。
 イリアを取り巻いていた男たちは一斉に飛び退いて唖然とする。イリアの姿を上から下まで眺め渡す。
 ざわめきが大きくなるのを感じながらイリアは毅然と背を伸ばした。
 父が来ているのなら、尚更、負けるわけにはいかない。
 ダルスが頭を掻き毟る。
「なんでカーデの娘がこんなところにいるんだよっ?」
「私の方が聞きたいわ。そんなつもり、なかったもの」
 ダルスは眩暈を起こしたように体を揺らせた。眉間に指を当てて大きなため息をつく。頬を引き攣らせて通信機に向き直る。
「分かった。今すぐに返してやる。その代わり、今回は目をつぶれ」
 ダルスにとっては何でもないこと。しかし軍人には禁忌と言える、海賊との取引。
 イリアは返事を聞く前に抗議した。
「嫌よ」
「あぁ?」
「私、そちらには渡りません」
 ダルスが通信機から口を離してイリアを見た。
「何言ってやがるんだ。お前だってさっき」
「さっきはさっき、今は今! お父様の所へなんか帰りません!」
 足枷になることを恐れているわけではない。ただ単に、喧嘩の延長線にいるだけだ。
 呆気に取られるダルスから通信機を奪い取って、イリアは肩を怒らせる。
「お父様なんか大嫌い! 二度と帰ってなんかやらないんだから!」
 声を限りに怒鳴りつけたイリアは通信機を叩きつけるようにして切った。
「おい!」
「私はこの船に残るわ!」
 態度を翻すとダルスは舌打ちした。
「海軍の娘なんかに船をうろつかれちゃ困るんだよ。おい」
 逃げようとするイリアの襟首をつかんで、ダルスは顎で指示をした。入口にいた男たちがイリアを両脇から固める。
「何するのっ?」
「カーデのところに送り返してやる」
「嫌だって言ってるじゃないの! 放しなさいよ!」
 幾ら暴れようとも、頑丈な海の男たちは振り解けない。操舵室から強制退去されようとする。
「船長!」
「今度は何だ」
 イリアの大声に片耳を押さえて嫌そうな顔をしていたダルスが振り返る。監視に言われるまま望遠鏡を覗いてうめいた。
 黒い軍艦が遥か沖に見えていた。通信を切られたカーデ艦が迫ってきた。
「横付けする気か?」
 軍艦に横付けなどされたらお終いだ。ダルスは舌打ちして大声を出す。
「攻撃準備、大砲用意! カーデに通信を開け。距離が5000切ったら攻撃開始とみなす!」
「単位は!」
「メートルだ、阿呆!」
 まるで軍隊のように誰もがダルスの指揮下に入る。速やかに遂行しようとする彼らを眺めたあと、ダルスはイリアを引き取った。暴れるイリアを押さえておくのは至難の業だ。
 先ほどまで安穏としていた船内が活気付いた。
 緊張の糸が張られ、誰もが険しい顔つきでそれぞれの持ち場へ走っていく。
「ちょ、ちょっと、痛い!」
 ダルスに腕をつかまれたイリアは悲鳴を上げたが、力が緩むことはない。そのままどこかへ強引に引きずられていく。
「ったく。とんだ疫病神だよ、お前は」
「帰らないわよ、私!」
「遠慮するな」
「嫌だってば!」
 甲板に出たイリアは瞳を細めた。明るい太陽が真上に浮かんでいる。オーカキスにはまだまだ遠いのに、海域は温暖気候へと突入していた。風が生温い。
 甲板を走り回る男たちの数に目を瞠り、イリアは硬直した。着々と攻撃準備が進められている。先ほどの指示を聞いていなかった訳ではないが、現実味に乏しかったため聞き流していた。けれどこうして準備を目の当たりにすると、嫌でもこれが現実なのだと染み込んで来る。
「攻撃するつもりっ?」
「お前が通信を切るからだろ。業を煮やして近づいてきやがった」
「で、でも、大砲なんて……! 当たったら死んでしまうじゃないの!」
「当たり前だろう。俺らだって殺されたくないんだ。今回は戻る間際でできれば戦闘にはしたくなかったんだが、お前のせいで台無しだ。撃たれるのが嫌ならとっとと帰れ」
 ダルスは当然のように冷たく返した。イリアは言葉に詰まって唇を噛む。
「何で向こうに帰りたくないんだ」
「だって……」
 まだ動揺しているイリアは視線を彷徨わせながら、震える声で吐き出した。
「再婚するって言うんだもの。お母様が亡くなってから、まだそんなに経ってないっていうのに……!」
 瞳には涙まで浮かんできた。
 見ていたダルスは鼻で笑う。
「親離れもできてないのかお前は」
「子ども扱いしないで! そんなんじゃないんだから!」
 図星を指されたイリアの顔は紅潮し、ダルスを怒鳴りつけた。
「男の人の薄情さに傷ついただけよ!」
 明らかに似合わない台詞を向けられて、ダルスは吹き出した。先ほどまで漂っていた怒りが霧散する。笑われたイリアは腹を立てながら憮然とした。悔しさに涙を浮かべてダルスを睨む。
 そんな視線に気付いたのか、ダルスはまだ可笑しそうに喉を震わせながらイリアを見つめる。
「なら」
「船長!」
 邪魔が入り、遮られたダルスはやや不機嫌そうに振り返る。
「カーデとの距離、射程内!」
 気付けば肉眼で確認できる位置に近づいている。
 先ほどの警告はあっさりと無視されたということだ。
「仕方ない。照準、艦から離して威嚇しろ!」
 男たちはその声に合わせて砲台を動かした。イリアは蒼白となる。
「やめて!」
「安心しろ。最初は威嚇だ」
「砲台向けられて安心できるわけないでしょう! 当たったらどうするのよ!」
「俺らの砲撃手たちは優秀でね」
 ダルスは非情に笑ってイリアを押さえた。点火され、空気を震わせて大砲が撃たれる。
 イリアは首を竦めた。耳を塞いだが轟音は消えない。耳鳴りがして頭が痛くなる。その一瞬後、遠くの海面に水柱が上がった。
「あ……」
 大波が起きて、カーデ艦が揺れる。
 イリアは震えた。
 海軍に所属している以上、戦闘に関わらないわけにはいかない。彼が屋敷を空けるたびに無事を祈ってきた。そんな彼は今、自分のせいで危険に晒されている。
 そんな想いに苛まれる。
「ちっ。まだ進むか」
 イリアは顔を上げた。
 ダルスの言う通りだった。艦は水柱を越えて、強引に近づいてきている。いつもは多くの艦を従えるカーデだが、今日はカーデの本艦だけだ。イリアが海上にいると気付き、軍用の艦を無理に動かしてきたのだろう。
「仕方ねぇな……」
 不穏な声にイリアの体が強張った。
 ダルスは必ず撃つだろう。けれど、あちらはイリアがいるため撃ち返せない。
 悔しさと情けなさに瞳を硬く閉じ、ダルスの手を勢い良く振り解いた。油断していた彼から離れるのは容易い。慌てるダルスの声を聞き流し、イリアは走る。
「どいて!」
 男たちを軽々と飛び越え、砲台へ飛び乗る。恐れることなく砲台の前に立ちはだかった。転落しないように張られた舷墻《げんしょう》を越える。
「何を……」
「撃たないで!」
 砲台に両手をつき、肩を怒らせて大声を張り上げる。
 男たちは戸惑うようにダルスを振り返った。イリアは船の縁に足を掛けている。下手に手を出し、落ちてしまってはかなわない。
 ダルスは腕組みをしながらイリアを見上げる。
「じゃあ向こうに帰るか」
「そ、それは嫌」
 決意を決めたのかと思えば弱々しい声だ。
 ダルスは首を振り、他の砲台へ視線を向けた。船は舷側をカーデ艦に向けたままだ。
 イリアは再び声を張り上げる。
「やめてってば!」
「軍属の言葉なんて聞けるか」
 もうカーデの艦は目の前に迫っていた。
「船長!」
 ダルスは舌打ちする。
 どうやらイリアにかまけすぎて常軌を失っていたようだ。至近距離に持ち込まれ、大砲を封じられる。ここで撃てば、自分の船まで大波に巻き込まれる。
 いっそイリアを海へ捨てて逃げようかと考えるダルスだが、この海域には人を襲う魚が群れていることを思い出して案を捨てる。厄介な娘だが、殺すには惜しい。
 渋面を作るダルスに、周りを囲む男たちは意外な様子で彼を見つめた。
 数秒もかからずダルスは次の策を考える。
「総帆開け!」
 彼の指示には直ぐに伝わる。真っ白な帆が下ろされ、広げられていく。
 どうなることかと見守っていたイリアは瞳を瞠らせ周囲を見渡した。
 ただの商船だと信じていた内部は様相を違えている。積荷までもがただの見せかけであったのか、船足が軽くなっている。
 先ほどの指示通りすべての帆が風を受けた。けれどその膨らみは小さい。風が弱いのだ。
 ますます近づくカーデ艦を一瞥し、どうするのかしらとダルスを振り返る。
 そして、彼にまつわるひとつの噂を思い出した。
 世にも稀な、自然を操り味方につける能力者。
「こんなに至近距離じゃ大砲は撃てねぇ! さっさと降りろ!」
 舷側に開かれた幾つかの砲門も閉ざされた。それを確認した直後、イリアは強引に引き寄せられて悲鳴を上げる。ダルスに抱えられて眩暈がした。
 顔を上げると、ダルスは至近距離のカーデ艦を睨みつけていた。既に互いの顔が分かるほど、カーデ艦との距離は短い。舷側に並んだ海兵たちが弓を構える。
 歯軋りしたダルスの髪が小さく揺れる。取り巻く空気が圧を変える。
 気付いたイリアは素早く立ち上がり、意識をカーデ艦へ向けた。甲板に身を晒し、指揮を執る父親を見る。普段ならば決して見られない光景だ。身の危険を冒しても取り戻したいと願ってくれたのだろうか。
 まだ帰りたくないが、さすがに胸が痛んでイリアは拳を握り締めた。このままではダルスが父を危険に晒す。それだけは許せない。
 イリアを取り巻く空気もまた、ダルスと同じように圧を変えた。けれどもそれが直接空気に作用するわけではない。迷いを見せるダルスとは違い、イリアは躊躇いなく“実行”した。
 ――突然、海賊船とカーデ艦の間に大渦が発生した。
「な……っ?」
 予兆もなく発生した大渦に誰もが絶句した。渦はその面積を次第に広げ、やがてふと思いついたかのように海水を吹き上げた。カーデ艦近くの海面に大きな水柱が立つ。これにはカーデ艦もたまらず停止した。大渦と海水の壁によって足止めされる。艦は危うく飲まれる寸前で停止する。
「何だ……?」
「これって、船長と同じの……」
 超常現象だった。水柱の勢いは衰えることなく空に吹き上がり続ける。対して大渦は少しだけ規模を縮小させる。
 ダルスはその様に魅入った。
 しかしそうしてばかりもいられない。船内放送が流される。
「船長! カーデから通信が入ってますぜ!」
「ああ?」
 呼び出されたダルスはイリアを抱えて操舵室へ急ぎ戻る。部屋へ戻ると、ここでも超常現象に驚いて魅入る男たちの姿があった。
「俺だ」
 ダルスは再び通信をスピーカーに切替えて呼びかけた。
 そんなダルスの横柄な態度に閉口したのか、スピーカーからは憮然とした声が零された。
『お前たちは娘を返すつもりがあるのか?』
「お前の娘に聞いてくれ」
 ダルスは脱力しながら椅子に腰掛けた。他人の親子喧嘩に、なぜ海賊が巻き込まれなければいけないんだと呆れてしまう。
『イリアを出してくれ』
「あのな。俺らは海賊だぜ?」
『今回のことには目を瞑る!』
 ためらうことなく言い切る彼に、ダルスは笑った。
「おい。誰かイリアを」
「ここよ」
 自分で連れてきておきながら、その存在を忘れていた。
 イリアは不機嫌な表情で前に踏み出た。通信機を渡され、数秒黙り込んでから息を吸い込んだ。
「私はこの船から絶対に絶対に下りないわ」
 誰がそんなこと決めたんだと口を開こうとしたダルスだが、続いた言葉に絶句した。
「あの壁も、お父様が追ってくる限りは絶対にやめない!」
 父親に言葉を継がせることなくイリアは言い切り、そして通信を勝手に切った。壊しかねない勢いに思わず「壊すなよ」と周囲の男たちが声をかける。しかしイリアは聞く耳持たずに通信機を睨みつけるだけだ。
 一連の様子を見ていたダルスは静かに口を開く。
「あの海はお前が……」
 怒りをやり過ごしたイリアは視線に気付いて得意気に微笑む。
「そうよ。海軍の娘には相応しい特殊能力でしょう?」
 ダルスの口許が綻んだ。興味が完全にイリアへ向いた瞬間だった。
 彼女を乗せていれば必然的にカーデから狙われるが、それを差し引いても魅力的な能力だ。イリアが海賊稼業を手伝うなど考え難いが、上手く利用すれば今まで以上に効率は上がるだろう。更には、個人的にも興味がある。
 カーデとつかず離れずの距離を保っていれば、本格的に親離れができていなさそうなイリアを悲しませることはないはずだ。是非とも手に入れたい能力だ。
「いいだろう。この船に乗せてやる」
 ダルスの言葉に男たちがざわめいた。そんなざわめきを一瞥だけで黙らせ、驚いたように見返してくるイリアに笑う。奇妙な高揚感が湧き上がる。
「さて。じゃあ、お前が足止めしてくれている間にずらかるとするか」
 また勝手に歩き回られては困る。
 ダルスはイリアを肩に担ぎ、思っていたよりも軽いことに驚いた。
「下ろしてよ! 私は荷物じゃないのよっ?」
「はいはいっと」
 何度か胸を蹴られ、たまらず横抱きにしたが、イリアの抗議は変わらなかった。
 ダルスは背後のざわめきを少しだけ不愉快に感じながら廊下を歩き、甲板に出て瞳を細める。風を見上げると、イリアも気付いたように大人しくなって空を見上げた。
「あれ……?」
 不思議そうな声に満足を覚えながら彼女を下ろす。気付く者は気付くものだ。更に言えば彼女は能力者であり、これから先、最大の理解者になるだろうと感じながらダルスは視線を空に向ける。
 凪いでいた風が流れている。帆は大きく、風を受けて膨らんでいる。
 無風地帯へ突入したため風は流れていないはずなのに、なぜ風があるものか。
 首を傾げたイリアは一瞬後に「あ!」と大声を上げた。そのままダルスを振り返る。
 そんなイリアの視線を受け止めながらダルスは笑った。彼女が正解に辿り着いているだろうことは分かっていたが、あえてもったいつけた。
「ただの海賊が何の援助もなしにここまでやってこれると思っていたか? 能力者は何も貴族にばかり生まれるものじゃない」
 ダルスがそう告げた途端、荒さを増した暴風が帆にぶつかった。帆は一杯に膨らみ、速度を上げて船が走り出す。
「俺のこの特殊能力で今まで生き延びてこられたんだ」
 ダルスは帆が破けないよう風の強さを調整しながらイリアを見下ろす。
「風と水。うまくやれると思わないか?」
 仲間になれ、と誘惑する声。能力者はその数が絶対的に少ない。そのため、専用の場所に行かない限り、こうして能力者同士が顔を合わせることは滅多にない。ダルスは初めて邂逅した能力者に気分を高揚させていた。
 イリアは数瞬の間を空けてダルスを見上げる。紫色の髪を風になびかせ、小さく微笑む。
「絶対に嫌よ」
 正義を貫く父親の姿を直ぐ傍で見ているのに、なぜ海賊に加担しなければいけないのか。船に乗せてもらった恩義など感じない。例え彼が稀な能力者だろうが同じだ。それぐらいで気持ちが変わることはない。
 イリアは笑顔で断った。
「船長、振られたな」
 いつの間にか甲板には他の男たちも出てきていた。二人の様子を見守り、からかいの言葉をかける。危機的状況から脱出したことで皆に笑顔が戻った。
 ダルスは憮然と彼らを睨みつける。ダルスに畏怖を抱く男たちは慌てて視線を逸らし、それぞれの持ち場へ戻って行った。けれども彼らの胸から、微笑ましい気持ちが消えることはない。イリアの存在は、これまで彼らが抱いてきた焦燥を慰める力を持っていた。彼らは無意識の内にそんな存在を受け入れたがっていた。
 イリアはダルスの脇を抜けて船のヘリへ向かう。カーデ艦はもう彼方へ消え、影も見えない。“能力”とは自然に愛された者が持つ力だと言うが、力の強さは愛情に比例するのだろうか。イリアはこれほど強い力を持つ者を見たことがなかった。だからこそ海軍にとって、ダルスは脅威なのだ、と小さく思う。
 カーデ艦は見えなくなったが、イリアが作った障壁はいまだ壊されることなく遠くの海に見えていた。その障壁を、カーデ艦はまだ抜けられないはずだ。イリアに船を下りる意志がない限り、障壁が消えることはない。
 遠くの海を眺めるイリアの背中を見つめ、ダルスは軽く伸びをした。
 彼女がこの船を下りない限り、引き入れる機会はいくらでもある。長期戦はあまり経験がないが、何とかなるだろう。
 絶対に、欲しい。
 その対象がイリア自身なのか能力なのかは判然としないまま。
 イリアを迎えた最初の日は、そんな風に過ぎていった。

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