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第一話

【四】

 男はレナードと名乗った。
 他の料理人は休憩中で、もうしばらくしたら来るらしい。
 どうやら彼は厨房を取り仕切る料理長のようだ。
 当初の警戒はどこへやら、イリアはすっかり打ち解けていた。料理の基礎を身につけながら話しこむ。
「お父様ったら喜べって言うのよ」
「喜ばないのか?」
「だって、お母様が亡くなってからまだそんなに経ってないのよ? それなのにお父様、明日からは新しいお母さまが来るって、本当に嬉しそうに言うんだもの! 頭に来て飛び出してやったわ」
 慣れない手つきで食材の皮を剥く。包丁を持たせるのはさすがに危ないと思ったのか、手でも剥けるようなものばかり渡されていたが、イリアは気付いていない。新しいものを覚えることに夢中だ。レナードが皮を剥いたものを時々与えてくれるので、それを切るのにも顔を輝かせる。
「なら、どれぐらい経てば許せるんだ」
「どれぐらいって……そんなの、分からないわよ」
 考えてもみなかったことを問われてイリアは戸惑った。言葉に詰まりながら吐き捨てる。レナードは笑った。
「なんだ。結局、親離れできてないだけか」
「そんなことないわよ!」
 頬を赤らめて怒鳴ったが、レナードは「すべて分かってる」といった顔で笑うだけだ。したり顔をされ、イリアは不機嫌に頬を膨らませた。
「男なんて……!」
「それが普通だと思うがな」
「貴方までそんなこと言うのっ?」
「イリア。海賊は一夫多妻制なんだ」
 イリアは瞳を瞬かせる。文字通り、1人の男が妻を多数持てる制度だ。
 言葉も出ないイリアの前で、レナードは肩を竦めてみせる。
「制度なんて言葉とは無縁な俺らだけどな」
「そんなの……一夫一妻と決められているのよ……」
「貴族たちお偉いさんが決めた制度さ。俺らは海賊だ。従う義務はない。問題がなければ何でも自分たちで取り入れて実行する」
 イリアは無言になり、包丁を持つ手に力を込めた。
「俺だって、島に帰れば三人の妻と八人の子どもたちが待ってる」
「結婚してたのっ?」
「俺をいくつだと思ってる。もう四十二歳だぞ」
「ええええっ!」
 思わず絶叫した。台の反対側で炒め物をしている彼の顔を覗き込む。レナードは嫌そうに手を振った。
「童顔だって言うんだろ? もう言われ慣れてるが、これでも結構傷ついてるんだぞ」
「あ、ごめんなさい。でも見えないわ。二十代だと思っていたのに」
 よくよく観察すれば皺が見える。日焼けで目立たなかったのだろう。眼差しには落ち着きがあったが、それでも、若々しさは消えない。
 呆然としたイリアだが、先ほどの言葉に引っ掛かりを覚えて首を傾げた。
「……あれ。さっき島って言った?」
 この辺りで一番大きな島はオーカキス島だ。しかしそこにはジェフリスの海軍が駐屯しており、他国からも軍が派遣されている。海賊が隠れ住むにはあまりにも危険な場所だ。それ以前に、海賊に家があるなど考えたことがなかった。
 レナードは無言のまま頷いた。
「いくら何でも女や子どもを航海に連れて来るわけにいかねぇだろ」
 軍と鉢合わせになれば戦闘になり、捕まれば死罪となる。商船を襲うときも白兵戦は免れないだろう。そんなときに戦力のない者がいたら、足枷になるだけだ。
「ほら、見ろ」
 レナードは首にかけている紐を引いてみせた。
「今年、十一になる俺の息子が作ってくれたんだ。お守りだって言ってな」
 紐の先には四角い袋が提げられていた。手作りを示すように少々不恰好だ。けれどレナードは嬉しげで、イリアも笑顔を浮かべる。
「私も作ったことあるわ。お父様にお守りを渡し」
 イリアは我に返ってかぶりを振った。わざと険しい表情を作って、不機嫌に唇を尖らせる。
「今の私には関係ないわ。お父様なんて大嫌いなんだから」
 意地を張り続けるイリアにレナードは笑い、彼女が刻んだ食材を大鍋に入れた。包丁の扱いは回数を重ねるごとに慣れてきた。多少危なっかしいところはあるが、最初のように皮を剥く前と後とで体積が半分以下になることはもうない。強く興味を惹かれたものは直ぐに吸収する。子どもと同じだ。
 レナードは思い出したように呟いた。
「そう言や、ダルスん所の小さいのも今年で十歳になるっけな」
「え?」
 何を言っているのか分からず、イリアは知らず息を止める。
「将来楽しみな美人だぞ。ダルスも結構な男前だからな」
 楽しげに声を震わせるレナードの言葉を聞き流しながら、イリアは急激に意識を遠ざけた。地に足が着いていないようだ。
 ――ダルスの子ども。
 なぜだか目の前が暗くなり、体が傾いた。まな板に両手を着いて体を支える。
「食材はこれでいい?」
「ん、ああ。充分だ」
 自分が爆弾発言をしたことに気付いていないレナードは視線を戻し、イリアに軽く頷いた。
「じゃあ私、休んでもいい?」
「そうだな、お疲れさん。貴族の娘にしちゃ見所あるぜ、イリア。本格的にダルスのもんになって残ってくれると」
「お断りよ!」
 イリアは叫んで厨房を出た。大きな音を立てて扉を閉める。
 レナードに罪はなく、八つ当たりに近い自分の行動に後悔したが、苛立ちは収まらない。心の中でレナードに謝り、足早に船内を突き進む。
 どこへ行こうとしているのか道も分からなかったが、ほどなくして甲板に上がる階段へ辿り着いた。外への扉を開けると、外の眩しさが目に痛い。
「ダルスーーッ!」
 見張り台からの大声に、イリアは体を強張らせて振り返った。見張り台から男が呼びかけている。彼の視線を辿り、舳先にダルスの姿を見つけた。
「追いつかれますよーっ!」
 その言葉が何を指しているのか悟り、イリアは船の後方へと走った。遠くに見えたのは黒い軍艦だ。カーデを示す青藍の旗が翻っている。
 急に帰りたい衝動に駆られたイリアは、浮かんだ涙を拭って船のヘリを握り締めた。心の中で葛藤した。
「こんな所で何をしてるんだ?」
 後ろからかけられた軽い声にイリアは振り返る。予想通り、赤銅色の髪を揺らせるダルスを見る。先ほど甲板に出たときより、若干だが風が強められていた。そのうちに再びダルスは速度を上げ、カーデ艦との距離を大きく離すだろう。
 イリアの涙に気付いたダルスは表情を改めた。怪訝そうに眉を寄せる。
「帰りたい――私、帰る」
 零れた言葉を繕うことはしない。本音を呟いた途端、涙も零れる。俯いてしまうとダルスの顔が見えないが、それで良かった。なぜだか彼の瞳を直視するのが怖い。
「なんで」
「帰して」
 腕を取られて小さく震える。見上げるとダルスの顔が目の前に迫っていて、驚いて仰け反る。だがそれ以上は離れられない。顔が燃えるように熱くなって拳を振り上げた。それは容易くつかまれ、再び迫られる。
 イリアは焦燥するまま瞳を閉じて悲鳴を上げた。
「ダルスのことが嫌いだから帰りたいって言ってるの!」
 近づいていた熱が止まり、イリアは瞳を開ける。
 逆光となり、見下ろしてくる表情は判然としないが、睨まれている気がしてイリアも睨み返す。チクリと痛んだ胸に気付いて唇を噛み締める。
 不意に両手が解放された。
「なら帰れば? 世間知らずなお姫様の酔狂に付き合わされて迷惑してたしな。俺もあんたのことが大嫌いだ」
 鋭さを帯びた瞳にイリアの背中が震えた。怯えたことを悟られたくなくて顔を背ける。逃げるように体を翻し、船のヘリに手をかけた。勢いよく柵を乗り越える。当然ながら、そこは海の上だ。
 ダルスの驚く気配を背中で感じながら、イリアは泣きたい気分で海に落ちる。覚悟はしていたので悲鳴は上げない。長い落下距離が体を竦ませたが、海は柔らかな足場を提供してくれた。衝撃が吸収される。
 ダルスが風を駆使するならイリアは水を駆使する能力者だ。海面を絨毯のように変化させて歩くことも可能となる。
 海賊船は早い速度で遠ざかる。代わりに迫ってきたのはカーデ艦。風が弱まっていき、ダルスが遠ざかることを教えていた。イリアは不思議な感傷に囚われて振り返る。
 ダルスの姿は既になく、海賊船は遠目に分かるだけの距離まで離れていた。
 カーデ艦が近くで停止し、救命具が落とされて引き上げられるまで、イリアは海の上で立ち尽くしていた。

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