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第二話

【ニ】

 ダルス率いる海賊たちと出会ってから半年が過ぎた。
 もうそんなに経ったのかと驚くほど時間は早い。毎日が目まぐるしい。
 世間には様々な噂話が流れているが、そんな情報など入ってこない深窓のイリアには関係がない。彼女は今、真剣な表情でペンを片手に、問題集と睨み合っていた。
 小さな机の棚には海軍歴史の教科書や参考書が詰められている。机の上には海軍本部将校試験練習問題、という分厚い練習問題集が広げられている。
 試験まではあと一ヶ月。
 半年前に『海軍に入る』と決意してからイリアは猛勉強をしてきた。ここで手を抜く訳にはいかない。最後の追い込みである。
「――現在の海軍将校……学校軍曹の……」
 問題集と睨み合い、ぶつぶつと小さく呟きながらイリアは勉強に没頭していた。
 真剣に悩みながらも羽ペンは止まらない。ここ半年の成果だ。
 イリアは多少の苦労をしながらも素早く問題を解いていき、そんな折にノックの音に気がついた。
「婆や? 食事ならお父様を待たせておいてね。この問題解いたら直ぐに行くから」
 問題集から目を離さずに声を出す。
 結構無茶な欲求である。
「十三艦隊の識別……」
 イリアは更に問題を読み解きながら、ふと顔を上げた。
 (おかしいわね。婆やならいつも止めに入ってくるのに)
 ヴェラークを含めたカーデの人間は、イリアが海軍に入るのを快く思っていない。中でも顕著なのは世話係である婆やのミトス。イリアが試験勉強しようものなら途端に割って入って教科書類を取り上げる。
(まぁ、来ないなら来ないで集中できるんだけど)
 イリアは再び問題に没頭しようとして、ふと振り返った。風が流れ込んできているような気がした。
(私、いつ窓開けたかしら?)
 そんなことを思いながら振り返り、その場では有り得ぬ光景にイリアは瞳を瞬かせた。窓が大きく開け放たれ、そこからは大きな足跡が続いている。
 続いた足跡の、その先。イリアの目の前。そこには、半年振りに見るダルスがいた。
「へぇ。十三艦隊の本名はそういうのか」
 イリアの体を覆うように机に手をつき、問題集を覗き込むダルス。
 日に焼けた褐色の肌。つり上がり気味の双眸には緑柱石の光。片頬を歪める皮肉気な笑みがイリアへ向けられると、瞬く間に楽しげで優しげな色へ変化する。
 イリアは分厚い問題集を素早く閉じて凶器にするとダルスの額に叩き付けた。
 ダルスは息すら忘れて悶絶する。
 そんな彼から素早く距離を取ったイリアは、分厚い問題集を抱き締めながらダルスを睨んだ。
「なななな、なんっ?」
 あまりのことに心臓がうるさい。
「なんでダルスがこんなところにいるのっ? 帰宅方向間違えてるわ!」
「間違えてたまるか」
 押さえていた手が離れると、そこは赤い痣になっていた。痛そうだ。少し潤んだ瞳でイリアを睨むダルスは、妙な迫力を湛えて近づき、凶器を取り上げた。
「返して!」
「海軍本部将校試験問題? こんなの眺めて何してたんだ」
「な、眺めてただけじゃないわよ! ちゃんと有効活用してました!」
 分厚い本は凶器としても活用できることが証明されたばかりだ。
 ダルスはパラパラとめくったが、興味が失せて肩から床へ投げ落とした。
「あー! 丁寧に扱いなさいよね!」
 ダルスの向こう側に転がった問題集を取りに行こうとしたが、彼の脇を過ぎるとき、腰に腕を回されて持ち上げられた。
「きゃあっ?」
 取ろうとした問題集から手が離れる。
 視界が百八十度回って抱え上げられ、目の前にダルスの精悍な顔があった。
「さてと。行くか」
「ど、こ、に!」
 ダルスの両肩をつかんで腕を張り、離れようとしたが許されない。歩き出す方向が窓だと気付いてイリアは焦った。
(まさか攫っていくつもり……? 警備兵は何をやってるの。一ヵ月後には大事な試験があるのよっ?)
 罵りが脳裏に響く。
「放してよ!」
「何を今更。俺とお前の仲じゃないか」
「そんな仲は知らないわ!」
 足を振り上げて腕を振り回す。ダルスの顎に足の裏がヒットし、同時に、肋骨の中心に肘が当たった。これにはたまらず、ダルスはイリアを放り投げて咳き込んだ。
 柔らかな絨毯に落とされたイリアは軽い身のこなしで体勢を立て直す。無事に着地する。ついでに転がっていた問題集も拾い上げ、戦闘の事前準備を整えた。
「どうせ来るなら一ヵ月後に来なさいよね」
 咳き込むダルスを見守っていたが、しばらく経っても彼のダメージは回復しない。ため息をついて戦闘態勢を崩し、腰に手を当てる。ダルスが涙目になりながら振り仰いだ。何のイベントがあるのだろう、と首を傾げる。
「そうしたら私は海軍所属として遠慮なくダルスをしょっ引けるわ!」
 勢い良く指を突きつける。ダルスは面食らったような顔をしてイリアを見つめた。
 その視線が妙に居心地悪くて怯んでしまうイリアだったが、ダルスが立ち上がると毅然として小さな胸を反らせた。
「海軍に入るのか?」
「そうよ!」
 ダルスは顎に手を当てて思慮深げな表情となり、イリアを眺める。上から下まで、今までとはまったく違った視線で。
 イリアは再び問題集をぶつけようとしたが、難なく受け流されて笑われた。
「ふーん。海軍ねぇ」
「何よ」
 じりじりと壁際まで追いつめられた。ダルスの影が落ちる。
「親離れは解決か?」
「なっ、だ、誰が!」
 カッと顔を赤らめたイリアの脳裏にヴェラークがよぎる。
 ヴェラークはあれから再婚を取りやめ、開かれた査問委員会へ出かけていった。将軍格から下ろされるのではないかと心配していたイリアだが、杞憂だった。査問委員会は、偽装入港した海賊船の情報をいち早くつかんだヴェラークが討伐に向かっただけだと判断した。そこにイリアの存在があったことは公開された情報だったが、彼女が人質となればダルスたちを壊滅できないのも当然だとして判断され、ヴェラークは艦長の任を解かれることはなかった。ただ、海賊の情報をつかんでおきながら艦1つで出撃し、他の艦を呼ばなかったことは任務怠慢として処断され、ヴェラークにはしばらく王都の監視官がつくことになった。
 その間、嫌がらせとしか思えないが――母、ミレーシュナに良く似た使用人を雇い入れた。イリアは呆れたものだ。
「冗談じゃないわ」
 思い出しながらイリアは怒りに燃える。
「海軍ってのは男しかいないんだろう?」
「それは偏見よ。数こそ少ないけど女の人も――って、ちょっとーっ?」
 顔を上げれば直ぐ近くにダルスの顔。逃げずに逃げられなかったイリアはしゃがみこんだ。体の下から逃げ出そうとするが、ダルスの足が通せんぼするように上げられる。それだけでイリアは退路を断たれて動けなくなった。ダルスの影が下りてきたことに気付いて必死に叫ぶ。
「ちょっと! 待って! 休戦協定目指しましょうっ?」
 先程まで試験勉強をしていたせいか、最後の単語がやけに怪しかった。
 ダルスは楽しげに笑ってイリアの背中に腕を回した。そのまま立ち上がる。ニの轍を踏まぬよう、今度はイリアの足が暴れないようにして抱きかかえた。
「嫌だって言ってるじゃないのよ!」
 感情に任せて叫んだ瞬間、部屋中の花瓶が割れた。
「水か!」
 イリアは稀な能力者の1人。水の使い手だ。
 花瓶が割れると水は鋭く形を変えて、四方からダルスに襲い掛かった。そんなことをすればダルスに抱えられているイリアにも危険が及ぶが、そこまで計算に入れていないのだろう。衝動的な力は勢いを弱めることなく発動する。
 ダルスは冷静に分析すると開いた窓に視線を投げ、「上等だ」と笑った。
 水の刃が届く前に風をまとう。一瞬だけイリアの体が浮き、次いで耳鳴りがして頭が痛くなった。吹き荒れた風の前に、飛んできた水は粉々になって床に散じた。
 稀有な能力はダルスも健在らしい。
「さて。抵抗はこれまでか?」
 ことごとくを封じたダルスは自信満々にイリアを眺め、再び窓へ歩き出す。
 イリアは悔しくて唇を噛み締めた。拳を握り締めた、その刹那、扉が何の予兆もなく開かれた。
 姿を見せたのは、今しがた王都から帰って来たばかりのヴェラーク=カーデ。イリアの父親であり、第八番艦の艦長を務める大将だ。
 その場の誰もが凍りついた。
 扉を開いた状態のまま、ヴェラークは瞳を瞬かせる。
 イリアを抱えているのがダルスだと理解するまで数秒かかる。そのダルスとの戦闘場面が走馬灯のように流れるまでは一瞬あれば充分だった。そして、そのダルスに抱きかかえられているイリアを眺める。
 誰がどう見ても恋人同士がじゃれあっているようにしか見えない構図。そこに愛娘がいる、という事実。ブツッと何かが切れる音が、ヴェラークには聞こえたような気がした。
「貴様! イリアに何をしてるかーーっ!」
「うわ、やべっ」
 凄まじい迫力で入ってきたヴェラークに、ダルスは慌ててイリアを下ろした。
 つかみかかってきた鋭い腕をひらりとかわす。直ぐにその場を離れようとしたが、そのままでは済まさないのがダルスである。まるでヴェラークに見せ付けるように、ダルスは放心するイリアの頬に口付けた。
「またな」
 イリアはダルスを見上げる。
「人の娘に……!」
 怒髪天を突くようなヴェラークにダルスは不敵な笑みで応え、素早く窓から逃げようとしたが、その目論見は失敗した。すかさず伸びたイリアの手が、ダルスの上着を強くつかんでいた。
「いいぞイリア!」
 嬉々としてヴェラークが拳を握る。
 ダルスは慌てて振り返り、顔を真っ赤にさせて睨みつけてくるイリアを見た。
 小気味良い音がして、力いっぱい頬を叩かれた。
「この節操なし!」
「その意気だ!」
 何がその意気なのか良く分からない後援だ。
 ダルスは叩かれた頬を押さえて笑う。
「勝気が崩れてなくて嬉しいぜ」
 とだけ呟いて、ダルスはそのまま後方へ跳んだ。風の力が彼を助ける。イリアとヴェラークの手が届く前に窓へ到達する。
「じゃあな」
「待て!」
「待ちなさいよ!」
 ダルスは窓の外へ身を投じた。二人は駆け寄り窓から身を乗り出したが、そのときダルスはもう手の届かない高みにいた。高度をさらに上げれば弓でも届かない。仮に届いても、彼がまとう風の力によって意味を成さないだろう。
 親子はうなり、血を分けた肉親を同時に振り返った。
「私、必ず試験に合格してあいつを捕まえます!」
「応援するぞ、イリア!」
 入学を何とか思いとどまらせようと思って来たヴェラークだったが、そんなことは忘れて力強く応援する。
 固く誓うイリアの手を握ると、「二人であいつを捕まえよう!」と意気込んだ。


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 一ヵ月後。
 ヴェラークの後援を受けてミトスの邪魔も入らず、これまでよりも更なる集中力を発揮したイリアは、見事に海軍試験に合格した。
 最近やや正気に戻り始めたヴェラークを圧倒しながら、正式な海軍に入る日もそう遠くではない。

第二話 END

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