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第三話

【一】

 肩に触れない程度で綺麗に揃えられた射干玉《ぬばたま》の髪は、強い陽射しに煌いていた。彼女が通れば誰もが目で追う。しかし声をかけないのは、彼女が怒りも露に憤然と歩いているからだ。更には彼女が、この島を支える男の大切な身内だと知っているから。下手に手を出して加護を失ってはたまらない。
 皆は興味を覚えながらも、なにがあったのだろう、と首を傾げるに留まるのである。
 イサミアは皆の注目を理解しながら無視を続けた。
 目指すは一点。
 着いたばかりの、海賊船へ。


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 久々に浴びる島の陽射し。
 褐色の腕を翳したダルスは瞳を細めた。
 船上から眺める島に変化はない。遊び場から届く子どもたちの元気な声が、何事もなかったことを証明している。
 ダルスは自身の幼少の頃を思い出しながら頬を緩めた。
「似合わねぇ感傷なんてもんに浸ってる暇があったら手伝え船長」
 穏やかな回想を打ち砕く声と共に、背中を押されてつんのめる。
 桟橋に転げ落ちかけたダルスは振り返った。睨みつけた先にはレナードがいる。しかし彼は皆が恐れるダルスの怒りなど受け流し、眉を寄せて仁王立ちしていた。
「てめぇ。俺は」
「ほら」
 大柄なレナードから荷物を放られて慌ててつかむ。島の大切な食糧だ。危険を犯して手に入れた物だ。無駄にはできない。海の藻屑と化そうとした直前で安堵し、レナードを睨もうとしたが彼はいなかった。捜すと船内への階段に後ろ姿が見出せた。直ぐに消える。
 気付けば他の男たちも忙しく動き回っていた。のんびりしていたのはダルスだけだったらしい。
 もちろん、ここでは船長であるダルスに文句を言う者はいない。けれど何もしないでいるのは肩身が狭い。ダルスは不承不承、荷物を抱えながら自宅に戻ることにした。タラップに足をかけて桟橋に降り立つ。
 年中、真夏のような島。
 始まりはダルスたちの曽祖父がこの島を発見したことからだ。島に住むようになってから、それほど長くは経っていない。以前は大きな船で世界をさまよっていた。彼らは自分たちがどこから来たのか忘れていた。船は岸辺に寄せられ、今では苔生して遺跡と化している。
 無人だった島は緩やかに開拓されてきた。そのまま潤うかに思えた生活だったが、とある事件が起きて飢餓状態に陥り、近くを通る船を襲って生活を立てる毎日が続いた。そうしてダルスたちは島近辺から勢力を伸ばし、最も近い国――ジェフリスの海域へと出没するようになった。
 本来の意味を忘れ、食糧奪取こそが楽しみだという、血気盛んな若者もいる。
 ダルスは苦い思いを抱きながら歩き出した。
 今回の収穫でまた一年が越せる。あとしばらくは航海に出る予定もない。脳裏に鮮やかな紫色の髪をした少女が浮かんだが、さすがにまた危険を冒して彼女を訪ねる気にはなれなかった。自分が死んだら島の皆も諸共だ。自分ひとりの命ではない。
 二度のチャンスを失い、彼女を手中に収められなかったことが悔やまれる。
 しばらく船長としての責務からは解放されるが、これから先の一年をこのまま過ごすことが無意味に思えてきた。今まではそれなりに楽しみを見つけてきたが、今回はそのどれもが色を失って思える。
 何とかして奪う手段はないか。
 ダルスは歩くすがら声をかけられ適当に応じながら計画を練り始める。決めたら即実行が信条だ。
 その視界の片隅に、近づいてくる小さな影が映った。
「お兄ちゃん!」
 可愛らしく元気な声に呼びかけられた。
 ダルスが顔を上げると、果樹エリアを背に走って来る少女がいた。
 健康的な肌は島民の証。青光りする黒髪が美しい。あと数年もすれば島の美女に名を連ねるだろう。今でも充分に男たちの目を惹いている。
 頬を膨らませる彼女に首を傾げたものの、愛しいその姿にダルスは笑みを浮かべた。荷物を肩に抱え直し、空いた片手を広げて迎え入れようとしたけれど。
「馬鹿!」
 見事なまでの拳がみぞおちに決まった。
「ミーア。てめぇ……」
 ダルスは担いでいた荷物を取り落とす。重たい音を立てて荷物が砂浜に埋まる。涙目になって彼女を見る。
 家路に着いていた男たちが遠巻きに様子を窺っていることに気付き、苛立つ。さっさと帰れ、と悪態をつこうとしたが、その前にダルスは前髪を引っ張られた。ダルスにこのように遠慮のない行動をするのは彼女だけだ。
「あのな、イサミア」
「カレンから聞いたわよ」
 久々に聞く妹の声は尖っていた。
「海軍の娘になんか惚れたんですって?」
 どこからの情報なのか。開口一番、聞きたくない話題だと判断したダルスは大きなため息を吐き出した。イサミアは可愛らしい唇を尖らせる。
「冗談じゃないわ。船長としての自覚はあるの?」
 ダルスと同色を宿す瞳は今、怒りによって輝いていた。頬には赤味が差している。年齢は違うが強い眦や雰囲気が誰かを彷彿とさせ、ダルスは無言のまま荷物を担ぎ直した。このまま彼女の挑発に乗れば疲れるだけだ。適当に流すことに決めた。
「自覚はあるが、それとこれとは別物だ」
「ぜんぜん別じゃないわ! カレンが泣いてたのよ! 可哀想だとは思わないのっ?」
 案の定、イサミアからは予想通りの罵声が飛び出す。まだ幼い彼女は潔癖だ。イリアが海軍の娘だという事実よりも、カレンと付き合いながらも別の人物を選ぶことが許せないのだろう。
 ダルスの脳裏にカレンの姿が浮かんだ。
 波打つ金髪が綺麗だと、誰もが口を揃えて褒めそやす。島では一番の美人と謳われる女性だ。最後に会ったのは島を出る前夜だった。そのときはまさかこんなことになるとは思ってもいなかった。これから先、カレンとそういう意味で逢瀬を重ねることはないだろう。
「お兄ちゃん!」
 早々に逃げる気配を感じたのかイサミアは非難の声を上げる。それでも無言で離れようとすると、怒りを爆発させたイサミアがダルスの前に回りこんだ。頬を一杯に膨らませている。
 相変わらず素直な奴だな、とダルスは緩みそうになる顔を引き締め、彼女を避けて先に行こうとした。そこにイサミアの手が振り上げられる。
「いってえぇっ!」
 誰もが首を竦めたくなるような音が響いた。
 暑さのため半裸になっていたダルスの背中には、小さいながらも子どもの手形がしっかりと残された。


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 この島で最も大切な船。
 それは、この島に実りと繁栄を約束する船だ。
 皆が島に住み着き、自由気ままに過ごすようになってから数十年が経った。一致団結して自給自足し、物資調達に励むようになってからは数年が経っている。
 島の民たちはそれまで幾つかあった小さな船をすべて壊し、1つの大きな船を作り出した。体力のある男たちをその船に乗せ、外海へ押し出した。彼らは島民たちの期待に応え、危険を冒しながらも必要な様々を島に持ち帰った。
 自分たちが生き残るために。少しでも生活環境を良くするために。自給自足で賄えない分を、奪い取るための船。
 ダルスが乗る船は、前の船長から託された戦闘船だった。引退を告げた船長の前でダルスは力を示し、選定の儀式で見事に船長の座を勝ち取った。
 船長とは世襲制ではない。実力と人望があれば、誰にでも就くことができる。そして、島民たちに絶対の安心を約束する。
 ダルスの腕は皆が知っていた。彼が船長になることに誰も異議を唱えなかった。誰もが納得と共に就任を讃えた。イサミアも、そんな兄を誇りに思っていた。
 けれど、今は。
「信じられないわ。冗談じゃないわ。お兄ちゃんの馬鹿ーっ!」
 ダルスに逃げられたあと、イサミアは古い船の上で叫んでいた。
 先祖が島に辿り着くまで、皆の家だった船だ。この場所は今でも特別扱いされており、あまり人が来ない穴場でもある。ずいぶん長い間この場所にあるため、船は褪せて古ぼけていた。苔生す場所もあり、もう船として機能することはないだろう。まるで遺跡のようだ。けれど壊れることはない。この島に住む者なら誰もが知っていることだ。
「だってお前には魔法がかけられているんだもんね」
 希望という魔法をかけられた船だ。皆の願いを1つに紡いだのは古の女神。かけられた守護は未来永劫、消えることはない。数年前の悲劇のときも、この船に逃げ込んだ島民たちは守られた。もし今、この船を浮かべたとしても沈むことはないだろう。
 イサミアは甲板に寝そべり、苔の暖かさに瞳を閉じた。
 一族が無事に大地へ辿り着けるまで決して沈まないようにとかけられた魔法。今では僅かに“能力者”たちが扱えるだけだが、大昔には誰もが魔法を扱えた時代があったという。この船にかけられた守護は、廃れてしまった太古の知恵の結晶でもある。
 古の黄金時代に生まれた船は、今だって沈黙したまま静かに生きている。
 燦々と注ぐ陽光に包まれ、波の音だけを聴いていたイサミアは、不意に現実に引き戻す声を聞いて眉を寄せた。
「イサミア。さっき船が帰ってきていたぞ。挨拶はもう」
「とっくに済んでるわ。だからここにいるんじゃない」
 イサミアは不機嫌な顔をしながら起き上がった。
 振り返るとファートンが甲板に上がってきていた。イサミアよりも年上で背が高い。島で有数の実力者でもある。ダルスの後任候補として一番に挙げられている少年だ。もしもファートンの実力が更に認められたら、ダルスの引退を待つことなく船長交代が行われるかもしれない。
 そんな背後関係もあって、イサミアは彼のことがあまり好きではなかった。
 けれどファートンはイサミアの態度にめげることなく近づいてくる。この程度の八つ当たりはいつものことだ。イサミアの隣に立って海を眺める。
 イサミアは彼と視線を合わせないようにしながら頬を膨らませた。
「カレンを泣かせるなんて、今度こそ絶対に許してやらないんだから」
 憤りのまま吐き出すとファートンの眼差しが向けられた。イサミアはそのまま無視を続け、「どうしてやろう」と不穏な呟きを洩らす。
 ファートンは苦笑しながら船の欄干に腰掛けた。イサミアと対峙するような格好になる。
「ダルスってカレンのこと本気じゃなかっただろ。大人たちが勝手に騒ぎ立てて外堀埋めてただけじゃんか。カレンだって、それ承知で付き合ってたんだろ?」
「酷い人ね! 遊びで付き合ってたらカレンがあんなに泣くわけないじゃない!」
「子どもができたわけでもあるまいし、いいじゃないか」
 イサミアは無言で立ち上がるとファートンに近づいた。
「あ」
 イサミアの険しい表情に気付いたファートンは逆鱗に触れたことを悟って謝ろうとしたのだが、イサミアは許さなかった。
「そういう誠意のなさが、私は一番嫌いなのよ!」
 欄干から立ち上がりかけたファートンを容赦なく海に突き飛ばした。
 生まれたときから海には慣れ親しんできたため、それくらいで彼が懲りるとは思えない。だが派手な水飛沫が上がり、彼が受身で落ちたわけではないと悟って少しは心が晴れた。背中から落ちれば結構な衝撃だっただろう。
「絶対絶対、許さないんだから……!」
 上がった水飛沫が陽射しにきらめく様を見ながら、イサミアは硬い声で呟いた。


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 ファートンが海から上がってくるのを待つことなく、イサミアはそのままレナードの元へ向かった。
 レナードにとっては久しぶりの家族団らんだ。邪魔するのは気が引けたが、他に聞ける者もいない。島内でイサミアはダルスの妹として少々特殊な位置にあり、忌憚なく話ができる人間は僅かだった。カレンはこれからその僅かな人間になりそうな人物だった。だからこそイサミアの怒りも強い。
 レナードは突然の訪問者を嫌がることなく迎え入れた。
「ねぇレナード。イリアっていう子、可愛い子だった?」
「ああ。可愛い子だったよ」
 航海は危険と隣り合わせのため、島に帰って来た男たちは優遇される。
 レナードには三人の妻と九人の子どもがいた。妻が三人いて何の争いも起こらないのは、レナードの人柄と、彼が船員であることが大きいだろう。
 彼の腕には今年生まれたばかりの赤子が抱えられていた。クルリとして愛らしい瞳を向けられて、イサミアの表情も思わず緩む。笑顔を返すと赤子は無邪気な笑みを浮かべた。文句なしに可愛い赤子だ。
「可愛いのか……」
 呟くイサミアにレナードは笑った。
「今度はこっちが兄離れできないのか」
「今度はって何よ」
 不可解な台詞に唇を尖らせるとレナードは笑う。抱えていた赤子を妻に渡した。この家は二番目の妻の持ち家だ。部屋の奥から出てきた彼女は大らかな微笑みを湛え、イサミアに冷たい飲み物を差し出すと、赤子を受け取って奥へ戻った。昼寝の時間らしく、優しくあやす声が聞こえてきた。
「イリアは父親離れができてないようだったからな。ダルスもよくよく苦労する奴だよ」
 完全に納得できる言葉ではないが、イサミアはその言葉に希望を見出した。軽く爪を噛みながら思案する。
 その思考時間があまりにも長いためレナードは声をかけようとしたが、その直前でイサミアは立ち上がった。
「よし。私、イリアを見てくるわ」
「は?」
 レナードが反応し切れなかったのも無理はない。しかしイサミアにとってそんなことは関係ない。そうと決まったら即行動に移すのが彼女だ。ダルスの性格をそのまま引き継いでいる。
 だが、さすがに1人ではどうしようもないことは分かっていた。いくらダルスの妹であろうと1人で航海できる力を持っているわけではない。ここは有能な人物を頼るのが筋だ。
 イサミアは砂浜に向かう途中で立ち止まり、腕組みをして考えた。
 脳裏に様々な男たちがよぎる。ダルスと共に航海を終えてきた男ばかりだ。イサミアはそれなりに親しく付き合っている。普通の頼みなら彼らは快く引き受けてくれるだろう。しかし、こと今回に関してはどうだろうか。海を渡った者たちは特別な絆で結ばれていると感じることが良くある。友だちづきあいをしているイサミアだが、彼らが海で命を預けているのはダルスだ。ダルスが真に望まないことを、彼らが逆らってでも協力してくれるだろうか、と疑問が胸をかすめる。
 そして、彼らを信用しきれない理由はもう1つある。
 彼らは船に乗ったイリアを気に入ったようなのだ。今回、イサミアがいち早く情報をつかめたのは、ダルスの本船から先触れとして放たれた男が楽しそうに話してくれたからだ。イリアが一度船を下りたときなどは船長を呪ったぜ、と決して本気ではないが悔しそうな顔をした男を、イサミアは唖然として見つめたものだった。
 協力者は、今回の航海に携わった者では駄目だ。
 イサミアはそう確信していた。だが、そうなると数はかなり絞られる。ほとんどの男は航海に参加している。参加しない者は怪我や年齢制限で条件をクリアできない者だけだ。そんな男たちに自分の命を預けたくない。
 イサミアは腕組みをしたまま難しい顔をしてうなり声を上げた。小柄な彼女がそうしていると、通りすがった大人は微笑ましく唇を歪ませる。
「……こうなったら仕方がない」
 イサミアは難しい顔を崩さないまま苦々しい声で呟いた。


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 イサミアが協力者に選んだのは幼馴染のファートンだった。
「なんで俺に頼むんだよ?」
「貴方以外に頼める人がいないんだから、仕方ないじゃないの」
 憮然と頬を膨らませたイサミアはファートンにそう返した。
 二人は現在、大海原の真っ只中にいる。先ほどまで見えていた島影はもう見えない。乗っているのは廃棄処分された船だ。以前から密かに組み立て直し、子どもたちの遊び道具として何度か海に浮かべたことのある船だった。
 しかしこれで他の大陸へ行こうと言うのだから無謀である。島の大人たちにも、普段から海に出ることは禁止されていた。あくまで大人たちの目が届く範囲で遊ぶことを義務付けられていた。それを破るのだから、イサミアが不安になるのも無理はない。
「無理に頼んだわけじゃないわよ。本当に嫌ならいいって、言ったじゃない」
「1人で行く、なんて言われたら手伝わないわけにはいかないだろう?」
 ファートンは盛大なため息を吐き出した。
 イサミアは少々心苦しく思いながら仰ぐ。彼を頼ったのは、彼が基本的なところでお人よしだという打算があったからだ。そしてまた、ダルスと船長の座を競える立場にいる彼ならば何とかしてくれるのではないかという希望もあった。
 帆は大きく張られ、風も凪ぐことはない。順調に進んでいると分かる。ファートンが持つ地図を覗き込むと、小さな文字で色々なことが書き込まれている。イサミアには理解できないことも沢山書き込まれている。
「大陸までどれぐらいかかるの?」
 期待が滲むイサミアの声に、ファートンは大きなため息をつきながら睨んだ。
「一日や二日で着けるわけじゃないんだ。島一番の船だってかなりかかるんだぞ。こんな船だったらもっとだよ」
「だからファートンに頼んだのよ。何とかして早く大陸に着いて頂戴。お兄ちゃんに追いつかれたら元も子もないわ」
 イサミアの無茶な要求に、ファートンは毒づいて空を見上げた。
 最初にファートンを訪れたとき、イサミアは悲愴な決意をしているかのようだった。内容を聞いてファートンが応じられないと答えると、イサミアは着の身着のまま航海へ飛び出そうとした。慌てて引き止めたファートンだが、イサミアが少しも揺るがないのを見て覚悟を決めた。
 イサミアを引き止めながらできた準備は大したものじゃない。本当に最低限の物しか用意できなかった。これで無風地帯に突入したらどれほど生きていられるものか、ファートンにも自信がなかった。気付かれないよう島まで引き返したいと思うが、そうしてしまえばイサミアの信用を失い、彼女は今度こそ1人で船を出そうとするだろう。そんな事態だけは避けなければならない。ダルスが気付き、早く追ってくることを願うばかりである。
「イリアって娘を見るだけなら、ダルスに頼めばいいだろうに」
「私がなんでイリアを見に行きたいのか分かってる、ファートン? お兄ちゃんの目を覚まさせるために行くのよ。敵の情報が必要なの。なのにお兄ちゃんと一緒に行ったりなんかしたら、私まで洗脳されてしまうわ。お兄ちゃんは邪魔よ。余計なことは考えなくていいから、ファートンは舵だけに専念して」
 自分は運がない、とファートンは空を仰ぎ見た。
 そんなファートンを冷めた目で一瞥し、イサミアも星空を見上げる。この航海が無謀なものであることくらい分かっている。島の周囲には無風地帯が存在し、簡単な装備の帆船で抜けることは困難なことも理解している。その無風地帯があるお陰で、他の海賊や海軍は島を見つけることができないと聞いていた。
 いくら海に詳しいファートンを連れてきても、彼もろとも遭難するのが関の山だ。それでも、イリアを見て見たいという要求には勝てなかった。
(お兄ちゃんはいつも笑ってたけど――)
 イサミアは唇を噛み締める。
 いつも、どこか皆と一線を引いていたダルス。彼が船長ということで扱いは変えられ、島民たちからダルスに近づいていくこともない。彼と腹を割って付き合うのは、妹のイサミアくらいだ。けれどそれではあまりにも寂しすぎる。
 大人たちの汚い事情で引き合わせられたカレンに怒りを覚えることもあったけれど、それでも徐々に心を開いていく二人を応援していた。イリアという訳の分からない存在にかき回されてはたまらない。
 熱く拳を握ったイサミアの頬を、島独自の穏やかな風が撫でていった。


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 嵐になったのを覚えている。
 舵を握り締めたファートンが険しい顔で大声を上げていた。風が強くて船が転覆するため、帆をたためと怒鳴られた。
 もともと海賊たちが住まう島で暮らしているイサミアだ。帆をたたむくらいは簡単なこと。更に言えば、イサミアは船を預かるダルスの妹。花よ蝶よと育てられた他の女と一緒にされては困る。海に出た経験はさすがにないが、島では一番の度量の持ち主だった。
 イサミアはするするとマストに登って帆をたたむ。嵐が弱まるのを肌で感じ、峠は越したのだと嬉しくなった。展望台に登り、大陸が見えないかと目を凝らす。
 そこでイサミアは自分の目を疑った。
 遥か遠くの海に水柱が立っていた。
 海が吹き上がっているようにも見えるそれは、徐々にイサミアが乗る船に近づいてきているように思えた。もしかしたら船の方が吸い寄せられていたのかもしれない。イサミアには分からない。
 航海の経験がないイサミアにはそれが何を示していたのか理解できなかった。
 凄まじい轟音と耳鳴りにしゃがみ込む。船内に戻れと叫ぶファートンの声に従うこともできなかった。危機感だけを肌で感じる。
 海水を巻き上げる巨大な竜巻。
 それが、イサミアの乗る船に直撃した。


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 跳ね起きるように体を起こしたイサミアは痛みにうめいた。体中が悲鳴を上げていた。双眸を瞠り、体を二つに折り曲げて息を止める。痛みに耐える。
 最初の波が過ぎた頃、イサミアは痛みを押して寝台を飛び降りた。
 勢いよく扉を開けて廊下に出る。
 見慣れない船内。立派な扉。甲板まで続く、広く長い廊下。
 イサミアが乗っていた船とは比べ物にならないほど立派な造りだ。だが、そんなすべてを無視してイサミアが最初にしなければいけないこと。それは。
「ああ!」
 甲板に駆け上がって潮風を感じる。甲板で飛び跳ねる無数の魚たちを飛び越えて海を見る。そこには様々な木屑が浮かび、青を隠して揺らいでいた。幾多の救助船も浮かび、引き上げ作業にかかっている。
 甲板に姿を現したイサミアに、作業員たちが奇異な目を向けていた。注目を浴びたイサミアは気付かない。そんなものに構う余裕もないほどの衝撃を受けていた。
 イサミアがファートンと共に乗っていた船。その残骸に目を奪われていた。
 イサミアは船べりに寄ると力なく座り込んだ。呆然と瞳を瞠る。
「嵐に巻き込まれたんだ」
 ポツリと聞こえた声に振り返ったイサミアは、そこに長身男性の姿を見出した。役人だろうか。緑青の制服に身を包み、海面を見つめている。意外に若いようだ。
「助かって良かったな」
 呟くように短い言葉。冷たく聞こえるけれど、声自体に冷たさはない。瞳には悲しみが宿っている。そのことに少しだけ慰められるものを感じながらイサミアはかぶりを振る。
「まだ探索は終わっていない」
 青年の瞳がイサミアを捉えた。
「仲間が助かっているかもしれない」
 力づけるように大きな手が肩に置かれた。その上からイサミアは自分の手を重ね、かぶりを振る。
「1人、だけ。私と一緒に乗っていたのは、もう1人だけよ。男の子なの。わがままを言って、無理に乗せてもらったの」
 到底叶わない要求を押し付けたのはイサミアだ。竜巻に巻き込まれたのは恐らく偶然ではなく必然だ。島を守るように巡らされた無風地帯に、嵐はつきものだ。いつだったか、航海に出た男たちが、その嵐を乗り越えるのも一苦労だと、笑い話として語ってくれた。
 嵐の渦中では分からなかったけれど、こうして振り返ってみれば悔やまれる。
 忘れていたなど信じられない。
 無風地帯に予兆なく現れる災害。
 無風地帯があるから他者が島に辿り着けないのではなく、無風地帯に災害が出現するから辿り着けないのだ。風以外の手段を持たぬ船は必ず沈められる。
 海に詳しいファートンのことだ。そんな危険地帯を、あのような帆船1つで抜けることなど不可能だと分かっていただろう。それでもイサミアのわがままを許した。無風地帯の直前まで近づき、そこでダルスを待つつもりだったのかもしれない。しかし彼もまた正確な距離をつかめていなかった。嵐が境目に現れたことも不運だった。
「お願い。絶対に見つけて。なんでもするわ。このままじゃ私」
 泣きたいのを堪えるように力を込める。それでも声は悲鳴のようだ。
 隣に佇む、見知らぬ青年に縋りついて懇願する。顔を押し付けると背中を撫でられる。温かな腕は、今のイサミアには重たく感じられた。
「希望は捨てるな」
 染み込んで来るような声に何度も頷き、脳裏にファートンを思い浮かべる。
 広いこの海で人間1人を見つけるのがどれほど困難なのか、想像に難くない。だが無知な世間知らずを通し、見つけることができると信じていよう。ファートンの無事を、この人も一緒に祈ってくれるから。
 イサミアは力いっぱいしがみ付き、声が嗄れるほど大泣きした。
 泣き疲れて眠ってしまうまで、名前も知らない彼はずっと抱き締めてくれていた。背中を支えるその腕に、兄が心配しているだろうことを思い、イサミアは更に泣けてきた。
 泣き疲れて眠り、目覚めたときも青年は側にいた。
 エスバド=ラードと名乗った彼は、九番艦隊を代行している最中にイサミアを救出したのだと言う。この海域では嵐の後に竜巻が発生するのは珍しくないことで、そんな中でよく船を出したな、と少々呆れられて怒られた。
 ごめんなさいと謝ったら眉を寄せられる。謝る相手が違うんじゃないか、と。それは事実だったので何も言えなくなった。
 エスバドの袖をつかみながらうな垂れる。そんなイサミアに、エスバドは少しだけ笑った。
 無表情を貫く彼は、自分を出すことが苦手のようだ。とつとつとした喋り方が新鮮だった。けれど見せられた確かな笑顔は、イサミアの心を本当に軽くした。イサミアに笑顔が戻る。
 だが、その笑顔は直ぐに凍りついた。
「名前は?」
 エスバドのその問いかけに、イサミアは答えることができなかった。
 一緒に船に乗っていた友人の顔は思い出せる。兄の顔も思い出せる。
 けれど自分がなぜあの船に乗っていたのか。なぜ兄から離れていたのか。そして自分の家はどこだったのか。それだけではなく、友人の名前も、兄の名前も。大声で泣いたときに頭の中がどうにかなってしまったのだろうか。イサミアは自分の名前すらも忘れていた。

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