前へ目次次へ

第三話

【ニ】

 透明度の高い海底に潜む翠は瞬間ごとに違うきらめきを躍らせて、陽の光が戯れるように包み込む。大地に生まれた原初の翠よりも鮮やかな海の翠。
 同色を宿す瞳は吸い込まれるようで魅力的に思えたが、宿る意志は誰よりも強くて気圧される。見つめられれば背筋が凍りつくような錯覚さえ抱かせる。
 イリアが近づくとその瞳は柔らかさを宿し、気配は穏やかなものに変化する。そのことに少し安心する。
「イリア?」
 彼に名前を呼ばれると、得体の知れない感覚が疼いて仕方ない。低く響く声は鼓動を狂わせるのに充分な威力で、近づかれると更に早鐘を衝く。
(ああもう、うるさい。なんなのよ!)
 イリアは近づいてくる男を睨みながら奥歯を噛み締めた。
「それ以上近づいたら海の底に沈めてやるわ!」
 男が驚いたように足を止めた。
 イリアは胸を張って勝ち誇ってみせるが、次には形勢が逆転する。
 男が剣呑に笑う、それだけで。
 海賊と間近で対峙したイリアが初めて覚えた恐怖。それを思い出させるように剣呑な眼差しが、けれどどこか楽しそうにイリアを捉えていた。
「海賊が沈むのは、獲物を奪い尽くしたときだけだ」
 陸上から物資が消えるなどあり得ない。だから彼の言葉は、裏を返せば「沈められるものか」と言っているようなものだ。
 挑発的な言葉と、彼が浮かべる自信にイリアは腹を立てた。ふつふつと湧き立つ感情のまま力いっぱい叫んだ。
「ダルスごとき、私がこの手で必ず沈めてみせるんだからーーっ!」
 早朝のカーデ家に、イリアの怒声が響き渡った。


 :::::::::::::::


「ずいぶんと具体的な寝言でございますね。お嬢様」
「……――あら?」
 侍従頭であるミトスが着替えを持って、寝台の脇に佇んでいた。
 イリアは瞳を瞬かせる。今まで感じていた風も波も、船までない。どうやら寝ぼけていたらしい。
「おはようございます、お嬢様。今朝のご気分はいかがでしょう?」
 イリアの奇行にはすっかり慣れているミトスが淡々と訊ねた。祖母代わりと言ってもいい彼女の笑みに、イリアは微かに頬を染めて視線を逸らす。
「最悪よ。もう、なんで朝からあんな男の夢なんて見なければいけないのかしら。気分悪い。いい夢見るまでもうちょっと寝かせて」
「失礼ながら、お嬢様が起きられないのは毎朝のことでございます」
 せっかく起き上がったイリアが再び横になろうとする気配を敏感に嗅ぎ取り、ミトスは容赦なく布団を剥いだ。老齢であるのに結構な腕力だ。
 イリアは頬を膨らませる。
「いいじゃない。今日は学校も休みだし、お父様だってまだ戻られていないし」
「毎朝起きるのは当然の行為ですよ。身分あるご令嬢がそのようなだらしないこと仰らないで下さいまし。世の殿方に笑われてしまいます」
 イリアが再び横にならないよう、シーツまでも畳み出す。
 彼女に乱暴など働けないイリアはしぶしぶ寝台から這い出した。イリアを起こしに来るのがミトスであるのは、もしかしたらイリアのそんな心情を見越してなのかもしれない。
「笑われたっていいわよ。あの事件で私、もう不名誉な噂が流されてるっていう話じゃない」
 あの事件、とは。
 去年の夏にヴェラークと喧嘩をし、屋敷を飛び出した事件のことだ。
 姉のいる国まで行こうと商船に乗り込もうとしたまでは良かった。だが、ヴェラークに連れ戻されてなるものかと密航したのがいけなかったのか。イリアは商船ではなく海賊船へと乗り込んでいたのである。
 イリアの出奔に気付いたヴェラークは直ぐに行方を追いかけた。その途中でイリアが海賊船に乗り込んだと気付き、公務用の軍艦を出動させた。むろん、王に許可を取っての出動ではない。結果としてヴェラークは謹慎処分を言い渡され、イリアは下世話な中傷を流される羽目になってしまった。
 元を正せばイリアが自分で蒔いた種だ。
「世間の噂など気にする必要はございません。お嬢様が今まで以上に立派に振舞えば、自然と消えいく儚いものですよ。さぁ早くお召しかえなさいませ」
「そ、それくらい自分でできるわよ」
 着替えさせようと伸びてきたミトスの手を振り払い、イリアは着替えを受け取ると寝台から逃げ出した。いくら貴族の姫とはいえ、この歳になってまで着替えを他人の手ですることには抵抗を覚える。
 ミトスが少し残念そうな表情をするのを見て、先ほどの話題に話を戻す。
「噂話なんて、特に気にしてもないわ。でも、時々、なんて言うかこう、腹の底が引っくり返るような気分にさせられるのよ」
「その場合は『煮えたぎる』が正解でございますよ」
「分かってるわよ。私独自の解釈よ。言うなれば個性って奴だわ」
 頬を膨らませると笑われた。手早く着替え、鏡台の前に腰を下ろす。その後ろにミトスが立った。イリアの髪を優しく梳いていく。
「お父様はまだ戻られないの?」
「今はもうこちらへ向かっておりますよ。夕方には到着なさるのではないでしょうか」
「本当?」
 笑みを浮かべて顔を上げると、頭は動かさないようにと睨まれる。
 イリアは肩を竦めて元に戻した。高揚した気持ちのまま窓から外を眺める。
 冬が終わり、春へと移行する季節。もともとジェフリス国自体が温暖な気候の中にあるため冬は短い。最近では上着がなくても外を歩けるようになった。
「さぁ、完了でございますよ」
「ありがとう、婆や」
 軽く肩を叩かれて椅子から飛び降りる。結われたばかりの髪が大きく揺れた。
 本当は、それほど難しくない髪型なら一人ででも結える。だがミトスが毎朝この作業を楽しみにしているため、任せている。自分で結うよりミトスに結われる方が、仕上がりも綺麗だ。
 イリアは床に触れるか触れないかのところで舞う裾を少し蹴った。裾へ向かうにつれて色味を増す青いドレス。イリアの行動を妨げない程度に軽い衣装。
 自分の仕事に満足して笑うミトスに、イリアも微笑みを返した。
 けれど。
「では、食堂へお急ぎ下さい」
「え?」
 ヴェラークが戻らないときはいつも部屋で食べているイリアは首を傾げた。先ほどヴェラークは夕方頃に戻ると聞いたばかりだ。
 不思議に思いながら、いつもの使用人たちも側にいないことに今更気付いた。いつもならこの後、食事を運んできたり、イリアの服を片付けたり、賑やかなお喋りが始まるはずなのに。
 イリアの眼差しに応えてミトスは口を開いた。
「朝方からシャルゼ様がお見えになっておりました。他の者たちは皆、彼女のお相手をしております」
 イリアは蒼白となった。
「シャルゼが? いつ? いつ来たのっ?」
「お嬢様がお目覚めになる一時間ほど前でしょうか」
 イリアの慌てようにミトスは不思議そうだ。しかし事情を話せば長くなる。彼女を横目に、イリアは慌てて踵を返した。
 シャルゼとは軍学校での友人だ。軍では珍しい女生徒。その中でも更に珍しい平民の出自であり、貴族が多く通う中でことさら注目されていた。
 カーデの娘と親交を築きたいと打算的に近づいてくる貴族たちが多くて辟易する中、シャルゼは無頓着でいつも孤独を保っていた。優秀過ぎるのも妬みを買う原因の1つとなった。しかし打算が働かないのならばとイリアから近づき、そうして今は、友人と呼べる間柄にまで発展した。
 身支度を整えてから彼女の来訪を告げるなどミトスは意地が悪い。
 先に告げていればイリアは寝起き姿のまま飛び出して行くだろうと予想してのことだが、イリアにとってそんなことはどうでもいい。
「シャルゼを待たせるなんて!」
 イリアは慌てて部屋を飛び出した。驚くミトスの声が廊下を駆けたが応えない。陽が差し込む長い廊下を駆け抜け、エントランスに続く大きな階段を駆け下りる。階段の裏へ回り込み、大食堂へ続く扉を開ける。
 その瞬間。
 烈風がイリアを包み込んだ。その凄まじさに呼吸を奪われる。イリアは息を止めて、数秒耐える。
(ああもう……)
 呼吸すら許されない局地的な突風の中で、イリアはミトスに語りかける。
(シャルゼを待たせることに罪悪感を覚えてるんじゃないわ。私はね、婆や。このシャルゼを待たせて被る迷惑が嫌だったのよ……)
 難関と言われる軍学校の入学試験。貴族と何の繋がりもないシャルゼは首席で突破し、軍師の動揺を誘った。筆記試験を終えたあとの実力試験では、自分が能力者であることを見せ付けた。そうして自分の存在を確固たるものにした。
 入学してからも彼女は、実技で男に引けを取らない。そしてまた、彼女は大層な美人だった。新入生の中で最も話題になったのはシャルゼに違いない。
 自分の実力を示し、尊敬と畏敬の念で崇められた彼女であるが――実は、結構な性格破綻者だったのだ。
「遅いわ。この私を二時間も待たせるなんてどういうつもりなの? あら。結構いい素材使ってるじゃない」
 突風が過ぎ去ったあとに聞こえた声に、イリアは脱力して肩を落とした。同時に、ミトスに結わえてもらったばかりの髪が綺麗に解かれていると気付いた。
 食堂の椅子に腰掛け、シャルゼが手にしていたリボン。どこか見覚えがあると思ったのは当然だ。それはイリアの物だ。
「なんてことするの! せっかく婆やが結んでくれたのに!」
「ああ、ごめんなさい。返すわ」
 光沢のある赤いリボンは、シャルゼの手を離れるとイリアの元へ舞い戻った。彼女が持つ特殊能力、風を使ってのことだ。
「……待たせたのは、悪かったわよ」
 戻されたリボンで再び結ぼうとしたが、やはりミトスが仕上げてくれたように上手くはいかない。それを見ていたシャルゼが笑いながら手招いた。しかし本能的に危険を察知したイリアは強張った表情で「あとで婆やに結び直して貰うからいいわ」と断った。
 シャルゼと向かい合わせの席に座る。
 食事は直ぐに運ばれてきた。イリアは窓近くに控えていた執事や侍従たちが安堵を浮かべる様子を見逃さない。いったい何があったのか、恐ろしすぎて聞くのは憚られる。貴族の出自ではない女性に首席を取られ、普段の授業でも実力を見せるシャルゼを妬んだ生徒がいたずらを仕掛け、その報復として学校の屋根に吹き飛ばされたことは周知の事実だった。実際、その場で成り行きを見ていたイリアは「心臓に悪いから二度としないで」とシャルゼに懇願した。
「今日はどうしたの? シャルゼが来るなんて初めてじゃない」
 食事の合間に訊ねると、シャルゼはテーブルに頬杖をついて笑った。
 思わず背筋を凍らせたのはイリアのせいではない。
「カーデ艦が帰港するらしいわね。イリアに引っ付いていれば今日こそ顔を拝めるかと思ったのよ。会わせてくれるという約束、忘れちゃいないわよね?」
 他の者が同じことを言えば、根回しのために利用されるのではないかと思うところだ。だがシャルゼに限ってはそれから外れる。彼女は実力ですべてを勝ち取るだろうし、工作するなら本人に分かるように、派手にする。陰湿さは欠片もない。今回の言葉は単純に、彼女の興味から出た言葉だ。
 イリアは嘆息した。
「ずいぶんと早耳ね。私だってさっき聞いたばっかりなのに」
「寝坊した人に早耳なんて褒められても嬉しくないわ。町中がもう知ってるもの」
 ふふふふ、と笑うシャルゼ。その笑いは心臓に悪いからやめて欲しいといつも思っているが、口にしたことがないため、願いは叶わない。
「明日も学校は休みだし、噂の人をこの目で見る大チャンスなのよね。カーデってば凄い人気なんですもの。港に行ってもなかなか姿までは拝めないわ。ふふふふ。イリア。これからも仲良くしましょうね」
 自分に正直な物言いにイリアは苦笑した。これまでに付き合ったことのない人物だが、この性格はなかなか好きだ。
「さて」
 シャルゼは見事な金髪を軽く払うと立ち上がった。イリアは首を傾げる。
「イリアも起きたことだし、遠慮なく貴族屋敷を探索してみましょうか」
 イリアは気管を詰まらせて咳き込んだ。

前へ目次次へ