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第三話

【六】

 ずいぶんと警備が厳しいらしい。入港しても下りることはできない。大勢の検査官たちが船に乗り込んで調査しているが、彼らが終わってもまた別の検査があるようで、いつの間にか見知らぬ人々が増えていく。時間ばかりが過ぎていく。いつ終わるとも知れない。
 イサミアはエスバドの隣に立ち、彼らの様子を眺めていたが、退屈だった。
「これからどこに行くの?」
「父上のところ」
 隣に立つエスバドは一言だけ放ち、再び沈黙を守る。
 彼の言葉は短くて表情もない。だが声は温かさに溢れていて安心できる。
 イサミアは大人しく頷いた。
 記憶がないため帰ることもできない。いつ見放されるのかも分からない。一度船を乗り換えるために停泊した町で、もう下ろされてしまうかもと怯えたイサミアだが、それは杞憂だった。エスバドは途中で投げ出すことなどせずに今まで面倒を見てくれた。当然のように協力してくれる。彼のそばにいれば、記憶がなくとも路頭に迷うことはないだろう。
「あの、ごめんね? 私みたいなお荷物持たせちゃって。町に着いたら私、働くからね。エスバドに迷惑かけないようにするからね」
 船員たちの身分確認があったとき、身元証明ができなかったイサミアは危うく連行されるところだった。エスバドが気付いて庇わないでいたら、今頃は質疑を受けていたのかもしれない。今後もそのようなことは色々とあるだろう。だがそのたびにエスバドを頼ってしまえば、皆がエスバドに向ける心証が悪くなりそうな気がする。
 イサミアは何もしないでいることが心苦しくてエスバドを見上げた。
 精一杯頑張るわ、と声を上げたイサミアに、エスバドは静かにて首を振った。
「気にしなくていい」
 出鼻を挫かれたイサミアは声を詰まらせる。
「でも……自分の食費くらいは稼がないと」
「食糧には困っていない」
「なら、泊まる場所代を払うために」
「部屋数なら余ってる」
「だ、だったら、探索費用を!」
「海難事故に関するものには国から援助が出る」
 妙に現実的な訴えの数々は直ぐに却下される。イサミアは複雑な気持ちになりながらエスバドを見上げた。変わらぬ無表情に困惑する。イサミアを気遣って「困っていない」と言っているのか、それとも本心からなのか、彼の無表情は読み取らせない。静かに眼前の港町を眺めているだけだ。
 しばらく真意を読み取ろうとしていたイサミアは諦めた。同じように港町を眺めてみる。
 この検査が終わればようやく町に下りられる。
 瞳に眩しい白亜の町が広がっている。
 潮風を受ける白壁は、空の青と相まって非常に爽やかだった。
 その爽やかさにどこか既視感を覚えて、イサミアは首を傾げる。
「私がいたのも港町だったのかしら」
 エスバドの視線を感じて顔を上げ、「でもやっぱり思い出せない」と渋面を作る。彼の手がイサミアの頭を撫でた。
「ミーアが思い出せるのは、友人と兄の顔だけか?」
 自分の名前さえ忘れていたイサミアは、考えに考えて「ミーア」という名前を記憶の底から引きずり出した。ダルスがイサミアを呼ぶときの愛称だったものだ。彼が船長に就任してからは使われることもなくなったが、どうやら記憶の片隅に根付いていたらしい。本名は思い出せない。
 記憶になくても体が覚えているらしく、愛称などダルス以外に呼ばれたことがなかったイサミアは、そう呼ばれるたびどこかむず痒さを覚えてしまう。
「顔しか、思い出せない。名前が……うーん。お年寄りたちがど忘れするのって、こんな感じなのかな」
 腕を組んでうなると笑われた。気恥ずかしさにイサミアは頬を膨らませる。
 ちょうどその時、船内を調査していた団体の関係者が近づいてきた。
「終わったのかしら」
「そのようだ」
 エスバドは微笑んで彼を迎えた。
「ご苦労さま」
「いいえ。こちらこそお時間かけて申し訳ありません。これが入港許可証です」
 四角い札をエスバドに渡すと、彼らは船を下りていった。他の船員たちも彼らを見送る。
「若いのに偉いのねぇ」
 代行が終わったあと数人を連れて屋敷を出た。この船に乗るのは軍人ではない。エスバド用に雇われた船乗りたちで、船もエスバド用に贈られたものだ。軍艦よりよほど質素だが、それでも船内は広く、技術を磨くための設備は整っている。もちろんこの船の船長はエスバドだ。
 イサミアにはそんな仕組みが分からない。本気で感心するとエスバドに奇妙な顔をされた。エスバドは札を近くの者に渡すと見回した。
「三日後に戻る。それまでは休憩だ」
 エスバドの声を受けて、船員たちは喜びに沸いた。我先に町へ繰り出していくが、彼らのほとんどがエスバドと変わらぬ年齢の者たちばかりだ。
 そんな者たちを指揮するエスバドは何者なのだろう、とイサミアは首を傾げる。
「エスバドは一緒に行かないの?」
「用事がある」
 はしゃぎながら下りて行く男たちを指して訊ねると、エスバドは淡々と返した。
「今から行く場所ならミーアを安心して任せられる」
 強い衝撃にイサミアは息を呑んだ。恐らく好意からの言葉なのだろうが、イサミアには絶望にも等しい言葉。涙が勝手に盛り上がってくる。エスバドの側にいては邪魔になり、甘えては駄目だ、と強く言い聞かせる。自分でも何とかしなければいけないと分かっていたはずだ。けれど、こうもハッキリどこかへ置いていかれる、と知るのは辛い。
 エスバドはイサミアの様子に気付かず船を下りた。イサミアもまた、気付かれないよう涙を拭い、彼を追いかけた。


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 厳戒体制が敷かれた夜のこと。屋敷の者でも滅多に近寄らない部屋に、扉を叩く音が響いた。火急の用事だろうかとヴェラークは振り返る。
「エスバド様がご入港されました」
 主人の邪魔をしないよう用件だけを告げ、侍女はそのまま下がった。
 張り詰めていた部屋の中に少しだけ穏やかな空気が流れる。ディールアは頬を緩め、イリアも喜んで両手を打ち鳴らせた。シャルゼとヴェラークだけが難しい表情を崩さない。シャルゼにいたってはイリアを睨み続けているが、イリアは気付かず両手を組む。
「嬉しい。何年ぶりかしら。学校で見かけたことはあるけど、話すのは本当に久しぶりだわ」
 厳しい海軍規律には年功序列も含まれていて、1クラスは同じ年齢の者たちしか集わない。エスバドとイリアは同じ年に入学したが、エスバドはイリアよりも1つ年上のため、クラスが違う。移動教室の授業が多いため、クラスが違えば気軽に会いに行けないのが現状だ。
 イリアは心を躍らせながら彼が到着するのを待った。
 同じく嬉しげなディールアが振り返る。
「イリアちゃんも今年から演習に加わるんだろう?」
「はい。やっと船に乗せてもらえるんです」
 入学してから約二年。机上での課程はそろそろ終わり、実地演習に移ろうとしていた。今まで海上に出ることも許されなかったイリアはとても楽しみにしている。
 会話を聞いていたシャルゼが声をかける。
「覚悟してねイリア。実演になったら、能力の不制御を装ってあげるから」
「装ってっ?」
「不意打ちはダメージが大きいわよね」
 楽しそうな宣告を受けてイリアは顔色を失う。同じく、聞いていたヴェラークも唖然とする。ディールアだけは楽しそうに笑う。
「いい性格してるなぁ、イリアちゃんの友だちは」
「シャルゼですわ。ディールア艦長」
「しかも大層な美人ときた」
「ご安心ください。ディールア艦長に食指は動きませんので」
 不躾で無遠慮な物言いにディールアは更に笑う。そんな彼に、シャルゼも上機嫌な笑みを向ける。
 ある意味大物であった。


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 エスバドを屋敷に迎えるため、イリアたちへの尋問は切り上げられた。これ以上の情報は引き出せない、と諦めたこともある。
 イリアは嬉々として廊下に出ようとし、報告に来ただろう兵と鉢合わせになり、慌てて退いた。エスバド到着の報告で和やかな雰囲気にはなったが、今は厳戒体制の中だ。イリアは何とはなしに、報告に耳を傾ける。
 気配を殺したシャルゼが忍び寄った。
「イリア」
「きゃああっ?」
 囁かれ、イリアは飛びあがるくらい驚いた。涙目で振り返ればシャルゼが笑う。
「な、何するのよ」
 本能的に後退すると不気味な笑いで応えられる。
「怖いからやめて」
「あら。言うに事欠いて『怖い』だなんて。才色兼備な私に何を言うのかしら」
「黙っていれば美人なのに」
 自意識過剰の気はあるが、彼女の実力を知るイリアは眉を寄せる。
「演習はいつかしらね、イリア。非情に楽しい授業になりそうだわ」
「もういいわよ、なんでも。それで、どうかしたの?」
「ええ。そろそろ帰ろうと思って」
 夕暮れは過ぎて闇が支配する刻限。軍関係者には今回の件が報告されているが、シャルゼは平民の出自であり、恐らく家族に報告はされていないだろう。尋問は終わった。帰っても問題はないはずだ。
 イリアは「そうね」と頷き、送ろうとした。
「そいつは認められないな、シャルゼ」
 ヴェラークの側で報告を聞いていたはずのディールアが、いつの間にか近寄ってきていた。振り返るとヴェラークも渋い顔をしている。
「お前たちは重要参考人だ。私たちの管理下にいて貰う」
 イリアは顔をしかめ、シャルゼは肩をすくめた。
「あの男と一緒にいたのが故意にしても偶然にしても、もう一度接触がないとは限らない。アーリマ家には私から連絡を入れる。部屋は用意させてあるから、休みたいならそちらへ行きなさい」
 軍本部での監視にならないだけ優遇されているのかもしれない。しかしイリアは唇を尖らせ、ヴェラークを見つめる。
「ダルスに会ったのは偶然だって言ってるじゃないの」
「偶然でも、もう一度会わないと言い切れぬであろう」
「会いたくもないわよ、あんな奴!」
「お前の意志は関係ないと説明したであろうが!」
 イリアに乗せられたヴェラークは徐々に激昂していく。ディールアは横目で観察し、呆れたように頭を掻いてシャルゼの側に避難した。いつものことながら、この親子は周囲の空気を知らないのだろうか。しばらく実のない押し問答が続き、言い尽くしたらしいイリアが一度言葉を区切って吐き捨てた。
「なによ。お父様だって楽しそうにヒューリアのところに通ってたくせに。私が知らないとでも思ってたの?」
「な。イリア。なぜそれを」
 ヴェラークは激しくうろたえる。以前、再婚を考えていた女性の名前だ。謹慎が明けたあとに正式な断りの挨拶をしたが、それ以降も親しい友人付き合いを続けている。
「お父様は八番艦隊の艦長なのよ? 大将よ? その動向すべて隠せるはずないじゃない」
「学校でももう有名ですものね。ヴェラーク艦長が足繁く通ってる美女屋敷」
 シャルゼの言葉に沈黙が流れる。破ったのはイリアだ。
「とにかく。そんなお父様に指示される覚えはないわ!」
 頬を膨らませたイリアは扉を開けた。足裏を廊下に叩きつけるようにして歩き出す。シャルゼもその後を追いかける。部屋を出る前、二人の艦長へ優雅な礼をしてみせ、微笑んだ。
 部屋にはヴェラークとディールア、出て行く機会を逃した報告の兵が残された。
 ヴェラークは時を止めたように動かない。仕方なくディールアが今後の指示を兵に伝え、部屋から出して、ヴェラークに向き直る。
「因みに、ヒューリア殿とお前の話は、陛下のお耳にも入ってるってさ」
 ディールアは追い討ちをかけるように、そう告げた。

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