前へ目次次へ

第三話

【七】

 初めて見る大きな町だった。石畳に整備され、地面が露出しているところはない。建物も石造りで間取りが広い。街路は夕飯の準備で賑わい、一層の熱気を醸している。露店は潮風に晒され塩がこびりついていたが、愛着も感じられて、イサミアは頬を緩ませた。
 エスバドと離れることを聞かされて気持ちが沈んでいたが、人々の声がイサミアを浮上させる。
 そして更に、街路を上がった丘の先に佇む大きな屋敷を見て口をあけた。
 明らかに大貴族の屋敷だ。エスバドはためらいもなく近づき、門番に何事か告げてしばらく待つ。イサミアは知らずエスバドと繋ぐ手に力を込めたが、杞憂だった。屋敷から出てきた人間は一様に優しい笑顔を向けてくる。
 エスバドは荷物や外套を預けながら屋敷に入り、イサミアも同じようにする。驚くばかりでエスバドたちの声に耳を傾ける余裕もなかった。彼の服の裾をつかみながら天井を見上げる。二階まで吹き抜けになったエントランスはとても明るい。炎ではない照明は何を使っているのか、イサミアは知らない。床は自分の姿が映るほど綺麗に磨かれ、歩くことをためらわせた。
 やがて話が終わったのか、エスバドがイサミアを促した。
 少なくともエスバドはまだ一緒にいてくれる、と嬉しく思う。しかし、直ぐに別れなければいけないのだと思い直して複雑になった。
 柔らかな絨毯が敷かれた階段をのぼり、廊下を歩く。床は変わらず綺麗に磨かれていたが、廊下に入ったとたんに光度が落とされた。大きな窓から光が差し込むとはいえ、今はもう夜だ。屋敷に着くまでにかなりの時間がかかった。陽光は望めない。エントランスほどの光は必要ないだろうが、気持ちが沈んでいたイサミアには廊下が薄暗く感じられた。
 そのとき前方から呼び声が聞こえた。反応したイサミアに次いでエスバドも気付き、顔を上げる。
 朗らかな笑みを浮かべて走って来るのが小柄な女性だった。紫色の髪に目を奪われる。不思議なきらめきを宿しており、魅了される。女性というより少女と称した方が正しいかもしれない。
 近づいてくると更に詳細が分かる。
 深海を映すような彼女の双眸が綺麗だった。彼女の後ろから歩いて来る女性のほうが美人だと思うのに、先に駆けてくる女性に目を奪われてしまうのはなぜだろう。
「この校則違反者!」
 走って来た女性は、勢いそのままエスバドに体当たりした。
 イサミアは目を丸くする。
 エスバドは軽く眉を寄せただけで何も言わない。女性を静かに引き剥がした。
「……イリア」
 不服そうに洩らされた名前。
 イサミアはなぜか息を呑んだ。瞳を瞬かせ、聞いたばかりの名前を復唱する。けれど一瞬感じた引っ掛かりは直ぐに消えた。つかめそうでつかめない。もどかしく、何かを取り逃がした気分だ。
 イサミアが考え込んでいると、イリアは当初の笑顔を払拭させて唇を尖らせていた。
「なによその服。私と同じ学校だっていうのに、なんでエスバドが軍服着てるの? 許せないわ。職権乱用よ。私だってお父様から許されてないのに。羨ましいわ!」
 イサミアの中から『可愛らしい少女』の像が消えた。
 早口でまくしたてたイリアは腰に手を当てて指を突きつける。その表情も仕草もころころと変わり、イサミアは目を逸らせずに見つめ続ける。彼女の隣に追いついた金髪の女性も胸を反らした。一瞬だけイサミアを一瞥するとエスバドに向き直る。
「畏れ多くも九番艦隊の識別色をまとうだなんて。本当に立派な校則違反者ね、イリア」
「まったくだわ」
「演習時にはイリア諸共ね」
「シャルゼの言う通りだわ」
 勢い良くシャルゼに同意していたイリアは、続いて「え?」と間抜けな声を上げて振り返った。
「うふふふ」
 シャルゼは楽しげな笑い声を弾ませるだけだった。
 静かになった一瞬の隙を突いてエスバドがため息をもらす。
「類は友を呼ぶ」
 彼の言葉は黙殺された。
「まぁそれは置いておいて」
「待ってシャルゼ。置いておかないで!」
 イリアの悲痛な叫びも聞き流し、シャルゼは均整の取れた長身を折り曲げた。傍観者になっていたイサミアと視線を合わせる。 「貴方は誰?」
 それまでイサミアに気付いていなかったイリアも目を丸くする。事情を求めるように覗き込む。
 イサミアは目の前に迫る二つの整った顔に、思わず仰け反る。キラキラと音を立てそうなほど輝く金の髪がまぶしい。緩やかな波を描くそれは細い肩を覆うように広がり、迫る双眸には恐ろしいほど強い意志が秘められていると感じた。
 イリアとは違う青を宿したシャルゼの瞳だ。前者が千尋の海を宿すなら、後者は蒼穹の天。どちらも心に訴えかける魔法の色で、イサミアは声を失くして魅入られる。
 シャルゼは光が零れそうな笑顔を浮かべた。
「いいわね、この黒髪。引き抜きたいわ」
 イサミアは聞き間違いかと思った。艶やかな笑みを刻む小さな唇を凝視する。彼女の隣ではイリアが呆れた顔をしていた。
 シャルゼは周囲の心境など構いもせず、おもむろにイサミアの髪をつかんだ。スルリと逃げる真っ直ぐな髪を手にして感嘆する。
「怯えてるじゃないのよ。やめなさい」
「まぁ失礼な。イリア。見なさいよ、この黒髪を。癖はなくて真っ直ぐだし、強いし、健康そうに青光りしてるわよ。色が抜けるなんてありえないわね。ああ、欲しいわ、この髪」
 危機感を覚えたイサミアは逃げようとしたが、逃げられない。
「何言ってるのよ。シャルゼだってそんなに綺麗な金髪してるじゃない。私の方が羨ましいわ」
「分かってないわねイリア。金髪なんてそこらにゴロゴロしてるじゃない。それに、私の髪は癖毛で細いから直ぐに絡まるし切れるし、手入れが大変なのよ。将来髪が薄くならないかが今の私の悩みの種ね」
 全員の視線がシャルゼの髪に集中した。
「そろそろミーアを解放してくれないか」
 誰もが沈黙を味わったあと、エスバドの声がその場に響いた。
 イサミアは抱え上げられて悲鳴を上げる。床が遠くなる。バランスを取るため、近くにあるものにしがみ付いた。
「それで、エスバド。彼女は誰なの?」
 首にしがみ付かれたエスバドは眉を寄せたが振り解くことはせず、イサミアが状況を理解するまで待った。気付いたイサミアは恐る恐る体を離し、エスバドの肩に手を移す。
「ミーア。海難に遭ったところを保護した」
「海難?」
 イリアは素っ頓狂な声を上げた。エスバドは頷いて続けようとしたが、その口を閉ざす。イサミアも気付いた。先ほどイリアが出てきた部屋から二人の男性が出てきて、こちらへ歩いて来る。
 頑健な大人二人。まるで廊下を塞ぎながら壁が迫ってくるかのように感じる。
 彼らの身なりや動きから『海軍だ』と直感で悟ったイサミアは硬直する。記憶を失っていても、脳の奥深くに刻まれた危険信号は失われていなかったらしい。
「なかなか来ないから心配していたんだ。無事に着いて良かった」
「イリア。いつまで廊下で立ち話しているんだ。彼は客人だろう」
 ディールアは息子に笑いかけ、ヴェラークは娘にため息をつく。
「心配していたわりには楽しげな声だが」
「お父様がいじけている部屋に彼を案内するのは気が引けただけよ」
 子どもたちは可愛くなかった。大人二人は沈黙し、顔を見合わせて肩を竦める。
 次にイサミアへと視線を移した。
「珍しく黒髪の子どもか」
「誰なんだ?」
 再び注目されたイサミアはエスバドの影に隠れようとした。イリアたちと違い、ヴェラークたちの瞳には油断ならない何かが秘められている。畏縮してしまう。
 エスバドの首に頭を押し付けると、怯えに気付いたのかエスバドは微笑んだ。
「大丈夫だ。左は俺の父で、右はイリアの父。ヴェラーク=カーデと言えばミーアでも知ってたんじゃないのか? どちらも海軍関係者だ」
 イサミアはますます体を硬くさせてしまう。二人の名前には聞き覚えがあるような気もしたが、安らぎは得られない。だが気遣うエスバドの優しさに何とか笑みを返し、イサミアは彼の腕から下りた。
「ミーアと言います。記憶喪失ですけどよろしくお願いします」
 繕うように元気な声で挨拶をし、頭を下げる。イリアが同じく元気な挨拶を仕返したが、他は不審な表情をイサミアに向けた。
「記憶喪失?」
「海難に遭ったんだ。ミーアの友人がまだ見つかっていない」
 エスバドの言葉に艦長二人は表情を引き締めた。
「ミーアが乗っていた帆船以外に被害はない。海水を巻き上げて、魚を降らせたくらいで終わった」
「そうか」
 近くの海域で起こったことは、すべて近くの町の管轄になる。変事があれば規模に関わらずヴェラークの耳に入るのだが、今回はダルス事件に紛れてしまったのか、報告がない。ヴェラークは眉を寄せてため息をついた。人のことを言える身ではないが、いくらダルスのことがあったとしても、そのために他の事件が疎かになるのは感心しない。
「分かった。ミーアはこちらで預かろう」
 エスバドが報告するくらいだ。イサミアの海難事故はヴェラークの管轄内であろうと判断して承諾した。
「恩に着ます」
 イリアとそう変わらない年齢のエスバドに頭を下げられ、ヴェラークは苦笑する。やりとりを見守っていたイサミアは両手を胸で握り締めた。エスバドが振り返り、良かったなと小さな笑みを向けるが、イサミアの表情は変わらない。
「私をここに置いていくの?」
 率直に訊ねると驚かれた。エスバドは不思議そうに頷く。
「記憶が戻るまで休ませて貰うといい」
「エスバドはどこに行くの」
「ミーアの友人を捜してくる。打ち上げられるならここが一番可能性が高い。他の領には商港がない。巡視網にかからなければ流されたと見て間違いないだろう」
「私も行くわ!」
 難しい話は良く分からない。イサミアは勢いのまま叫んでいた。驚くエスバドを必死の形相で見上げる。
 記憶がないこの状況に不安を抱かないわけではない。しかしイサミアは危機感を覚えていなかった。エスバドが側にいたからだろう。引き合わされた人物がどのような人たちなのか分からないが、エスバドさえ側にいてくれれば他にはいらないと思える。
 エスバドの袖をつかんで引き止めた。深緑の瞳ですがるように見上げる。泣きたいほど心細い。
 エスバドは困惑し、周囲に助けを求めるように視線を動かした。
 イサミアは必死で訴える。
「私があいつを捜すのは当然のことよ。エスバドにそれを止める権利はないと思うわ」
「そうね、ミーア。良く分からないけど頑張って」
「その制服のこと、学校にばらされたくないわよね?」
 状況が分からないままイリアとシャルゼが応援する。否、シャルゼは単に面白がっているだけだと思うが――エスバドは「脅しか?」と静かに瞳を細める。しかし女性陣には通用しない。父親二人が所在なさげに佇んでいる。
「いいわよね、エスバド。本当なら私はこんな大きな屋敷に置いてもらえるほど育ちがいいわけないのよ。私を思ってくれたのは嬉しいけど、私にとってはここより海の近くで野宿したほうが落ち着くわ」
「いや、それはやめろ」
「なら一緒について行っていいわよね」
 すかさず畳み掛けるとエスバドは眉間に皺を寄せた。うなってため息を吐き出す。許されそうな雰囲気にイサミアは期待するが、エスバドは意志を曲げるつもりはないのか、キッパリと否を告げた。
 絶望に暮れるイサミアの代わりにイリアが睨む。
「連れて行ってあげなさいよ。貴方1人で行くのとミーアを連れていくのと、どっちが効率いいか分かってるでしょう? エスバドはミーアの友人の顔なんて知らないじゃない」
 小さなイサミアの手を握り締める。
 けれどエスバドは動じない。
 昔から、自分の意志を変えようとしない幼馴染だった。こういうところは軍人であるディールア=ラードの血を引いているのだと思えて憎らしい。
 何も答えない彼に苛々とし、イリアは次なる言葉を選んで口を開こうとした。
「海賊が現れたそうじゃないか」
「え?」
 聞き逃しそうになって問い返す。
「また狙われたんだろう。屋敷で大人しくしてるのが一番だ」
 その言葉だけを取れば「喧嘩売ってるの?」と怒るイリアだが、口を閉ざした。エスバドがあまり言葉を選ばないのは昔からだ。言葉には愛想が欠落しており、とても短い。瞳だけが唯一彼の言葉を代弁して優しい光を湛えている。彼はイリアたちの身を案じているのだ。
「平気よ。今も何もなかったもの。これからだって同じだわ」
「どちらにしろイリアが屋敷から出るのは許さんぞ」
 胸を張っているとヴェラークが苦々しく口を挟む。
 イリアは唇を尖らせて振り返った。
「なによ。いいじゃないの」
「命令だと言っただろう」
 愛娘の声にももう動じることなく、ヴェラークは腕組みをしながら告げた。即座に逃げようとしたイリアは首根っこをつかまれて悲鳴を上げる。
「どうしてエスバドは良くて私は駄目なのよ!」
「何度狙われれば気が済むんだ!」
「狙われてなんていないって言ってるじゃないの!」
 手足を振り回して暴れるが、さすがに現役のヴェラークを負かすことは不可能のようだ。手足が彼に当たっても、イリアが痛みを覚えるだけだった。
「父さん。この制服はもう少し借りていて平気なのか?」
「自由にしたらいいさ。着ていれば便利だろう?」
「……ああ」
 学校の規律も軍人の規律も気にしないディールアにエスバドは苦笑する。有難く使わせてもらうことにした。そんな様を見つめたイリアは悔しさに唇を引き結ぶ。既に抵抗は諦めていた。
「ねぇ。私も行っては駄目なの? 海賊が出たから? でもエスバドの近くにいれば大丈夫でしょう?」
 イサミアの声が切なげに響き、イリアはエスバドを見た。彼は自分の意志を曲げるつもりはないらしい。小さく首を振る。
「俺はまだ正式な軍人じゃない。海賊と遭遇しても、自分の身を守ることで精一杯だろう」
 イサミアは悔しげに俯いたが、エスバドに頭を撫でられると笑顔を見せる。
「見つかったら一番に知らせてね。それと、海賊が捕まったら私もエスバドを追いかけるわ。その時は止められないわよね?」
「……ああ」
 エスバドは渋々ながら認めたが、イサミアはそれでも構わないように、嬉しげに微笑んだ。やりとりを窺っていたディールアが明るい声を挟む。
「行って来い行って来い。報告は怠るなよ?」
 エスバドはディールアに視線を向けた。
「……父さんはここで何をしているんだ」
「言っただろう。俺は休暇を取りに来たんだ」
 エスバドの片眉が上がった。イサミアの友人を見つけに行くと決めたのはエスバド自身だが、海賊が潜んでいるかもしれない状況で休暇を続行するのが九番艦隊艦長のやるべきことなのかと、冷たい視線を向ける。隠さない非難にディールアは肩を竦めた。
「仕方ねぇな。分かったよ」
 頭をかきながらヴェラークに片手を振った。
「ヴェラーク、お前は屋敷から出るなよ。繋ぎ役は俺とエスバドでやってやるから感謝しろ」
 二人は歩き出す。
「またな、イリアちゃん。夜になったら戻ってくるよ」
「父さん。言っておくが、戻るのは皆が寝たような深夜過ぎだ。飽きたからって途中で引き上げたりしたら、母さんに言いつけるからな」
 ディールアは非情に情けない顔をした。そんな彼の脇をエスバドは通り過ぎる。
 二人の背中をイサミアが見守る。
 イリアは嘆息してイサミアの頭を撫でた。

前へ目次次へ