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第三話

【八】

 記憶がないとはどんな気持ちなのだろう。
 イリアは隣で眠るイサミアを見つめていた。ヴェラークが呼んだ医者には、海に投げ出されたショックで記憶が混乱しているだけで、一時的なものだろうと診察を受けた。記憶がいつ戻るのかは分からない。
 イサミアの寝顔はとても幼い。エスバドに見せた気の強さはなりをひそめている。妹ができたようで嬉しく、イリアは微笑みながら見下ろす。
 視線をずらして外を見る。煌々と存在を主張する月を見つめたあと、再びイサミアに視線を向けて手を伸ばした。
 シャルゼに『羨ましい』と言われた黒髪。確かにカーデ領では珍しい色だ。ジェフリス国ではもともと濃い色素を持つ人間自体が珍しい。多くがシャルゼのような金髪か、エスバドのような柔らかい黄土色をしている。
「シャルゼじゃないけど、確かに羨ましいわよねぇ」
 太陽の下ではさぞや綺麗に光を反射するだろう。成長すれば確実に『美人』の部類に入りそうな少女だ。
 髪の質感をひと通り楽しんだ後、寝台に腹ばいとなる。両手で頬杖をついてイサミアの寝顔を見つめる。
 シャルゼやイサミアには個別に客室が用意されたが、イサミアたっての希望でイリアと共に眠っていた。彼女を妹のように思ったイリアは嬉しくて喜んだものだ。
 先ほどまではシャルゼも同じ部屋にいた。取調べを受けたことなど嘘のように三人で賑やかに騒いだ。学校での先生の愚痴や、興味を覚えた授業の内容や、笑える失敗談など。きらきらと瞳を輝かせるイサミアにせがまれるままイリアたちの会話は熱くなっていった。廊下の護衛兵がつられて笑ってしまうほどだ。
 今はもう夜中。シャルゼは部屋に戻り、屋敷の者たちも眠っている。
 イサミアはエスバドが戻るまで起きていようと気を張っていたが、押し寄せる眠気には勝てなかったようだ。イリアが気付いたときには眠っていた。
「そういえばエスバドたちって、もう戻ってきたかしら」
 イリアは体を起こした。
 戻ってきたら直ぐに顔を見せてねと伝えていたが、彼の性格から言って、このような時間帯に部屋を訪れることはしないだろう。
(報告は明日でも聞けるけど……)
 イリアは眠るイサミアを窺う。
 イサミアが起きて、エスバドが戻ってきたことを伝えれば喜ぶだろう。その時のことを思えばエスバドが良い顔をしないことも怖くない。
 イリアは扉に向かった。白い夜着が足元を覆う。白緑色の羽織を取り上げ、腕を包んだ。振り返るとイサミアは変わらぬ寝顔を見せている。起きる気配はない。疲れが溜まっていたのだろう。
 小さな声で「行ってくるね」と告げ、廊下に出た。
 まさかこのような夜中にイリアが動くとは思っていなかったのか、ヴェラークが配置していた護衛兵はいなくなっていた。
「大体、エスバドの方が年上とか言ってるけど、学年は同じじゃないの。なのに私は駄目なんて。理不尽も良いところだわ。海に出るのが禁止されてるのはエスバドだって同じなのに」
 誰に気兼ねすることなく廊下を歩けるとなると、途端に怒りが再燃する。薄い夜着をヒラヒラと舞わせながら唇を尖らせる。
 見回りの男たちが外にいるのが見えた。見覚えのある人物ではないから、今回の事件で新たに配置された海軍だろう。彼らの目を掻い潜って街へ出るのは至難の技だ。勝手にため息が零れてくる。
(こんな夜に1人で出たってお父様の不興を買うだけだし、用事はないわ。大体、私はミーアの友人の顔も知らないし。私が出たって動けることは何もないのよね。やっぱりエスバドに成果を聞くだけだわ)
 少しだけ肌寒く感じて体を震わせる。夜着の前を強く重ね合わせた。羽織を肩から羽織りなおし、かぶりを振る。足早に客室へ向かう。
 ミレーシュナが亡くなってから、屋敷からは華やかさが減った。
「お姉ちゃん、今年は帰ってくるのかな……」
 ミフト大陸へ渡ったヴィダ=カーデを思う。芯が強い女性で、イリアの憧れだった。駆け落ち同然で屋敷を出ると言ったときは驚いたけれど、納得もした。それでこそヴィダだと応援することにした。ヴェラークの許可が下りるまで時間がかかったが、もう認められている。そうなればイリアには、婚約も結婚も同じようなものだ。イリアの中でヴィダはもう結婚したことになっていた。
 次にイリアはエスバドを思った。彼は密かにヴィダに憧れていたようだが、国を出るとき引きとめようとはしなかった。笑顔で二人を祝福した。イリアには釈然としない思いが残された。
「告白されたって困るだけだろうけど、黙って身を引くなんて男らしくないわ」
 奪い取るぐらいの意地は見せて欲しい、とイリアはどちらの幸せを願っているのか分からないようなことを呟きながら、歩き続ける。
「エスバドとお姉ちゃんが一緒になってくれるなら、お姉ちゃんはずっとここにいるのに」
 結局は姉が遠くに行くことが寂しいだけの愚痴だ。唇を尖らせながら客室の一角へ踏み入る。屋敷に軍関係者が泊まることが多いため、イリアたちの私室と客室は離され、渡り廊下を通らなければ辿り着くことができない。
 ようやく客室棟へ辿り着き、角を曲がろうとしたとき、イリアは反対側から出てきた人物にぶつかった。相手は結構な速度で走っていたようで、イリアは簡単に跳ね飛ばされて廊下に転がった。
「痛ーっ」
 紫色の髪が視界を覆った。誰だろう、と起き上がろうとして息を呑む。
「イリアか」
 やや安堵するような声。腕をつかまれて引きずり上げられる。
 顔は見えなかったが、声だけで誰なのか理解したイリアは悲鳴を上げようとした。なぜ彼がここにいるのか、理解できない。
 しかしイリアが悲鳴を上げる前に、抱き締められて声が出せなくなる。
「少し付き合ってもらうぞ」
 赤銅色の髪を月明かりが照らす。イリアは息苦しい中でもがくように顔をあげ、そこに見た笑顔に唇を引き結ぶ。両足が地面に着いていないためバランスが悪く、力が入らない。手を突っ張りたかったが腕は動かない。
 どこから入ってきたか、など愚問だ。シャルゼと同じく風の能力者なのだから。彼はイリアを抱えたまま侵入経路を遡る。内側から窓を開け、風の力を借りて軽々と外へ飛び出した。
 冷たい風に包まれ、素足が冷たくなっていくのが分かる。けれど男の体温にすがりつくことだけは嫌で、イリアは硬直したまま瞳を硬く閉ざす。どこに連れて行かれようとしているのか分からないまま。イリアは攫われた。

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