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第三話

【九】

 気が遠くなりそうな空中飛行を続けたあと、不意にダルスの腕の力が緩んだ。
 イリアは慌ててしがみ付く。星空しか見えないこの状況で放り出されてはたまらない。抱え直されて安堵の息をつく。次いで、耳を打つ笑い声に気付いて紅潮した。
「どこに連れて行くつもりなのよっ?」
 頭の後ろに回されていた手はもうない。
 顔を上げたイリアは睨みつける。赤銅色は、背景の藍色に沈んで見えた。あまりに近い距離に動悸が激しくなる。だが、これ以上は離れられない。ダルスの肩で拳を握り締めて悔しく思う。
 乱れた髪が視界を奪って鬱陶しい。
 屋敷を探したが、もう遠く離れた場所まで来たようで、見当たらなかった。もっとも、屋敷を空から見たことがないため、分からなかっただけかもしれない。
 手足がいよいよ冷たくなり、針を刺されているように痛くなる。ジェフリス国は温暖な気候だが、昼と夜との寒暖さは激しい。ダルスにしがみついていても風は容赦なく体温を奪っていく。
 熱が出そうだ、と吐息を洩らしたとき、高度が下がった。
 目的地に着いたのだろうかと首を巡らせたが、見ること叶わない。攫ったときのようにダルスはイリアの後頭部に手をあて、自身の胸に押し付けて動けなくさせる。イリアの視界には再び星空しか映らなくなった。
「ちょっと待てダルス。なぜイリアなんだ」
「レナード。ちょっとどけ」
 聞こえてきた声にイリアは瞳を見開かせる。ダルスは窓を越え、中へ入るとイリアを下ろす。冷たさに感覚を失っていたイリアはそのまま座り込んだ。どこかの屋根裏のような場所を、呆然と見渡す。明かりは月明かりだけのため、奥まで確認することはできなかった。
「何、ここ?」
 側を離れようとするダルスの腕をつかんで問いかける。気付けば、端でレナードが呆れた顔をしながら頭を掻いていた。諦めたようにため息をついている。
 どことなく不機嫌そうなダルスだが、不機嫌なのはこちらだ、とイリアは気を強くして手に力を込める。振り解こうとしていたダルスはため息をつく。
 イリアに向き直り、口を開こうとしたとき。イリアは体を震わせ、小さくくしゃみをした。
「寒いわ!」
 気付いたようにイリアは両腕で自分を抱き締め、奥歯を噛み締めた。ダルスという熱が離れたことで、体温は低下の一途を辿っているような気がする。小さくなって体を震わせる。どこからともなく強い隙間風も入ってくる。
 ダルスは笑い、しゃがみこんでイリアと目線を合わせた。
「温めて欲しいのか?」
「ダルスの上着を寄越しなさい!」
 実力行使でダルスの上着を剥ぎにかかる。
「うわ! 俺だって寒いっての」
「そんなの知るもんですか。強引に連れてきたのはダルスでしょう。それくらい我慢しなさいよ!」
 鼻をすすりあげてつかみかかるが、死守しようとするダルスは中々の強敵だった。襟のボタンは外せたが、そこから先は中々外れない。勢い余って床に転がりながら、攻防戦を繰り広げる。
「お前らなぁ。服ごときでそこまで喧嘩するな!」
 業を煮やしたようにレナードが一喝する。壁にもたれかかり、両腕を組んだ彼は渋い顔で二人を見下ろしている。イリアは体を起こして唇を尖らせた。
「何を言うのよ、レナード。こんな格好じゃ寒くて当たり前でしょう!」
「寒いなら俺が温めてやるって言」
「お断りだわ!」
 伸びてきた褐色の腕を叩き払った。
 威勢の良さにレナードは苦笑する。ダルスも笑い、窓を閉めるとイリアを振り返った。彼は上着を脱ぐとイリアに投げ渡す。少し重たい服には、まだダルスの体温が残っているようだ。
 イリアは意図が分からず、困惑するように顔を上げる。
「……いいの?」
「寒いと言ったのはお前だろう」
 どこから入手したのか、二人がまとうのはサーフォルー海軍の正装だった。カーデの勅令艦隊に所属する者たちは識別色をまとうが、そうではない者たちは黒い軍服をまとう。因みに海軍学校の生徒たちも黒い制服を着ているが、海軍と差をつけるため、襟には紋章ではなく手縫いの国章を定めている。
 イリアは渡された黒い軍服を見下ろし、複雑な胸中になる。襟には太陽の紋章が掲げられていた。しかし今更詰問しても無駄だろう。遠慮なく袖を通す。小さな体にはサイズが合わず、袖も裾もかなり余ってしまう。更に、ダルスの体温が残っていて余計に落ち着かない。
 イリアは内心の動揺を隠しながら立ち上がった。
「それで。私に何か用なの? 服に免じて人を呼ぶことだけはしないであげるわ」
 適当に腰掛けて休む二人を見つめる。ダルスは上着の下にもしっかりと長袖を着ていたらしく、思っていたより寒そうには見えなかった。
 屋根裏を見渡したが階段はない。もしかしてこの部屋は海賊が身を隠すために使っている専用の部屋なのだろうかと首を傾げる。
 そんなイリアの様子にダルスは軽く苦笑し、レナードを見る。つられてイリアもレナードを見るが、彼は渋い顔でダルスを睨むだけだった。何の意味があるのか分からない彼らの行動に戸惑い、イリアは瞳を瞬かせる。レナードの瞳にはすでに笑みがない。
「怒るなよ。先にこいつに見つかったんだから仕方ないだろう」
「嬉々としてたように見えたがな」
「間違いじゃないさ」
 ふてぶてしく頷くダルスにレナードは怒りを強めたようだ。
 イリアはしばらく待ったが、二人の睨み合いが続くだけで何の進展もない。もう一度、口を開く。
「それで。何の用なの?」
 ダルスの上着をしっかりと前で重ね合わる。いくら上着があろうとも寒い。平気な顔をしているダルスたちが信じられない。海上で暮らしていると、人よりも寒さに強い体質になるのかと思うほどだ。イリアは不思議な悔しさを覚えた。
 レナードはダルスを睨むだけで何もしない。イリアが苛々とし始める頃、ダルスが顔を向けて、口を開いた。
「お前の屋敷に子どもが入っただろう」
 その口調は重たい。イリアに向ける瞳は真摯だ。ふざける様子もなく、イリアは戸惑いながら首を傾げる。
「子ども……?」
「黒髪で緑色の目をした子どもだ。緑の軍服を着た男と共に屋敷に入って行くのを見た」
 口火を切ったダルスに続けてレナードも言葉を重ねるが、その口調も真剣だった。初めて見る様子に、イリアの中には不安が募っていく。
 心当りのある人物は1人しかいない。
「ミーアのこと?」
「ああ。そいつだ」
 体を前に傾けたレナードを制してダルスは静かに頷いた。
「……なぜ貴方たちがミーアを捜しているの? 彼女に手を出したら承知しないわよ」
 イリアは口調も鋭くダルスを睨む。海難に遭ったばかりの彼女が、これ以上の災厄に見舞われるのは我慢ならない。あのようにあどけない寝顔をした彼女が海賊に狙われる理由も解せないが、何かあるなら私が守ろう、とイリアは密かに決意した。
 もう一度ダルスを睨み、そして瞳を瞬かせた。一瞬だけ、彼の視線がミーアと重なったような気がした。
「聞いていないのか?」
「……何を?」
 ダルスは戸惑うように視線を揺らせ、口を開こうとしたが噤む。そのままレナードを見た。
「隠していると思うか?」
「子どもだしな。それほど怪しまれてはいないだろうが」
 イリアには理解不能な会話だ。話の内容が見えない。小さな苛立ちを募らせつつ、息を吸い込む。
「だから」
「ミーアはお前に会いに来たと言ってなかったか?」
「私に?」
 イリアは瞳を丸くした。
 そんなイリアの様子にダルスたちは再び顔を見合わせ、その表情を徐々に曇らせていく。
「あいつが何もバレずに入り込めたとは思えないんだが」
 イリアは両手を腰に当てた。
「あの子が貴方たちにどう関係があるのか知らないけど、悪く言うのは許さないわ。ミーアは今、記憶喪失なの。だか」
「記憶喪失っ?」
 ダルスとレナード、二人からの大声にイリアは「だから追いかけても無駄よ」と言いかけた口をそのまま固まらせた。ダルスたちの表情は険しさを増していく。
(一体何だって言うの?)
 ダルスが舌打ちし、疲れたように座り込んだ。
「これであいつが今まで何の行動も起こしてない訳が分かった」
「厄介だな。祭りまでに、間に合うのか?」
 苦々しく呟くレナードにイリアは眉を寄せる。
「イリア。なぜあいつが記憶喪失なんかになったのか、聞いてるか?」
 集中して彼らの会話を聞いていたイリアは顔を上げ、どうしようかと顔をしかめた。言い逃れようかと思ったが、ダルスの瞳に声を詰まらせる。彼の瞳は真摯で、どこか切なさを含んでいるようで吸い寄せられる。
 気付いたら言葉が零れていた。
「嵐に巻き込まれて船が難破したらしいわ。医者は一時的なものだと言っていたけど、記憶が戻る目処はないわ」
「難破」
 ダルスの声が床を低く滑る。レナードは声を出さず、床を見つめて表情を硬くさせていた。二人にとって、イサミアはどのような存在なのだろうか。野心的な意味で追っているのではないような気がしてきた。
「貴方たちの間に何があるのか分からないけど、ミーアのことは放っておいて。あんなに小さな子どもが海賊に追われるなんて可哀想じゃない」
 ダルスの表情が微かに歪んだ。
「ミーアの友人も見つかってないし、環境の変化にまだ戸惑って」
「見つかっていない?」
 レナードの声は、先ほどのダルスより更に低かった。
 イリアは息を呑む。思わず助けを求めるようにダルスを見たが、彼の表情も恐ろしく張り詰めているようなもので、視線を落とす。間違えて海賊船に乗ったと知ったときのような恐ろしさが湧き上がってくる。
「イリア」
 掛けられたダルスの声に思わず震えた。
 唇を引き結んで顔を上げる。緑の双眸に負けそうな気がして心を奮わせる。ここで負けたら誰がイサミアを守るというの、とまだ何も知らないイリアは強く念じる。
「ミーアのことは諦めて。今、カーデ領にはラード艦長もいるわ。こんな中でミーアを攫うなんて騒ぎを起こしたら、貴方たちは今度こそお終いよ」
 ダルスは小さく苦笑した。
「お前は俺たちを捕まえるために志願したんじゃなかったのか」
「お望みなら今すぐに捕まえてあげるけどっ?」
 好意を揶揄られて憤慨する。張り詰めた空気が霧散し、向けられた弱い笑みに言葉を詰まらせる。胸が痛んだ。
「ダルス。祭りまでは二日ある。それまでに見つからなかったら、優先順位を間違うなよ」
「ああ。分かってる」
 苦々しげなダルスの声が静かに響いた。
 逸らされた彼の表情が泣きそうなものに思え、イリアは近づくとダルスの両手をつかんだ。覗き込むとダルスは驚いたように瞳を丸くしている。
 彼のそんな様に自分の行動を振り返ったイリアも同じく驚き、慌てて離れようとしたが、腕をつかまれていた。不意に和らいだ瞳に言葉を詰まらせる。抱え上げられ、悲鳴を上げた。
「暴れるな。送ってやる」
 イリアを押さえつけたダルスは窓を開けた。流れ込む空気とは別に、彼の起こした風がイリアを包む。微かに潮の香を感じた。
 顔を上げた先にはレナードがいた。ダルスの行動に何を言うでもなく、一瞥しただけで視線を落とし、何かを考え込んでいた。笑顔はない。
 窓辺に足をかけたダルスが空へ身を投げる。イリアの視界も彼と同じく切り替わったが、最後までレナードがイリアを振り返ることはなかった。
 海賊船で気のいい料理人を務めていた彼ではなく、どこか焦燥を感じさせる、海賊の顔。
「ミーアと貴方たちって、どういう関係なの?」
 ダルスたちの隠れ家から遠ざかり、星空しか視界に入らなくなる頃、問いかけた。ダルスの上着を羽織ったままのため、当初よりは寒くない。それでも素足は冷える。感覚がなくなっていくのが嫌で、イリアは軽く足を揺らせた。
「もしミーアに危害を加えるようだったら、今度こそ容赦しないからね」
「今回は特別か?」
「当たり前よ。毎回毎回私が見逃すと思ってたら大間違いよ」
 ダルスから感じる違和感は消えていなかったが、それでも笑みを向けられて安堵する。屋敷が視界に入り、顔を輝かせる。海賊に送られるなどおかしな話だ。
 正確に自分の部屋へ向かう彼にイリアは複雑だったが、今回は忘れることにした。両手が塞がっている彼に代わって扉を開け、部屋の中に飛び降りる。
 寝台には、部屋を出たときと変わらない様子でイサミアが眠っていた。小さな体が寝台に埋もれるようだ。その可愛らしさと、何事もなかった、とイリアは笑みを浮かべた。今回はヴェラークにも気付かれていないようだ。
 ダルスに向き直ったイリアは息を呑んだ。
 月明かりを背にしたダルスがイサミアを見つめていた。その表情は酷く感情を掻き立てられるように複雑なもので、驚いた。
「――ねぇ。もしかしてダルスってミーアが好きなの?」
「……は?」
 そんな反応を、イリアは複雑な気持ちで受け止めるとため息をついた。
「ダルスとミーアじゃ歳が違いすぎるけど、気にしないわ。世の中にはそういう人もいるって知ってるもの。でも、ミーアは渡さないわ」
 ダルスが呆けている間にイリアの妄想はどんどん広がっていく。宣告までされた。ダルスが無言でいると、イリアの想像は逞しく広がり続ける。
「ダルスに目を付けられたことを知って逃げてきたのね。一緒に船に乗ってた友だちの方が好きだったのに、ダルスが追いかけてくるから駆け落ち同然で必死に逃げたんだわ。かなりの無茶をして、だから嵐に遭ったの。可哀想に。ダルスが追いかけなければミーアが嵐に遭うこともなかったのに。どこかの街で、好きな人と一緒に幸せに暮らしていけたはずなのに。ミーアの記憶喪失はダルスのせいね!」
 想像に熱を入れたイリアは途中で涙を滲ませていた。聞いていたダルスはどこで止めようかと様子を窺っていたが、やがて結論を出したイリアに睨まれて体を引く。
「ミーアがこんな状態になっているのはダルスのせいよ。反省しなさいよ」
 境遇を思っただけで泣けたらしい。
 呆気に取られていたダルスは何と言葉をかけたものかとイリアを見つめていたが、その表情を改めた。険しい顔で唇を引き結ぶ。
「そうかもな」
「え?」
 笑われるか、否定されて逃げられるのだと思っていたイリアは、予想外に肯定されて驚いた。更に、肯定する声も弱弱しくて戸惑うばかり。
「ミーアが無茶したのは確かに俺のせいだ」
 素直に認める言葉は似合わない。
「あ、あの、ダルス。そんなに自分を責めなくてもいいわよ。誰にでも間違いはあるんだもの。ごめんね?」
 そんな慰めにかなりの違和感を覚えたイリアだが、慌てて窓から身を乗り出す。いまだ外で宙に浮くダルスに腕を伸ばす。その腕は、つかまれた。
「だが、勘違いされるのは気に食わないな」
 いつの間にかダルスの表情はいつもの強気に満ちていた。挑発的な笑みまで浮かんでおり、騙された、とイリアは歯噛みする。
「俺が欲しいと思ったのはお前だけだ」
 緑柱石の瞳に呪縛された。逃げようと考える暇もなく口付けられる。ダルスの手が耳に触れ、イリアは体をよじらせる。
「ミーアは二日後に迎えに来る。それまで頼むな」
 肩から重みがなくなり上着を奪われる。解放された瞬間にも距離を取ったイリアは、真っ赤な顔で睨みつけた。目の前で悠々と着替え、黒い上下の軍服をまとうダルスを見る。笑って片手を上げられても怒りは強まるばかりだ。
 ダルスが窓の側を離れる。
「ちょ……と、待ちなさいよ、この馬鹿ーっ!」
 拳を握り締め、地団駄踏む。
 イリアは遠ざかる彼の姿に怒鳴り声を上げた。

第三話 前編 END

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