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第三話

【一】

 起き上がったイサミアの両手を握り締めてイリアは言った。
「負けないでねミーア。私はいつだって貴方の味方よ」
 起きた直後の励ましにイサミアは何度か瞬きを繰り返した。幼い顔には戸惑いが浮かぶが、イリアは気付かない。
「お嬢様。お着替えをよろしいですか?」
 起きたばかりで頭が働かないのかしら、と首を傾げるイサミアの注意を逸らしたのはミトスだった。小さな咳払いを1つしただけでイリアを邪魔者扱いする手腕はさすがと言えよう。イリアはイサミアの手を放してミトスに頷く。
「ええ。お願いするわ」
「あの、私も……?」
 ひとまず先ほどの言葉は忘れたイサミアだが、次なる戸惑いが生まれてしまう。ミトスの腕には子ども用の服があった。嬉しさと罪悪感が同時に湧く。
 イサミアの胸中を正確に読み取ったミトスは「もちろん」と優しく頷いた。顔に浮かんだ喜びは偽りではない。
 イサミアは、それでも戸惑ってイリアを見た。イリアも同じく、どうぞ、と促すだけだ。
「遠慮することなんてないわ。婆やも、孫が増えたみたいで嬉しいのよ。私の時もそうだったんだから。イサミアも存分に甘えなさい」
 胸を張るイリアに苦笑し、ミトスはイサミアに近寄った。
 イサミアは着替えを差し出されてもまだ困惑していたが、最終的には強引なイリアに折れて受け取った。
「お着替えはお1人でも大丈夫でございますか?」
「平気よ。ミーアは昨日も1人で着替えられたわ」
「うん、大丈夫」
 イサミアは新しい服を珍しそうに裏返したり伸ばしたりしながら頷いた。
 ミトスはイサミアのそんな様子を楽しげに見つめ、後退する。イリアたちが着替えられるように場所を譲った。
 イリアはいつも通りに素早く着替える。学校に入る前はミトスに手伝って貰わなければ1人で着替えができなかった。けれど軍学校では自立性が求められるため、着替えが1人でできないなど論外だ。イリアの自立はミトスを寂しがらせたが、今では立派になって、と思うようにしたらしく、何も言わなくなった。学校に入ってからは動きやすい服しか着ないため、着替えは簡単にできるようになった。屋敷で客人を迎えるときや、改まった正装で他の屋敷を訪れるとき以外はすべてイリア1人で仕度している。
 イリアは腰帯までをしっかり縛り上げてからイサミアを振り返った。彼女は夜着と普段着との違いに戸惑っているようで、寝台に着替えを広げたままどうすればいいのか考え込んでいた。
 夜着は頭から被ってしまえばいいが、女性の普段着は子ども服と言えども複雑だ。経験のあるイリアは笑いながら手伝った。
 その服はイリアが幼い頃に着ていた服だ。薄い緑で統一されており、数年経っても発色が良い。活発だったイリアに合わせ、動きやすいようにミレーシュナが特別に作った服だ。
「上から被っちゃえばいいのよ、ミーア」
 言われてから気付いたようで、イサミアは笑顔になって実行した。そんな可愛らしさにイリアは頬を緩めて着替えを見守る。服を被って終わりかと思ったイサミアだが、直ぐにその表情は戸惑いに変わった。裾が床を引きずっている。更に、腰から伸びた薄い布をどうすればいいのか分からずに四苦八苦する。
「はいミーア。両手挙げて」
 言われた通りに両手を挙げるイサミアの服をつかみ、イリアは素早くまとめた。裾の長さを調節して持ち上げ、薄い布を可愛らしく縛り、動きやすいように腰帯で縛る。どれもミトスから教わったことだ。
 ミトスは忍び笑いで二人を見守る。昔のイリアを思い出しているようだ。
「あの。ありがとう」
「どういたしまして」
 自分の仕事に満足したイリアは笑顔を見せる。イサミアも嬉しそうに笑い返す。
 それまで黙ったまま見守っていたミトスが進み出た。
「さぁお嬢様。お次は私に任せて下さいね」
「ああっ。私もやりたいのに!」
 イサミアを鏡台の前に座らせて、ミトスが髪を触る。
「お嬢様より婆やの方が上手でございます」
「そりゃそうだろうけど!」
 妹のように思うイサミアに手をかけたかったイリアは悔しくて地団駄を踏んだ。控えていた侍女たちが笑い出し、イリアは決まりが悪くて唇を尖らせる。
「ではお嬢様。今日はミトス様の代わりに私が結びますわ」
 楽しげに笑いながら1人が進み出た。
 イリアは渋々椅子に座る。いつまでも異を唱えていても仕方ない。
 隣を窺うと、イサミアが奇妙な顔をしながら鏡の中を見つめていた。


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 ダルスとはどのような関係なのか。イリアは何度も聞こうとして口を閉ざした。記憶を失っているときに問いかけるのは酷だ。もしそれがキッカケで記憶が戻るとしても、彼女に余計な恐怖まで思い出して欲しくなかった。
 昨夜の想像は、一晩経った今では更に肥大して育っていた。
 イサミアへの問いかけを諦めたイリアは、次にヴェラークに報告しようか迷い始めた。
 彼が動けばダルスは直ぐに捕まるだろう。彼らの拠点は大よそ分かった。けれど、イリアはためらってしまう。ダルスが捕まり、イサミアに余計な心労を与えないか――そちらを、イリアは心配していた。ダルスが知ったら嘆くかもしれない。
「エスバド、帰って来てるかな?」
「え? ああ――夜になれば戻ってくるって言ってたから、戻ってきてるわ。きっとね」
 食堂へ向かう途中、そんな問いかけに微笑んだ。
「恋人が見つかっていればいいね」
 手を繋いだイサミアは首を傾げたが、イリアは気付かず視線を前に戻していた。ヴェラークに報告すべきか否か、やはり迷う。
「ねぇミーア。記憶はまだ戻らない?」
「うん」
 繊細な問題に触れるのは気が引ける。
 ためらいながら問いかけたイリアに対し、イサミアは何の気負いもなく素早く答えた。
「気にしても仕方ないから。どうせなら全部忘れることにしたの」
 前向きなのか何も考えていないのか、どちらにも取れる言葉にイリアは笑った。
 食堂の扉に手をかける。
 その瞬間。
「きゃああっ?」
 開いた扉の向こう側から、強い風がイリアを襲った。
 イリアはとっさに両腕を前にかざすと足に力を入れて踏ん張る。が、無駄な努力だった。超局地的な風はイリアだけに吹き付けられ、凄まじい風圧に、イリアは悲鳴を上げて床に転がった。
 もちろん、誰の仕業なのかは明白だ。
 イサミアには何の怪我もないことを一瞥して確認し、イリアは素早く立ち上がった。食堂で席に着いていたシャルゼを睨みつける。
「いきなり何するのよ、シャルゼ!」
「い、や、が、ら、せ」
 一文字一文字、シャルゼは心を込めて答える。イリアは脱力してしゃがみ込んだ。何の被害も受けなかったイサミアが、どうしたらいいのか困惑したように見つめてくるのが分かる。
「何をしゃがみ込んでいるんだ?」
 背後からちょうど食堂へやってきたヴェラークが声をかける。今しがた起きたことなど彼は知らないらしい。眉を寄せ、イリアたちを見比べる。
「お父様……」
 力ない声で呟いて立ち上がる。膝についた埃を軽く払い、そしてエスバドとディールアに気付いて目を瞠らせた。
 イリアが声を掛けるよりも早く気付いたイサミアが満面の笑みを浮かべて駆け寄る。
「エスバド!」
「おはよう、ミーア」
「おはよう!」  抱きつかんばかりに喜ぶイサミアにエスバドは無表情で返し、隣のディールアに小突かれる。
「ちっとは笑ったらどうだ。子ども相手に仏頂面してたら怖がられるぞ」
「父さんみたいにいつも呑気ではいられない。この顔は生まれつきだ」
「大丈夫よ、エスバド。エスバドが本当は優しいってことは、ちゃんと分かってるから、落ち込んだりなんてしないわ」
 イサミアに励まされ、エスバドは複雑そうに眉を寄せた。やり取りを聞いていたイリアは笑い出す。
「ほらイリア。そこにいると皆が通れないから」
 ヴェラークに促され、イリアは慌てて道をあけた。三人が入ってくるのを待ってからエスバドに声をかける。
「昨日はお疲れ様。首尾はどうだったの?」
「まだ、何も」
 エスバドはイサミアを抱え上げて淡々と答えた。
「そう」
 イサミアに懐かれるエスバドを羨ましく思いながらイリアはテーブルを回り込み、シャルゼの隣に腰掛ける。彼女からは非情に不機嫌な気配が漂っていた。心当りのないイリアは首を傾げる。やはり昨日は家に帰れなかったからだろうか、と思ったが、昨日の夜は一緒に楽しく騒いだため、腑に落ちない。もしそうだったとしても、それで八つ当たりを受けるのは理不尽だ。
 イリアはシャルゼを窺ったが、彼女は顔を逸らしてイサミアを見つめた。追求は叶わず諦めて、イリアはヴェラークに身を乗り出した。
「町の様子はどうだったの? 今朝は町に下りたのでしょう?」
 皆が着席して直ぐに料理が運ばれてきた。焼きたてのこんがりパンに、緑鮮やかな卵サラダ。赤いチェックの下敷きの上に、白砂糖をまぶしたパウンドケーキが運ばれる。その隣には小さなバスケットに入った焼き菓子も置かれた。
 イサミアは目を丸くし、落ち着かないように視線を漂わせた。
 そんな様をイリアはどこか微笑ましく思う。そして再びヴェラークに視線を向ける。
 ヴェラークは部屋着ではなく青藍の軍服をまとっていた。彼が町に下りた何よりの証拠だ。執事に渡された外套には雨露も滲んでいた。
 ヴェラークはディールアと話し合っていたが、イリアの問いに顔を向け、会話を打ち切った。二人は難しい表情をしている。ダルスたちはまだ捕まっていないのだろうと推測する。あの隠れ家は滅多なことでは見つかりそうもない。
「混乱はさほどでもないが、物資の搬入も止められるとなれば、警備が長く持たないな。あいつらの顔は知られてないから、住民に協力してもらうのにも限界がある」
「イリアちゃん。奴らがどこに潜んでるか見当つかない? 一緒に過ごしたよしみでさ」
「そんなよしみがイリアにあってたまるか」
 体を乗り出すディールアに対し、ヴェラークは苦々しい顔で吐き捨てた。
 イリアは屋根裏のことを話そうか逡巡したが、エスバドの隣で楽しげに笑うイサミアを見てかぶりを振った。
「知らないわ」
 嘘には心が痛む。誰にも悟られないように拳を握り締める。
 聞いたディールアは疲れたように脱力した。
「そうかー。もう町の外に出ちまったかな〜?」
「決め付けるのは早計だろうが……あと二日も調べて見つからなかったら解くしかない。平民たちからはもう不満が上がっている」
 ヴェラークも疲れたようにぼやきを上げた。もしかして今日は関所に行っていたのかと、イリアは開きかけた口を慌てて引き結ぶ。勢いでダルスたちのことを喋ってしまいそうな気がする。
「お前たちは今日からまた学校だろう? 学校側には説明しておくから、今日はこのまま屋敷で待機していなさい」
 予想していたことだ。イリアはさほど落胆せずに黙って頷いた。何かを考え込んでいたらしいシャルゼも顔を上げ、ええ、と頷く。従順な二人にヴェラークは安堵の表情を見せた。
「あ、そうだヴェラーク。それで思い出した」
 ディールアが気付いたように顔を上げる。ダルスに関する重要なことを思い出したのかと、全員の視線が集中した。
「今日からエスバドをこの屋敷で預かってくれないか?」
「は?」
 ヴェラークは一瞬だけ沈黙したあとに眉を寄せた。
「着いた早々こんな騒ぎで忘れてたが、ここにはそれを頼もうと思って来たんだ」
「……聞いていないが」
「ああ。今思い出したんだ」
 ディールアはパンを齧りながらひょうひょうと言ってのける。沈黙が流れ、イリアとエスバドは顔を見合わせた。エスバドも驚いている。
「父さん。俺も聞いてないんだが」
「ああ。お前にも言った覚えがねぇ」
 先ほどと同じ言葉が返される。唖然とする周囲をよそに、ディールアは笑った。
「今年からエスバドが学校に通い始めただろう? 毎朝俺が送迎してたんだが、そろそろやめてくれと学校から頼み込まれてさ」
 あそこの軍曹には世話になってるから押し切れねぇんだよなぁ、と呟くディールアに、ヴェラークはため息をついた。
「そんなことしてもらってたの?」
「俺は毎朝断っている」
 子どもたちはボソリと交し合い、その隣ではイサミアが首を傾げて成り行きを見守っていた。
「学校に艦で送迎などしてたら苦情が来るに決まってるだろう」
「お前と一緒にするな。公用の艦じゃなくて、自前の艦で送迎してんだ。問題ないだろ」
 親馬鹿は胸を張った。
「が、それもできなくなってな。毎朝屋敷から学校に通うより、ここから学校に通った方が近いだろう? エスバドも毎朝の負担が減って、嬉しいことだらけじゃないか」
 カーデ領とラード領は、普通の船で行き来するには二日以上かかる。学校は毎日あるため、送迎しているというなら最速艦を使っているのだろう。公用の艦ではないと明言したディールアだが、彼の基準は九番艦隊に所属するか否かに寄っているらしい。カーデ領とラード領を一日で往復できる艦など、軍の船以外にあり得ない。
「だから、学校の寮に入ると……」
「それは駄目だ。あそこの寮規は学校より厳しいんだ。門限は決まっているし、面会にも手続きが要る。将来有望そうな生徒と親しくなりたいっていう奴らは大勢いるからな。スヴィエラも心配する」
 母親の名前を出されればエスバドは強く出れない。
「んなわけで俺が送迎してるんだが……毎朝かなり早起きしないといけなくてな」
 ディールアは肘をついてため息をつく。俺は早起きするのも構わないが、と口を挟むエスバドにディールアは強く顔を上げた。
「何を言ってるんだエスバド。お前が構わなくても俺が困るんだ。考えてもみろ。お前が早起きしたらスヴィエラも早起きしなくてはならないんだぞ」
 当然のように告げるディールアに、ヴェラークが「だからどうした」と顔をしかめた。
 ディールアは「なぜ分からないんだ」と唇を尖らせる。
「スヴィエラが早起きするんなら、夜だって早寝しないといけないだろ。ただでさえ俺らは仕事が入れば夜なんて関係ないっていうのに。家に帰ってスヴィエラの笑顔を見れない俺の気持ちも考えてみろ」
 周囲の沈黙をどう捉えたのか、ディールアは笑顔でエスバドを振り返り、親指を立てた。
「喜べエスバド。休暇からお前が帰ってくる頃には弟か妹ができてるはずだ!」
「そういう話はイリアがいないところでしろ!」
 ディールアはもう一方の親馬鹿に容赦なく沈められた。

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