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第三話

【四】

 イリアは横で眠るイサミアを見下ろしながらため息をついた。
 彼女のためならば仕方がない、と無理矢理自分を納得させる。イサミアとファートンを島に戻すため、ダルスたちの手助けをすると約束させられた。彼らの手助けは本意ではないが、イサミアたちを助けたい気持ちには沿っているため、今回だけだ、と言い聞かせた。
 このような約束をしたこと、ヴェラークに知れたら倒れてしまいそうだ。
 ダルスには決して口外しないと約束したが、そのような約束などなくても口外できるわけがない。イリアが意識しなくても世間はヴェラークの娘としてイリアを見ている。その自覚もある。学校に入る前は煩わしいだけの視線で、賢く使おうと思い始めたのは最近のこと。世間に知れるわけにはいかない。
 ダルスたちと協力するのは今回だけだ。イサミアにとって、記憶を取り戻して島に戻るのが一番良いことなのだから。
 この秘密だけは死ぬまで心の中だ。
「せっかく仲良くなれたのになぁ」
 ダルスと約束を交わした屋根の上からどうやって屋敷に戻ったのか、記憶があいまいだった。ダルスと口喧嘩しながら眠くなり、気付いたら自分の部屋にいて、寝台に眠っていた。部屋にはダルスの気配がない。イサミアも静かな寝息を立てていて、もしかしてダルスたちとの邂逅は夢だったのではないかと思えてしまう。
 窓を見れば、外はまだ薄い闇。太陽は昇っていない。
 首をひねって記憶を辿ろうとしたが、なかなか思い出せない。馴染んだ潮騒が蘇るばかりだ。その欠片から記憶を探っていたとき、イリアはダルスの声を思い出して「ぎゃー」と叫びながら寝台に突っ伏した。
「な、なんか今私、物凄いリアルな夢見てる気がした!」
 恐々と自分の両手を眺めて思う。
 抱き締められたことや、背中を抱く腕の温度や、囁かれた言葉の数々。
 イリアは奇声を上げて寝台を転げ回った。
(わー、わー、消えろ、何てこと思い出すのよ私! 何てことしてくれるのよダルス!)
 真っ赤になり、ひたすら声を殺して叫び続ける。
「ぎゃー、思い出したくなーいーっ」
 昨夜のこと、どころか一昨日の窓辺でのことまで思い出し、イリアは勢い良く転がった。寝台から落ちた。
「イリア?」
 ひたすら自分の世界で身悶えしていたイリアは飛び起きた。気づけばイサミアが起きて、眠たそうな目でイリアを見下ろしている。あれだけ騒げば目を覚まして当然だ。
 イリアは真っ赤な顔で謝った。
「どうかしたの?」
「う、ううん、どうもしないわよ。まだ早いから眠ってて?」
 両手を振って促したがイサミアは眠らなかった。かぶりを振り、床に座り込んでいるイリアに近づいてきた。
「顔が赤いわ。熱でもあるの?」
 小さな手を額に当てられて、イリアは慌てる。舌を噛みそうなほどの勢いで「何でもないわ」と否定した。
(さっきまでの私を見られてなくて良かったわ。今度からこの癖は直さなきゃ)
 前にも同じようなことを思った気がしたが、改めて決意した。
「ととととところでミーア。昨日は私、いつ帰って来たかしらっ?」
 イサミアは黙ったまま、今度は両手でイリアの頬を挟みこんだ。
「やっぱり熱いわ……」
「大丈夫よ!」
 イリアは頬を膨らませてイサミアを睨む。心配そうな視線が突き刺さる。
 少しの間を空けて、イサミアは手を放した。
「昨日はイリアが先に眠ってたのよ? 屋敷中を捜し回ったのにいなくて、諦めて先に眠ろうかと部屋に来たらイリアが眠ってたもの。拍子抜けしたわ」
 告げられて、イリアは回想するように天井を見上げた。
 昨日は夕食前にエスバドとディールアが戻ってきた。夕食が終わったあと、イサミアはエスバドについてまわり、ディールアはヴェラークに連れられて仕事部屋へと直行した。イリアは1人で自室に戻り、そこでシャルゼに問いつめられた、という次第だ。
 思い出したイリアはわずかに瞳を細めた。
 強制的な空中散歩。シャルゼの腕は細くて頼りなく、途中で落ちてもおかしくない感じだった。あれほどの恐ろしい目にはもう遭いたくない。シャルゼに抱えられて飛ぶくらいなら、ダルスの方が何倍も許せる。少なくとも、落ちる危険性はない。
 イリアを不思議そうに眺めていたイサミアが、ふと窓に視線を向けた。つられてイリアも振り返る。けれどそこには何もない。何が彼女の気を引いたのだろう、と首を傾げた。
「どうかした?」
「今、何か聞こえたような気がして……」
 イサミアは眉を寄せて窓を睨んだ。どこか苦々しい表情だ。幼いながらもその表情がダルスに重なって見えて、イリアは喉を鳴らした。ときおり見せる仕草がダルスそっくりだ。動揺を気付かれたくなくて視線を逸らす。
「きっと波の音か警備の声よ。気にすることじゃないわ」
「ううん。そういう感じじゃなくて――大勢の人の声?」
 確かめるような声音にイリアも耳を澄ませた。試しに窓を開けてみるが、イサミアが話したような声は聞こえない。イサミアもイリアの隣に立ち、耳を澄ませる仕草をするが、彼女にももう何も聞こえないようだった。
 太陽は水平線を越えて東の空に浮かんでいる。海には幾つかの黒い艦影が見えた。気温が徐々に上がっていく。
「気のせいかな」
「きっとそうよ。まだ朝早いんですもの。眠かったらこのまま眠ってても平気よ? 起きる時間になったらちゃんと起こしてあげるからね」
 イサミアは考える素振りを見せたが、結局は何も言わずに首を振った。
 彼女が部屋の奥へ戻るのを見ながらイリアは窓を閉めた。冷えた体を震わせて部屋を確認する。ミトスが来る前に着替えを済ませてしまおうかしら、と衣装棚へ歩こうとして、唐突に思い出した。
「ああ!」
「ど、どうしたの?」
 視界の端で肩を大きく揺らし、イサミアが振り返る。
「シャルゼのこと、すっかり忘れてた……!」
 見る見るうちにイリアは蒼白となる。こうしてはいられないとばかりに部屋を飛び出す。背後からイサミアの声が追いかけたが、イリアは振り返らないで廊下を走った。
 イサミアは呆気に取られたままその場に佇む。追いかけようかと思ったが、イリアの脚力には敵わない。行動が読めないから、ついて行くより待っていた方が得策かと考えて笑う。
 部屋の扉を閉めて、寝台に戻った。
 屋敷に来てからというもの、落ち着きがないイリアの行動のせいで、落ち込んでいる暇もないほどだ。心が休まらないが、それは現在の自分にとっては良いことのようだ。エスバドに置いていかれると知ったときはどうしようかと思ったけれど、今もこうして笑いが込み上げてくる。
 イサミアは衝動に逆らわず、小さな体を揺らせて笑った。
 寝台に横たわり、その柔らかな感触を堪能するように瞳を閉じる。
 こんなに贅沢な暮らしをしている者もいるのだと知って、複雑な気分だ。けれど不思議に妬みは湧いてこない。こんな日常を普通だと言い切るのがイリアでなければ別かもしれないが、少なくとも彼女に対しては妬みや僻みの感情は湧かないようだった。
 こんな生活を『もったいない』と思うなんて、やっぱり私はこういう環境には親しんで来なかったようだ。ではどんな部屋に住んでいたんだろう? そう思ってイサミアは壁を見つめる。
 これほど柔らかな布団はなかった。部屋をいつも包んでいたのは海の匂い。視界には白い壁ではなく、濃厚な緑が映っていた。朝日が直接入ってくるような、そんな部屋だ。細い木々で編まれた壁だ。波の音を子守唄にして育ってきた。この部屋よりも、もっと海に近いところで生活していた。
 イサミアは全身の力を抜いて考えていた。余計な情報が入らない今だからこそ思い出していける。
 時間の流れがゆっくりに感じられた。意識が徐々に虚ろになり、眠りに傾いていく。時間を巻き戻すように記憶が蘇っていく。黒い瞼裏に刻まれた、恐怖を見た。
「あら。ミーア1人なの?」
 イサミアは弾かれたように起き上がった。素早く声の方向を確認し、寝台に身を伏せる。両手両足には力が入り、いつでも飛び出せるような体勢を取る。
 視界に金色が映り、そこにいたのが誰なのか確認したイサミアは寝台に腰を下ろした。心臓が痛いほど高鳴っている。
 あと少しで、思い出せたのに――そんな思いでイサミアはシャルゼを見た。
 いつも丁寧にまとめられている黄金の髪を、今は少しだけ乱れさせて、シャルゼは部屋を窺っていた。イリアも近くにいるのかと思ったが、どうやら一緒にはいないようだ。いつもの元気な声が聞こえてこない。
 イサミアはまだ高鳴っている心臓に手を当てて深呼吸した。声をかけられる一瞬前、恐ろしいものを見た気がしてならない。一体過去に何があったのだろう、と不安になる。
 小さな拳を下ろしたあと、イサミアは顔を上げた。
「イリアが捜していたわ。どこに捜しに行ったのかは知らないけど、凄い勢いで出て行ったの」
「ふーん?」
 先ほどの様子を思い出すと笑いが込み上げてくる。シャルゼはさほど興味を動かされなかったようで、ただ頷いた。蒼穹の瞳がそのままイサミアを見つめてくる。その真剣さに妙な居心地の悪さを感じ、イサミアは小さく身じろぎする。
「何?」
 やや上目遣いになりながら言葉を待っていたイサミアは、笑みを刻むシャルゼに薄ら寒さを感じて首を竦めた。
「都合がいいわね」
 豪奢な金の髪を揺らせ、シャルゼが近づいてきた。思わず後退したのは本能的な防衛反応か。
 戸惑うイサミアをよそに、シャルゼは輝くような笑顔を見せて、イサミアを拉致した。


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 客室すべての扉を開けたが、シャルゼの姿はなかった。
 食事だろうかと食堂へ行くが、まだ準備中で薄暗い。奥の厨房で料理長たちが腕を揮う音が聞こえてくるだけだった。シャルゼの姿はない。
「おかしいわ。どこに行ったのかしら。まだ戻ってない、なんて……ないわよね」
 顔をしかめて呟くのはイリアだ。
「なぜ俺まで駆り出されなくてはいけないんだ」
 欠伸を噛み殺して不機嫌な声を出すのはエスバドだった。イリアに叩き起こされた被害者だ。感情があまり表情には出ない彼だが、それでも敵意はひしひしと伝わってくる。ディールアに似た迫力を持つエスバドに睨まれれば、大抵の者は畏縮する。しかし、迫力ならば上を行く者が身近にいるイリアにとって、そんな睨みつけは何の意味も持たなかった。
 朝日が完全に昇り、窓を通過した長い光が廊下を飾る。
「1人で捜すより、一緒に捜した方が早いでしょう?」
「それは二人別々の場所を捜した場合の効率だ」
「でももう屋敷内はほとんど回ってしまったから、今更そんなこと言っても遅いわよ」
 エスバドは反論を控えた。眠い目でイリアを睨む。
 イリアは肩を竦めて自室に戻ろうとし、そのとき聞こえた小さな悲鳴に首を傾げた。
「ミーア……?」
 部屋の扉を閉めた覚えがないから、扉は開いたままだろう。しかしこの屋敷でイサミアが悲鳴を上げるようなことなど、ないはずなのに。
 そう思ったイリアの傍を通り抜け、エスバドが先に行った。先ほどまで眠そうにしていた人物と同じだとは思えないほど早い反応だ。イリアも慌てて追いかける。角を曲がれば部屋までは直ぐだ。
「ミーア!」
 角を曲がった先の部屋では、やはり扉が開け放たれていた。エスバドに続いてイリアも自室に飛び込み、そこで見た光景に絶句した。
「……シャルゼ?」
 シャルゼは自身の身長の半ば以上あるイサミアを肩に担いでいた。大きな窓の桟に片足をかけて、彼女はイリアを振り返る。
「何をしているんだ。ミーアはまだ本調子じゃないんだぞ!」
 エスバドが怒鳴りつけた。
 肩に担がれたイサミアは精一杯体を起こし、エスバドを振り返ろうとしていた。その瞳には不安と恐怖が揺れていて、エスバドの瞳が険しくなる。もしここに剣があったなら彼はためらうことなく抜くだろう。眉がぐっと寄せられる。
 シャルゼは笑って体ごとエスバドたちに向き直った。結果、肩に担がれたイサミアは窓からのめり出すような格好となって悲鳴を上げた。地面は遥か下なのだから仕方ない。
「この子の記憶を取り戻すのは簡単よ」
 イサミアの悲鳴にエスバドの体が強張った。シャルゼを窺う。彼女がどんな行動を取るのか、まるで予想がつかなくて動けない。それはイリアも同じだった。
 シャルゼは戸惑う二人を眺めたあとイリアに視線を移す。
「伝言よ、イリア。昨夜の約束を果たして貰うとね」
 瞬時に理解したイリアは息を呑んだ。エスバドの不審そうな視線が注がれる。
 シャルゼの言葉をそのまま受け止めるなら、彼女の行く先はダルスのところになる。
 イリアはこのまま彼女を行かせるべきか、ためらって言葉を探した。エスバドがいるため、下手なことは喋れない。
 迷っている間にシャルゼが窓から飛び降りた。イサミアの悲鳴が長く響く。
「ミーア!」
 エスバドが窓に駆け寄って叫んだが、シャルゼは戻らない。二人の影は陽射しに呑まれるようにして浮かび、そのまま遠ざかっていく。イサミアは恐怖でもう悲鳴も出せないようだ。シャルゼにしがみついたまま動かない。
 エスバドはイリアを振り返った。その形相は凄まじい。
「お前も能力者だろう! あいつらを引き戻せ!」
「む、無茶よ! 私にはシャルゼのように風を操るなんてこと、できないもの!」
 イリアは慌てて両手を振った。エスバドの舌打ちが零される。
「大体、あいつはまだカーデ艦長の管理下に置かれている立場だぞ!」
 素早く踵を返したエスバドを追いかけ、イリアは叫ぶ。
「シャルゼはミーアを悪いようにしたりしないと思うわよ!」
「そんなの分かるか。あんな強引に連れ出されて、無事でいられる保証がどこにある!」
 急いでいるせいか早口で、そしていつもより何倍も多く喋るエスバドを、イリアは不思議な気分で見つめる。彼は純粋にイサミアを心配している。イサミアが向かっているのは誰よりも安全だろう、ダルスのところなのに。
 イリアは罪悪感に視線を逸らす。
 屋敷の外へ飛び出した二人に警備隊が群がってきた。先ほどのイサミア誘拐を唖然と見送った後の、イリアたちの登場。せめてイリアとエスバドだけでも止めようと思ったのか、事情を聞こうと思っているのか。どちらにしろ、先を急ぐ二人には邪魔だった。
「エスバド=ラードが命じる。今すぐに道を開けろ!」
 感情の昂ぶりなど滅多に見せないエスバドの一喝に、イリアは目を瞠って彼を見つめた。

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