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第三話

【六】

 潮風はダルスを舞台に下ろすと霧散した。束ねられた髪がわずかに解け、頬を覆う。彼は変装を解いて、いつも見る海賊の格好をしていた。
 状況は四面楚歌。怪我を負ったファートンやイサミアを連れて逃げるのは不可能だが、ダルスは余裕そうに笑っていた。
 ヴェラークの雰囲気が怒気を孕み、その迫力に周囲が道をあけた。舞台に立つダルスは悠々と皆を眺め渡し、最後にヴェラークを捉える。
「俺の仲間がずいぶんと世話になったようだ。同等の復讐をしてやりたいところだが、今はこちらも時間がないんでね。今までやられた同胞たちの分を差し引いて、いつかきっちり返してやる!」
 実に楽しそうな口調で宣言しながらファートンの戒めを断ち切る。イサミアが泣きながら抱きつき、怪我に響いたファートンは眉を寄せながら笑った。決して楽観視できない状況のなか、それでも笑みが零れたのは、ダルスが傍にいるという安心からだ。
「関係のない者は広場から出よ! 警備隊は広場を包囲、海賊を1人も逃すな!」
「緑青の者たちは避難誘導に回れ! エスバド、お前もだ。安全確保に回れ!」
 ヴェラークとディールアの指示が飛ぶ。
「イリア、シャルゼ、海賊たちを捕らえよ!」
 海軍学校に通っているからとはいえ二人はまだ一般人だ。現にエスバドは後方支援へ回された。一般人が前線に立たされることはあり得ないが、ヴェラークはその場で最も有効な手段を知っており、海軍学校所属の者ならば指揮しても問題がないことを知っていた。
 肉親から瞬時に指揮官へと立場を切替えたヴェラークに、イリアとシャルゼは背筋を伸ばす。反射的に体が動いた。潮が引けるように散った人々の動きに逆らってイリアは前へ。シャルゼは上空へ動く。
 ファートンの無事な様子にわずかな笑みを見せていたダルスは、逃げて行く人々へ視線を戻した。距離を少し置いて目の前に立つイリアを見つめる。浮かぶのは挑戦的な笑みだ。
 イリアは周囲を青藍の者たちが埋めていくのを見ながら意識を集中させた。力を貸してくれる存在は直ぐ近くにある。絶望的な状況下でありながら焦りを見せないダルスに腹が立つ。不安そうな目でこちらを見るイサミアの姿に心が痛んだ。
 鼻の奥に残るような潮の香を感じながら、イリアはダルスを睨みつける。
「いい度胸ね、ダルス」
 イリアの呟きは大勢の人の気配に掻き消された。舞台を取り囲んだ青藍の者たちは一斉に海賊へ剣先を向ける。ファートンとイサミアは青い顔をして抱きあいながら震えた。二人の前にダルスが立ち、風をまとう。広範囲に向けられたその風は剣の侵入を許さない。
 膠着状態が続くかと思われたが、バランスは直ぐに崩れた。
 広場の中心に位置する噴水から水が吹き上がる。水道管が破裂したよりも酷い吹き上がり方で、自然現象ではない。ファートンとイサミアが驚いて仰け反った。ダルスは一瞥しただけだ。水は上空でうねり、ダルスたちを捕獲するように水の輪を広げた。
「だいぶ腕を上げたようじゃないか、イリア?」
「本当、どこまでも腹が立つ男ね、貴方は!」
 風に乗って届けられた秘密の言葉にイリアは苛立った。頭が痛くなるほど水の気配に集中する。ここまで大規模な能力は初めて使う。限界が分からない。
「待てイリア! シャルゼ嬢が……!」
 民衆の避難をディールアに任せたヴェラークがイリアに走り寄る。彼の警告も聞こえないどイリアは集中する。
 元からいた小数の軍兵やエスバドの活躍により、避難誘導は迅速に行われ、広場には関係者以外、誰もいなくなった。思う存分、力を揮うことができる。
 ぐんと力を高めたイリアは大量の水を噴水から引き出し、ダルスを捕らえた。そのときダルスの傍に降り立ったシャルゼごと、大きな水球の中に封じ込める。シャルゼの金髪が水中で揺れた。
 そして水はそのまま在るべき姿に戻るように、ダルスたちを内包したまま噴水の中へ引き返した。
「イリア、戻せ!」
 ヴェラークに肩をつかまれたがイリアの集中は解けない。一瞬のことで、海賊たちを取り囲んでいた青藍の軍兵たちにも動揺が広がる。ダルスたちは噴水に引きずり込まれたまま顔を出さない。
 人間が窒息せずに済むのはそれほど長い時間ではない。
 ヴェラークはイリアの集中を無理に解かせようとしてやめる。これほど強い集中力は初めてのことで、無理に解いたあとの弊害が恐ろしい。歯噛みして噴水に駆け寄る。
 ヴェラークを筆頭にして何人かが噴水を覗き込む。そして、眉を寄せた。
「いない……?」
 噴水は普段、町の子どもたちが遊び場として使っている。肉眼でも分かるほど浅かったはずだ。しかし今は底無しのように深く、闇を滲ませている。何人かが首を傾げたが、その意味を知っている者たち、特にヴェラークは弾かれたように海を振り返った。
「岬――灯台に兵を向かわせろ! その近海に奴らは現れるはずだ!」
「あぁっ?」
 ヴェラークの大声に、誘導の陣頭指揮を執っていたディールアは眉を寄せた。
「俺が行く!」
「待てエスバド!」
 エスバドが素早く民衆の中に紛れ込んだ。ディールアが腕を伸ばしても届かない。ヴェラークたちの動きを読んでいたディールアは、彼が海を指示した理由も分かっていたが、悲鳴を上げた。
「ちくしょう。人手不足だってんだよヴェラーク!」
 それでも、短時間でこれほど兵が揃うのも、指揮が早いのも、伝わるのが早いのも、普段から優れた訓練を行い、指揮系統が明確だからだ。
 息抜きで遊びに来たはずなのに、いつの間にかしっかりと仕事させられている自分に涙したディールアの叫びは、当然なことに民衆の誰にも理解されなかった。
 エスバドに続いて他の何人かも海へ急ぐ。ヴェラークも彼らの後に続こうとしたが、視界の端でイリアが倒れるのを見て、そちらに向かった。
「イリア!」
 ずいぶんと力を酷使したのかイリアは意識を失って動かない。ヴェラークが駆け寄っても目を覚まさない。力を失って腕が投げ出されている。
「お疲れになったのでしょう。眠っているだけのようですよ」
 揺さぶろうとするヴェラークを制して衛生兵が診断する。
「そ、そうか」
 それでも落ち着かずにヴェラークはイリアを見つめた。
 不意にイリアを抱え上げて右翼艦長を呼び、屋敷に戻るむねを伝えた。意図を汲んだクローインは小さく頷いて敬礼する。ヴェラークの腕に抱えられて眠るイリアに憂いの目を向ける。
「後の指揮権をディールアに委ねる。九番艦隊の艦長だ不足はあるまい」
「ちょっと待てヴェラーク!」
 敏感に聞きとがめたディールアが民衆の合間から叫んだ。
「私はイリアが大切なんだ」
「あのな! ここはお前の管轄だろうが、投げ出すな! そして、遊びに来ただけの俺をこき使うな!」
 最初の言葉には動揺したヴェラークだが、続いた言葉に仏頂面を取り戻した。
「海軍に休みはないと叩き込む良い機会だ」
「おーまーえー!」
「ダールカ。後は頼んだ」
 クローインは既に港へ向かっていて近くにいない。艦長付の補佐官を務めるダールカに手を挙げる。ダールカは少し憮然としたようだが、最後には納得したのかヴェラークに敬礼で応えた。
「ちょっと待てー!」
 ディールアは民衆を押し留めるのが精一杯でその場から動けない。必死にヴェラークを呼ぶが、彼が振り返ることはなかった。

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