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第三話

【八】

 水浸しになったイサミアとファートンが、甲板に両手をつけてうな垂れていた。
「死ぬかと思ったわ」
「……同感だ」
 ダルスは帆綱を引きながら二人を振り返った。
「なに情けないこと抜かしてやがる。ここからは風がないからな。しっかり働いてもらおうか」
 叱咤するダルスも全身に水を被っていたが、精神的に余裕があった。水を含んで重くなった上着を脱ぎ捨てる。そうしながら舳先に向かった。
「あんなに熱い雨が降ってくるなんて聞いてないわ。私たちを煮殺すつもりだったのよ、きっと!」
「海底火山と海流の影響だ。滅多にあることじゃないんだ、幸運を喜べ」
「そんな幸運、願い下げだわ!」
 イサミアは小さな肩を怒らせてダルスに牙を剥いた。うるさそうに払われても構わない。
 そんなイサミアを見ながらファートンは甲板に足を伸ばしていた。まだ呼吸が整わない。暴行の跡が激しく痛む。目覚めてからダルスに保護されるまで、もう島に帰ることは叶わないと思っていた。
「呑気にしてないで早く帆を操れ」
「分かってるわよ。お兄ちゃんの意地悪!」
 頬を膨らませたイサミアは小さな舌をダルスに突き出した。
 夕陽に照らされた漆黒の髪を大きく揺らして踵を返す。ファートンの視界を横切り、小さな足で憤然と歩き去る。ダルスはその後ろ姿をため息で見送った。
 シャルゼの手引きで噴水からの避難経路を確保した。イリアの助力で噴水から海までの距離を一気に流れた。ダルスとシャルゼの二人で風を起こし、水中でも呼吸できるように空気を引き込んだけれど、イリアの助力がなければ途中で窒息していたかもしれない。想像していたよりも長い道のりだった。
 避難経路として実際に使われるときは水を抜くのだが、町の管理者であるヴェラークの承認がなければ不可能なため、あの強行突破は仕方ない。
「ダルス」
 遠い闇に沈んだカーデ港を振り返っていたダルスは、声を掛けられて視線を移す。そこにはファートンがいた。
 イサミアは既に見張り台へ登ったらしく、甲板に姿はなかった。レナードは厨房へ入って腹ごしらえの準備中だ。甲板に残っているのはダルスとファートンだけだった。
 海に夕陽が沈む一瞬の残光を輪郭に受けて、ファートンはダルスを見つめていた。イサミアより少し年齢を上回っているが、ダルスにとって彼はイサミアと同じく肉親のように感じている。悪夢の日を分かち合った同志だ。
 情けない顔をして佇んでいる彼が何を言おうとしているのか、考えなくても分かる。
「勝手に船を出してすいませんでした。危険がないように計らうつもりだったのに、俺の判断ミスで境界線を越えていたことに気付かなかった。イサミアを危険に巻き込んで……俺は何て詫びればいいのか」
 ファートンはまだ一度もダルスの船に乗ったことがない。本格的な航海にはまだ早い、と島の大人たちが判断したためだ。優れた船乗りになる素質を備えた彼だが、経験を培う場所がなかったのだから、失敗するのは当然だ。
 誠実で素直な物言いに苦笑し、ダルスは頷いた。
「大目に見るのは今回だけだ。悪いのは明らかにイサミアで、お前は巻き込まれただけに過ぎない」
「あの、俺、何でもしますから! 罰則だって受けますから、イサミアをあまり叱らないでやってくれませんか? ダルスを困らせようって気持ちは……少し、あったのかもしれないけど、落ち着いたら直ぐに帰るつもりだったと思うんだ。その前に嵐に遭ったのは、本当に俺の責任で……」
「罰則、ね」
 ダルスはファートンの言葉を拾って視線を上げた。
 白い帆が微かな風を受けて膨らんでいる。イサミアの努力だろう。この船はイサミアとファートンが最初に乗った船とは根本的な造りも規模も違う。大陸に渡れるだけの装備を備えた船だ。
 外海を乗り越えたらしく、温かな風が頬を撫でて、ダルスは瞳を細めた。島が近い証拠だ。本格的な無風地帯に突入する前兆でもある。海難に遭う前に通り過ぎなければならない。
「それは無理だろ」
 先ほどのファートンの言葉に答えを返すと、彼は唇を噛み締めて悔しげな顔をする。
「罰を科すような規則なんて俺らにない。なぜ海軍と同じような規則に縛られなきゃならない」
 ファートンの細い体には暴行の跡が残っている。殴りつけられた痣や、切り傷や。重傷ではないことが唯一の救いだ。もしあの舞台に引き上げられたときファートンが瀕死の状態であったなら、引き上げた男たちを吹き飛ばすだけでは足りなかっただろう。一歩間違えればイサミアがファートンのような目に遭っていたことも考えられる。そう思えば恨みなど湧かない。
「イサミアを二倍働かせるから、お前はもう体を休めろ。その傷に海水はきつかっただろう」
「こんなものは……」
「ま、島の皆にはもう俺らがいないことがバレてるだろうからな。俺よりそっちを気にしてろよ。せいぜい怒りを軽くする言い訳でも考えておけ」
 ダルスは軽く笑って踵を返した。


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 大きな帆をすべて広げ終えたあと、イサミアは見張り台の上で海を眺めていた。ようやく島に帰れると言うのに寂しさが降り募る。
「お別れもできなかったな……」
 記憶が戻った瞬間、処刑されると聞いたファートンのことしか考えられなくなった。死なせるなど絶対に嫌だ、と魂の芯から叫んだ。呑気に記憶を失くしていたことが信じられない。己を呪いながら必死に走った。
 ダルスの姿を見たときも完全に安心はできなくて、不安なままファートンを抱き締めた。海賊だと知れたあと、周囲が手の平を返すように冷たくなったことが恐ろしかった。イリアすらもそうなのか、と噴水から湧き出た水に飲まれたときは絶望に顔が歪んだ。けれどそれは間違いだった。飲まれる直前、ダルスに同調してシャルゼが風を起こし、イサミアたちを窒息から救った。視線はエスバドを捜したけれど、噴水に飲まれるまでの一瞬で彼の姿を捜すことは不可能だった。
 エスバドの困惑する様が目に浮かぶようだ。いつか謝罪したいと思うが、いつになるか分からない。このような騒ぎを起こした以上、もう彼の地を踏めないかもしれない。ため息が口をついて出る。
 岬に出たイサミアたちを待っていたのは、船を沖に出して待つレナードだった。ダルスとシャルゼに抱えられて船まで飛んだ。状況が分からず混乱するイサミアたちを強引に船に乗せ、レナードは剣をシャルゼに投げ渡した。何かのやり取りを交わしていたようだが、イサミアは状況を把握することで精一杯で、彼らが何を話していたのかは覚えていない。
 ダルスに抱えられたファートンが甲板に足をつけた直ぐ後に船が進む。シャルゼが剣を抱えながら船を離れるのを見て、イサミアは必死の形相で追いかけ、そしてエスバドに伝言を頼んだ。彼女は伝えてくれただろうか。
 見張り台から見える水平線に、夕陽が沈むところだった。最後の残光が水平線を強く光らせ、次いで薄れ、急速に力を失っていった。島独自の穏やかな風が頬を撫でていく。黒い髪が頬にかかる。それを耳にかけながら小さなため息を吐き出す。
 陽が沈むと薄紫の闇が広がり出して、紺碧の夜空を作り出した。イリアの瞳とはまったく違った色に何とも言えない気持ちを抱えながら見上げ、目頭が熱くなっていく。
「今年の女神役はお前なんだろう」
「わぁっ?」
 背後からの声に驚いて飛び上がる。思わず見張り台から落ちかけた。伸びてきた腕がイサミアの体を支えて引き戻す。
「落ち着きのなさは変わらないってのにな。どこをどうしたらお前が女神なんだか」
「お、兄ちゃん! いきなり声をかけないで! あり得ない方から声をかけられると怖いのよ!」
 実際、現在のダルスは宙に浮かんでいる状態だ。常人ならば決して声をかけられない方向からだった。
 イサミアに怒鳴られたダルスは楽しそうに笑う。イサミアは唇を尖らせ、ダルスの肩から飛び降りた。慣れた身のこなしで見張り台に降り立ち、何事もなかったような顔をする。空の上でも怯まないイサミアに、ダルスの方が慌てたほどだ。無事に降り立つイサミアを見て呆れた顔をした。
 ダルスはそのままイサミアの隣に降り立ち、帆の膨らみ具合を確かめた。
 行動を見守っていたイサミアは次の瞬間、悲鳴を上げる。耳鳴りがするほど鋭い風に襲われた。頭を抱えてしゃがみ込む。
「これで島までは直ぐだ」
「お兄ちゃんは乱暴すぎるわよ!」
 乱れた髪を手櫛で直しながら文句をつけると、悪びれない笑い声が降ってきた。イサミアは憮然とする。海難に遭わないための速力だと理解はしていても、もう少し他人を思いやるやり方があるでしょうに、と思う。
「イリアを見た結果はどうだ。合格なのか?」
 思いがけない言葉にイサミアは瞳を瞬かせた。
 ダルスを仰ぎ見ると、笑いを堪えるような顔でイサミアを見ていた。悪戯を企むような、意外に面白いものを見つけたような、そんな瞳だ。機嫌が良さそうだった。
 イサミアは視線を外して手を口許に当てた。島を飛び出した目的はソレだったと思い出す。柱に背中をつけて腕組みし、少しだけ唇を尖らせた。
「落ち着きがないわ。カレンはもっと大人の女性だったのに」
 カレンはダルスよりもひとつ年上だ。比べてイリアはダルスよりも年下なのだから、年齢的には当然なのかもしれない。けれどイサミアには、イリアがカレンと同じ年齢になっても落ち着いているとは思えなかった。
 ダルスは「それで?」と笑いながら促す。
 イサミアは一緒に過ごしたイリアとの時間を少し考え――答えはもう出ていたのだけれど――不承不承ながら頷いた。
「いいわよ、もう。落ち着きはないけど、あんなお姉ちゃんがいたら楽しそうだし。海賊は嫌いって言ってたけど、最後には助けてくれたし。お兄ちゃんが気に入ってるなら、私が何か言えるわけないじゃない」
「俺だけだったら助けたか分からんがな」
「とにかく、いいの! でも、私が認めた以上はモノにしないと許さないんだからね!」
 そんな言葉にダルスは一瞬だけ声を失った。次いで、体を折って笑い始める。
 イサミアは忌々しくその様子を見守る。やがて立ち直ったダルスに頭を撫でられた。
「さすがだ、イサミア。だてに俺の妹を何年もやってないな」
 まだ喉を震わせながらダルスは褒める。見張り台に座るとイサミアを見上げた。
 星光に浮かんだダルスは、島民の前では見せない優しい表情をしていた。
 イサミアは瞳を瞬かせる。じわりと胸に温かなものが広がり、知らず笑みが浮かぶ。彼がこのような表情をするなら、イリアは彼にとって必要な存在だ。誰に反対されても応援する。イサミアは瞳を熱くさせてダルスに抱きついた。
「お兄ちゃんの恋を許す代わりに私も許してね。私はエスバドをモノにするから」
「――はぁっ?」
 ダルスは唖然としてイサミアを見た。イサミアは笑いながらダルスから離れる。ダルスと同色の瞳に強い光を秘め、船の後方を見つめた。拳を握り締めて先手を打つ。
「海軍だっていう言い訳は聞かないわよ。イリアだって海軍予備軍なんだから」
 強い眦にダルスはグッと言葉を詰まらせた。イサミアは可愛らしい笑顔となる。
「だから、お兄ちゃん。次の航海には私も連れて行ってね?」
 互いに肉親に甘い――ダルスは何も言えず、ただイサミアの瞳を見返すことしかできなかった。


 ――そして。


 簡素な船乗り用の部屋にいたファートンは、舷窓から外を眺めていた。星がチカチカと瞬いていて、その空にひとりを思い浮かばせる。
「シャルゼか……」
 ぽつりと声が洩れた。
 海軍を目指していると聞いたが、そんな立場を省みずに助けてくれた。海水に濡れて光り輝く金髪を震わせた姿は、まるで女神のような神々しさだった。
 事実に潜む真実など思いも寄らず、ファートンは憧れる。笑みを浮かべる。
 ここにもひとつ、恋が発芽したことなど、食事の声をかけようと訪れたレナードしか知らない。恐らくは彼も、知りたくなかったに違いない。

第三話 後編 END

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