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第四話

【一】

 オーカキス島の水は驚くほど澄んでいて、海底までも見える。
 降り注ぐ陽射しは強い。
 港を見回すと帽子を被っている者が多いことに気づいたが、イリアは準備をしてこなかったため、早めに日陰にいかないと危険だと胸に刻む。
 澄み渡る海を眺めたのち、おもむろにしゃがみこんで海面に手を差し入れた。伸ばした腕が日焼けしていることに気づく。しばらく野外授業が続いていたためだ。
 イリアは腕を浸したまま体を乗り出す。紫色の髪が頬を滑り、水面に映って揺れた。頭上に感じる熱さと、指先から伝わる冷たさと、不思議な心地よさに意識が遠ざかるまま瞳を閉じようとした。そのとき。
「熱射病確実なんだからやめなさい」
 背後から掛けられた声と共に、イリアは強い衝撃を感じた。慌てて持ち直そうとしたがバランスを崩して落下する。近い場所で揺れていた水面へと飛び込んだ。水飛沫が陸地を濡らす。
「ちょっと、シャルゼ!」
 落ちた拍子に海水を飲んでしまって喉が痛い。
 蹴落とされたイリアは海面に顔を出して叫んだ。
「いきなり危ないじゃないのよ!」
 先ほどイリアがいた位置にはシャルゼがいた。光に透けた金髪が綺麗だ。
「貴方は海に愛された能力者だもの。海で死ぬなんて滅多にないわ。それよりも、少しは頭が冷えたんじゃないかしら?」
 まったく悪びれないシャルゼに頬を膨らませる。
 彼女の言葉は正しかった。
 能力者は危険に巻き込まれたとき、本能的に能力を揮って身を守ると言われている。イリアが海で死ぬことはないだろう。風の能力者であるシャルゼもまた、高みから落ちて死ぬことはない。
 それでもイリアはシャルゼを睨んだ。
「それとこれとは別問題よ」
 命の危険はなくても心臓に悪い。
 シャルゼを言い負かせる自信がなくて、ため息をつきながら海から上がろうとする。しかし手をついた場所が熱く、思わず手を放した。
「ほら。こんなところに長くいると正常な感覚も忘れてしまうのよ。いつまでも過去を嘆いていたって時間の無駄よ、イリア」
「分かってるわよ」
 差し出された手をつかんで陸地に上がる。ずぶ濡れになった服が気持ち悪いと思った瞬間、強風がイリアを襲う。息を止めて耐えた。風が凪ぐ頃には、服は湿る程度に乾いていた。肌に張り付く海の結晶を払い落とす。
「正しいけど……もう少し優しい教え方があると思うわ」
 ついつい愚痴を零すと、先に歩いていたシャルゼが振り返った。
「あらイリア。私に優しさを求めているの?」
 その笑顔だけ見るととても優しい。
 イリアは反射的にかぶりを振った。シャルゼが満足げに笑う。
「ではイリア。早く国に帰りましょうね」
「もちろんよ」
 イリアはゆっくりと頷いた。
 この島には将来への重要な足掛かりとして来た。成功して帰らなければいけない。シャルゼの背中は何も語らず、何を思っているのか分からない。けれど、彼女も緊張しているのだろうと思った。
 振り返ると港から出航した船が遠くに見えた。イリアたちを送って来た船だ。カーデ領へ戻るのはまだまだ先。これからが、試練の始まりなのだから。


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 教壇ではヴェデドースが試験結果を発表していた。
「さて。諸君らが入学してからもう一年が経つのだが……時の流れというのは、かくも早いものなのだね」
 いつもながら芝居がかった言い回しに生徒たちから失笑が洩れる。
 進級がかかった今回の試験には全員が合格。毎年進級できない者が現れる中、諸君は優秀だと熱弁する。
「しかし諸君。これで満足してはいけない。下には下がいるように、上にも上がいるものだ。見上げても果てない空のようにね」
 もはや誰も彼の言葉を聞いていない。進級できたという喜びに沸き、胸を撫で下ろす生徒たちは、思い思いに放課後の過ごし方について談笑していた。
「この試験で満点合格を果たした者がいる」
 ひときわ大きな声で、ヴェデドースが胸を反らした。
「最近では今の国王陛下が満点をお取りになっている。充分、誇りにできる成果である」
 再び全員の注目を集めることに成功したヴェデドースは一拍を置いた。
「私たちは本人の努力を高く評価する。輝かしい成果は、陛下がお作りになった素晴らしい制度によって、更なる成功をつかむための機会となるであろう。軍人の卵である生徒諸君にとっては何よりも素晴らしい贈り物となる」
 普段なら再び散じる生徒たちの注目はそのままだ。海軍を目指す者は誰もが知っている、成果対報酬制度。ガヴィルート国王は高い成果を出した者には相応の報いを与えるという、ごく当たり前のようにも思える制度の徹底を国全体に促した。
「軍とは弱肉強食の世界。他の皆も這いあがりたまえよ」
 笑って生徒たちを追い詰めながら、ヴェデドースは大きな封筒を取り出した。
「イリア=カーデ。シャルゼ=アーリマ」
 強い声で名前を呼ばれた二人は立ち上がった。教室全体に気怠い雰囲気が漂う。祝福よりも妬みが強い。羨望の視線を受けながら前に進み出る。
 怖じない二人にヴェデドースは満足そうな顔で頷いた。
 生徒たちは鼻の頭に皺を寄せて、面白くなさそうな顔をする。
 ヴェデドースは目の前に立った二人に微笑みかけた。封筒から表彰状を取り出して読み上げる。
「イリア=カーデ。並びにシャルゼ=アーリマ。貴殿は、第八領サーフォルー軍学校、第百十回学力試験において、他の生徒の模範となる優秀な成績を修めた。よって、その功績を称え、更なる学業に励むことを期待し、ここに表彰する。両名には一階級の特進を認める」
 差し出された表彰状を受け取った二人は、まだその場に残るよう指示を受けた。
 ヴェデドースはそのまま次の表彰状を取り出す。
「今回、第八領に海賊が侵入したことは皆も知っての通りだ。カーデとアーリマはその中でも正規軍の補佐を行ったことで、国王から直々に感謝状が届いている。惜しくも海賊捕縛には失敗したが、二人の活躍がなければ被害が拡大していたかもしれない。二人の活躍を、皆も称えて欲しい」
 ヴェデドースはそう伝えるとイリアたちに向き直り、表彰状を読み上げた。
「イリア=カーデ。並びにシャルゼ=アーリマ。貴殿は非正規軍人でありながら正しく海賊と向き合い、優秀なる活躍を見せてくれた。敬意と感謝をここに表する。貴殿のますますの発展を期待する。ジェフリス歴百九十三年。ジェフリス国サーフォルー海軍総督ガヴィルート」
 ヴェデドースの力強い拍手は教室中の拍手を促した。
 惰性による拍手の中でイリアは感謝状を胸に抱く。感慨はなかった。
 隣のシャルゼを窺うと、少し眠そうな顔をしている。そこに罪悪感は見られない。
 イリアは視線を感謝状に落としながら呟いた。
「ダルスたちが逃げたのは」
 硬い靴底で足の先を踏みつけられた。
「い……っ」
「あのような場面に遭遇してなお冷静さを失わず、その場の指揮官の指示に従って民の安全を確保することができる。これは軍人として重要なことだ。そのような場面に遭遇することは稀であろうが、運も立派な実力要素。諸君らも精進したまえ」
 イリアの悲鳴はヴェデドースの声にかき消された。教壇の影になっていたため他の生徒も気づかない。シャルゼは瞳を細めて笑みを刷く。イリアに睨まれても堪えない。
「ガヴィルート国王からの感謝状など、正規の軍人であってもなかなか頂けぬ代物だ。本当に誇らしい生徒たちである」
 豪快な笑い声を挙げながらヴェデドースはイリアの頭を叩くように撫でた。
「そしてだ」
 席に戻ろうと足を向けかけたが、イリアは再びその場に留まる。同じく戻ろうとしていたシャルゼの視線が振り返った。
「イリア=カーデには更なる一階級特進を認める。正規の軍人ではないが、外へ出れば水兵長と同様の権利を持つ」
 生徒たちの視線がイリアに集中した。嫉妬と羨望を多分に含んだ視線。軍では階級による上下関係は絶対のものだ。まだ学校を卒業してもいないイリアたちだが、争いの火種は着実に増えている。
 こういうことも学校にいるうちから習っていくのだろうか、とイリアは思いながら、次に続くヴェデドースの言葉を待った。けれど彼はそのまま締めくくる。
「入学から一年が経とうとする今、生徒諸君は将来への重要な分岐路に立たされている。これからも」
「待ってください、軍曹」
 イリアは慌てて割り込んだ。遮られて不愉快そうな顔をしたヴェデドースが振り返る。視界の端でシャルゼが小さく肩を竦めたように見えたが構っていられず、感謝状を握り締めながら詰め寄った。
「シャルゼに同じ特進が与えられないのはどういう訳ですか? あの場にいたのはシャルゼも同じです」
 ヴェデドースは嘆息した。
「シャルゼ=アーリマの家系は平民のものである。十三艦隊指揮官に命ぜられるカーデと同様の扱いをするわけにはいかんよ」
 疑問が割り込むこともなく当然のように告げられてイリアは言葉を失った。
 ヴェデドースは再び生徒たちに向き直った。
「本日はこれで解散する。明日からは希望の科目に分かれて見学と訓練を行う。心しておくように!」
 生徒たちは一斉に立ち上がって敬礼する。ヴェデドースはそのまま退室しようとした。けれど、イリアは再び引き止める。
「まだ何かあるのかね?」
「納得できません」
 少し嫌そうに振り返った彼に訴える。
「家系による斡旋なんて納得いきません。あの時はシャルゼの方が、危険度も功績も高かった。私は正規軍に守られて遠方支援を行いましたが、彼女は直接、海賊と渡り合っています。ガヴィルート国王の方針は、成果に見合った報酬を与えることのはずです」
 裏でダルスたちの手助けしたことなど置いておく。
 上官批判かねと言われる前に国王の名前を出すと、ヴェデドースは声を詰まらせた。
「特進の決定はガヴィルート国王ではありませんよね?」
「むろんだ。君たちに階級制度などない。ないものに国王が特進を与えることはできない。これはあくまで学校独自の方針であり、特進を決めたのは先年からの新入生を受け持つ各軍曹である。シャルゼ=アーリマに対しては、成績優秀者に与えられる報酬のみだ。何が言いたいのかね」
 イリアは表情を険しくさせた。
「ガヴィルート国王からの感謝状に対する私の特進を取り消すか、シャルゼ=アーリマにも特進を与えるか、同等の扱いを望みます」
 ヴェデドースは顎に手を当てて「ふむ」と頷いた。瞳を覗き込まれる。これでもし特進取消となったとしても、イリアは構わなかった。望むのはあくまで同等の扱いだ。
 シャルゼからは何の反応もない。彼女もこの扱いに不当を感じているのかもしれない。
 ヴェデドースの視線がイリアからシャルゼに移った。彼は微笑む。
「貴殿の言い分は正しい。もう一度検討しよう」
 イリアは飛び上がって喜びたくなったが、教師の前であるため思いとどまる。
「ありがとうございます。ヴェデドース軍曹!」
 勢いよく敬礼する。
 ヴェデドースが教室から出て行ったあと、シャルゼに抱き付いて歓喜した。
 見守っていた生徒たちは、その結果に多種多様な反応を見せたのだった。

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