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第四話

【六】

 イリアは青藍の襟をしっかりと合わせてボタンで留めた。
 真新しい制服だ。皺のひとつもついていない。
 寸法を測ってから作られた制服ではないため少々大きいようだが、それでもイリアは鏡の前で格好をつけると堪え切れなくて笑った。その頭に、横から飛んで来た何かがぶつかった。落ちたものを見ると靴だ。こちらもまた、新しい靴。
「何するのよ、シャルゼ」
「その顔を見たら腹が立ったわ」
 投げつけたのはシャルゼだった。理不尽な理由にイリアは唇を尖らせる。
「だって制服よ、制服。まだ学校を卒業してないっていうのに、色のついた制服を着てるのよ。これが嬉しくなくて何だって言うの! 夢じゃないのよ!」
「ええそうね。まごうことなき現実だわ」
 どうやらシャルゼは寝起きが悪いようだ。恐ろしく冷たい声で肯定する。触らぬ神に祟りなし、とイリアは大人しくしていようと肩を竦めた。
 シャルゼは欠伸を噛み殺すと、寝台脇の棚に置いた鏡を覗き込んだ。丁寧に髪を整え始める。
 彼女の髪には癖がある。朝起きると爆発したようになっていて、そんな姿を初めて見たイリアは「寝てる間に何があったのっ?」と真剣に叫んだのだが、シャルゼは不機嫌な声と満面の笑みで「貴方の髪と取り替えない?」と提案された。もちろんイリアは言葉もなく全力拒否した。ここであいまいな返事をしようものなら、実行に移されそうだ。現実的に無茶な要求だが、彼女ならば不可能も可能にしてしまいそうな気がした。
 イリアはシャルゼの横顔を見つめたあと、再び全身鏡に向き直った。真剣な表情をしたまま鏡の前でクルリと回る。努めて平静を保つが、頬がヒクリと震え、やがて堪えきれなくなって再び表情を崩し――その頭に靴が投げつけられた。イリアは言葉もなくその場にしゃがみこんだ。
「まぁねー。嬉しいのは確かに分かるわ」
 シャルゼはようやく髪の毛に満足がいったのか動き出した。イリアの周辺に転がっていた靴を風で拾い集めると足を通し、エルミナから渡されていた制服に素早く着替える。先ほどまでイリアがしていたように、その姿を鏡に映して頷いた。
 衝撃から立ち直ったイリアが唇を尖らせる。
「分かってくれるなら」
「私の機嫌が悪いときに喜ぶのが悪いのよ」
 イリアは唇を引き結ぶと無言でシャルゼを睨んだ。彼女は自分の制服に乱れがないことを確かめるとイリアに視線を移し、ニコリと微笑む。先ほどまで苦心していた金髪はもういつもの状態に戻っており、細い肩をスルリと滑った。眩い光を照り返す。
 向けられるのは春の木漏れ日に似た天使の笑顔。イリアは思わずつられて笑顔を返す。するとシャルゼは勝ち誇ったように、浮かべる笑みの種類を変えた。イリアは脱力する。
「私、シャルゼって本当に凄いと思うわ」
「素直な褒め言葉をありがとう、イリア」
 イリアは悔しくて地団駄を踏んだ。そんな彼女に軽い笑い声が投げられる。
「それにしてもまさか青藍の制服だとはねぇ。イリア。ヴェラークに見せたら泣いて喜ぶんじゃなくて?」
 イリアは眉を寄せた。
 青藍は八番艦隊率いるカーデの識別色だ。イリアたち生徒には黒い制服が支給されているが、卒業するときには配属先の識別色で染められた制服が贈られる。
「オーカキス島に派遣されてるのって、全部カーデの軍人なのかしら」
「昨日のことを覚えてないの? 司令室にはそりゃもう色とりどりな面子が揃ってたじゃないの」
 シャルゼは呆れたようにため息を零した。
「ところでシャルゼ。エルミナ准佐って女の人なのに凄いわよね。私、憧れと目標の対象が変わりそうだわ」
「前の憧れはネーダ中将だったかしら」
「ええ!」
 これ以上の墓穴を掘らないよう話題変更したイリアだが、そんな胸中を見透したようにシャルゼは笑う。そのまま話題変更に乗ってくれた。
「そうねぇ。女性士官はエルミナ准佐1人みたいだし、あんな若さで准佐にまでなったのなら称賛に値するわね」
「そ、そうよね!」
 どこか裏を含んでいそうで恐ろしいが、イリアは何度も頷いてそんな不安を吹き飛ばし、シャルゼの両手を握り締めた。
「全国民に開かれてる海軍学校だけど、その実はまだ色々と男社会だもの。准佐って美人だし有能そうだし、きっと凄く頼りになるわ」
「まぁ、それはそれほど間違えてなさそうね」
「でしょう? 私が知ってる女性ってそんなにいないし、いても年齢が倍以上離れてる人がほとんどだし、こんなに年齢が近い人って初めてなのよ」
「そう。あんまり頼っていたら、とんでもないことになりそうだけどねぇ」
 イリアはシャルゼの手を放すと両手を腰に当てて唇を尖らせた。
「もう、何なの? さっきからどうでも良さそうな返事ばっかり。ここにはシャルゼの特進で来てるのよ? 気合入れてよ、シャルゼ!」
 イリアの喝を受けてもシャルゼは変わらない。肩を竦めるばかりだ。ふと視線を窓から外へ向け、イリアもその視線を追いかける。そこから見えた光景に目を丸くした。
 今日はイリアもシャルゼもかなりの早起きをした。しかし外にいた人物たちはもっと早くから起きていたようだ。
 外にいたのはエルミナとカラドレットだった。
「何してるのかしら?」
 イリアは瞳を瞬かせて窓に近づいた。
 部屋は二階にあるため、例え窓から眺めていても、エルミナたちには気付かれ難いだろう。
 エルミナたちはこれからどこかへ行く、ということではなく、既にどこかへ行って来たらしい。軍司令部の正門から司令部に向かって歩いてくる。イリアたちの眼下で立ち止まり、少しだけ話しこむ。やがてカラドレットがエルミナに背を向けて歩き出した。その背中にエルミナはため息をつく仕草をして何か声を掛けたようだが、カラドレットは振り返りもせず肩越しにヒラヒラと手を振って歩き去った。エルミナはカラドレットとは反対方向に歩き出す。
 カラドレットは司令部端の倉庫へ。エルミナはそのまま司令部へ消える。
 窓に張り付いて見下ろしていたイリアは、それから少し待っても二人が戻ってこないことを確認してシャルゼを振り返った。
「そう言えばさ。階級ではエルミナ准佐の方が上なのに、なんで准佐はゼロ大尉に敬意を払ってるのかしら」
「さぁねぇ」
 仕度を整えたシャルゼは興味が失せたように寝台に腰掛けている。手持ち無沙汰であるのか、金髪を指に絡めて遊んでいた。
「司令部の椅子に座ってたのはゼロ大尉だし、出迎えてくれた他の人たちはゼロ大尉の命令を聞いていたし、エルミナ准佐はまるで補佐官のようにしてたじゃない? ゼロ大尉にも敬語だったし。どうしてかしら」
 純粋な疑問をぶつけるとシャルゼはため息をついた。
「そこまで分かってるなら結論は1つじゃないの、イリア」
 何を悩むことがあるのだと言いたげな台詞にイリアは瞳を瞬かせた。さすがはシャルゼ、もうその答えに辿り着いていたのかと期待して彼女を見つめる。
 寝台から立ち上がったシャルゼは蠱惑的な笑みを浮かべ、右手を胸にそっと押し当てた。そのまま天井を仰ぐ。
「愛よ」
「……は?」
 イリアは思わず問い返した。
「愛する男が自分よりも階級が低いことを気に病まぬよう、彼女はひっそりと全権を彼に委ねたの。女性士官というのはいつの時代も侮られやすいもの。階級は1つしか違わないのだからと、彼を上に立てることで命令を通りやすくしたのよ」
「そ、そうだったのね……」
 イリアは釈然としないまま頷いた。そう考えると自然なのかもしれない、という呟きは、シャルゼのため息を誘った。
「そんなことあるはずないでしょう、イリア。いくらここが本土から離れてると言っても、他の軍人がそんなこと許すはずないじゃない。貴方の常識は一体どうなっているのかしら? 時々心配を通り越して哀れに思うわ」
「嘘なのっ?」
「当たり前じゃない」
 シャルゼは深く頷いた。イリアはうな垂れる。
「た、確かに私だって変だなとは思ったけど、シャルゼの言うことだし、そういうこともあるのかしらって納得したのに……!」
「疑問に思ったのなら信じないことね。貴方は私以外が言ったって素直に信じてしまいそうだわ。ああ、将来が心配だわ。それに、私の言うことなんて八割がたは遊びのための嘘よ」
 イリアは拳を固めたが今更だ。彼女の言うことにも一理ある。周りに嘘をつく者がいなかったため、素直に信じ過ぎてしまう。それでも、まったく悪びれないシャルゼを恨めしく思った。彼女にとってはすべてのことが日常を楽しくする付属品にしかならないらしい。少しだけエスバドを懐かしく思う。彼ならば今の心情を理解してくれるだろう。
「シャルゼに愛っていう言葉は凄く似合わないわ……」
「そんなこと言う貴方には野外授業で恐ろしい罠を仕掛けましょう」
「罠っ?」
 頬を引き攣らせて叫ぶイリアに、素敵な笑顔が向けられた。イリアは自身を抱くようにして体を震わせた。
「まぁお互い様ね。イリアにもそんな言葉は似合わないもの。初恋もまだなんじゃなくて?」
「失礼ね! それくらい経験済みよ!」
「ああ、ダルスがいたっけね」
「ど、どうしてそこでダルスが出てくるわけっ? 関係ないでしょう、あんな奴」
「顔が真っ赤よ、イリア?」
「だっていきなりダルスの名前が出てくるなんて思わなかったもの。これはあいつへの怒りよ、怒り!」
 イリアは動揺も激しく叫んだが、シャルゼには鼻で笑われただけだった。
 ――そのときノックの音が響いた。
 イリアとシャルゼはピタリと騒ぐのを止めて顔を見合わせる。集合時間にはまだ早い。誰だろう、と首を傾げる。もしかしたら食事処まで誰かが案内してくれるのだろうか、とイリアは思った。
「どうぞ。開いてます」
 声を上げたイリアだが鍵をかけてたかどうか忘れ、首を傾げた。扉はすんなり開き、一瞬だけ浮かんだ心配は杞憂に終わる。
「あら」
「え」
 シャルゼが軽く瞳を瞠った。イリアも双眸を瞠らせて驚いた。
 入ってきたのはエルミナだ。ひとたび実戦に投入されれば鮮やかな戦歴を連ねるだろうと予想される、均整の取れた体。スッと通った鼻梁が端整さを浮き彫りにして近寄り難い雰囲気を漂わせているが、今は穏やかな表情を浮かべてイリアたちを見つめる。
 二人は慌てて居住まいを正してエルミナの前に立った。
「おはようございます、エルミナ准佐。もうお時間でしょうか」
 鼓動を高鳴らせたイリアの代わりにシャルゼが訊ねた。明らかな動揺を見せるイリアと違い、シャルゼは緊張などしていないようだ。その態度はエルミナの笑みを誘った。いいえ、とかぶりを振って二人を見つめる。
「二人の声が響いていたものだから、ちょっと顔を覗かせてみただけなの。起きるのが早いのね」
 イリアはシャルゼと顔を見合わせた。大声で騒いでいた自覚はない。エルミナはどこからどこまで聞いていたのかと不安になる。
 一瞬にして吹き出した冷や汗を拭ったイリアは唇を引き結んだ。必死の面持ちでエルミナを見つめると笑われる。わけが分からなくて、イリアは瞳を瞠らせた。
「ごめんなさいね。そんなに緊張しなくてもいいわ。今はまだプライベートな時間ですもの。怒るつもりで来たわけでもないから安心して頂戴」
 それでも体は硬くなってしまう。
 エルミナは楽しそうに笑いながら部屋に入り、扉を閉めた。
「昨日までは素っ気ないただの部屋だったのに、やっぱり可愛らしい女性が二人もいると華やかさが違うわね」
 エルミナの視線は部屋の中を隅々まで観察した。
 イリアが持参した鏡やシャルゼが持参した化粧品。壁に掛けられているのは数着の私服。必要最低限の物しか持ってきていなかったが、足りない物は昨日のうちに買い足してある。女性が選んだと思われる可愛らしいものばかりだ。
 もっとも、それらを選んで購入したのは主にイリアで、シャルゼは「ほどほどにしておきなさいよ」と注意しただけだ。
 部屋を眺めたエルミナは微笑んだ。
「今日から任務に就いてもらうわけだけど、きっと可愛がってもらえると思うわ」
 ニコリと。二人に向けられたエルミナの笑顔は仮面を被ったもののようで、イリアは少し戸惑いながら微笑みを返した。整いすぎた顔立ちのため、そう感じるだけだろうか。
 別にそんな特別扱いは要らないのにな、と思ってシャルゼを窺うと、彼女は嫌そうに鼻の頭に皺を浮かべて視線を落としていた。エルミナが苦笑する。
「そんなに嫌そうな顔しないで。私はご覧の通り近寄り難い雰囲気らしいから、貴方たちが来てくれて本当に嬉しいのよ。皆が多少羽目を外しても怒らないでくれると嬉しいわ」
 エルミナは少しだけ肩を竦めてお願いする。そして少し間を取ると「ところで」と二人を見比べた。
「私とゼロ大尉の階級について話が聞こえていたけれど、やはり本土の貴方たちからすると違和感があるのかしら?」
 イリアはシャルゼと素早く視線を交わした。こちらの話が筒抜けだったと知ると、気まずくて恥ずかしい。
「え、ええと……」
 緊張しながら言葉を探したが、エルミナの視線が突き刺さり、汗を浮かべる。次第に口の中が乾燥していくことに気付き、イリアは焦ったのだが言い訳が思いつかない。
 イリアの先を引き取ったのはシャルゼだった。
「階級は絶対のもの。と、学校で教えられたもの。オーカキス島では常識が通じないのかと思って、ちょっと驚きなのよねー」
 頬に片手を当てて笑うエルミナを見つめるシャルゼの視線は挑戦的だった。
 気付いたエルミナは軽く笑う。
「ふふ、正直ね。確かに、上官を無視した命令はおかしいと思うわ。でもね、数日前までカラドレットは少佐だったのよ。私よりも階級が上で、私は彼の部下だったの。その時の意識が抜けないのかしらね。私も皆も、つい彼の命令に従ってしまうわ」
 イリアは首を傾げた。
「上司と部下の階級が逆転するのは聞く話ですけど……指揮権は辞令が下りたときから動きますよね……」
 先日のカラドレットは昔の癖が出てしまった、という域を抜け出ていた気がして弱く呟く。拾い上げたエルミナが苦笑する。
「彼の降格は一時的なものなの。表面的な階級が移っただけで、実質は少佐であり続けるわ。彼が少佐への復級を果たしたとき混乱しないにはそうしていた方が都合がいいの。これならば納得できるでしょう?」
 イリアは軽く瞳を瞬かせてぎこちなく頷いた。シャルゼは無感動に「ふーん」と呟くだけだ。
「まぁ、時々私情が混じった命令も飛ばされますから、そのときは現在上官の私が対処させて頂きますけど」
 軽い咳払いをして告げるエルミナに、イリアは笑い声を上げた。浮かんだ疑問はスルリと消える。
「さ、そろそろ朝食の時間ね。食堂へ案内するわ。まさか貴方たち、自炊します、だなんて言わないわよね?」
 城へ戻りながら振り返るエルミナに、イリアは笑顔で頷いて駆け寄った。
「紋章は本物に違いないのよねぇ……」
 特進をかけた試練。新たな上官二人は曲者のようだ。優秀な軍師家系で名高いゼロ家がオーカキス島にいること自体おかしい。ミレーシュナの事件に紛れた何かがあるのかもしれない。
 エルミナとイリアが廊下へ出てから、シャルゼは呟いた。


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