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第四話

【七】

 カラドレットはシャツの前ボタンを留めながら手櫛で髪を整えた。髭が出てきたな、と顎をさする。棚に置いていた望遠鏡に手を伸ばし、窓辺に寄る。いつもの習慣を繰り返す。
「風向き良好、天候は晴れ。この時期にカーデが訪れるのは何かの前触れなのかねぇ」
 望遠鏡を片手に海の様子を眺める。妙に年寄り臭い口調で呟きながら倍率を調整した。
 カラドレット以外は誰もいない自室の中、控えめにノックの音が響く。それに気付いてもカラドレットは望遠鏡から手を放さず、観察を続けたままで「入りたまえ」と声をかけた。
 廊下に響いていた規則的な靴音と、叩かれたノックの調子から、扉向こうには誰がいるのか理解していた。振り返る必要はない。
「失礼します」
 硬い声と共に踏み入る靴音。扉が閉まる音がして少し間があり、カラドレットは口の端を上げたまま手振りで横に来るよう示す。
 ため息が聞こえた気がした。
「毎日そうして、目的のものは見つかりましたか」
 エルミナが隣に並ぶ。
 カラドレットは短く「まだだ」と答えた。
「だが、そろそろのはずだ」
 望遠鏡から目を離し、ニヤリと笑いかける。
「本土で起きた騒ぎは准佐もご存知のはずですが?」
 エルミナは眉を寄せた。
 イリアたちが島へ来る数日前から、カラドレットは敬語を使い始めた。他愛ない遊びだ。今はエルミナが上官のため、ある意味正しい。けれどカラドレットの態度は言葉とは裏腹で、どうにも不愉快な気持ちを止められない。
 エルミナは顔をしかめながら望遠鏡を奪い取った。先ほどまで彼がそうしていたように覗き込む。しかし哨戒船が沖に見えるくらいで、海は至って平穏だった。
 分かっていたことだが憮然としながら望遠鏡を下ろす。
「異常は何もないようね」
「今のところは、な」
 含む言葉にエルミナは眉を上げる。
 昨日から――いや、それ以前から、彼は非常に機嫌がいい。それを良く理解しているからこそ、エルミナは苛立ちを抑えられない。
「先年までは無事でしたけど、今年の取引は中止した方がよろしいのではないですか? 島には今、あのカーデの娘がいるのですよ」
「だからこそ成功させなきゃいけないんじゃないか。こんな楽しそうなことを放棄しなけりゃならんなんて、人生半分沈んだ気になるぞ」
 エルミナは黙り込む。カラドレットは笑った。
「それともエルミナ准佐。それはご命令でありますか?」
 からかわれていると悟ってエルミナは眼光鋭く睨みつけた。固い表情のまま口を開こうとしたが、不意に真剣さを取り戻したカラドレットが海を振り返ったことで言葉は失われた。
「スコールだ」
 小さく開いた窓から湿った空気が流れ込む。
 彼の言葉が終わるや否や、途端に窓は全開となり、突風が二人を襲った。底冷えするような海風。エルミナは体を微かに揺らせ、腕を翳して足に力を込める。
 暴風は一瞬だけでおさまった。
 カラドレットが窓を閉める。
「娘たちは運が良かったな。これから先、海は雷季に突入する」
 エルミナは閉められた窓を見つめた。
 島の上空は蒼穹だが、海は違う。やや赤味がかった暗雲がたちまち広がって行く。まるでこれからの行く末を示唆しているかのようだ。
「カーデの娘は――」
 小さく零されたエルミナの言葉は、窓に激しく叩き付けられた最初の雨に紛れて消えた。


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 司令部を目前に控えた訓練場には、白いシャツを着た軍人たちが集っていた。
 今日は外での演習だ。
 教官はエルミナ。種目は接近戦。装備は短剣。
「腰が引けてる! もっと踏み込め!」
 女性ながら恐ろしく気迫の込められた声がイリアに飛ぶ。
 そんな無茶な、と思いながらイリアは精一杯声を張り上げてエルミナに剣を突き出した。すかさず半身を翻して避けたエルミナはその遠心力のままイリアの手首を打ち据える。予想していたイリアは奥歯を噛み締めて痛みに堪えたが、一瞬だけ手の感覚が失くなり、その隙に剣を弾かれた。勢いのままイリアは尻餅をつく。
「弾かれても諦めるな、目を閉じるな! もうお終いかっ?」
 華奢な体つきのどこにこんな力が秘められているのか。女性としての気配を殺したエルミナはイリアを睨みつけていた。
 朝とは別人じゃないのよ、とはイリアの胸の内。怒気とも取れる気迫を漲らせるエルミナはイリアに剣先を向けた。見下ろす瞳は感情をうかがわせず、冷徹なものだった。
「降参です!」
 このまま対峙していては殺されそうな気がして、イリアは焦燥するままに叫んだ。
 見守っていた軍兵たちが拍手をしたが、イリアは憮然とする。他の者たちの訓練を見てきたが、自分が一番情けなかった気がしてしまう。正規軍と比べるのは傲慢だと思ったものの、もう少しやれるのではないかと思っていただけに落胆は大きい。未熟者だと思い知らされた。 握っていた手が痺れを訴え、肩まで違和感が続いている。
 立ち上がるとエルミナが声をかけた。
「反射神経は悪くないわ。もう少し力強さを身につければ、前線に出ても足手まといにはならないわね」
 活躍できる、ではなく、足手まといにならない。
 イリアは小さくショックを受けながら、大声でエルミナに礼を言って頭を下げた。
 エルミナも同じように挨拶し、視線を群集の囲いに向ける。
「最後、シャルゼ!」
 イリアと交代で訓練場へ進み出たのはシャルゼだ。今は訓練の邪魔になるため長い金髪をひとつにまとめている。エルミナと同等の身長だが、やはり軍人として長く鍛えてきたエルミナには見劣りがする。
 イリアは最前列で見守った。
「気にしない方がいいよ、イリア。僕たちの模擬も見ただろう? 彼女はあれでも君たちには甘くしてるんだよ」
「あれで甘くだなんて――やっぱり凄いのね」
 声をかけたのは小柄な青年だった。イリアとそう変わらない年齢のようだ。イリアはため息をつきながら呟く。慰めのような言葉がかけられ、しかし対等でありたいと望むイリアはその言葉に落ち込んだ。
 イリアが彼を見上げると、彼は輝くような瞳でエルミナを見ていた。彼女はよほど人望に厚いのだろうと窺わせる。
 確か、この青年の名前はスロットといったはずだ。
 イリアは彼の紋章を確認し、伍長だと悟る。改めて彼の横顔を見上げた。
「へぇ、持ちこたえられるじゃないか、あの女」
 反対側から零された声に顔を向けると、そこにはスロットと同じ顔をした人物が立っていた。スロットと双子の、ティニス伍長だ。ティニスの方がやや表情が硬い。
 イリアはエルミナから簡単に紹介されていた人物相関図を脳裏に描く。エルミナに視線を戻す。
 イリアがあっさり降参を告げたのに対し、シャルゼはなかなか奮闘しているようだ。熱の入った訓練風景に、見守るイリアは拳に汗を滲ませる。
 周囲の者たちもシャルゼを認めるような言葉を零し出し、イリアは笑顔で見守る。
「イリアよりは貴方の方が前線向きかしらね!」
「光栄だわ、エルミナ准佐!」
 二人とも、力の入ったやり取りをしながら剣を交える。エルミナが持つ剣は個人用に作られた特別製だが、シャルゼが持つ剣は一般に配られる汎用的な剣だ。エルミナに比べてまだ手の皮が薄いシャルゼは、ニ、三度切り結ぶと皮が破けて血が滲む。
 シャルゼは痛みに顔をしかめた。
 エルミナが鋭く踏み込んだのに対し、シャルゼは余裕であるかのようにゆっくりとした動作で避けようとする。しかしそれは、先ほど誰かが言っていたように単なる虚勢だ。イリアにはそれが分かり、固唾を呑んで行く先を見守ろうとしたが、目を瞠った。
「シャルゼ!」
 エルミナが更に早く、鋭い切っ先をシャルゼに向けようとしたとき、風の流れが彼女に向いた。気付いたのはイリアだけだ。
 追いつめられたシャルゼが本能的に動かした風。それはエルミナの足を掬った。予期せぬ力にエルミナは瞳を瞠って尻餅をつく。イリアとシャルゼ以外、何が起こったのか分からず呆気に取られた。
「……ごめんなさいね。まだ未熟で、訓練中でも風が勝手に動いてしまうの」
 驚いた表情で見上げ続けるエルミナに、シャルゼは決まり悪そうに顔をしかめて型を解いた。戦闘放棄の合図だ。それでも、誰もが何も言えずに固まっていた。
 オーカキス島に能力者はいない。異端の力を目の当たりにし、どう反応したらいいのか戸惑っているようだ。それが恐れに変わる事態は避けたい。
 イリアはシャルゼと視線を交わし、少しだけ苦く顔をしかめた。
 と、そんな気まずい沈黙を打ち砕くように。
「なんだ、訓練はもう終わったのか? それにしては覇気がないな。おや、エルミナ准佐が倒れている。滅多に見れない光景が誰の功績か――は一目瞭然、シャルゼ=アーリマか。おめでとう。君の特進がひとつ近づいたな」
 はっはっは、とまるで場違いな笑い声を上げながらカラドレットが近づいてきた。群集を押しのけて輪の中に入り、尻餅をついているエルミナに手を伸ばすと引き上げる。エルミナは黙ったままそれに従った。
「雷季に入ったから早目の終了を目標にしていたではないか。エルミナ准佐ともあろうものが、手を抜いたとは思えないのだがね」
「――シャルゼが風の能力者だということを失念していたわ」
「うん? ああ、なるほど。まだ未熟な訓練生が能力を使ったというわけか。暴走せずに何よりだ」
 立ち上がったエルミナが呟くと、カラドレットは笑ってシャルゼを振り返る。能力を制御できなかったことが悔しいのか、シャルゼは視線を落として表情を歪めていた。
「君はまだ訓練生だ。まだ、我ら軍人が守るべき場所にいるのだから、そう自分を責めなくてもいい。素晴らしいその能力を責めるより誇りに思いたまえよ」
 それでも苦々しい表情を崩さないシャルゼに、カラドレットは笑った。
「彼女はあんな顔をしているが、どうだい、准佐。能力者による屈辱を味わった気分は」
「――驚きました」
 倒されてからずっと呆然としていたエルミナは、その表情のままそう呟いて――大きく笑い出した。
「凄いわ。まさか倒されてしまうなんて思っていませんでした。ふふ、何て久しぶりなのかしら。これはやりがいのある訓練生ね!」
 エルミナはおかしそうに声を震わせる。カラドレットはその様を眩しそうに眺めて笑う。イリアは呆気に取られてシャルゼと視線を交し合った。
「スコールが落ちた後に島の案内をしたかったのだけれど、こんな素晴らしい能力の訓練を欠かすわけにはいかないわね」
 溌剌とした笑い声を上げたあと、エルミナはパン、と一度力強く手を叩いて解散を皆に伝えた。どうなることかと見守っていた軍人たちは賑やかな歓談を交わしながら解散し出す。それまでよりも打ち解けた雰囲気でイリアやシャルゼに声をかけ、肩を叩き、「また後でな」と手を振り去っていく。
 イリアは乱暴な愛情表現で乱れた髪を直しながら彼らを見送った。
「さぁ、貴方たちはこちら――ゼロ大尉。本土からの書類には目を通したのですか?」
 イリアたちを招こうとしたエルミナは、ふと動きを止めるとカラドレットを見た。先ほどまでの明るさを払拭し、再び眼光を鋭くして見つめる。
「ああ、もちろんだとも。ヴェデドースからの書類もあったぞ。あいつ、何を考えてるのか知らんが、シャルゼに関する特進書類をアンケート方式にしやがって」
 イリアは瞳を瞬かせて「アンケート方式?」と首を傾げた。苦々しい表情をしたカラドレットがイリアに向き直る。
「“第一問。シャルゼの身体能力は特進に値するか否か。○と×で答えることとする”」
 重々しく、総司令部から辞令を言い渡されるかのように厳かな声を、カラドレットは繕った。
 イリアは意味が分からず瞳を丸くする。
「俺はお前の遊びに付き合ってられるほど暇じゃねぇんだ」
「“軍学校で優秀かつ美人ランキング”を送りつけた報復ではありませんか?」
 淡々と静かにエルミナが告げた。そしてため息をつく。
「ゼロ大尉。自然に私たちの後をついて来ようとしているようですが、貴方にはこれから視察があるはずです。将来ある訓練生たちの目の前で、逃亡を謀るおつもりですか?」
 カラドレットは喉を鳴らして足を止めた。暗い表情で唇を噛み締める。
「……正門を通ってきたのは失敗だったか」
「裏門の鍵は私が預かっておりますからね」
「何っ? 道理で見つからないわけだ……」
「カラドレット」
 エルミナが僅かに険を含んだ声を出すと、彼は肩を竦めて踵を返した。
「では、楽しくない老人たちの世間話に花を咲かせて来ますか」
「雷に打たれないよう気をつけて下さいね」
「君に比べればそれぐらい何ともないよ」
 茶化すように笑って手を振り、カラドレットは司令部の門から出て行った。彼が進む方向をしばらく見ていたエルミナはため息をつき、微かに表情を綻ばせる。
「待たせたわね。それでは裏へ行きましょうか」
 今では上官になったエルミナが管理する裏門の鍵。それを胸ポケットから出して掲げ、エルミナはイリアたちに微笑みかけた。

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