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第四話

【八】

 海が近いというのに、扉は少しも錆びていなかった。島の強烈な日差しと雨にも強い、特殊加工が施されているらしい。
 施錠された門をエルミナが押し開けた。イリアたちは体を滑らせる。
 胸までの高さしかない、低い両開きの裏口だった。飛び越えようと思えばできる高さだ。カラドレットたちも、本当に緊急を要するときは鍵などなくても飛び越えていくのだろう。
 扉を出た先には熱帯植物が生い茂る密林。足を踏み入れると僅かに沈むほど、地面は軟らかい。空気は変わらないはずなのに湿度が上がった気がして、イリアは眉を寄せながら腕を振る。
「更衣室にくらい寄ってくれば良かったわね」
 仕草に気付いたエルミナが笑った。けれどイリアは首を傾げて少し笑う。
「大丈夫です。スコールが来れば、汗なんてあっと言う間に流せるわ」
「馬鹿ねイリア。スコールの中で何をするというの。来る前に終わらせるのよ。来たら避難よ、ひ、な、ん。出来ないなら一人で流されてなさいな。海水のスコールはさぞかし気持ち悪いでしょうねぇ」
 背後からの声にイリアは言葉を詰まらせた。嫌な想像をしてシャルゼを睨む。
「スコールって、激しい雨みたいなものなんでしょう? さっきも食堂にいるとき降ってたじゃない」
「局地的な上昇気流によって冷やされた水蒸気が自重で落ちるのがスコール。オーカキス島のスコールは、大抵立っていられないくらいの激しい突風と共に訪れると言われているわ。貴方の体で島の突風に耐えられるとは思えない。スコールを浴びるくらいならいいけど、終わったあとその場に残ってなかったら後でヴェラークが泣くわよ?」
 二人の会話を聞いていたエルミナが大きく笑った。
「貴方の父君でしたら泣くどころではないと思うけれどね」
 ヴェラークのことを良く知っているような口振りだ。含み笑いを浮かべながら視線だけ振り返るエルミナに、イリアは身を乗り出した。
「父に詳しいんですか?」
「貴方が攫われた二年前の事件は記憶に新しいわ。それに、ゼロ大尉が彼の部下でしたから、逸話は色々と窺っています。お酒を飲むとなかなか壮絶な方らしいわね」
 期待に表情を輝かせていたイリアは顔を真っ赤に染めた。
「お父様……」
 両肩を落としてうな垂れる。他人から面と向かって言われると情けなくなってくる。
 背後ではシャルゼが興味なさそうに「お腹空いたわ」と呟いた。
「貴方が生まれたとき、カーデ領はしばらくお祭り騒ぎが続いたそうね。もし貴方がいなくなってしまったら、カーデ大将は地の果てまで貴方を捜しに行くでしょうね」
 想像が容易い。何しろ、ダルスに攫われたイリアを公私省みず戦闘艦で追跡したという前例がある。
 エルミナは楽しそうにクスクスと笑ったあと、ふと空を仰いで眉を寄せた。
「駄目ね。やっぱり空がもちそうにないわ」
 彼女が何を指して言っているのか理解して、イリアも空を仰ぐ。
「近くにもいい場所があるから走りましょうか」
 エルミナの言葉が終わるか終わらぬかの内に、ポツリと冷たい雫がイリアの頬に当たった。
 イリアが顔をしかめた次の瞬間。
 まるで、見渡す限りの軍人が足並み揃えて一斉に行進したかのような音と震動が響いた。周囲は一瞬にして雨の気配に包まれる。
 叩きつけるかのような豪雨にイリアは片耳を塞ぎ、片腕を眼前にかざす。眉を寄せて窺い見る。瞬く間に荒れた風で、体ごと空へ舞い上がりそうだ。
「あら?」
 イリアたちを振り返って走り出そうとしていたエルミナが瞳を瞠った。掲げた腕を下ろし、手の平を上にする。その手に、雨は当たらない。不思議そうな顔をしたエルミナだが、一瞬後には何かに気付いたようにシャルゼを振り返った。
「上官を雨ざらしにする訳にはいかないわ」
 制服の上着を脱いでいたため白いシャツが雨にけぶっている。
 シャルゼは得意そうに笑った。
「便利な使い方があるのね」
 唸りを上げる風はシャルゼの特異能力によるもの。彼女が張ってくれた結界のお陰で、激しい雨風は届かなくなった。
 エルミナは感動したようにその風を見極めようと目を凝らしたが、肉眼では分からない。
「イリア。腕を伸ばすのは止めなさいね。腕が吹っ飛ぶわよ」
「そ、そういうことは最初に言って!」
 風の便利な使い方を初めて見たイリアも珍しげに手を伸ばし、寸前でかけられた声に驚愕する。慌てて腕を戻す。そんなイリアを見て、エルミナも伸ばそうとしていた手を握り締めた。
 エルミナはシャルゼを振り返る。
「とても便利だけど、能力者には負担がかかると聞いたことがあるわ。早目に避難しましょうね」
 シャルゼは肩を竦める。
「ま、否定はしないわ。イリアなんて私よりも体力なくて、前回は倒れたものね」
「あ、あれは……」
 イリアは言いよどむ。ダルスたちを逃がすため、大きな力を使いすぎた結果の昏倒だ。言い募ろうとしたが、エルミナの前でダルスの話題ははばかられ、結局は口をつぐむ。シャルゼは何の悪びれもなく微笑んだ。
 歩き出したエルミナが、振り返らないまま張りのある声で話に加わる。
「聞いているわ。まだ訓練生なのに大活躍だったそうね」
「……私だけの力じゃないわ。近くには、お父様も、ラード艦長ももいたから……」
「ダルスといえばここ数年で急成長してきた大海賊よ。軍の協力があっても、たいていの者は竦んでしまうわよ。立派な度胸ね」
 イリアはエルミナの背中から視線を逸らした。ダルスに対して竦んだのは、彼の船で出会った一番初めのときだけだ。敵対する男の娘だと知れても殺されることはなく、逆に彼らには親しみを覚えた。船に乗る他の男たちに対しても同じ感覚だ。ときおり彼らの瞳が恐ろしく感じられることもあるが、他の皆が言うような『誰もが恐れる大海賊』とは結びつかない。
 イリアはそんな戸惑いが、軍に対する裏切りのように思え、エルミナを真っ直ぐに見ることができなかった。
 イリアを庇うようにシャルゼが前に進み、微かに笑う。
「表舞台に現れたダルスは残虐だったらしいですね」
「そうね」
 エルミナは振り返ることなく同意した。
「そのときの彼はまだ船長ではなかったけれど、風を自由に駆使できるだけあって、誰よりも危険視されていたのよ」
 ぬかるんだ道を歩き、強くなった雨音を聞く。茂みに近づくと風が葉を切裂いた。緑の絨毯ができる。そんな道も、雨に流されていく。
 やがて目的地に到着したエルミナが振り返った。殺伐とした話に沈んでいた雰囲気を打ち消すように、彼女の表情は明るい。
「中は滑りやすくなっているから気をつけてね」
 洞窟に入った途端、包む風の気配が消える。イリアは礼を言おうと振り返り、眩暈に耐えるような仕草を見せたシャルゼに気づいた。やはり三人を一手に背負うのは辛かったのだろう。声を掛けようとしたが、彼女のそんな様子は一瞬だけだ。
「どうかして?」
 何でもないことのように振る舞うシャルゼにイリアは声を掛けそびれ、一拍置いてかぶりを振った。
「ううん。ありがとう、シャルゼ」
 風によって消えていた潮の匂いが強く香る。
 入口付近の岩は角が取れて丸くなっていた。侵入した雨が滴る位置は決まっているようで、その部分だけ小さな穴が複数穿たれている。
 雨の入らない奥へと進んだイリアは岩肌に触れた。不規則なおうとつを繰り返し、先端部分が鋭利な箇所もある。気をつけなければ怪我をしそうだ。
 どうやら元々は海に沈んでいた岩礁らしい。潮の満ち引きが変わったのか別の原因があるのか、何らかの原因で地上に取り残された天然の洞窟だ。足元には細かな貝殻や珊瑚の欠片が敷き詰められている。
「ありがとう。だいぶ消耗したのではない?」
 更に奥へ進みながらエルミナがシャルゼを労わった。洞窟内には光苔が群生しており、ランプがなくても充分な明るさが保たれていた。不思議な緑色に三人の姿が沈む。
「私はあまり消耗しないように力を使うのが得意なの」
 このとき微笑んだシャルゼにはいつもの強気が満ちていた。何とはない安心を覚えて嘆息すると、シャルゼの視線が向けられる。
「後先考えない直情径行型はイリアね」
「どういう意味よ!」
「素直で羨ましいって意味よ?」
 洞窟内に声が木霊した。
 跳ね返った自分の声に驚き、眉を寄せて唇を尖らせた。絶対に違うとは口に出せなかった。自覚があるから言わないということではなく、単に、それよりも気になることがあったからだ。
 エルミナの背後に広がる翠湖。その光景に息を呑む。
「何、ここ?」
 思わず走り出そうとしてシャルゼに止められる。転んだら確実に怪我をする。
 彼女の意図に気づいてイリアは足早に近づくに留めた。
 シャルゼも気持ちは同じようで、競うように先に向かう。岩場を乗り越えて身を乗り出した。
「凄いわ。これ、カール鉱石……?」
「小さいけれど波があるわね。どこかで海に繋がっているのかしら?」
 全身が薄青い光に包まれていた。
 周囲を見渡して感嘆する。
 隣に膝を折ったシャルゼは小石を投げ入れた。小さな波の向こうに消える。
 水晶の切片を敷き詰めたような光を零す、巨大な空洞。
 洞窟の奥にはそんな光景が広がっていた。
「二人とも正解」
 拍手の音が聞こえて振り返ると、エルミナが笑いながら歩いてきていた。
「この島ではカール鉱石が豊富に採取されていたの。近年では市場に出回ることもなくなった高級品ね。ここはその名残。この洞窟をもっと奥まで進めば海に繋がるわ」
 イリアたちの疑問に答えながらエルミナは懐からナイフを取り出した。近くの岩に突き立てる。すると高い音を発しながら、滑らかな岩盤の表面が脆く砕けた。鮮烈な光が放たれようとしたが一瞬だけで、力が抜けたように光は消える。
 カール鉱石は小さくても非常に価値の高い宝石として好まれていた。希少価値もあるが、それよりも二人は、零れる青い光に興味を惹かれて覗き込んだ。砕かれたばかりの石は仄かな青い光に包まれている。石自身が発しているというより、周囲の環境に共鳴しているようだ。
「カール鉱石の特徴は知っていて? シャルゼ=アーリマ」
 エルミナの手に包まれた石は弱々しい青い光でエルミナの手を照らす。
「鉱石には捨石と呼ばれる保護膜があります。砕かれても直ぐに鉱石を覆い隠すように再生する。生身の鉱石を海水に浸せば高度を増して、閃光弾としても、照明道具としても、使途の種類は様々あります」
 教科書を暗唱するようにシャルゼは答えた。
「正解」
 イリアはシャルゼを窺ったが、彼女の表情に得意気な様子はなかった。知識は当然だと考えているのか、執着がないだけか。そんなことを考えるイリアに、エルミナは次の質問を当てた。
「では、イリア=カーデ。カール鉱石を軍事転用するためには捨石の存在が邪魔になる。取り除くためにはどうすればいい?」
 突然の課外授業にイリアは内心で悲鳴を上げた。
 幼い頃を思い出そうとする。
 軍事物は危ないからと、ヴェラークは決してイリアを近づけさせようとしなかった。その網を潜って密かにイリアを招いていたのはディールアだ。彼はエスバドと共に、イリアと遊んでくれた。ヴェラークには未だに秘密にしている。
 そんな遊びの中に、カール鉱石のこともあった。
 イリアは眉を寄せてうなり声を上げる。エルミナが苦笑しているのには気付かない。しばらくし、思い出して声を上げた。
「捨石を再生させないためには、手で握り潰すのよ!」
 ディールアはカール鉱石を握り潰していた。彼はそれをイリアに見せ、そのまま海水に投げ入れていた。そのときは欠片が小さかったため、発光規模も小さかった。それでも幻想的な光に、幼いイリアたちは声を上げて喜んだ。
 自信満々に胸を張って言い切ると、エルミナは目を丸くして絶句した。しばらくして耐え切れないように笑い出す。その声は洞窟内に反響する。
「残念だけど不正解よ、イリア」
 エルミナの代わりに答えたのはシャルゼだ。
 頭上でひとつに括っていた紐を緩め、解く。豪奢な金髪が音を立てて揺れた。
「正解は、生身のカール鉱石を太陽の光にかざすこと。捨石は太陽光で作られる栄養の、いわば代わりのようなもの。本物の太陽に晒せば捨石の存在は必要なくなるわ」
「栄養……? なんだか植物みたいね」
「だって、カール鉱石は大別すれば植物に分類されるもの」
「え、ええっ? じゃあカール鉱石って、食べられるの?」
「食べられないことはないでしょうけど、私が知る中で調理法を知っている人物は皆無だわ。貴方、カール鉱石が植物だと知ったときの着眼点は食用か否かなのねぇ……」
 シャルゼがため息をついた。自覚のあったイリアは言葉を詰まらせる。何も言えず、視線をさまよわせた。
「ディールアおじさまは、握り潰しただけで海に投げ込んでたのに……」
「捨石が再生するには時差が生まれるためね。海に投げ込まれるまで太陽に晒されていれば、捨石は再生せずに海水に触れて発光するわ。理論上、可能よ」
 先ほど砕いたばかりのカール鉱石を、エルミナは腰帯の袋に入れた。淡い光が小さくなって消える。
「さて」
 周囲を見渡して、エルミナは一息つく。
「採れる精度が落ちて、鉱山としては使えないこの場所だけど、貴方たちには充分な広さも、豊富な海水も空気もある。能力者は場所を選ばず訓練に励むことができる、と聞いたわ。私にとっては服が汚れずに座れる、ちょうどいい腰掛もあることだし」
 真っ平らに切り取られ、滑らかな光沢を見せる天然カール鉱石の椅子。
「貴方たちの能力をゆっくりと見学させていただくわ」
 まるで試験監督のように腰を落ち着ける。
 イリアとシャルゼは顔を見合わせた。

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