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第四話

【四】

 雨を含んで重たい服。体温のせいで奇妙な温かさが体全体を包んでいる。
 オーカキス島に寒風は吹かないが、濡れたままでいれば体力を奪われてしまう。
 イリアは風邪の前兆を感じ取っていた。
 暖かい雨でも風邪は引くのかしらと思いながらイリアは歩く。激しい雨は続いており、口を開けば容赦なく入ってくる。
 イリアはエルミナが出て行ったと思われる門に近づいた。
 鍵はかかっていない。風に吹かれて小さく揺れている。つかんだイリアは、門が動くままに体を引きずられかけて、足に力を入れた。かなりの力を込めて揺れを押さえる。昼に見たときはあれほど軽そうだったのに、と怪訝なまま外へ体を滑らせた。
 司令部を振り返ると雨に霞んでいる。自室からはこの門がかすかに見えていたが、ここから見ると自室がどこか分からない。雨は強まったり弱まったり、間断なく続き、その合間にときどき、司令部の窓で動く何かの影が見えるだけだった。窓から覗いていたイリアをエルミナが見つけられたとは思いがたい。
 イリアは視線でシャルゼの姿を捜したが、彼女はどこにも見えない。
 意を決して門を離れようとしたとき、突風が吹いた。門は風に吹かれるまま勢い良く動いて打ち付けられる。重たい音が低く響いた。
 思わず首を竦めてしまう。
「お、驚かせないでよ、もう……」
 胸に手を当てて小さく呟く。途端に雨が口に入ってきて、慌てて噤む。
(そういえば、ゼロ大尉もエルミナ准佐のこと知らないのかしら)
 首を傾げただけで深くは追求しない。エルミナが出て行ってから時間が経っている。早く追いかけなければ、戻ってきたところを鉢合わせになるかもしれない。部屋から出るなと言われていたイリアにとって、それは避けたい事態だ。
 イリアは重い門を苦労して閉ざし、外側から腕を差し入れて閂をかける。暴風には意味がないのかもしれないが、ひとまずの応急処置だ。
 そうしてからイリアは改めて林を眺めた。
 シャルゼとエルミナがいた昼間に比べて、今は格段に気持ちが沈む。鬱蒼とした林に踏み込む勇気が湧かない。それでも思い切って歩き出す。不安を抱えたまま、エルミナはどこへ行ったのだろう、とゆっくり周囲を見回しながら歩く。
 この場所からイリアが辿れる道はひとつだけだ。昼間に連れて行かれたカール鉱石の洞窟。道筋はしっかり記憶しているし、道も作られているため、辿り着けるだろう。
 イリアはひとまずの目的地をカール鉱石の洞窟に定めた。目的がないまま進んでも不安が増して挫けるだけだ。唇を引き結んで周囲をうかがう。華奢な体に緊張をみなぎらせながら、イリアは目的地へと歩き出した。


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 今回のスコールはなかなか止まない。突発的なスコールの他に、本格的な嵐も混じっているためだろう。
 シャルゼは忌々しく眉を寄せながら雨の中を飛んでいた。
 借りた本を大切に胸に抱えている。局地的な暴風はシャルゼを攫い、ときどき地面に落とされそうになる。集中力をいつもの何倍にも高めて風を操り、シャルゼは頭の痛い思いをしながら建物の一角に近づいた。
(イリアは鈍感すぎてアテにならないわ。そのくせ好奇心の塊なんだから、困ったものね)
 シャルゼは自分のことを棚に上げて思いながら肩を竦める。
 窓から漏れる明かりに吸い寄せられるように近づいて内部を窺った。
 あまり近くに寄っては見つかる恐れがある。距離は充分保っているが、スコールが邪魔して視界は明瞭としない。忌々しさにため息をつく。
 建物の外壁を回っていたシャルゼはようやく目的の部屋を見つけた。
 シャルゼは大切に抱いていた本の背表紙をつかむ。ずらりと並んだ窓のひとつ、目的の窓へと、本を全力投球した。
 ――瞬間遅れて、ガラスが割れる音と、ヴェラークが驚愕する声が上がる。
 シャルゼは風を弱めると、ゆっくり彼の元へ降下した。
「シャルゼ嬢っ? これは何の真似だ!」
 割れた窓から侵入すると、ヴェラークが本を拾っているところだった。シャルゼの姿に驚愕する。他に人はいないようで、誰かを呼ぶ声もない。窓が割れる音は、雨音が消してくれたのだろうか。シャルゼはヴェラークに気取られないよう安堵する。
「貴方に聞きたいことがあって来たのよ、ヴェラーク。イリアはもちろん連れてきていないわ。今頃は貴方の命令を大人しく聞いて、部屋で腐ってる頃でしょうね」
 本当は既に脱走済みなのだが、まだ知らないシャルゼはそう伝えた。ヴェラークの眉が寄せられる。
「私に何の用かな、シャルゼ=アーリマ? 事と次第によっては特進どころか退学になるぞ」
「そうねぇ。さすがに私も他の将校に対してはこんな真似、しようとは思わなかったでしょうね。でも今回は貴方だから。きっと寛大に許して下さるわ」
 言い放って微笑み、シャルゼは腰に手を当てた。ヴェラークは疲れたようにかぶりを振る。
「聞きたいこととは?」
「貴方とエルミナの関係だわ」
 微笑んだシャルゼに、ヴェラークは驚いたように目を瞠って彼女を見つめた。
 驚いたあとは訝しげな視線となり、探るようにシャルゼを見つめる。対したシャルゼは毅然と胸を張る。ヴェラークの視線を怖じることなく受け止める。豪胆な性格はイリアに張るらしいと気付いてヴェラークは頭を抱えたくなるが、実際には微かに瞳を細めただけだった。
「何をつかんでいるのか知らんが、シャルゼ嬢に易々と口を割るほど軽くはできていない。貴方は何も知らなくていい。大人しくイリアと部屋で待機していなさい」
 不機嫌そうな気配を漂わせて顔を逸らし、ヴェラークは言い放つ。今度はシャルゼが顔をしかめた。
「そうはいかないわ。軍人の端くれとしてこの島に来ている以上、上官に対する信頼関係は絶対のものよ。信じられないなんて話にならないわ」
 頬を膨らませて吐き捨てるシャルゼに、ヴェラークは向き直る。圧倒的な雰囲気で彼女を見下ろす。
「邪推して信じることが出来ぬのは貴方の弱さだ。エルミナは信頼できる女性だ。黙って彼女に信頼を預ければ間違いはない」
 取り付く島もない言葉にシャルゼは唇を尖らせる。
「ならカラドレット=ゼロと貴方の関係は何なのかしら? とても信頼し合っているとは思えないわ」
「それこそ貴方には関係がないことだ。この件に関して私から貴方に伝えることは何もない」
 食い下がろうとしたシャルゼを跳ね除け、ヴェラークは窓から離れた長椅子に座った。彼の表情は険しい。憮然と腕を組み、瞳を閉じる。もう何を聞いても無反応を続けるようだ。
 シャルゼは消化不良な気分を抱えながら部屋を見渡した。
 どうやら将校たちは部屋を別に取っているようで、この部屋にはヴェラークしかいない。作戦会議が行われていると思ったがその気配もない。もっとも、もしそのような場面に本を投げ入れていたら、そのときこそシャルゼは退学になっていただろう。
 机の上には海図が何枚も広げられている。大小さまざまな海図だ。
「いいわ。軍に暗部はつきものですもの。不愉快だけれど、今は追究しないでいてあげる」
 しばらく経ってから、不承不承、シャルゼは吐き出した。ヴェラークは動かず瞳を閉じたままだ。
「では大人しく戻ることにしましょうね。御機嫌よう。未来の上官様」
 答えは何も得られないと知ると、シャルゼは憤然と足を踏み鳴らせて窓に向かった。ヴェラークの視線がようやくシャルゼに向けられたが、彼女は振り返らない。割れた窓を慎重に潜って外へ出る。雨は弱々しく小降りになっており、風も僅かに残るのみとなっている。
 ――そろそろ完全に降り止むかしらね。
 悔しさからはあえて視線を逸らし、紺碧を覗ける空を見上げてそう思った。

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