前へ目次次へ

第四話

【五】

 雨は一向に止まない。濡れた服が重たくて体力が奪われていく。1人きりだという寂しさに、当初の勢いもくじけそうだった。
 このまま帰ろうかとも思うが、脳裏にエルミナの姿が浮かび、どうしても足を踏み出してしまう。自分の行動に呆れてため息を吐き出した。
 無様に倒れることだけはしないように、行く手を阻む雨に逆らうようにして一歩一歩力強く踏みしめる。父がいてくれたら、と考える。彼がいたらどんなに心強いことだろう。必ず守ってくれる。
 エルミナの声が聞こえないかと耳を澄ます。風のうなり声が聞こえる。暴風に煽られ悲鳴を上げる木々や、わずかながら波の音も。けれど人の声は聞こえない。
 イリアは濡れた顔を拭った。唇を引き結んで顔をしかめる。海水が巻き上げられたのか、雨は少し塩気がした。
 しばらく歩いていると、エルミナたちと来た洞窟に辿り着いた。中に入ってようやくひと心地つく。膝を崩して前のめりに倒れ、両手を岩につくと大きなため息をつく。
「もう嫌。疲れた。動きたくないわ……」
 イリアの呼吸が木霊する。
 洞窟の入口で呟いたが、その場所ではまだ雨風が届く。もう少し奥へ行って休みたい。
 イリアは嫌々ながら立ち上がる。思っていた以上に体力が奪われていて力が入らない。沈みそうになる意識を奮って足を動かす。少しでも気を緩めるとその場で昏倒してしまいそうな予感があった。
「何だって私、こんなに頑張ってるのかしら……?」
 目的など忘れていた。ようやく雨風が届かない場所に来ると、イリアは岩壁に背をつけて座り込んだ。痛いほど高鳴る心臓を必死で宥める。洞窟内に木霊する呼吸がうるさい。
 どうやら司令部を出るときに駆使した能力が、体力低下の強い原因らしい。
 イリアは悔しさに唇を噛み締めた。思うように揮えない能力が恨めしい。視界に入るものがすべてが体力を奪っていくような気がして、イリアはそっと瞼を閉じた。暗闇が脳裏を支配する。体が軽くなるような錯覚に陥る。上下左右も分からず、体だけが宙に浮いているようだ。
 イリアはそのまま眠ってしまいそうな気がした。
 洞窟の入口でうなる風の声を聞きながら、イリアは「それもいいかも」と思った。そのまま意識を沈ませようとして、違和感に気付いた。
 夢ではなく、実際に誰かに抱えられた気がした。誰かの熱が確かにある。
 瞼を開ける。
 視界に入ったのは、暗く爆ぜる炎のような色をした髪。そして、見知らぬ男の顔だった。
「きゃああっ?」
 あまりに近いその距離に、イリアは思わず悲鳴を上げた。暴れて落ちて、痛みにうめく。直ぐに男に腕をつかまれる。簡単にひねり上げられて身動きが取れない。敵だ、と警鐘が強く鳴り響く。イリアは痛みと緊張に脂汗を浮かばせた。
「なんだ。しっかり生きてるんじゃないか。この嵐で行き倒れてるんじゃないかと思ったぜ」
「だ、誰っ?」
 男はイリアの声に笑った。質問には答えない。イリアの腕をひねったまま歩き出し、イリアは痛みに悲鳴を上げる。引きずられるようにして彼に従うしかない。男はイリアの悲鳴など堪えないようだ。おうとつの激しい床面を、まるで迷いがないように身軽に飛び越えていく。しかし彼に腕をつかまれているイリアはそうもいかず、転びかけては腕に痛みに悲鳴を殺す。
「いい加減に放してよ! 腕が折れたらどうしてくれるのっ?」
 絶え絶えの息でようやく叫ぶと、男は笑って足を止めた。嫌な笑い方にイリアは戦慄する。
「簡単だ。折れても俺には関係ない」
 あまりの言葉にイリアは絶句する。次いで怒りが湧き、体術を生かして逃れようとした。そんな気配を察したのか男は更に強くイリアの腕をひねり上げた。イリアは抵抗もできず、痛みに脂汗をかく。
「これくらいしないと腕は折れないぜ。安心しな。俺はこれでも紳士的にできてるんだ。無粋な真似はしないさ」
 男は笑いながら言う。
 イリアは悔しくて俯いた。この男の前で泣くことは屈辱に思え、唇を噛み締めて耐える。再び歩き出した男に引かれるまま歩き出す。洞窟の床面はなだらかになっており、その面ではイリアは助かった。これで転んでいたら、今度こそ腕の骨が折れたかもしれない。
 やがて何かの騒々しい気配に気付き、イリアは顔を上げた。
 視界の先にあったのは輝くばかりの蒼の世界。
 イリアは瞳を瞠らせる。
 エルミナたちと来たときは洞窟の浅い部分で訓練を行ったため、知らなかった。洞窟の最深部にはまだカール鉱石が群生しているのだ。
 しかしイリアを驚かせたのはカール鉱石ばかりではない。カール鉱石に彩られた世界のなかに、数十人という人間がいて、忙しなく動いていた。彼らは誰もが武器を持ち、稀少なカール鉱石を無造作に採っている。小さな欠片を踏み潰し、より大きな鉱石をつかもうと武器を振るっていた。そうして発せられる蒼い光は、カール鉱石の断末魔にも思える。
「ここだけ警備が緩かったから囮かと思ったが、これだけの鉱石がありゃ何でもいい。寄り道ついでだがすべて貰って行こう。この島がこんな楽園だったとは恐れ入るぜ」
 イリアはその言葉を蒼白になって受け止めた。
 採取者たちはイリアたちより数段低い場所にいて、距離も遠い。イリアたちの手前には大きな段差があり、迂回しなければ彼らの場所に辿り着けないようになっていた。
 視線をもう一度下の採取者たちに向けたイリアは、蒼光の向こう側にぼんやりと船が浮かぶことに気付いた。目を凝らして良く見つめる。船には真っ赤な帆が見えた。船のどこを探しても、国章は見つからない。軍旗もない。航海の安全を祈願するルーンが舳先に刻まれているだけで、無国籍のようだ。
 現在ヴェラークたちが血眼になって行方を追っている、赤い海賊だ。
 イリアは震えそうになる自分を抑えながら吐き出した。
「海軍の警備が緩い……?」
 呆然とその言葉を繰り返す。本土の連合艦隊が到着した今、そのようなことはあり得ない。しかし現実として、赤い海賊は目の前にいる。男の言葉は真実だ。
 イリアはなぜかエルミナを思い出していた。彼女は明らかに不審な行動をしていた。まさか彼女は、海軍の警備を操作してこの者たちを手引きしたのか――そんな思いが湧きあがった。あり得ない、と否定しても、心のどこかで信用しきれない。
 男が歩き出した。イリアは抵抗する気力も失くし、黙って従う。今のイリアに出来ることは、シャルゼが気付いてくれることを願うことだけだ。彼女ならばきっとイリアの不在を不審に思い、ヴェラークに報告してくれるだろう。
 腕を引かれ、洩れそうになる悲鳴を必死で殺し、痛みに耳鳴りまでしてきて涙を堪える。海賊船に近づくにつれて足元はカール鉱石の欠片ばかりになってきた。イリアたちが歩を進めるたびに小さな音がして欠片が砕ける。蒼光が足元を照らす。
 エルミナに連れて来られたとき、この洞窟にはまだカール鉱石が根付いているから踏み潰さないように気をつけて練習してね、と言われていたことを思い出す。
 イリアは顔を上げて前を見据えた。動き回る男たちは逞しい者ばかりだ。むき出しになった二の腕は盛り上がり、幾つもの傷が見出せる。イリアの腕をつかんでいるこの男にしても同じだ。彼はイリアに叩かれても眉ひとつ動かさないだろう。
 足元で小さく弾けるカール鉱石の断末魔を聞きながら、イリアはエルミナの笑顔を思い出していた。シャルゼと二人、エルミナの言葉に従いながら能力レベルを高める練習をした。
「……なんだ?」
 イリアをつかんでいた男が眉を寄せた。その声を聞きながら、イリアは眼差しを強く海賊船に向ける。船の向こう側には、昼間に見た滄海が広がっているはずだと想像する。
 イリアは痛みを忘れ、ひたすら意識を凝らした。体は限界を訴えている。けれど、やはりこのまま黙って引き下がるわけにはいかない。カール鉱石を傷つけないよう配慮したエルミナと、何の配慮も見せないこの海賊たちを、関連付けるのは早計に思えた。もう少しエルミナを信じてみようと思う。門を出た彼女が何をしているのか知らないが、必ず近くにいるはずだ。時間稼ぎは無駄にはならないはずである。
「波っ?」
 男が驚愕した。
 ほぼ同時に、カール鉱石を採っていた者たちも気付いた。驚愕する声があちこちで上がる。洞窟に満ちる海にはほとんど波がないが、外に繋がる海の入口から、大きな高波が押し寄せようとしている。
 海賊たちは事態が飲み込めると慌ててその場から逃げ出した。
 人間の身長を軽く越える高波だ。赤い海賊船は持ちこたえるだろうが、小さな船なら簡単に転覆するだろう。また、海賊船の近くで作業していた者は確実に飲み込まれる。海賊船に逃げ戻れる人間はごくわずかだ。
「この地形でこんな……!」
 イリアは、男の唖然とする声を聞いて笑った。霞む意識の中でささやかな勝利を噛み締める。そして更に、能力を操作する。
 もちろん、この高波は自然の物ではなく、イリアによる決死の抵抗だ。
 けれどイリアの能力など知らぬ男はどうすることもできず、ただ呆然とするだけだ。
 イリアが操る高波は海賊船を一度大きく揺らし、逃げ遅れた者たちを何人か飲み込んで引き上げる。
 イリアは強い脱力感に襲われた。足から力が抜けて、立っていられない。この疲労から抜け出せるのなら腕が折れることなど些細なことのような気がした。
 倒れかけたイリアは瞳を瞬かせた。視界に誰かの姿がよぎった気がした。
 ――エルミナだった。
 素早く視界に入り込んだ彼女は、呆然としていた男が反応するより早く懐に飛び込んだ。腹を殴って動きを封じる。次いで大きく体を逸らし、膝蹴りで顎を打つ。男が何の反応も出来ないうちに、彼の背後に回りこんで手刀を叩き込んだ。
 流れるように鮮やかな手腕だ。
 男から解放されたイリアは力なく座り込んだまま、まるで鬼神のように険しい立ち姿を見せたエルミナを見つめた。地面に叩き伏せられた男も、痛みに顔をしかめながらエルミナを見上げる。
 エルミナは険しい表情を崩さないまま彼を見下ろした。痛んでいない方のイリアの腕をつかんで立ち上がらせる。
「私の名はエルミナよ。思い出すがいいわ」
 一方的に告げるとエルミナはイリアを抱え上げた。細い腕には似合わない力強さだ。
「エルミナ准佐……?」
 戸惑うイリアに、エルミナは視線を向けた。そこに微笑みはなかったが、イリアは安堵した。高波で混乱するその場を背にし、エルミナはイリアを抱えたまま足早に歩き出した。
「良く頑張ったわね」
 意識を全方向に向けたまま、エルミナは険しい声で言葉を落とした。
 大分経ってから、海賊による物と思われる口笛が洞窟内に響き渡ったが、イリアは焦ることなく瞼を閉じた。

前へ目次次へ