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第四話

【六】

 悪夢の日を思い出すと怒りで胸焼けがした。
 ようやく生き延びたと思ったのも束の間、ことごとくが燃やされていて、死を覚悟した。
 楽園を失った者たちは、修羅を燃やしながら海賊となる。
 誰かを傷つけることでしか心を潤せない。自分たちより力弱い者たちを蹂躙することは必然だった。毎日のように誰かが餓死していく。誰もが心を病んでいた。
 生き延びた幼いダルスたち兄弟も例外ではない。特にラヤダの焦燥は強い。彼は赤い海賊から逃れるためとはいえ、体の弱い母を島に置き去りにした。彼を責める者はいなかったが、彼は自分を責め続けた。生まれて間もないイサミアを抱いたダルスたちには絶望しかなかった。
 食糧難だからと他の赤ん坊たちは次々と殺されていく。大人たちの手はイサミアにも伸びたが、幼い兄弟は最後までイサミアを守り通した。特にラヤダの抵抗は凄まじかった。樹の下を通る大人たちに物を投げつけ、大人たちの腕に噛み付いた。ダルスと協力して罠をしかけた。
 エルミナが彼らを保護しなければ、兄弟は島から追放されていた。
 エルミナもまた、すべてを失った者の1人だった。
 優しい両親は焼き殺された。生まれてくるはずの妹と共に。
 年齢的にはエルミナとダルスはほぼ変わらなかったが、エルミナは島が襲撃される前から一目置かれる格闘術の持ち主で、一人前の扱いを受けていた。しかしダルスたちを庇えるほどの余裕があったわけではない。失われた家族を求めて縋りついただけだ。
 ラヤダが島を出たのは、エルミナに保護されてから何日か経ってからだった。
 復讐を決意したラヤダは島を出る機会をずっと窺っていた。けれど、十を過ぎたばかりの少年に何ができようか。当初は復讐を公言していたラヤダだが、周囲から諌められるたびに無口となり、復讐については口を閉ざした。大人たちはそれでラヤダが諦めたのだと思っていたが、彼は望み続け、機会をずっと待っていた。
 島の船は大人たちに管理されている。これから命を繋ぐために大切な船だ。警戒は厳しく、大人たちは寝ずの番を続けている。そうであるから、ダルスだけはラヤダの復讐心を知っていたが、船を奪取できるはずがないと思い込み、そのままにしていた。イサミアが栄養失調にかかり、島の母親たちから乳を恵んでもらうために走り回っていたため、気が回らなかった。寝ずの番を続けている大人たちが、休むこともあると忘れていた。
 そしてラヤダが狙ったのは、まさに大人たちが休む日だった。
 大人たちが船の番を休むとき、その見張り役は年長者から順番に子どもたちへ回されていく。けれどその役目がラヤダに回されることはない。ラヤダより年上の者たちは沢山いるし、ラヤダの番が回ってくる前に大人たちが休みから戻ってくる。
 ラヤダが狙ったのは、エルミナが役目を回された夜だった。
 子どもたちは夜が明けるまで何度か交代を繰り返す。そのわずかな時間を縫って、ラヤダはエルミナの前に現れた。本来は二人一組の見張りだが、そのときエルミナは1人で見張りに立っていた。彼女と組んだ男が腹痛を訴えたためだ。気心知れた仲間だったためと、自身に対する驕りも多少手伝って、エルミナは大人たちに報告せず、代役を選ぶこともせず、男を家に帰したあとも1人で見張りを続けた。その日の配給当番にはラヤダが含まれていた。
 1人で見張りをしていたエルミナの前に姿を現したラヤダは、島を出たいと言った。
 エルミナは当然ながら引き止めた。1人で何ができるのだと叱る。家に戻りなさいと強く跳ねつける。けれどラヤダの決意は揺るがない。家に戻っても母はいない、と表情を強張らせるラヤダの言葉は、エルミナを揺り動かした。眠っていた悔しさと哀しさが蘇る。赤い海賊に復讐したい、とラヤダに夢を重ねた。
 冷静に考えればラヤダ1人で出来るはずもない。
 その日の夜は何かが狂っていた。
 島の皆が使う大型船は動かせないが、非常用に造られた船ならばいいかと、エルミナは思ってしまった。現実を知ればラヤダも途中で引き返して来るだろうと軽く考え、そして、あわよくば、と万一の夢を重ねて送り出した。
 結果、ラヤダは戻らなかった。
 エルミナが見張りを勤めた翌日のことだ。夜に見張りを交代した子どもたちは船がなくなったことに気付かなかった。しかし大人たちが見張りを交代し、船を確認して直ぐに露見した。
 エルミナは大人たちに激しく糾弾された。殴られ、罵声を浴びせられ、そこでようやく自分が大変な過ちを犯したのだと気付いた。大人たちが直ぐに近海を捜したが、ラヤダはついに見つからなかった。海難に遭った痕跡も見つからなかったのは、果たして幸いと呼ぶべきか。
 ダルスは何も言わなかった。
 瞳は確かにエルミナを糾弾していたけれど、彼は拒絶するように背中を向けて、イサミアを抱えた。泣きじゃくるイサミアをあやし、ラヤダが奔走して集めたミルクを温め続けた。
 ラヤダが見つからないまま月日は流れる。
 エルミナは、ラヤダ1人を赤い海賊の元へ向かわせた罪悪感に苛まれながら日々を過ごしていた。ほぼ無抵抗の客船から食糧を奪うときも率先して剣を振りかざし、海軍と白兵戦になったときも真っ先に剣を振るった。
 同じく、船で頭角を現したのはダルスだった。
 当時の海軍には、船長よりもダルスの方が危険視されていた。エルミナ譲りの格闘術と剣技を駆使して敵陣に攻め入る。無謀だと思われるような突進もしばしばあり、怪我を負うことを恐れない。
 そんな様は無言でエルミナを責めているようで、エルミナは更に罪悪感に悩まされた。
 そんなおり、物資調達のために入った町で、エルミナたちは能力者の存在を知った。
 ラヤダが失踪してからダルスが持て余してきた奇妙な力の意味を知った。
 島の大人たちは浮き足立つ。ダルスはその力を制御することに没頭した。エルミナだけが奇妙な空々しさを感じていた。
 ダルスが能力を得たと思われる経緯を知っているからこそ、大人たちの喜びようが癪に感じられた。
 貴方たちはラヤダを忘れてしまったの――と叫びたかった。
 けれどエルミナにその言葉を叫ぶ資格はない。
 日々大きくなる苛立ちと、赤い海賊に対する復讐心に苛まれたエルミナは、女性でありながら男性の戦闘力を超えるほどの力を身につけていった。
 空虚な満足感と、埋められない喪失感。
 そんなものに心を囚われていたからだろうか。
 エルミナはある日、失敗した。
 客船を襲うことはいつものことだったが、その船が海賊対策を練っていたジェフリス国の客船であったことが計算外だった。思わぬ反撃に退却を余儀なくされた。
 エルミナはそこで、船に乗り移るときに背後から攻撃を受けた。恐怖心に駆られた乗客が、持っていた木製の盾を投げつけたのだ。
 足を踏み外したエルミナはそのまま海に落ちる。ダルスと視線が合う。しかし彼は手を伸ばすことなく、ただ驚いたように瞳を瞠り、エルミナが落ちていくのを見ていた。
 痛手を負った島の者たちはエルミナをその場に残して離脱した。
 それが正解だ。エルミナを助けようといつまでも留まっていれば、続いて出てくる海軍に全員が捕まってしまう。
 これは、ラヤダを行かせた私の罪。
 遠ざかる船を見ながらエルミナは自嘲した。客船に見つからなかったのは幸いだ。浮かぶことに疲れて海に沈む。海の中から見る空は綺麗で、さざなみが光を含んで不思議な翡翠色に染まっていた。ダルスとラヤダの瞳を連想させる。死神の腕に抱かれるように、エルミナは海の底へ沈んでいった。
 けれど、次に目覚めたときエルミナはオーカキス島にいた。浜に打ち上げられたようだ。そしてそこで、カラドレットと出会った。
 こんな穏やかな島があるのかと驚いた。軍人を信用するなど愚かだと思ったが、カラドレットはすべての警戒心をエルミナから取り除いた。破れかぶれで打ち明けても本土に突き出すことはせず、黙ってくれた。しかしそれが元で彼はカーデ艦隊から除隊された。エルミナは気に病んだが、カラドレットは好都合だと笑って言った。
 同じ島ながらどうしてこうも違うのか。豊富な食材を羨ましく思ったエルミナに気付いていたのか、カラドレットはダルスに取引を持ちかけた。一年に一度の裏貿易。考えられないほど非常識な男だ。結果的にダルスたちの島は、飢餓に悩まされることはなくなった。
 ダルス。ラヤダ。カラドレット。ヴェラーク。ミレーシュナ。
 どの要素が欠けても、エルミナはこの地にいることはできなかっただろう。


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 洞窟の奥まで走ったエルミナは顔をしかめた。
 カール鉱石の光に満たされた洞窟を後にして、海へ去っていく船影が見えた。
 手遅れだったらしい。
 赤い帆を睨みつけたエルミナは悔しさに歯噛みする。
 カラドレットが本土から受けた、赤い海賊の情報。隠した彼には歯痒い想いが湧いたが、それを塗り変えたのは復讐心だった。激しい殺意に動かされるままダルスに連絡を取った。果たしてそれは良いことだったのだろうか。
 カラドレットの制止を振り切ってここへ来た。
 一目だけまみえた男を忘れられない。
 ダルスと同じ赤銅色の髪。緑柱石の瞳。
 信じられない思いの方が強かった。記憶の中のラヤダが、目の前の男と重なって驚愕した。歓喜と疑問がない交ぜになって混乱する。その場を離れなければ、冷静に考えることもできなかった。
 エルミナは走り去っていく赤い海賊船を睨みつけた。
 自分が間に合わなかったときのための策は打ってある。イリアと共に外壁へ向かわせたダルスが海賊船を止める。彼はそこで目的を果たすだろう。
 早くそちらへ向かおうと踵を返したエルミナは、そこで違和感に気付いた。
 水辺に打ち捨てられるようにして、誰かがうずくまっている。
 一瞥しただけでは巨大なカール鉱石にも見えたし、ただのゴミにも見えた。それが人であると気付けたのは、エルミナの視界から外れる前に、その物体が微かに動いたからだ。
 本当にささやかな変化だったが、敏感に気付いたエルミナは素早く向かう。
 一歩進んで人間であることに気付いた。
 二歩目で女性だと気付く。
 三歩目では少女だと気付き、駆け寄って意識を失っていることに気付いた。
 骨ばり、痩せた少女だった。印象的な白銀の髪をしている。カール鉱石に囲まれていたため、彼女の髪も蒼い光を宿しているように見えたのだろう。
 エルミナは彼女から数歩離れた場所で止まる。
 一番の疑問は、なぜ少女がこの場所に倒れているのか、だ。先ほどの海賊船から投げ捨てられたと考えるのが早いが、彼らが慰み者にしていたにしては、少女の身なりは整っていた。一見しただけでは外傷もないように思える。衣服の袖は引き千切られているようだが、むき出しの腕は綺麗だ。薄い切り傷が見えたが、新しいものではない。すべてが古い傷だ。
 エルミナは遠ざかる海賊船と少女を見比べ、ためらってから少女に近づいた。
 袖から忍ばせた、小型のナイフを手の平に包みながら少女に腕を伸ばす。
「大丈夫か?」
 口先では心配しながら手にはナイフを隠したままだ。少女の肩を揺らすが、目覚める気配はない。演技ではないようだ。エルミナは詰めていた息を吐き、ナイフを再び袖に隠す。少女の体の下に両手を差し入れた。見た目と同じで、驚くほど軽い。
 寝顔を見下ろしたエルミナは洞窟の入口へと歩く。人助けをしている場合ではないと思ったが、もし妹が生きていたらこのように育っただろうかという思いが少女を助けさせた。
 少女の寝顔は愛らしい。
 けれどどこかで見たような気がする。
 エルミナは記憶を探ったが思い出せない。
 洞窟の入口まで戻ったとき、エルミナはそこに広がっていた光景に息を呑んだ。
 紅碧色を身につけたイートシャン=ドーガの部下たちが整列していた。体の向きを入口に向け、エルミナが出て行くと前進してくる。目の前で剣を抜かれ、エルミナは思わず腰を低く落とす。
 カラドレットは罰せられるのだ、とエルミナは思った。
 妙に静かな気持ちだ。申し訳ない思いが湧き、紅碧隊を倒して海に逃げることはできないだろうかと考える。これは私の独断で、カラドレットは私に騙されていたのだと白を切れば、彼の罪は追及されないかもしれない。それでもカラドレットが何らかの処罰を受けることは確かだが、実質的な罪はずいぶん軽くなるはずだ。カラドレットは怒るだろうが、やってみる価値はある。
 エルミナは腰を低く落としたまま、少女を抱く腕に力を込めた。
「下手な抵抗はしない方がいい、エルミナ。貴方には海賊と通じていた目撃証言がある。海賊と通じる罪は重い。最高刑に処されるぞ」
「目撃証言?」
 そのようなものは、オーカキス島の駐屯軍が裏切ったときしかあり得ない。けれど本当の家族のように接してくれた彼らが裏切るなど、考えられない。
 眉を寄せると紅碧の壁が割れて、1人の男が進み出てきた。
「彼が目撃者だ」
 男の顔は恐怖に引き攣り、額に汗を浮かべていた。エルミナの視線から逃れようとする。
 エルミナは鼻で笑った。見も知らぬ男だった。オーカキス島の住民ではない。
 だとすれば、これは茶番だ。彼らが台本を用意したのだろうか。
「私には何のことか分からないわ」
 整列する隊の両端には、槍を持った男がいた。人の背丈を少し越えた位置にある穂先は鋭く磨かれている。ぎりぎりでエルミナに届く距離だ。
 エルミナは声を張り上げて無罪を主張した。
 動揺を見せないエルミナに、紅碧の軍人たちは微かに揺れた。密かに囁きを交し合って、再びエルミナに迫る。
「ではそちらは後で仔細を聞こう。だが、貴方の名前は軍籍にない。身分を偽称して軍を混乱させ、海賊を逃した罪は重い」
 エルミナは反論しない。この件に関しては反論すればするだけカラドレットに迷惑がかかる。紋章を調べられれば彼の物だと分かってしまう。
 今更ながら、軍服のまま飛び出してきたことが悔やまれた。
 紅碧隊は輪を狭め始めた。エルミナは腕の中で眠り続ける少女に視線を落とし、彼女は巻き込まれないだろうかと妙な心配をする。海賊船から降りた少女だと知られれば、必ず詮議されるだろう。
 白日の元で艶やかな髪を本来の銀色にきらめかせながら眠る彼女には、まるで何の悩みもないように健やかに見えた。それが今の状況にはあまりに相応しくなくて、エルミナは思わず笑ってしまう。それが気に障ったのか、1人がエルミナに手を伸ばした。
 エルミナは覚悟を決めてそのときを待つ――が、邪魔をする者がいた。
「私の上官に汚らしい手で触らないで下さいます? 上官が卑しいと部下の品性まで問われるって本当ね」
 聞き捨てならない言葉に、男たちは殺気立って振り返った。
 エルミナは呆気に取られる。強い風が鬱々とした空気を吹き飛ばすようで気持ちいい。
「さっさとどきなさいよ。次はその腕飛ばすわよ」
 現れたシャルゼは豊かな金髪を揺らせて顎を反らせた。彼女が能力者だと知っていた男たちは慌ててエルミナから離れる。能力者の恐ろしさは本土の軍人ほど身に染みているようだ。
 割れた人垣の向こう側にシャルゼを見つけ、次いでエルミナは泣きたくなった。シャルゼの後ろにはヴェラークがいる。
「エルミナさん!」
 スロットの笑みも暖かいもので、余計に胸の奥が熱くなった。
 彼らはエルミナの前に立つと紅壁隊を振り返った。
「この者に詮議など必要ない。命令していたのは私だ」
 思いもしなかった言葉に紅碧隊は唖然とする。その思いはエルミナも同じだ。思わずヴェラークを見上げる。
「非常時であれば私は民間人に軍事権を与えられる。異論はないな。今はこのようなことに時間を割いていられない。持ち場へ戻れ。一時的だが彼女は私の部下だ」
 紅碧隊の皆は一様に納得がいかないような表情を浮かべたが、国の最高指揮官と並ぶヴェラークの言葉に従わないわけにはいかない。渋々ながらヴェラークに背を向けて引き上げる。
 ヴェラークは彼らの姿が完全に見えなくなるのを待ってからエルミナに向き直った。
「私は貴女が海賊稼業に戻らないと誓ったから許した。だが今回、貴女は私との誓いを破った」
「申し訳ございません」
 エルミナは頭を下げるしかできない。スロットが心配そうに二人を見比べ、シャルゼは淡々と成り行きを見守っている。ヴェラークは深いため息をついた。
「カラドレットは今回のことでまた責任を問われるだろう。私の元へ戻ることなど望んでもないが、あれではゼロ家から絶縁状を叩き付けられかねんな」
「大丈夫ですよヴェラーク大将。絶縁状なんか貰ったら、ゼロ少佐は喜んで受諾します」
 スロットが明るい声を出すが、ヴェラークは睨んだ。冗談が通じない。スロットは首を竦める。
「許すというの、ヴェラーク? エルミナが海賊と通じていたのは事実なのでしょう?」
 シャルゼに追及されたヴェラークは軽く眉を寄せた。何かに耐えるように奥歯を噛み締める。
 エルミナには、そんな彼の葛藤が良く分かった。
 ジェフリス国王に心から仕えている彼は、彼に対して不正するのが嫌なのだ。数年前に海賊と関わらないと誓い、彼も信用して許したというのに、エルミナはその誓いを破った。海賊稼業はしていないが、これほどの騒ぎに発展して不問に処すのは国王への裏切りにならないか、悩ませている。
 エルミナは俯いた。
 上空が曇り、嵐が近いことを知る。雨の気配はすべてを曖昧にさせる。嵐に耐えられる軍艦は少なく、ほとんどの艦は戻ってくる。この機会に海賊たちは洞窟から出ていく。そこで、ダルスは目的を達成するだろう。
 ためらった音が聞こえた気がしてエルミナは顔を上げた。
 ヴェラークが険しい顔をしてエルミナを見つめている。
「……ミレーシュナの、遺志だ……!」
 額に汗を浮かべながらヴェラークは力強く断じた。スロットが感激したように瞳を潤ませ、シャルゼは呆れたように肩をすくめて首を振る。
 そして。
「死した妻は国王陛下よりも偉いと申すか、カーデ大将」
 雨がポツリと降り出した。
 現れた声の主に瞳を瞠らせる。そこにいたのはイートシャン=ドーガだ。
 紅碧の軍服に身を包んだ彼は険しい表情で進み出て、ヴェラークの前に立つ。顔色をなくしたスロットやエルミナとは対象に、ヴェラークは落ち着いていた。
 イートシャンがヴェラークを睨みつけるのと同じ強さで、シャルゼはイートシャンを睨みつけていた。ヴェラークからの合図があれば攻撃でもする、という嫌悪感を含んだ瞳だ。
「それが十三艦隊艦長を課せられた者のすることか!」
 怒声は遠く離れた司令部にまで届きそうな強さだった。それを間近で受けたヴェラークはかすかに眉を寄せてイートシャンを見つめる。怒りが頂点にあるためか、イートシャンの顔は真っ赤だ。
「我らは軍を率いて海賊を打破する任を王から賜ったのだぞ!」
 興奮して目を血走らせる彼に何を言っても通じないと悟ったのか、ヴェラークは静かに零した。
「ならば、陛下に判じて頂こう」
「何……?」
「陛下が裁可くだされば、彼女の罪は不問に処される。でなければ通常通りに最高刑を執行しよう」
 最高刑とは死刑に他ならない。
 スロットが息を呑んだ。
「海賊が必ず通る陛下の御前だ。これならドーガ大将も納得しよう」
 イートシャンはしばらく言葉を失ったようにヴェラークを睨みつけていたが、やがて反論の言葉は浮かばなかったのか踵を返した。憤然と泥を跳ね上げながら去って行く。
 スロットは彼の背中を見送りながらヴェラークを見上げた。瞳は不安に揺れている。
「あの、何か策があるから陛下に裁可を委ねるんですよね? エルミナさんが極刑を賜ったりしないって根拠があるんですよね?」
「あるわけなかろう」
「そんな……!」
 ヴェラークは不機嫌な表情で歩き出した。彼にも任務がある。本来なら既に海上に出ていなければいけないが、紅碧の軍人たちに不穏な動きがあると言われ、ここまで来ていた。
「余計なお手間を取らせて申し訳ありません」
 歩き出したヴェラークに、エルミナは本当に申し訳なくて頭を下げた。けれど心の中は澄んでいた。ヴェラークは苦々しく振り返る。
「陛下は心が通じる方だ。早まった真似はせずとも良い」
「大人しく沙汰を待ちます」
 エルミナは微笑み、ヴェラークは頷いた。
 イートシャンが去った方向へと、ヴェラークは今度は小走りに進んだ。エルミナとスロットだけがその場に残され、シャルゼはヴェラークを追いかけて行く。
 スロットは途方に暮れたようにエルミナを振り返った。
 振り出した雨が、抜かるんだ大地を容赦なく飲み込んでいった。

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