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第四話

【五】

 イサミアたちがオーカキス島に辿り着く数刻前に、話は遡る。
 目の前でダルスが斬られた瞬間、イリアは無意識のままに飛び降りていた。
 見張り台から甲板まではかなりの高さだ。しかし、危険だと思う間もなく体は勝手に動いていた。勇猛果敢な海賊たちの気迫になどもう怯えていられない。今のイリアにとっての恐怖はただ一つ、ダルスの死だけだ。
 イリアが飛び降りた瞬間、少し離れた場所から様子を観察していた海軍が砲撃した。低い雷鳴をも凌ぐ音を響かせて、砲撃はイリアがいた見張り台を直撃した。
 爆風を受けたイリアは吹き飛んだ。高い悲鳴が長く続く。しかし自分が悲鳴を上げていることにも気付かない。味方である海軍から砲撃を受けたという衝撃も大きく、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
 イリアは飛ばされながら震えた。眼前に冷え冷えとした海面が広がるのが見えた。頭から落ちようとしているのだと悟ったイリアは瞳を硬く瞑る。遊びで飛び込むのとは訳が違う。海面とはいえ地面と同じだ。指先で海を割るように飛び込めばまだ指の骨折だけで済むのかもしれないが、体勢を整えている余裕などない。イリアは体を小さく丸めることしかできなかった。
 海面に叩き付けられる直前、イリアは横からの突風によって救い上げられた。海上ではあり得ない風の流れに瞳を瞠る。明らかに能力者によって起こされた風だった。もしかすればシャルゼが近くまで来ているのかもしれない、と思ったイリアだが、ダルスが繰り出した風だという確信が胸にあった。爆風からも守るその風に包まれたイリアはすぐに甲板に戻される。
 船上では海賊たちによる混乱が続いていた。
 空を仰いだイリアは船檣《せんしょう》が折られたことを知る。先ほどの攻撃が直撃したようだ。ゆっくりと傾いてくるそれが何を意味するのか悟り、イリアは慌ててその場から走って逃げた。船檣《せんしょう》は勢いを増し、いまだ最後まで気付かなかった海賊たちを押し潰して倒れた。
 危うく難を逃れたイリアは、激しく上下する胸を押さえながら、潰された海賊たちを見た。重たい船檣《せんしょう》はイリアの力では動かすこともできないだろう。イリアの視線は呻き声をあげる海賊たちから外され、海を馳せる。黒い軍艦がいくつも並べられている。その中には見覚えのある艦もある。ヴェラークの艦だ。
「お父様……」
 心臓をつかまれたような気分だった。
 助けを呼ぶ間もなく船は沈んでいく。イリアはよろけ、船が傾いていると知る。早くどうにかしなければと焦りが強くなる。
 その時、頭上を覆うように何かが降ってきた。
 船の空を奪うように広がったそれは、真っ赤な帆。砲撃の衝撃で千切れたか外れたかしたのだろう。両腕を大きく広げて落ちてくる。
 自分たちの船が沈む中、更に視界まで奪われたとあって、海賊たちは恐慌に達していた。阿鼻叫喚が乱れ飛ぶ。思いあまって海に飛び込む者たちも続出した。
 イリアはそんな彼らを尻目に甲板を駆けた。甲板の勾配は徐々に増して、もはや立っていることも困難だ。腰を落とし、両手を床につかなければ進むこともできない。頭上で飛び交う喧騒を無視し、必死で目を凝らした。周囲を探る。そして、遠くに目的のものを見つける。
 海賊たちの足の間から赤い髪が覗いていた。
 ――ダルス。
 甲板に倒れた彼は動かない。
 イリアは不安を煽られ、床を掻くようにして近づく。ダルスを中心として広がる血溜まりは船の傾きに合わせて流れる。死体になった海賊たちと一緒に、ダルスの体も滑っていこうとする。
「待って……!」
 船が二つに割れていた。
 命を失った者たちは次々と海に投げ出されていく。ダルスも同じだ。躍起に助かろうとする海賊たちに足蹴にされている。
「やめてよ……!」
 並みいる海賊たちを押しのけたイリアはようやく辿り着く。
 床を滑るダルスの体をつかみ、少しでも海から遠ざかろうと引き摺る。イリアの服にはベタリと血が付着したが構わない。深い傷を受けたダルスの左腕は、もう壊死しているのではないかと思われるほど色が変わっている。万が一この怪我が治ったとしても、後遺症が残ることは間違いない、とイリアから表情が失われる。
 イリアは安全圏まで逃れた後、ダルスの怪我を見て呆然とした。
 慌てて髪紐を解いて応急処置を施す。
 出血は止まらない。ダルスの体は冷たくなっていく。
 イリアは奥歯を食いしばりながら何度も処置をし直した。止血点を押さえていないのか上手くいかない。学校で習ったことも役立てられない。それが悔しくて、イリアは瞳に涙を浮かべる。
 木の板が軋むような大きな音がした。
 イリアは怪訝に眉を寄せて手を止める。
 気付けば船の傾きが止まっている。
 次を予想したイリアは処置を止め、慌ててダルスを庇った。ダルスの頭を抱えるようにして抱き締める。
 その瞬間、バキリ、と。船の後方で大きな音がした。
 甲板はすでに二分されていたが、そこから更に二つに折れた。
 船首はとうに海へ沈んでいる。残された船尾は乱暴に海面に叩き付けられる。その衝撃で大勢が海へと投げ出された。イリアも同じく投げ出されようとしたが、予想していたことだったので、船のヘリをつかんで必死に耐えた。
 このまま船と一緒に沈むより、彼らと同じく海に飛び込んだ方が生き残る可能性が高いかもしれない。沈没の渦にさえ巻き込まれず海に浮いていられれば、渦がおさまった時に海軍が助けに来てくれるだろう。今なら海面に木っ端も浮いていることだし、それにつかまって浮いていれば体力の消耗も少しはマシになる。
 けれどイリアは実行には移さず、ただひたすら落とされまいと耐えていた。
 ダルスの傷口を見て少しだけ安堵する。
 血は止まっていた。
 自分にはダルスを止血できるだけの医術がない。だから苦肉の策として能力を使ったのだ。海にばかり能力を働きかけてきたが、血液だって突き詰めれば液体だ。であれば制御できるかもしれないと思った。
 実例のない能力の使い方だ。イリアにも初めての試みだった。
 これで駄目ならお終いだと覚悟を決めていたが、どうやら成功したようだ。急場しのぎの策だが安堵する。だが安心してばかりもいられない。ダルスの血を止めているのにも限界がある。イリアの体力が潰えた時が、ダルスの死なのかもしれない。
 ダルスの血を止める力とは別に、先ほどから出来る限り、能力を使って船が沈むのを抑えていた。しかしどうしても力が及ばず、沈む引力の方が強い。
 今更だがエルミナを追いかける時に体力の浪費をしてしまったことが悔やまれた。
 イリアはダルスを抱きしめながら唇を噛み締める。
 シャルゼや他の能力者たちも、海賊船を取り囲んでいることに気付いていた。しかし彼らの能力をもってしてもまだ足りない。
 赤い帆に頭上を遮られたまま、イリアはダルスに視線を落とす。
 頬は海水よりも冷たい。
「……あんたは恋人か?」
 騒然とする中、落ち着いた声が降ってきた。
 イリアは振り仰ぐ。
 そこにいた男の姿に目を瞠る。
 ダルスと斬り合った青年だ。ダルスと同じ赤い髪に翡翠色の瞳。カール鉱石が群生する洞窟で出逢った青年。
 イリアは既に彼が誰だか知っていた。
「誰が恋人ですって。冗談じゃないわ。私、海賊なんて嫌いなの」
 男は軽く瞳を瞠った。
「嫌いならなんで助けてんだ」
「ダルスが死にそうだからよ」
 即答してみせるとまたしても驚かれる。
 男は苦笑を零した。
 周囲を取り巻く渦の音が大きくなった。至近距離で交わされる会話も届かなくなる。船は半分ほど沈んでいた。右往左往する海賊たちは三分の二が海へ逃げ出し、後は状況判断に喘いでそのまま船に残っていた。
 大騒ぎする彼らを冷たい静かな目で見守るのは、すでにそんなこととは関係なくなってしまった、海賊たちの屍たちだ。
 イリアと男もへりにつかまりながら彼らを見守る。ここまで来たら騒がず大人しくしているのが最善だと思えた。下手に騒いで体力が消耗するのだけは避けなければいけない。
「……兄貴が……」
 小さく零された声にイリアは視線を向けた。
「兄貴が目を覚ましたら謝っておいてくれよ。勝手に島を飛び出して悪かった、って」
 イリアは怪訝に眉を寄せる。
「赤い海賊の仲間になったのは、島の奴らを裏切るためじゃない。内部破壊するためだ。俺は、島を襲った海賊の頭領を討ち取った。この船に乗る奴らも、当時を憎む奴らばかりだ。前の船長に迎合してた奴らは全部殺した。あいつらはもうどこにもいない」
 男は赤黒く染まる腹に手を当てた。凝固しない血が流れ続けている。ダルスによって負った深手が、彼に時間がないことを示している。良く見れば、彼の額には真珠大の汗が浮かんでいた。
「イサミアは大きくなったか?」
「……とっても可愛く育ってるわよ」
「そっか。俺が覚えてんのは赤ん坊の泣き顔だけだったからな」
 イリアは視界が滲むのを感じた。どうして今ダルスの意識がないのだろうと悲しく思った。意識を取り戻し、目の前の青年と言葉を交わして欲しかった。
「これから幾らでも見れるわ。私は能力者よ。海に愛されてる私が、海で死ぬことは絶対にないのよ」
 告げると男は軽い笑い声を上げた。しかし吐血によって遮られ、男は口の端を拭うと唇だけで笑う。
「そっか。あんたが噂のイリア=カーデか。海賊たちの間でも有名だぜ、あんたの名前は」
「……どこに行くの」
 ヘリを離れて歩き出す彼に問いかけた。
「私は自分のことで手一杯だけど! 側にいれば何とか助けようともがくわ! サーフォルー海軍には能力者もいるし、決して見殺しにはしないわ!」
 ダルスを放して追いかける訳にもいかない。船はまだ傾いているのだ。
 イリアは声を限りに叫んだ。
「海軍に助けられるなんて冗談じゃねぇ」
 男は足を止めて振り返った。声音を違え、憎悪を滲ませた彼にイリアは息を呑む。その瞳は冷たく鋭くて、初めて会ったダルスを連想させた。
 イリアが声を出せないでいると男の瞳がふと緩んだ。
「それに……いまさら兄貴に会わせる顔なんてねぇよ」
「……どうしてダルスと剣を交えたの? 貴方にはダルスが誰なのか、分かっていたのでしょう?」
 そう尋ねると苦笑が投げられる。
「俺は結果的に、島の奴らから仇を奪ったことになる。あいつらの知らない所で復讐を遂げたからな」
 男の目が、遠くの海で様子を見守っている海軍に向けられた。
「それに。仇の娘を愛したなんて言ったら、ぶっ殺されそうだ」
 イリアは目を瞠った。
「貴方が島に帰らなかったのはそのせい?」
「じゃあな。必ずダルスを助けろよ」
 男はイリアの問いに答えず、そのまま歩いて行ってしまった。彼の姿は甲板から船室へと続く階段に消える。そこには既に海水が満ちているはずだ。しかし男が戻ることはない。
 イリアは唇を噛み締めてダルスに視線を落とした。彼の顔色は相変わらず青い。激しい水流音の中でダルスの肩に手を当てたイリアは、そのまま抱き締めた。他は何も見たくないとでも言うかのように顔を俯け、ダルスの頭を抱え込むようにしながら瞳を閉ざした。
 強い海流が体を押し流したのは、それから数分後。
 沈んだ甲板はたちまちの内に海に飲まれた。曇天を映した黒い波は、海賊たちを押し流し、ダルスを抱えて動けないイリアを飲み込み、その勢いはとどまる所を知らない。触れた瞬間にも体温を奪われていく。
 一度海に飲まれたイリアは落ち着いていた。予想して心の準備もしていた。ダルスの肩に押し当てている手が外れないように意識しながら泳ぎ、海面に顔を出す。しかしそうしていられる時間はほんの僅かだった。赤い帆が頭上を覆っていた時と違い、激しく降りしきる雨と風が高波を作り出していた。海なのか雨なのか分からない水はイリアを沈め、海面からも離れていく。流されてきた亡骸や船の残骸に自由を奪われる。ダルスの重みが余計にかかる。
 冷たい海の中で、イリアは体を震わせた。
 予想していたこととはいえ、死を目前にしてまで冷静ではいられない。一度覚えた恐怖はイリアから冷静さを奪い取る。
 必死で海面に浮上しようとしていたイリアだが、なぜか海面は遠ざかる。どうして、と苦しい意識の中で叫んだイリアは、自身を海底に引き込んでく力があることに気付いた。視界の端で船がゆっくりと沈んでいくのが見える。共に死の国へと寄り添っていくように、亡骸たちが船体の横について沈んでいく。
 沈没の際に発生する海流に巻き込まれたのだ。
 視線を向けたイリアは、底のない暗闇に引き込まれていこうとする彼らの姿に震えた。苦しさも相まって、がむしゃらにかぶりを振った。どうもがいても、もはや海面に浮上する術はないように思われた。
 海底に潜む暗闇が両腕を広げている。ゴボゴボと、船が起こした幾万の気泡に飲み込まれて上下左右も分からなくなる。
 イリアは苦しさに思わず喘いだ。気泡と海水が、同時に気管に入ってくる。その苦しさはイリアから理性と思考を奪い、ただ本能のまま水を吐き出して呼吸をしようとさせた。その途端、口から、鼻から、冷たい水が肺を満たしていった。
 頭の奥が刺されるような痛みを覚えたのが最後だ。
 イリアの意識は完全に途切れた。

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