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第四話

【一】

 頬を強く叩かれたイリアは目を覚ました。
 眼前で赤い色が揺れている。何が起きているのか分からなくて瞳を瞬かせる。誰か呼ぼうと口を開いた瞬間、体中に痛みが走る。再び意識が遠のいていく。
「イリア!」
 救い上げる怒鳴り声に意識を凝らし、何とか意識を保つ。
 目の奥で小さな虫がゴロゴロと遊んでいるように痛んでいる。体中に鈍い痛みが残っていて、吐き気がする。胸が押し潰されそうだ。腕すら満足に動かせなくて涙が溢れた。
 揺れていた赤い色が少しだけ遠のき、再び近づいてきた。それが何かを悟る間もなく口付けられる。強制的に息が吹き込まれて目を見開き、思い切り咳き込んだ。覆い被さっていた人物を押しのけて地面に転がる。
「痛……いっ!」
 腹の底が引っくり返ったかのようだ。膝を折り曲げて体を小さくし、涙を零しながら激しく咳き込む。衝動のままに、飲み込んだ海水を吐き出して激しい呼吸を繰り返す。頭が割れるように痛んだ。
 衝動が少し治まったところでイリアは顔を上げた。暗闇で仄かに光る何かを見つけて瞳を細める。滲んでいた視界が次第に明瞭となり、焦点がしっかりと合うようになる。
 寒さに体を震わせたとき、隣から伸びた腕に抱きすくめられた。頭をぶつけ、痛みに呻いて衝動に耐える。人物の心当りは1人しかいないが、イリアは黙ったまま体を預ける。包まれた温かさに安堵を覚えて震えを止める。ようやく記憶が蘇ってきた。
「ダルス?」
 顔を上げると精悍な顔つきがあった。向けられた瞳に笑まれると落ち着かなくなる。
「良く生きてたな」
 イリアは瞳を瞬かせた。ダルスから離れようとしたが、力が入らない。全身を倦怠感が包み、指一本動かすのにも集中力が必要とされる。
「なに、ここ?」
 船の沈没に巻き込まれたところまでは覚えているが、その後は記憶にない。暗い暗い海の底へと、自分の意志とは反対に誘われるように引きずり込まれていく――そんな感覚が唐突に蘇って、イリアは体を震わせた。意識して呼吸を繰り返す。生きているのだと強く言い聞かせる。
 どうやら今いる場所は海の底ではないようだ。青白い光に満たされた空間に、二人はいた。幻想的で現実味のない自然洞だ。どこなのか想像もつかない。
 頭の奥から響く鈍痛に顔をしかめているとダルスが動いた。イリアを横たえ、側を離れようとする。
「どこに行くの?」
 心細さを含んだ声音にイリアは顔を赤くする。立ち上がっていたダルスは再びイリアの側に膝をついた。安心させるように笑う。
「しばらく眠ってる間にずいぶんと弱気になったもんだ。安心しろよ。直ぐに戻る」
 労わるようにイリアの額を撫でて、張り付いた髪をよける。海水に濡れて傷んだ髪を梳く。イリアはその手が離れていくまで、黙って見つめていた。
 ダルスは立ち上がると離れていく。その背中を見ているとやはり心細くなって、イリアは視線をダルスから外した。海に沈んでからどれほど時間が経ったのだろうかと考える。
 ダルスの足音は静かに遠のいていき、その姿は蒼光の向こう側に消える。イリアには、ただ彼が遠ざかる足音を数えるしかできなくなった。
 やがてそうしていることにも疲れた。イリアは瞼を閉ざす。肩から力を抜いて、ダルスの足音と入れ替わりに気付いた波音に耳を澄ませた。
 海の女神が助けてくれたんだ、と思った。
 この場所がどこなのかは見当もつかない。それでも悪いことではないはずだと言い聞かせる。こうして助かったのだから。これ以上悪いことにはならないで欲しい。
 横たわったまま体力の回復に努めていたイリアは、再び足音が近づいてくることに気付いて瞼をあけた。外からの光が差さないこの場所は、本来なら互いの姿を確認もできないほど濃い闇に包まれているはずだが、明るかった。壁が仄かに蒼光を放っている。すべてが蒼く染め抜かれており、ときおり強く、蒼光が舞い散る。
 イリアは苦労しながら体を起こして座り込んだ。
「カール鉱石の結晶群?」
「ああ。オーカキス島の海底にはこんな洞窟がごろごろしてる。ここまで巨大な洞穴は俺も見たことがないが、これほど純度の高いカール鉱石が採掘できるとなりゃ、諸国がこぞって欲しがるのも頷ける」
 ダルスが歩いてくるところだった。振り返ったイリアは小さく息をつく。彼が束ねていた赤銅色の髪は解かれ、彼の肩を覆うように流れていた。どこへ行っていたのか分からないが、彼はイリアの隣へ座り込む。ふてぶてしさは健在のようだ。
 船が沈む前、ラヤダから受けた左腕の傷。切断してもおかしくないほど深い傷は、今は服に隠れて見えなかった。傷口に近い場所は血が染み込んで凝固している。だが、瞳に鮮やかだった真紅ではない。肩口を覆うダルスの髪が明瞭とさせない。
 探るようなイリアの視線に気付いたのか、ダルスは口の端を意識的に持ち上げた。
「平気だ。まだ動かすことはできないが、出血は風で押さえ込んでいる」
 イリアは納得した。そして、やはりそこまで酷いのかと表情を暗くする。一刻も早く正確に治療しなければ命に関わるのではないかと気持ちは焦る。ダルスの態度はいつも通りだが、かえってそれがイリアを不安にさせた。
 遠くまで続くカール鉱石の結晶群。オーカキス島で見た、放棄された採掘場よりも純度が高い。遥かに強い青をまとって、ときおり白い光も混じる。まるで霧に包まれているかのようだ。遠くが霞んで見えない。
 イリアは不意に瞳が熱くなって睫毛を震わせた。特別に哀しいことを思い出したわけではないが、青白い光を見ていると涙が込み上げてくる。景色が滲んだ。ダルスに気付かれてなるものかと必死で我慢する。熱く嘆息して唇を引き結ぶ。
 目尻を強く拭われて驚いた。間近にダルスがいて、触れられて、また泣きたくなった。彼の左腕は動かない。
 ダルスは苦笑して立ち上がった。イリアの腕をつかみ、立ち上がらせる。イリアはその力に逆らわず任せたが、弱った足が震えるのを不愉快に思った。
 眩暈に襲われて瞼を閉ざす。歩き出したダルスにそのまま任せ、ふと振り返ったイリアは息を呑んだ。
 地底湖が大きく口をあけている。そこには静かな波が押し寄せて音を立てている。イリアたちはそこからこの洞窟に入り込んだのだろう。
 湖の淵には、イリアたちと同様に流されてきただろう海賊たちの姿があった。虚ろな瞳を四方に向けている。物言わぬ口は永遠に言葉を失っている。なかには同時期に流されてきたとは思わぬほど腐敗したものもあり、ここは死者が辿り着く場所なのかと震えた。地底湖の淵は白い。それらは白骨が砕かれた砂だと理解した。
 ラヤダがいないかと捜したが、彼の姿はない。
「あまり見ていると自分まで海の冥府に引き込まれるぞ」
 ダルスの声は淡々とイリアを引き戻した。海賊たちの向こう側に死神を見た気がして、イリアはダルスに視線を戻す。彼は作り物のような笑顔をイリアに向けていた。
「……引き込まれたかった?」
 思わず呟くと、ダルスは驚いたような顔をしてイリアに視線を落とした。
 イリアは自分が何を言ったのかと瞬きする。ダルスからの返答はない。そのまま誘導されて歩き出す。足元がおぼつかなかった。足の下で砕けるカール鉱石の音を聴きながら、やがて波音とは異なるせせらぎが聞こえてきて、顔を上げる。
 カール鉱石の壁の中に、一点だけ様子が異なる場所があった。天井から滲み出た水が流れている。
「上に水脈があるらしい。海水じゃないから飲め」
 水を見た瞬間、強烈な渇きを感じたイリアは腕を伸ばしていた。急な動作に体がついていかずにバランスを崩す。そのまま壁に激突しかけてダルスに支えられる。彼の笑い声が響く。
「まさか貴族の姫が、直接口をつけて飲むのか?」
 皮袋を取り出したダルスは清水を汲む。座り込んだイリアに手渡した。
「そんな物があるなら、もっと早く出して欲しいわ」
 唇を尖らせてダルスを睨み、水を飲む。ダルスもイリアの隣に座り込んだ。壁に背中をつける。
 カール鉱石には鋭い先端がある。壁も例外ではない。しかしダルスが背中をつけたその壁だけは、幾度も人が背中をつけたように、滑らかになっていた。青い光も、そこだけはどこか温かみを感じる。
 冷たい水に疲れが飛んでいくようだ。喉を鳴らせてすべて飲み干す。自ら汲んで、再び飲み干す。不快感が洗い流される。
 一息ついたイリアは皮袋を地面に置いた。
「ここはどこなのかしら」
「分からない。これだけカール鉱石が育っていることから考えれば、まだ発見されていない鉱山だと考えるのが自然だ」
 座り込んだままで辺りを見回した。先ほどまで倒れていた場所は蒼光に包まれて、朧になっていた。そこに横たわる海賊たちの姿が微かに見える。彼らの上をカール鉱石の光が漂い、死の息吹で包み込んでいるようだ。
 先ほどまでその中に自分もいたのだと思うと、耐えようもない恐ろしさに駆られてイリアは小さく震えた。無事にヴェラークのところまで帰ることができるのか。道のりは果てなく長いように思われる。もう少し力があれば、流されたときと同じように、海を伝って海面に出ることができるかもしれない。しかし今のイリアには、支えられながら移動することで精一杯だった。もしかしたらここへ流れ着くまでの間、無意識に力を揮って溺れないようにしていたのかもしれない。今は水に意識を向けることが苦痛だ。
 ダルスは悠然と足を組んで壁に背中をつけている。その横顔は何も考えていないかのようだ。余裕なのか、笑みまで浮かべている。彼には不安がないのだろうか。
 黙っていると焦燥ばかりが湧いてきて、イリアは泣き出しそうになるのを堪えながら口を開いた。怒りがダルスに向かう。
「なんでそんなに冷静でいられるの?」
 ダルスの視線は直ぐにイリアに向けられた。
「もしかしたら帰れないかもしれないのよ? それなのに、どうしてダルスはそんなに落ち着いていられるの」
 八つ当たりだと分かっていても抑えきれない。一息に言い切って唇を引き結ぶ。
 ダルスはただイリアを見ていたが、不意に笑う。どこか温かさが感じられた。そんなことを思ってしまう自分も重症だわ、とはイリアの胸の内だ。
「上に戻れなければ、ここでお前と二人きりだな」
 からかう口調なのに視線はどこか真摯だ。イリアは真っ赤になる。
「そうね!」
 声を尖らせてそっぽを向くと、ダルスは声を上げて笑い出す。
「ずいぶん殊勝になったじゃないか。てっきり反論されるのかと思っていたが――やはりお前でもこの状況には心細さを感じるか」
 ダルスはイリアの前に回りこんだ。
 イリアは唇を引き結んだまま彼を見据える。改めて見る彼の顔には、薄れていたが結構な傷痕があった。そのことに小さく驚く。視線は自然とダルスの左肩に落ちていく。黒ずんだ様子に眉を寄せる。無意識に手を伸ばし、傷口を包むように触れる。
「ラヤダからの伝言」
 ダルスの肩が震えたことが分かった。
「ダルスに謝りたいと言っていたわ。彼は、仇の娘を愛したんだと言って」
 瞳を伏せて低く告げたイリアは、最後まで言い終えることなく唇を塞がれていた。
「――っ?」
 優しく触れるようなキスではない。荒々しく、蹂躙するキスだ。心臓が破れそうなほど早鐘を生む。苦しくなり、涙が滲んでくる。大きな手が背中に回され、片腕で抱え上げられて喉を反らした。顔を背けようとした瞬間、胸に触れられて悲鳴を上げる。痛みしか感じられない愛撫に喘ぐ間もなく涙が零れた。瞼を強く閉ざしていても、伝わる熱は苦しく、切なさが響く。
「愛しているよ、イリア」
 息継ぎの合間に囁かれ、イリアは胸の底を熱く閃かせた。激しい憤りが突き上げる。眦を険しくさせて完全に拒絶する。
「いい加減なこと言わないで頂戴!」
 手慣れた雰囲気が場数をこなしているものだと感じ、憤りは更に強まる。本音を隠した儀式的な作業に悔しさが込み上げる。
 今までダルスが抱いてきた女と同じように扱われたのだ。
 強い確信に、イリアは唇をわななかせる。
 だがダルスは言及を許さない。封じるように口付けてくる。イリアは舌を噛み切るようにして顔を背けた。
「っ!」
 思い切り力を込めるとさすがに効いたのか、ダルスは顔をしかめてイリアから離れた。彼の口の端には血が伝う。勢いで自分の口も切ったイリアは荒い息をついた。
「ラヤダに怒ってばっかりのダルスなんて、ここでいじけて腐り落ちればいいんだわ! 私は生きて陸に戻るんだから!」
 ダン、と座ったまま足を踏み鳴らせると、ダルスは呆気に取られたような顔をした。イリアに言わせれば“間抜けな表情”だ。怒りを通り越して放心状態なのかもしれない。
 イリアは彼を睨みつけたまま続ける。
「ラヤダが貴方の側に帰らなかったわけを聞いたわ。彼は、仇の娘を愛したんだと」
「黙れ」
 ダルスの表情が一変し、射殺されそうな目で睨まれたイリアは怯んだ。だが直ぐに持ち直す。恐怖を追い払う。
「最後まで聞きなさいよ。彼は貴方に合わせる顔なんてないって言って船室に戻ったんだから! けじめをつけたんだから!」
 再び妨害される前に、と半ば自棄気味にイリアは叫んだ。
 ダルスの手が止まる。舌打ちが零される。そしてダルスは諦めたように腰を落とすと頬杖をついてそっぽを向いた。
「――赤い海賊の頭領はずいぶん昔に死んだと聞いていた」
 ダルスの瞳からは笑みが消えている。視線はイリアから外れてどこも見ていない。強いて言えば、望郷の念に駆られたような瞳をしている。いつもの強気も意地悪い笑みも浮かばない表情は距離を縮めて見せて、イリアは胸を衝かれた。
「だから今回奴らが現れたと聞いて、俺は嬉しかったんだ。仇はまだ死んでいなかった。島の者たちは今まで以上に活気に溢れて団結した」
 あまり褒められたことではない団結力だ。
 イリアは恐る恐るダルスに近づこうとする。気付いたダルスは無造作に右手を伸ばすとイリアを抱き寄せた。イリアが体を硬くさせている間に、啄ばむように口付ける。弾みでダルスの左腕に触れると、眉を寄せて微かにうめいた。しかしそれは直ぐに払拭される。
「今回のことはある程度予想がついてた。だからイサミアたちを残して、俺1人でここに来た。――結局、連れ戻すことはできなかったが」
 ダルスに抱き締められていたイリアは逃げようか迷ったが、結局そのまま落ち着いた。人の熱が人を癒すこともあるだろう。
「私は絶対に連れ戻すわよ。ダルスを。それがラヤダの望みなんだもの。1回しか話さなかったけど、私は彼が好きだわ」
 ダルスに良く似た面差しでダルスのことを心配し、頼んでいった彼が。
 そう告げると、ダルスは顔を歪めて笑った。


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 海水にずぶ濡れた体は冷えていたが、不思議と凍えることはなかった。地熱が高いらしい。地底湖から離れれば離れるほど熱が高まっていくように思えた。
 だいぶ体力を取り戻したイリアは肩を回す。濡れた服は強烈な潮の香りを放っていて、気付いたイリアは顔をしかめる。洗いたい衝動に駆られたが、海水しかない。我慢するしかない。
 ダルスは現在、周囲の様子を確かめるために傍を離れていた。
「髪の毛もバサバサだし、気持ち悪いし、何か嫌な感じよね」
 視線を少し動かすだけで遺体が視野に入る。敢えて目を向けないようにし、ダルスの姿を捜すように洞窟の奥を見た。
 この場所は陸からどれほど深く潜った場所なのだろうか。カール鉱石が群生するこの洞窟はところどころに大きな高低差があり、どこまで続いているか知れない。だが、道は途切れていない。少なくとも希望は持てる。
 つくづく、1人でここに流されるようなことにはならなくて良かった、とイリアはため息をついた。
 体力が戻って立ち上がることは容易になった。しかし能力を揮う体力は別勘定で、元気溢れたイリアがいくら念じても動かすことはできなかった。これまでと同じく水の気配は感じ取ることはできたため、元に戻るのも時間の問題だろう。
 それよりも今、直面している問題は腹の空き具合だ。何しろ辺りは一面のカール鉱石。いくら沢山あろうとも鉱石は食べられない。
 イリアはシャルゼが「カール鉱石は植物に分類される」と言っていたことを思い出し、やはり食べられるかしらとの考えが頭をよぎったが、思い直した。最後まで思いとどまりたい。
 イリアは立ち上がり、よろめいた自分に顔をしかめて壁に手をついた。勢いがついたためか、カール鉱石の先端で肌を手の平を切る。舐めると鉄の味が口内に広がり、次いで肌に残る潮の香りが鼻を刺した。
「お風呂に入りたいわ」
 泣き言を言っても仕方ない。唇を引き結んで眦を強くし、心だけでも強くあろうと改めて思う。交戦に巻き込まれて命があっただけでも奇跡だ。その奇跡を消さないように、何としても帰らなければ。
「私がいなくなったらお父さまが心配だもの」
 眉間の皺に指を当ててうなり声を上げた。飲まず食わずで心配する姿が浮かんでくる。
 イリアは肩を落とし、両手を壁についた。瞼を硬く閉ざす。
「何の反省だ?」
 遠くからの声には面白がる響きがあり、イリアは睨んだ。
「千載一遇のチャンスだってことよ。覚悟してなさいよ。ここを抜けたら、真っ先に貴方を海軍本部まで連行してやるわ」
「生きて出られたらな」
 ダルスは笑った。そんな態度がイリアの癪に障る。
 奥歯を食いしばり、両手を拳に握り締めた。
「負けてたまるもんですか……!」
 吐き出し、イリアは改めて水を汲んだ。皮袋の紐を縛り、歩き出す。
「さぁ行くわよダルス。とりあえず上に行けば、道は通じるはずよ!」
 ダルスの報告は一切聞かずに歩き出したイリアに、ダルスはただ笑ってついて行った。

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