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第四話

【ニ】

 洞窟の中には当然ながら太陽も星もない。滔々と流れる時間は恐ろしさを覚えるほど揺るぎないもので、早くも遅くもならない。
 ――どれだけの時間が過ぎたのだろう。
 疲れが澱のように溜まっていく。全身の感覚が鈍くなっている。そんなことを、挫けそうになる意識の底で感じながら、足を強く踏み出す。憂鬱で退屈な行程には何の面白みもない。徐々に空腹感も募り、空虚さはますます強くなる。額に流れた汗を拭う。
 イリアは、ともすれば倒れそうになる体を支えることに必死だった。
「間欠泉か」
 歩数を無心に数えていたイリアは振り返った。笑みを消したダルスが辺りを窺っている。そこに当初の余裕はない。心配など要らないのではないかと思わせていた当初を払拭し、今では額に大粒の汗をかいていた。左腕を押さえて眉を寄せ、呼吸も微かに早い。
「かんけっせん?」
 そんなダルスの様子に悄然としながらイリアは努めて平静を保つ。首を傾げた。ダルスの視線がイリアに向けられる。
「ジェフリス国にも温泉はあるだろう」
 地底湖付近に比べ、現在歩いている場所のカール鉱石は姿を小さくしていた。
 イリアはそんな変化に気付きながら、ダルスがしていたように意識を周囲に向けた。洞窟内には蒸気が立ち込めている。潮の香りはだいぶ薄れ、代わりに漂うのは今まで嗅いだことのない、奇妙な鉄臭さだ。
 ジェフリス国に温泉はもちろんある。だが、それはカーデ領地からかなり離れた別の領地のことだ。実物を見たことのないイリアは想像するしかない。
「それにしても暑いわ……」
 意識を目の前に戻して呟いた。
「……湿度百パーセント」
「間違えて覚えてないか?」
 ダルスの苦笑には取り合わない。壁に触れると鋭いカール鉱石の切っ先が指先をくすぐった。そこにも水分が含まれている。
 イリアは眉を寄せた。暑苦しくて不愉快だ。
 息をひとつ吸い込めば喉の渇きは癒されたが、空腹感は余計に強まった。
 腹が小さな音を立てた。
 イリアは慌てて腹を押さえる。蒸気で滑りかけ、体勢を立て直す。そうしてから恐る恐るといったようにダルスを振り返ったが、彼はなにも気付いていないようだ。飄々と歩く様子に変化はない。
 イリアは小さく安堵して前を見据えた。目覚めてから相当な距離を歩いているはずなのに、終わりは一向に訪れない。このままでは確実な餓死が待っている。そんなことを思いながら歩いているだけで、周囲の熱気は強まり、絶望も影を大きくしていく。しばらくは耐えていたイリアだが、とうとう足を止めた。
「駄目だわダルス。これ以上、行けない」
 体全体にまとわりつく湿気は容赦なく体力を奪う。額を流れる汗は、拭っても拭っても止まらない。拭うために腕を上げるのも疲れてくる。その腕も蒸気で濡れている。
 イリアは泣きたくなった。
「ここまで一本道だっただろう。進むしかないぞ、イリア」
「無理よ。これ以上行ったら蒸されて溶けるわ」
「興味深いな」
 ちっともそう思っていないような声音でダルスは応じた。
「ここで立ち止まっても餓死は変わらない――決定されるけどな」
 俯くイリアの隣に立ち、ダルスは静かに諭す。蒸死――果たしてそんな言葉があるのかは疑問だが、それと餓死と、どちらがいい、と笑って問われても、今のイリアには笑い返す余裕がない。こんなところでも海賊との体力の違いを見せ付けられた気がする。
「行くんならダルス1人で行って。私はもう嫌。これ以上、行きたくないの」
 だだをこねる子どものように唇を尖らせ、視線を地面に落としたまま突っぱねる。ダルスのため息が聞こえた。次いでイリアの視界に彼の腕が伸びてくる。つかまれようとしたイリアは素早く躱した。
「暑いんだから触らないで頂戴」
 ダルスは苦笑する。視線を天岩に向けると風を起こした。湿った風がイリアの頬を撫でる。それは不愉快なものではなく、心地いいものだった。
 イリアは黙ったまま風に委ねて体力を回復した。しかし風はほどなく止まる。その瞬間、先ほどの比ではない不快感に襲われた。イリアはダルスを見て表情を強張らせた。
「……ダルス?」
 瞼を閉ざし、今にも倒れようとしていたダルスはその声に双眸を瞠る。足を踏ん張って耐える。揺れた赤銅色の髪が傷口を晒し、イリアは新たな鮮血が流れるのを見た。
「悪いな。これ以上、力を削ぐわけにはいかないんだ」
 ダルスは額に汗を浮かべて淡々と告げた。揺れそうな声を必死で抑えていると思うのはイリアの気のせいなのか。唇を引き結んで、イリアはダルスを見つめた。
 力を酷使し続けているダルスでは近いうちに倒れてしまうだろう。力を使えない今のイリアでは、彼の出血を止めることもできない。
 ――この洞窟で彼を看取ることになる……?
 空恐ろしい考えに、イリアはかぶりを振った。
「い、行くわよ。こんな所でモタモタしてられないわ」
 わがままを言ったのはイリアだが、そんなことはもはや棚に上げて歩き出した。直ぐにダルスが後を追う。それを確認してから前を見る。漂う熱気に眩暈を起こし、ときおり呼吸を止めながら歩き続ける。
 少し歩くと蒸気を吹き上げる小さな穴が幾つか点在していた。触れぬよう気をつけて歩く。もし腕が触れようものなら、一瞬でその部分だけ溶け落ちてしまいそうな熱が吹き上げている。
(ラヤダに約束したんだから。絶対、陸に戻ってみせるわ)
 涙なのか汗なのか、分からないまま滲んだものをイリアは腕で拭ったが、蒸気まみれになった腕は不愉快な質感を残しただけだった。時間があまり残されていない。イリアは悄然としながら洞窟を歩き続けた。


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 海賊騒ぎが一段落したミフト大陸の北部。サーフォルー海軍の拠点となった港には元々の活気が戻ってきていた。異国の見慣れぬ軍船や漂う緊張感は、地元住民に不安と圧迫感をもたらしていたらしい。
 ミフト大陸の北陸を治世する国王に忠誠を捧げているライデン少将は、宿の一室から民たちの様子を眺めて笑みを零した。
 本来は海賊騒ぎが一段落した時点で国王に報告しに行かなければならないのだが、なぜか港を去りがたかった。サーフォルー海軍を送り出してから丸一日が経過している。部下たちの急かす声を聞き流し、腹痛や頭痛を装ってずるずると滞在し続けている。日付が変わり、朝になっても態度を変えないライデンに、部下たちはもう匙を投げつけた。部屋の隅にある机で、王宛てへの手紙に封蝋をしている。
「まるでお祭りのような騒ぎだったな……」
「は? なにか仰いましたか、ライデン少将」
 窓辺に椅子を寄せて座っていたライデンは苦笑する。部屋を振り返ると非難の視線が向けられていた。だがライデンは堪えた様子もなく笑顔を見せる。
「世界一と呼ばれるサーフォルー海軍をこの眼で見ることができたんだ。なんとも心躍るできごとだったと思わないか?」
「軽々しく言わないで下さいよ。私としちゃ、いつ海の荒くれ者どもが暴れるかと冷や冷やしていたっていうのに」
 ジェフリス国の者が耳にしたら拳が飛んできそうな発言だ。もちろん、同じ部屋にはライデンしかいないからこその言葉である。
 ライデンは軽い笑い声を上げると視線を再び港に戻した。
 ミフト大陸の玄関口。大陸で最も大きな港だ。だが、充分と思われていたこの港でもサーフォルー海軍には狭いようだった。世界は広いのだとつくづく思い知らされた。
「ライデン少将。本日の夕方には出発しますからね。これ以上駄々をこねたって無駄ですよ。夕方にはセヴィラル=ヴァレン侯爵がいらっしゃいますからね」
 耳に馴染み深い名前にライデンは顔をしかめた。
「謀ったな」
「あなたがいつまでも強情を通されるからです。ヴァレン侯爵は複数の医者も連れてくるようですので、仮病なんて使っても無駄ですからね」
 念押しされたライデンは溜息をつく。椅子の上で大きく伸びをして首を回す。父親のような存在であるヴァレンの姿を脳裏に浮かべる。
「分かってますって。なら、あいつが到着しないうちに出発するぞ」
「は? なに仰ってるんですか。国王の師団ですよ。交信で到着の約束も取り付けてます。そんなこと、できるわけないでしょう」
「ならお前だけ残れ。俺は先に行く」
「ライデン少将ぉ」
 とうとう情けない声を出す部下にライデンは深く嘆息した。ヴァレンと一緒の道中など、面白くないのは確定しているのだ。あれやこれやと叱責されつつ王都に戻るのはごめんだった。それぐらいならヴァレンよりも先に王都へ戻りたい。
 ライデンは壁にかけていた外套をまとって鼻を鳴らす。
「セヴィラルの奴には抜け出したとでも言っておけばいいさ。あいつには慣れたことだ」
「そんな、困ります!」
 これまでとは全く違った危機感、ライデンの本気を悟った部下は青褪めて立ち上がった。
「大体ですね、あなたは今、王から拝命された作戦行動の途中なんですよ。知らないんですか。国都に戻り、王に報告するまでが作戦行動のうちで」
「まるで子どもの遠足だな。家に戻るまでが遠足です、か?」
「ライデン少将!」
 今度は怒りに顔を赤くさせる部下に、ライデンは朗笑を上げた。部屋を出てもしばらくは部下たちが追いかけて引き止めたが相手にしない。すべて知らぬ存ぜぬで通してしまえと無茶な要求を押し付ける。
 哀れ、部下たちはライデンの本気の前にうな垂れるしかない。どこの国でも部下は上官のわがままに振り回される運命なのかもしれない。


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 ライデンが宿を抜け出してから数時間後。
 港に到着したヴァレンを出迎えた皆は冷や汗を流していた。間近で見るセヴィラル=ヴァレンは噂に違わぬ童顔で美丈夫だった。だが、放たれる威圧感はライデンの比ではない。それとも、他将であるからそう感じるだけか。分からない。
「――逃げたか」
 もぬけの空になった部屋を眺めたセヴィラルは舌打ちして不機嫌さを示した。
「あいつは、まったく、いくつになってもガキのようだ。アイルといい勝負だな」
「申し訳ございません。気付いたときには既におりませんで――」
 部下はライデンに命じられた通りにやり過ごそうとした。セヴィラルの視線が向けられて心臓が縮み上がる。
「……構わん。どうせ諸国漫遊とふざけたことを鼻歌交じりで言いながら海岸沿いでも歩いてるんだろう」
 素晴らしい想像力に拍手をしたくなった部下1名。しかもその想像はあながち間違っていないのだから、本当に素晴らしい。
 セヴィラルは顎に手をあててしばし考え込んだ。やがて、側に控えていた自分の部下を振り返る。
「エトレー男爵がいたな。あの近辺なら街道も整っているし、奴を捕らえやすいだろう。手配しろ」
「は!」
 セヴィラルの部下は力の篭った声を返して直ぐに部屋を出ようとした。
 ライデンの部下は彼らを唖然と見守りながら、もうどうにでもなれ状態で密かに上官の行く末を思う。
 セヴィラルは慌しく町中へ紛れ込んでいく部下たちを見ながらため息をつく。引き連れてきた医者を各部屋に配し、午前中まではライデンの部屋だった場所に腰を落ち着けた。貧乏くじを引いたライデンの部下は戦々恐々としながら彼の側につき従うしかない。
 1人、残ったセヴィラルの部下が考えを読み取らせない笑みを湛えながら酌をする。信頼されているのか、彼の気配に気付いて振り返ったセヴィラルには穏やかな笑みが浮かんでいた。
「少将身分は隠して、町中に犯人手配書でも配った方が捕まえやすいかもな」
「ヴァ、ヴァレン大将。ライデン少将にそれはちょっと……」
 本気とも冗談ともつかぬ発言に、さすがにライデンの部下が口を挟んだ。セヴィラルの視線が向けられて硬直する。だがセヴィラルは咎めることもせず、素晴らしい笑顔を見せた。
「君はライデンの部下になってから日が浅いか?」
「半年でありますが……」
「なるほど。それならば納得がいく。これからもライデンの部下を勤めるなら覚えておくがいい」
 セヴィラルは笑顔のまま頷いて続けた。
「私は王都に上がって直ぐに陛下の勅命を受けた。栄えある直々の、第一の命令だ。それは、あいつを捕獲せよとのことだった」
 領地に息子や娘、民たちを残しての王宮配属。名誉ある仕事となるはずの、第一の命令。同期や上司たちと飲み語らうときには必ず話題に上がる、最初の仕事。
 セヴィラルの恨みは深い。
 ライデン部下は頬を引き攣らせて硬直した。ライデンにはとんでもない敵がいたものだ。
 都に戻ったらまず異動願いを出そうか、と頭の片隅で考えた。

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