前へ目次次へ

第四話

【五】

 まるで体がバラバラに寸断されたかのような激痛がイリアを苛んでいた。
 耳の奥で絶えず鳴り響く水流音に頭痛がする。一向に消えないその音に胸の深くが悲鳴を上げる。グルグルと世界が回って放り投げられたかのような気持ち悪さ。喉を競りあがる熱い物を必死で堪えてイリアは口を開いた。
「水――」
 濃厚だった水の気配が消えていた。
 薄っすらと視界が開ける。鼻をついたのは海の匂いではなく、どこか篭った甘い生活臭。
 イリアは自分がどこにいるのか分からず、瞳を瞬かせた。
「ようやく目覚めたようね。ご機嫌いかが、お姫様?」
 どこからか妖艶な声が響く。視線を巡らせるが視界には誰の姿も映らない。体を起こそうとして胸が苦しくなった。顔をしかめて息を止め、ぐっ、と呻いて歯を食いしばる。
「ずいぶんと苦しんだみたいね」
 先ほどの声よりも少しだけ和らいだ声が響く。
 イリアは衝動をやり過ごした後、汗を浮かべてもう一度捜してみた。体を起こしたことで高くなった視界は声の主を映す。
 暗い部屋に溶け込むように佇む、女性の姿。青と金で彩られた民族衣装に身を包む彼女は、分厚い衣装を通してさえ豊かな肢体を持っていると分かる。闇の中で彼女の持つ金色の瞳が強く煌いた。
 イリアは瞳を瞠る。
 彼女の瞳は、左目が青。右目が金。誰にも見たことのないオッドアイだ。
 イリアが食い入るように見つめると、女性は苦笑して瞳を伏せた。
「ここは私の隠れ家。ダルスはまだ意識を取り戻していないわ。貴方も、もうしばらくは休んでいた方がいいわね」
 イリアは更に瞳を瞠らせた。
 勢い込んで息を吸い込み、問いかけようとしたが声が出てこなかった。体だけが勢いづいて、イリアは寝台から床に転げ落ちた。目から火が出たように痛みを覚えた。
「そんなに慌てなくても、あの男が死ぬ訳ないわ。安心しなさいな」
「し、心配、なんて」
 イリアは痛みに涙を浮かべながら体を起こした。
 体の節々が痛んで女の言葉が良く聞き取れない。現状を理解する頭も働かず、ただダルスのことだけが頭に浮かんだ。
「私たちはどうなったの?」
「助かったのよ。一命を取り留めたの」
 女は妖艶な笑みを浮かべると部屋を出て行こうとした。イリアの詳細を見ることはない。ただイリアが気付いたならそれだけでいいと、去ろうとする。暗がりに沈んで見えないが、どうやら部屋の隅には階段があったようだ。彼女の体が床に沈んでいくのを見たイリアは驚いた。
「待って……!」
 女は緩やかな動作で言葉を許さず、姿を完全に階下に消した。イリアは床に座り込んだまま声を失う。
「待ってよ……」
 女が消えた後で呟いた声は限りなく弱々しく、消えそうに脆く、部屋に消えた。
 イリアは唇を噛み締める。目頭が熱くなったが我慢して堪える。
 意識して顔をあげ、部屋の中を見渡してみた。
 イリアが知る文化とは違う文化。壁には暗色の幕が掛けられており、鮮やかな模様を施された肩掛けもあった。非常に高級だと思われる宝石類が一本の紐に通されて吊るされている。
 窓は分厚い皮布で覆われていた。だからこんなに薄暗いのかと妙に納得する。しかし先程の女性を見る限り、その雰囲気も頷けるような気がした。
「どこ、かしら」
 努めて声を出すと喉が引き攣って乾いた咳が零れた。そうすると胸が強く痛んで涙が滲む。やり過ごした衝動が甦った。腹の底で海が揺れているような気がする。呼吸するたびに乾いた喉がくすぐられ、咳を堪えようとすると海ばかりが揺れる。
 イリアはとうとう耐え切れなくなり、切羽詰ったように立ち上がった。先ほど女性が降りていった階段まで走り、足元に気をつけながら駆け下りた。狭い階段には手摺もない。戸惑ったものの、足を滑らせることなく何とか辿り着く。
 階段の突き当たりに達したイリアは先ほどの女性を捜そうとし、直ぐ目の前にいた彼女の姿に驚いた。
「――吐きたいならそこに行って」
 一階も二階と同じような様相だった。窓は分厚い皮布で覆われ、意図的に彼女がそうしているのだと知る。強い陽射しが隙間から零れて、二階よりは明るいがイリアには不慣れな明かりであった。
 そんな中で場所を示されたイリアは疑問を言葉にすることなく、そちらに駆け込んだ。限界はとうに超えていたが何とか保たせ、腹の底から湧き上がる衝動のまま、遠慮なく吐いた。出てきたのは水と胃液だけで、喉の奥が痺れるように痛みを訴えた。
「気が済んだら側の水差しで口をゆすぐといいわ。綺麗な水だから安心して頂戴」
 イリアは言われるまま従った。
 しばらく吐き続けてひと心地つき、水で何度かゆすいで深いため息を洩らす。やつれて個室を出た。
「――お疲れ様。自分で吐ければ上出来よ。後は体力の回復を待つばかりね」
 女は当初の位置から動かず、視線だけをイリアに向けて告げた。唇には変わらない笑みが浮かんでいる。そのまま歩き出す彼女を視線だけで追いかける。
 イリアは戸惑いながら言葉を探した。口を開いたとき、あっ、と息を呑んだ。
 女が座った椅子の前にはダルスが横たわっていた。暗がりで分かり難いが、彼の赤銅色をイリアが見間違えるはずがない。瞳を見開かせて彼に近寄る。
「生きてる……?」
「かろうじてね。傷口が腐りかけていたから危なかったわ。私が見つけていなければ死んでいた。悪運の強い男だわ」
 女の声にイリアは涙を滲ませた。なぜ泣くのか分からないまま、両手で顔を覆う。女はイリアを一瞥し、苦笑してダルスに視線を戻した。
「貴方を抱えてここまで来たようよ。町外れの丘に倒れていたわ。この町はならず者の集まりだから、誰も注意を払わない。軍が来ても見過ごすから安心して休養するといいわ」
 ダルスの顔色は暗がりでも分かるほど青い。
 イリアは彼のそばに立ち、その顔を見下ろすと床に腰を下ろした。長椅子に横たわる彼を眺めて安堵の息をつく。女に視線を向ける。
「貴方が助けてくれたのね」
「それが私の因果のようだから。逃れられないのよ」
 イリアは彼女の横顔を少しだけ見つめ、首を傾げる。ダルスを見つめる彼女の瞳は淡々としていて、迷惑に思っている訳でもなければ、喜んでいるようにも見えない。
「ありがとう」
「貴方にお礼を言われるようなことではないわ。彼を助けることが、私の因果なのだから。これは必然なの」
 女の声は、瞳や態度と同じく淡々としていた。初めて会う人種にイリアは戸惑って口を噤む。女の視線はダルスに注がれ続けている。
「――あの、貴方の名前は?」
「好きに呼べばいいわ」
 イリアはさらに困惑した。嫌われているのかもしれないと思ったが、彼女はそんな感情とも無縁に思えた。なんとか話を続けるきっかけはないものかと考えて、視線が部屋をさまよった。棚に置かれた大きな水晶がひときわイリアの目を惹いた。
「あなた、占い師なの?」
 女の視線がイリアに向く。直ぐにダルスに戻ったが、これまでと違う反応が言葉を肯定している。イリアは、部屋に満ちる独特の匂いは彼女が占い師であるからなのかと納得した。彼女たちは占いばかりではなく薬剤にも長けているし、ある程度の演出もすると聞いていた。もちろん演出に頼らなくても占いはできる。要は客の思い込みにあるていど乗らなければ信用させるのも難しいということだろう。占い師の中には千里眼を持ちすべてを見通すことができる者がいると聞いたことがある。イリアは微かな期待を込めて女を見つめた。視線に気付いた女は小さく手を振る。
「貴方の調子はまだ完全なものではないわ。大人しく寝台に戻りなさい。後で薬湯を持って行ってあげる。普通の食事はまだ受け付けないはずだから、我慢なさいな」
 イリアは戸惑う。完全なる厄介払いである。
「私は――」
 ダルスの全身を眺め、イリアはその場を動かない。毛布から出た彼の手は土色になって、冷たく思えた。本当に生きているのか疑わしいほどだ。
 いつまでも動かないイリアをどう思ったのか、それまで動かなかった女が立ち上がった。壁に接している棚の引き出しを開けると、何かを取り出して再び戻る。イリアの手に握らせた。
 イリアが手を開くと小粒の水晶が乗せられていた。
「貴方は水精霊の使い手なのでしょう。貴方の体力を回復させようと、躍起になって騒いでいたわ。お陰で私にまでお鉢が回ってきて良い様に使われたの。ジェフリスの精霊は気が強いのね。それは魔的な体力を回復させる魔道具だから、それを握り締めてなさいな。少しは回復が早くなるはずだわ」
 イリアは瞳を輝かせた。女の言葉が耳を素通りして頭に入らない。ただ、押し付けられた小さな水晶からは確かに何かを感じる。握り締めると、気休めかもしれないが、手の平から何かが全身に広がった気がした。喉の渇きが癒される。
 イリアが水晶を握り締めて佇んでいると、女のため息が零される。明らかに疎んじる気配を漂わせてイリアに視線が向けられる。
「ダルスの目が覚めるのはまだ先。その時になったら呼んであげるから、黙って戻りなさいな。まだ動かないようだったら貴方だけ外に放り出すわよ」
 向けられたオッドアイは真剣にイリアを捉えた。色違いである双眸は強い力に満ちている。イリアは微かに顎を引いて静かに頷く。一度だけダルスの顔を見て、いまだ目覚める気配はないと納得して踵を返した。一人で階段を上がる。
 二階に戻ると暗闇が急に恐ろしく感じられて立ち尽くした。窓を覆う皮布に近づき、その隙間から覗き込むように外を見て、イリアは眉を寄せた。見たことのない町並みが広がっている。
 カール鉱石が群生する洞窟からどこまで流されてきたのか。唯一説明を求められそうな女があの様子では、イリアが現状を把握するのはまだ先だろう。
 イリアは見知らぬ異世界に来たような気になって心細くなった。寝たきりのダルスを思って表情を暗くする。手の平に包んだ水晶を眺め、握り締めて寝台に腰掛ける。そのまま静かに横になった。
「死ぬなんて、許さないんだから……」
 横になった途端に目尻から零れた涙が筋を作った。枕に染みこむのを感じてイリアは硬く瞳を瞑る。体の節々が痛むのは、どうやら水流に逆らっていたからだけではないらしく、ヒリヒリとした痛みも感じていた。鋭いカール鉱石の先端に触れて裂けたところもあるのだろう。本当なら生きているのも疑わしい現状であるが、それでも生きていられる今に不思議な思いを抱いて布団を被った。
 真っ暗な闇の中で静かな波音を思い出す。ダルスから聞いた昔話が脳裏で渦巻き、エルミナやカラドレットの姿が浮かんでは消え、シャルゼやヴェラークの顔が消えずに残った。彼らがどうなったのか、とても知りたい。しかし知る術がイリアにはない。怪我をしている身では外に出ての情報収集も難しく、女もそれを承知しないだろう。今はまだ彼女に従っていた方がいい。
 少し体力が回復したら何とかしてヴェラークに連絡を取ろうと思いながら、イリアは眠りに落ちた。


 :::::::::::::::


 女はダルスの側から少しも動いていないようだ。
 翌朝、目覚めたイリアは階下に下りてそう思った。
「あの!」
 大声を出して呼びかけてみても、不思議なオッドアイがイリアを振り返ることはない。イリア自らが彼女の側に近寄って覗き込まなければ視線が絡むことはない。
 彼女の視線を一身に浴びるダルスに複雑な思いを抱きつつ、イリアはため息を零して彼女に近づいた。ようやく女の視線がイリアに向けられる。しかしそれは好意的な物ではなく、うるさいわねと言っているような気がした。
 目覚めたばかりの頃より体力が回復してきたイリアは頬を膨らませた。
「お腹がすいたんですけど」
 世話になっている身で勝手なことを、とは思ったがイリアは引かなかった。女を睨みつけるようにしながら我侭を言う。
 女は深いため息をついた。
「――貴方の体力は精霊によって保たれているの。普通食はまだ受け付けないと、昨日言わなかったかしら?」
「でもお腹がすくのは事実だわ」
 イリアは唇を尖らせる。女の視線が逸らされ、再びダルスに向けられる。イリアとの話は終わったのだと言わんばかりの雰囲気であり、イリアはムッとした。彼女の隣に椅子を持ってきて、自分も座る。ダルスを見る。
「貴方とダルスって、どういう関係なんですか」
 女は答えない。
 少しの沈黙の後に、イリアは再び口を開く。
「ダルスは海賊で犯罪者ですよ。それを承知で助けてるんですか?」
 女の視線が微かにイリアを捉えた。
「それは貴方も同じではなくて?」
「同じじゃないです。私は軍人になって、ダルスを捕まえるんですから」
「そう。つまらない目標」
 イリアはムッとした。
「つまらなくなんてないわ。海賊には皆が迷惑してきたの。それを捕まえるのが皆の願いだし、私の目標なんですから!」
 体調は万全を取り戻してきているらしいが、大きな声を出そうとすると胸が詰まる。イリアは誇らしげに胸を張って女を見るが、女はまるで興味がなさそうに視線を外した。
「誰かの願いなんてどうでもいいの。私は私の願いを叶えることが出来れば充分。誰かに叶えて貰おうとも思わないし、足りない力は自分で補うわ」
 イリアは言葉に詰まる。彼女の言い分は酷く正しい気がした。
 そう思うと自分が急に惨めに思えてしまう。簡単に足元が揺らいだことに、イリア自身も驚いた。
「あ、貴方の願いは何なんですか? ダルスの側にいること?」
 貴方に答えなければならない義務はないわ、とでも言われそうな気がしてイリアは言葉を付け加えた。慌てて付け加えれば、そちらが本当に聞きたいことなのだと暴露しているような物であるが、イリアは気付かなかった。
 少しの沈黙の後に女が可笑しそうに笑った。その笑いがあまりにも長く続くのでイリアは憮然として視線をダルスに戻した。先日から変わらずダルスは動かない。寝返りも打たない。顔や腕には細かな傷が沢山あり、今回のことで新たについただろう傷も沢山見られた。
「――こんな男の側にいるために国を出たんじゃないわ」
 静かな声にイリアは振り返る。気付けば女は笑い止んでいて、少しだけ雰囲気を違えた瞳をイリアに向けていた。急に変わった雰囲気にイリアは戸惑いつつ顎を引く。
 女の視線がダルスに戻り、最も酷い傷がジワリと血を滲ませたことに気付いて手を伸ばした。
 赤銅色の髪を避けて、黒ずんだ肩に手の平を翳す。分厚いカサブタに滲んだ血が見る間に乾いて新たな流血を止める。それでもしばらく女はその手を外さず、たっぷりと数十秒をかけて手を翳し続けた。浮かせた腰を元に戻して女が手を外す。
「占い師って……治癒能力もあるの?」
「さぁどうかしらね」
 女は唇に笑みを刻んだままはぐらかした。

前へ目次次へ