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第四話

【七】

 ラヤダを失って相当酷い目をしていたのだろう。
 島に残る貴重な船を盗んだ子どもとしてラヤダは島民たちに悪し様に言われていた。そのことに怒りは覚えたが、彼らを害そうとは思わなかった。ただ、ラヤダを一人で行かせてしまった自分への強い憤りが生まれるだけだ。
 ダルスはまるで死人のような目をしながら風に当たっていた。
 ラヤダはとうとう今日まで帰ってこない。残された小さな妹だけが今はダルスが生きるすべて。島民たちと航海に出ていても不安が残る。イサミアが危険に晒されていないか考える。なにせ妹の傍にいるのはラヤダを見送ったエルミナだけだ。食糧難も続いている。エルミナがイサミアに手をかける可能性は充分にある。
 ダルスは身震いして奥歯を噛んだ。燃えるような怒りが胸底から湧き上がるのを感じる。ふと、髪が風にそよぐ。まるでその風に宥められるかのようにダルスは息をついて肩の力を抜いた。
 そのとき、見張り台に上っていた者が銅鑼の音を響かせた。
 一回、二回、三回。叩かれた回数から、今回の標的が見えたのだと悟る。
 甲板が途端に騒がしくなった。誰もが武器を手に集まってくる。帆が膨らみ、風を孕んで船の速力は上がる。
 ダルスは翳る瞳を水平線に向けた。海の彼方には白い影がポツンと見えた。
 護衛艦もいない。無力な赤子に等しい客船だ。
 その影を捉えた途端、瞳は異様な光を帯びる。ギラギラと燃える復讐の瞳。同時に赤銅色の髪が、背後から吹き付けた風に煽られて頬をくすぐる。わずらわしくて、素早く束ねた。その間も視線は標的から動かない。
 ――あれが、今回の復讐相手。
 怒りは晴れず、募るばかり。


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 便利な能力を身につけたと知ったときは不思議な戦慄が走った。妙なおかしさが込み上げて笑った。哄笑は高く舞い上がる。船上の人々が胡乱な目で見つめてきても、ダルスは笑い続けた。
 イサミアはもう一人で歩くことができる。言葉を聞き、留守番も出来る。危険なことには近づかない。エルミナも今はダルスと共に船に乗り、イサミアの傍にはいない。これで心置きなく戦闘に専念することができる。
 食糧の確保には客船の襲撃が必須だった。しかし最近ではサーフォルー海軍によって警備が強化され、一定以上の等級を持つ船には護衛艦がつくようになった。ダルスたち海賊にはとてもやりにくくなってきた。それでも止まるわけにはいかない。
 銅鑼の合図と共に戦闘準備が整えられ、ダルスが先陣を切って相手の船に乗り移る。多少の風を味方につけて、苦労しながらもダルスは誰よりも遠くに跳ぶことが出来る。ダルスに続いて他の者たちも次々と客船へ乗り移る。
 真っ先に客船の足を止めて船長室を掌握し、乗客を選別し――そこで違和感に気付いたのはダルスの他にも幾人かいた。そして、違和感に気付いた者だけが生き延びた。
 乗客に紛れ、サーフォルー海軍が誇る特殊部隊が乗っていた。少数精鋭で動く能力者の隊だ。彼らはこれまでの白兵戦を上回る勢いで反撃をしかけた。彼らが真っ先に取った行動は、照明弾を上げて、近くの哨戒船を呼び寄せること。これに焦った海賊たちは我先にと逃げ出し、引き上げる。何しろ統制もされていない、ただ復讐に狂った者たちの集まりなのだから、正規軍に出てこられてはひとたまりもない。
 ダルスは敵に背を向けなければいけない悔しさに唇を噛み締めたが、本能が命ずるまま自分たちの船に戻った。海賊船は瞬く間に客船から離れだす。ここで船に戻れた者は、先ほど違和感に気付いた者たちだけだった。後から気付いた者は手遅れだ。戻ろうとしても、もう届かない距離まで船は離れてしまう。戻ることもない。
 様々な悲嘆を乗せて離れていく客船を見ながら、ダルスは虚ろな瞳で甲板にいた。人々のざわめきが嫌な場面を甦らせる。
 赤い海賊の襲撃にあったとき、沈みそうなほど島民を乗せた船は、まだ桟橋に詰め掛ける人々を置いて走り出した。客船に残された仲間たちの声が、桟橋に残されたかつての友たちの声と重なった。
 ダルスは耐え切れずに顔を背ける。
 喉の奥で悲鳴に似たうなりを殺したとき、視界の端を何かが舞った。
 船から落ちたのは、エルミナだった。
 客船から放たれた矢に足を滑らせたのだろう。大きな水音がして水柱が上がる。
「エルミナ!」
 誰かが叫んだ声でようやくダルスは体を強張らせた。助けよう、と誰も叫ばないのが意外だ。甲板から身を乗り出してエルミナを見る。彼女は縋るようにダルスを見ていたけれど、ダルスは何もできない。エルミナを通してラヤダが浮かび、僅かに後退する。
 船はエルミナを残して進んでいく。
 ダルスはただ立ち尽くす。風を使えば彼女を助けられるかもしれないとは微塵も思わなかった。他の仲間たちも何も言わない。未熟なダルスの力でエルミナを助けようと躍起になっていれば、それだけで隙が多く生まれる。時間も浪費される。
 誰もが、仕方ないのだ、と。自分に罪はないと素知らぬふりで、エルミナを置き去りにした。
 ダルスはエルミナの姿が見えなくなってから甲板に膝をつく。身の内を焼くような痛みが胸にある。耳の奥で逆巻く風の音が鼓膜を震わせる。罪の重さで深淵に沈んでいくような感覚だ。沈みきり、もう浮かぶことはないだろうと思った。


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 ようやく健常体まで回復したイリアは起き上がった。
 外はまだ昼。しかしイリアを助けた女はこの家にいない。先ほど外へ出て行く気配がした。イリアはそれを待ってから起き出したのだ。
 ここ数日、占い師だという女の目が鋭くて何もできなかった。外へ出ることはもとより、まともな食事さえ摂らせて貰えない。とはいえ女もイリアに付き合って精進料理しか食べていなかったので、もしかすれば経済的な理由で食事を出せないだけなのかもしれない。
 厄介になっている身で不満など言えない。イリアも、不便は感じているが不満があるわけではない。だが、せめてヴェラークにだけは連絡を取りたいと思っていた。
 足音を忍ばせて階下へ下り、女が本当に出かけたのか確認してから安堵の息をつく。部屋は相変わらず薄暗い。窓という窓はすべて雨戸で塞がれている。その上から布まで被されているため、明かりが入る余地がない。部屋の随所に灯されているランプでしか視界を確保できない。
 イリアは息を殺して慎重に足を踏み出していた。女がいないと分かっていても、彼女はどこか魔的な雰囲気を醸しているため、自分の行動も筒抜けになっているのではないかと思わせる。オッドアイがそう思わせるのかもしれない。
 イリアが扉に手を伸ばした瞬間、背後で大きな音がした。
 思わず洩れた悲鳴を慌てて飲み込み、両手で口を覆う。振り返ったイリアは瞳を瞠った。
 ランプの炎に照らされて、壁に大きな影ができる――その影に飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
 薄暗い部屋でゆらりと体を揺らめかせたのはダルスだった。
 先ほどまで意識はなかったはずだ。しかし今は自分の力で立ち上がり、静かに顔を上げる。ようやく意識が戻ったのだ。
「ダルス!」
 思わず大声で呼びかける。
 ダルスが振り返り、イリアは輝かせた顔を曇らせた。背筋を凍らせる。足が床に張り付いて動かない。
 ランプの炎を背にするダルスは、どこか禍々しさを感じさせた。
 炎が燃える音に混じって荒い呼吸音がする。苦しげだ。イリアは張り詰めた緊張に息を止めながらダルスを見つめた。彼の瞳は真っ直ぐにイリアを見つめていたが、その瞳に宿るのは虚無だった。
 イリアは本能的に後退する。赤い海賊船で感じた恐怖が蘇る。禍々しい気配に不安は育つ。
 少しずつ後退していたイリアは、踵を扉にぶつけた。ほんの小さな音だったが、その音にダルスは尋常ではない反応を示した。瞬く間に殺意が宿る。病み上がりとは思えない素早さでイリアに迫る。目覚めたばかりだというのに無茶だ。体が上げる悲鳴を無視した動きだった。
 途中、テーブルに置かれていた果物用の小刀を手にしたダルスはそのままイリアに突進した。心許ない灯りに照らされて刃がきらめく。彼の手はためらいなく突き出された。
 イリアは逃げることができなかった。ダルスは正気を失っている。純粋な殺意のみがイリアを包み、どうすることもできない。玄関の扉に背中を張り付かせたまま、足が竦んで動けない。
 イリアの胸に冷たい刃が食い込む。
 ――その寸前で、体が後ろに傾いた。玄関の扉が開いたのだ。
「おやめ」
 イリアは悲鳴も出せずに呆然としていた。背中を支える誰かの手を知る。同時に、力を持った女の声に、ダルスが従う様を見た。背中に添えられた手はイリアを強く押し、部屋に戻す。
 外からは乾いた砂の匂いがした。同時に、なぜか雄大な海も連想した。異なる性質だというのに不思議なものだ。
 扉が閉まると、外の世界からは完全に切り離された。浮かんだ望郷すらも閉じ込める。時間のあいまいな世界が、再び広がり始めた。
 外から戻った女はイリアの傍を通り抜けた。いつも何を考えているのか分からない彼女だが、今だけはその双眸に怒りが見えた。険しい瞳でダルスを凝視している。
 彼女の出現でイリアから距離を取ったダルスは、値踏みするように女を見つめた。そこには何の感情も含まれていないように思える。
「まったく厄介だね。お前という存在は」
 女は不機嫌そうに呟いた。ダルスを見据えて蠱惑な笑みを浮かべる。瞳だけは剣呑な光が浮かんだままだ。
 ダルスはまるで獣じみた咆哮をあげると女に斬りかかった。危ない、とイリアは口を両手で覆う。下手に割り入ったら余計に危ない。震えながらその光景を瞳に焼き付ける。
「やれやれ」
 ダルスの一撃を避けた女はため息をついた。苦々しく舌打ちする。右足でトントンとリズムを取るように床を叩き、両手を打ち鳴らせた。
 さして力を入れているようには思えない動作だった。
 しかしイリアには、鼓膜を破られそうなほど大きな音に聞こえた。腹の奥に響いて気管が詰まる。一瞬だが呼吸ができなくなる。とっさに閉じた瞼裏には鮮やかな青が滲んでいた。
 何かが倒れた音がした。
 イリアが目を開けると、傍にはダルスが倒れていた。
「ダルス!」
 彼は刃を握り締めたままだったが、イリアは構わず手を伸ばした。彼の眉間には皺が刻まれている。苦悶の表情を浮かべて床に両手をつき、腹ばいになるような格好で臥している。イリアが触れると慄いたように震えた。向けられた瞳には疲労が浮かんでいたが、そこには確かな正気の色があった。そのことにイリアは安堵する。ダルスが呼吸を整えながら起き上がるのを見守る。
「眠りな」
「……そうさせて貰うさ」
 威圧的な言葉にダルスは唇を歪める。小刀を女に放り投げる。いつの間にか額には汗が浮かんでいたが、拭うことすら億劫なのか、ダルスは先ほどまで横になっていた長椅子に手をかけると倒れ込んだ。膝から力が抜けたかのような倒れ方だ。イリアが慌てて駆け寄ると、ダルスはそのまま瞼を閉じていた。強い呼吸音は直ぐに落ち着いていく。どうやら、眠ったというより意識を失ったといった方が正しい。
「やっと起きたかと思えば騒がしい。二人して私の家を壊すつもりかい」
 わずかに笑いを含みながら女が零した。振り返ると、忌々しそうに見下ろしていた。けれど声には揶揄する色が滲んでいる。ダルスから投げ渡された小刀を棚に仕舞い込んだ。
「ダルスに何をしたの?」
 女の視線がイリアに向けられる。説明するつもりはないのか、軽く肩を竦めると踵を返す。摘んできた薬草を手提げから取り出して、棚に並べる。選別作業に入る。
 それでもイリアは辛抱強く待つ。
 選別された薬草は数枚に束ねられて天井から吊るされた。不揃いだと判じられた薬草は小さく丸められ、玉状になってすり鉢に入れられる。女はそれらに何かの粉を混ぜて、すりこぎで潰し始めた。
「そいつの絶望と復讐心が風を呼び集めたんだ。危険だよ。負の感情で集められた精霊たちは制御が難しい。主の復讐心を鑑のように映している。そいつが平常心を失えば、使役されてきた精霊たちは直ぐに裏切るだろう」
 女の金目がイリアを振り返る。
「そんな男からは離れておきな。また殺されかけても知らないよ」
 イリアは髪を揺らせて先ほどまでのダルスを思い出していた。刃を向けられたときは確かに驚き、胸が痛んだ。小さな怒りが湧いた。溢れた力を制御できずに振り回す、そのような男の傍にいたのでは命がいくらあっても足りない。
 そのとき、コトリと柔らかな音がした。
 最初の胎動。強い歓喜に溢れた生命の音。
 しばし睨みあっていた二人は音の方向に視線を向けた。その先にはダルスがいたが、彼は意識を失ったまま動かない。
 音はもう聞こえなかった。
 イリアはしばらく立ち尽くしたままダルスを見つめ、やがてかぶりを振る。視線を戻す。
「できないわ」
 風が行方を見守るように鎮座している。特異な能力を持つ者を、ジェフリス国では単に能力者と総称されていたが、女は一度もそう呼ばない。親しみを込めて『精霊に愛された娘』と口にする。ダルスはそれならば風精霊に愛された者だ。
 固唾を呑んで行方を見守るのは恐らく彼らだろう。見えずとも感じる風の気配。ダルスの側に集い、彼を助け、今はダルスの行く先を真摯に見守っている。先ほど聞こえた音は、彼らが自分の存在を知らせるために出した音なのかもしれない。
 イリアは知らず緊張していることを感じながら口を開いた。
「このままダルスに死んで貰っては困る。私の目的は、ダルスを生かしたまま捕らえることなんだから」
 イリアは小さな矛盾を抱えながら告げる。真実が隠されていることは否定できない。しかし幾度同じことを問いかけられようと、イリアの答えは決まっている。漠然とした想いが確かに存在している。言葉にされないからこそ想いは凝縮されてより強いものへ変わっていく。
「ダルスが弱ったままでは困るわ」
 女が瞳をわずかに細める。しかし何も言わない。不思議なオッドアイでイリアを見つめたあと、踵を返す。潰した薬草を抱えて二階に足を向ける。
「私は隠遁する身。外へ出るなら夜を待ってからにして頂戴」
 話題がするりと切り替わる。
 イリアは許されたことに目を瞠り、企みが見破られていたことに耳を赤く染める。女は振り返ることもなく、そのまま二階へ上がって行く。
 残されたイリアは緊張の糸を解いた。スッと息を吐き出して肩の力を抜くと、押さえ込まれていた疲れが心までも蝕む。体全体が重たい。いまだ海に漂っているような心地悪さを覚える。
 イリアはダルスに近づいた。ダルスは一度も身じろぎしない。まだ動けるような状態ではないようだ。意識を失ったまま苦悶の表情を浮かべている。額には大粒の汗が浮かんでいた。イリアは額に張り付いた髪を指で避け、水晶の下敷きになっていた布で汗を拭った。怪我の治療のため、ダルスの上着は剥ぎ取られている。褐色の肌だ。鍛えられた体躯にいくつもの傷を見つける。肩の怪我は、過去の傷と大差なく見えるまでに薄れていた。いったい女はどんな治療を施したのか知れない。
 イリアは無意識に傷の一つに触れた。祈りを強く心に刻む。ダルスの体は怪我のためにとても熱い。けれど熱が出ているならまだ大丈夫だと思える。本当に危険なのは、熱すらも失われたときだ。
「……生きてよ」
 ダルスの体に刻まれた傷を見ながらポツリと呟く。意識した言葉ではないため、頼りなく揺れて消えていく。
 脳裏に浮かんだのはヴェラークやイサミアたちの姿だった。
 彼らのもとへ、無事に戻る。
 それは願いですらない当然の思いだ。彼らの横に、自分たちはいなければいけない。そのためには生き続ける必要がある。
 イリアは床に座り込んでダルスを見つめた。ダラリと伸ばされた腕に頭を寄せて熱を共有する。力強い脈拍が聞こえてきた。その音を数えながら、イリアは瞼を閉じた。

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