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第四話

【八】

 ダルスは深い眠りに落ちた。けれどときおり、思い出したように激しく暴れた。
 叫び、正気を失ったように苦しむ。イリアに攻撃が及びかけたことも一度や二度ではない。むりやり押し倒されることもあり、イリアは自分の心も疲弊していくような気がした。ダルスが暴れるたび占い師が不思議な術で落ち着かせるのを見るのも落ち着かない。
「毒が回ったね」
 苦しみに呻くダルスを見ながら女が呟く。
「毒?」
 今もまた暴れ回ったダルスが唐突に意識を失い、大人しくなったところだった。
「毒ってなに?」
 女がイリアを一瞥する。
「こいつが持つ人ならざる力のことさ。話したろう。特に風なんて気紛れなもんはいけないね。人の心を直ぐに映しこんじまう。克服するのは難しいだろうね」
 ジェフリス国で能力者は尊ばれてきた。類稀なる能力だ。力が大でも小でも同じ。力を高めることに重きを置いており、力に対する説明などない。考える必要もない。
 軍曹たちよりも、よほど力について詳しいのだろうと思わせる女の言葉だ。
 イリアは震えそうになる唇を開いた。
「克服しなかったら、どうなるの……?」
「結末は簡単。正気を失って廃人となるか、廃人となる前に」
 女は親指で自分の喉を掻き切る仕草をしてみせた。
 イリアは思わずダルスを振り返る。
「この男の場合はプライド高いから、命は自分の好きにするかね」
「嘘……」
「誰にも分からないさ」
 暴れるせいでダルスの傷は一向に良くならない。つい今しがたも暴れ、新たな打撲が出来たところだ。女はあらかた治療して踵を返す。先日から新たな薬草の調合に集中しており、彼女はダルスのそばにいなくなった。イリアにとっては自然に息ができるようになるので有難いが、ダルスが暴れ始めると一人ではどうしようもなくなってしまうため、心細さを覚えていた。
「そろそろ一週間が経つ。あんたも体調を整えておくんだ。それから、前にも言ったが行動は夜にしといておくれよ。決して誰にも目を付けられぬよう出入りするんだ」
 女は面倒そうに零しながらイリアに指を突きつけた。
 そうして踵を返す。
 イリアは散歩になど行く気になれずに歯を食いしばり、眉を寄せた。女が二階へ上がる姿を見送る。そして視線をダルスに戻し、思わず息を呑んだ。ダルスの瞳がイリアを映していた。
 ダルスの腕が伸ばされてイリアの腕をつかみ、イリアをその場に繋ぎ止める。
 また暴れるのかとイリアは体を強張らせる。しかし今回は違うようで、ダルスの体が動くことはない。少し待ってもダルスの瞳は閉ざされない。
「……ダルス?」
 見つめる視線は真摯だ。どこか懇願を含んでいるようにも思える。
 なぜだか不吉な影が胸を過ぎった気がしてイリアは静かに呼びかけ、体を乗り出した。何度か呼吸を繰り返したあとダルスはイリアから視線を外す。つかんでいた腕も外し、顔を背けると瞼を閉ざした。
「ダルス?」
 いくら待っても変化はない。イリアは今度は焦るようにダルスの名前を呼んだ。手を伸ばしかけ、慌てて引く。体を揺らすのは簡単だが、傷が開いたらどうしようと思う。
 長椅子の横に置いてある丸椅子に腰掛けて腕を下ろした。フッとため息をついて肩から力を抜く。ダルスの横顔だけを見つめる。それだけで荒れていた胸の奥が穏やかに凪ぐのが分かる。
 二階から女の声が聞こえてきた。
 不思議な呪文のようにも、遠い昔に忘れてしまった子守唄のようにも聞こえる。女が紡ぐ旋律は確かに暖かく響いてくる。狂おしいほど切ない痛みを含む声。
 イリアはその旋律に体を揺らせながら目を閉じた。
 どうしようもなく父に会いたくなった。ミレーシュナを失ったあとの憔悴ぶりは今でも覚えている。いま、自分までもいなくなったらヴェラークの絶望はどれほどのものか。
 そんなことを思って身震いした。
 イリアは立ち上がる。ダルスに視線を向け、彼がまだ起きないことを確認して外へ向かう。ほんの少しだけ、ヴェラークに無事を告げに行く時間だけ、何事も起きないで欲しいと願いながらダルスの側を離れる。
 扉を開くと陽射しが目を刺した。
 久しぶりに見る陽の光だ。
 イリアは眩しさに顔を逸らし、腕を翳して瞳を細める。知らず詰めていた息を恐る恐る吐き出した。もう一度、改めて通りを眺める。
 狭い路地には住人らしき者が幾人かいた。彼らはなぜか驚いた表情でイリアを振り返る。その眼差しにイリアは顎を引く。部屋の奥で力なく横たわるダルスを見せたくなくて、素早く扉を閉める。しかし住人たちはイリアから視線を逸らさなかった。明らかに異国人だと分かる出で立ちをしていたからだろう。
 イリアは居心地の悪さを覚えながら真昼の外を歩き出した。篭りきりの生活をしていたためか太陽の陽射しは焼けるように強く思える。
 軽く周囲を眺め、確かにここが異国の地なのだと確認する。
 ジェフリスで使われる主な石材は、表面が滑らかで加工しやすい。太陽の光を浴びると白く輝く。それに比べ、この国で使われている石材は表面が粗い。加工に適していない物だ。切った端から崩れてしまいそうな感がある。少し茶色にくすみ、お世辞にも綺麗とは言い難いものだ。
 イリアはなんとなく、ここは小さな集落なのかもしれないと思った。
 ジェフリスのように国王の治世が布かれているとは思えない。まるで、統率者が定まらずに短期間で幾人も入れ替わり、民たちは失望して自分勝手に暮らしているかのようにも思える。
 大通りへ繋がるだろう道を歩きながら、イリアは慣れてきた瞳で観察を続ける。
 紫の髪が視界を掠める。縛るのを忘れていたと気付き、手で束ねる。
 一応、お湯で体は清めていた。だが清潔には遠い。髪からは微かに潮の香りがしていて、顔をしかめる。意識して腕を嗅いでみれば薬草の匂いもした。女が焚き染めている薬の匂いが染み付いてしまったらしい。
 助けて貰ったとはいえ、イリアは彼女のことがあまり好きにはなれそうになかった。
 顔をしかめたままため息をつく。
 自分の家のように振舞うこともできないため、しばらくはこのままの状態が続くのだろう。
「うう。やだなぁ」
 イリアは情けない声で呟く。
 明るい紫の髪が光を反射する。足早に歩くイリアの姿は嫌でも人目を惹いた。
 出歩くのなら夜に――そんな忠告をすっかり忘れて歩くイリアは、自分を注目する視線の中に不穏な視線があることに、全く気付いていなかった。


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 イリアが出て行ったことを確認したダルスはおもむろに体を起こした。
 扉を見る瞳に狂気の色はない。ときおり藍色が滲む、翡翠色の澄んだ光が宿るだけだ。
 ダルスは億劫そうに長椅子から足を下ろしたが、ただそれだけで響いた衝撃に顔をしかめた。歯を食いしばって立ち上がる。額には脂汗が滲む。
「……ちっ」
 小さく舌打ちした。
 ラヤダにつけられた剣傷は塞がっていたが、腕はまるで動こうとしない。ちくちくと棘を刺されているような痛みが走るので、神経は繋がっているようだ。治れば再び動くだろう。
 肩には生々しい跡が残されていた。
 ダルスは反対の手でその傷を隠す。途端にビリリとした痛みが脳天まで走って悲鳴を噛み殺す。
「焼きが回ったもんだな」
 霞む視界に気付いてそう毒づき、ダルスは階段に視線を向けた。階上からは旋律に乗せた歌が流れてきていた。力を乗せたこの歌によって、体を蝕む負の要素に負けずに済んだ。痛む体を叱咤しながら二階へ上がる。
「――チェラージ」
 さして広くはない部屋。大股で四歩進めば壁にぶつかるような広さだ。
 壁際には質素な寝台が設けられ、女はそこに腰を下ろしていた。彼女の膝には小さな鉢がある。香料を煎じているようで、頭が朦朧とするような甘い匂いがダルスを包んだ。
 チェラージと呼ばれた女はダルスを見た。彼女のオッドアイは闇の中でも光を失わない。
「助かった」
 ただ一言だけ告げるとチェラージは薄く笑う。
「意識が戻ったなら出て行って。これから私の客が控えているのよ。邪魔だわ」
「それは悪かったな」
 淡々としたやり取りだ。
 薄情者、とは思わない。海賊であるダルスにとっては、むしろこのようなやり取りこそが常だ。
 ダルスは軽く肩を竦めようとしたが、途端に引き攣れた肩の痛みに呻いた。
「傷はすべて治したわ。散じた風も、もうしばらくすれば貴方に集うでしょう」
「――それが、お前が視る未来か」
「安くないわよ」
 ダルスは鼻で笑った。
「海賊に金を要求するか。だが、いいだろう。この先一度だけ。もし大陸を離れたいときが来たら、お前を船に乗せてやろう」
 チェラージはただダルスを見つめる。色の異なる一対の瞳がどのような未来を視ているのかは分からない。確かな占い師である彼女は常に他人の未来を見通し続ける。それは或いは、自分の未来さえも。
 チェラージは膝上に置いたすり鉢に視線を落とした。様々な香料を混ぜて作った薬が完成間近だ。見目は良くないが、これからの自分に必要で、占い師には必須の呪物だった。
 出来具合を確かめると、側に置いていた香炉にそれを入れた。しっかりと蓋をしてから立ち上がる。
「潮時だわ。私を訪れる同郷の者が近づいている」
「行くのか」
「いつになるのか。それはまだ、定められていないけれどね」
 階下へ向かうチェラージに従うように、ダルスも一階へ戻った。香炉を脇卓に置いたチェラージは、残りの香料を戸棚にしまった。かわりに水晶を取り出すと香炉の横に置く。演出だけなら立派な魔女だ。
 チェラージはダルスを振り返った。
「ひとつ、餞別に貴方を視てあげる」
 チェラージが無償で他人を占うことは珍しく、ダルスは眉を寄せた。ただの占いかと馬鹿にする者もいるが、ダルスはそうではないことを知っている。彼女が持つ力は単なる占い師とは掛け離れていた。遥かなる太古に滅びて久しいと言われている魔法の力が、彼女には備わっている。道端で店を広げる人気の占い師など足元にも及ばないほど、正確な情報を読み取ることができる。ダルスが幼い頃に力に負けなかったのはチェラージの導きがあったからに他ならない。
 チェラージはクスクスと笑った。
「貴方の同郷の者たちがジェフリスで拘束されているわよ」
 ダルスは瞳を大きく瞠った。チェラージを覗き込んだが、彼女が見ているものをダルスが見ることはできない。チェラージは不思議なきらめきを宿した瞳を軽く伏せた。少しだけ迷う素振りも見せ、笑みを深めてダルスを真っ直ぐに見つめた。
「ジェフリスもまた、魔の力を受け継いだ者。行かない方が身のためよ」
 だがダルスは彼女の言葉の途中から、出かける準備を始めていた。必要そうな道具は近辺からかき集めてくる。
「出向けば死ぬことになるわ」
 扉に向かっていたダルスはぎくりと足を止めた。
 チェラージの未来視は決して外れないと知っている。彼女の不思議なオッドアイは確かな未来を見つめている。
 ダルスはチェラージを振り返って睨んだ。
「ならお前とはここでお別れだな。約束は地獄の海で果たしてやるよ」
「お断りだわ」
 チェラージは微かに悔しげな顔をしてそっぽを向いた。
「イリアはここに置いていく」
「あの娘が外へ出るのを見計らって起きてきたんでしょうに、嫌な男ね」
 チェラージの声には、言葉ほどの嫌悪感は含まれていなかった。こうなることを予見していたかのような落ち着きっぷりだ。
 ダルスは苦笑して扉を開ける。外の光が眩しくて顔を背けた。
「じゃあな」
 家の奥から見守っているチェラージを振り返り、ダルスは一言だけ告げた。
 扉を閉めて歩き出す。
 別れなど呆気ないものだった。

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