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第四話

【一】

 イリアは建物と建物の間を縫うようにして走っていた。
 息が苦しくなる、激しい呼吸に胸が痛い。目尻に涙が滲んむ。それでも走り続けなければならない。
 ――逃げるために。
 なぜこんなことになったのか、原因ははっきりとしている。
 イリアは唇を引き結んだ。
 匿われた家から外に出たとき、刻は昼を過ぎた頃だった。イリアはすっかり忘れていたのだ。この建物から外に出るときは人目を忍び、夜にしておくれよと忠告した、女の言葉を。
 女がなぜそんなことを言ったのかは分からない。けれどそこには何か意味があったはずだった。意味がなければ今、イリアが追われている理由がない。
 言いつけを忘れていたイリアが悪い。いや、覚えていても、素直に守ろうとはしなかっただろう。人見知りなどしないイリアには珍しいことだが、女のことが苦手だった。もしかしたら、ダルスと深い知り合いなのだという雰囲気が、苦手意識を助長したのかもしれない。普段なら占い師という存在に興味をもって近づいていたはずだ。
 休まずに走り続けていたイリアは眉を寄せた。路地は走り続けるほど狭くなっていく。治安が悪いことを示すように、周囲はボロ布のような天幕を張っただけの家が目立っていく。高い建物の影に張られた天幕の下では痩せ細った人々が横になり、走り抜けて行くイリアを見送る。なかには病気ではないかと思われる咳をする者もいた。
 統治されたカーデ領しか知らないイリアは、このような場所もあるのだと驚いていた。立ち止まって声をかけたかった。けれどそのような時間はない。
 男たちがイリアを追いかけてくる。怒気の激しさが彼らの苛立ちを示している。決して捕まるわけにはいかないとイリアを本気にさせる。
 水の能力はイリアに戻っていた。
 イリアは本能のまま、能力が存分に活かせる海に向かっている。海辺の町で育ったイリアには、たとえ見知らぬ町でも海の方向だけは嗅ぎ分ける自信があった。進む方向から海風が聞こえてきている。風に導かれて行けば間違いない。
 問題は、海に辿り着くまでイリアが捕まらずにいられるかどうかだけだ。
「夜にしておけば良かったのよ」
 イリアは待ちきれずに飛び出した自分を恨みながら呟いた。
 ダルスが落ち着いたのを見計らってのことだが、どうせなら彼が完全に回復するまでそばに付き添い、一緒に出てくれば良かったと思う。あのダルスが大人しくイリアと出頭するわけないということは、イリアの頭から完全に飛んでいた。
 少しだけ休ませた足を再び踏み出し、複雑に曲がりくねる、狭い階段を駆け下りた。
「追われてさえいなければ凄く楽しい町並みなのに」
 息を弾ませながら悔しさにうなる。子どもの探求心を大いに刺激する町並みだ。
 海が近いためか、建物は潮風によって傷んでいる。
「待て!」
 イリアは体を強張らせた。小さく振り返り、男たちが近くまで迫っていることを知った。
 女の住居から出て、一つ目の角を曲がったところで声をかけてきた男たちだ。彼らはイリアが女の住居から出てきたと知っていて声をかけた。
『チェラージとどんな関係だ?』
 と声をかけられれば、イリアは単に巻き込まれただけだと分かろうものだ。
「そう簡単に捕まってたまるもんですか」
 イリアは今までよりも早く階段を駆け下りながら、小さく毒を吐いた。
 紫色の髪が首筋を滑る。
 海鳴りが今までより鮮明に聞こえてくる。
 あと少しで形勢逆転だ。
 イリアはまだまだ先の長い階段を見ながら、それでも見えてきた希望に表情を綻ばせて笑みを浮かべる。
 そんな瞬間だった。
 病み上がりの体で全力疾走したのがいけないのか、イリアの足がもつれた。
「――っ」
 バランスを崩したイリアは息を呑む。
 風景がゆっくりと流れていく。周りの音が遮断され、イリアの耳には自分の心臓の音しか聞こえなくなる。壁についていた手が離れていく。
 イリアの体は宙に舞い、辛うじて次の段を踏んだ足も直ぐに離れて、イリアはそのまま落下した。
 嘘よ、と思った。あと少しで海に出るはずだったのに。なぜこんな肝心のところでドジを踏んでしまうのだろう。
 曲がりくねった下り坂だったため、幸いにもイリアは長い距離を落下することはなかった。湾曲した次の段に体を打ちつける。肺が潰されて、残っていた空気が悲鳴にもならずに押し出される。ようやく癒えた体は再びの衝撃に悲鳴を上げる。
 砂漠のただなかに建てられたような色の壁に体を打ちつけたイリアは、意識が朦朧とするのを感じた。男たちの足音が直ぐに近づいてくるのを聞き、逃げようと体に力を込める。だが全く思い通りにいかなかった。それどころか意識は急速に薄れていこうとする。それだけは許されない。
「これだけ手間かけさせて、結局は自滅かよ。まったく。あいつに関わるとろくなことがねぇ」
 イリアは暗くなった視界でそんな声を聞いた。
 追いかけてきた男たちの声だった。
「気絶したか?」
「いや。辛うじて意識はあるみたいだぜ。あの国の女たちは胆力も凄まじいと聞いたが、そのようだな」
「違いねぇ」
 イリアは体が宙に浮かんだような錯覚を覚えた。もちろんそれは錯覚で、男たちに持ち上げられただけだ。無骨な男たちの手に怒りが湧く。見知らぬこの国で、なぜこんな恥辱を受けなければいけないのだと、悔しくて歯噛みする。私に触れるなと、声を限りに叫びたい。脳震盪を起こした体はなかなか回復してくれない。
「おっと。忘れてた」
 イリアをどこかに運ぼうとしていた男が気付いたように足を止めた。
 連れの男が振り返る。
「なりはこんなでもれっきとした術者だろう。魔封じをだな」
「ああ、そうか」
 男の言葉に、連れの男も納得したようだった。
 徐々に意識を澄ませてきたイリアは、まだ残る鈍痛に顔をしかめる。
 男たちは何かを探すような仕草をして、胸元からペンダントを取り出した。彼らがイリアにそのペンダントを向けようとしたとき、何かの影が彼らを飲み込んだ。
「ん?」
 周囲が高い建物に囲まれているこの路地はもともと影ばかりの道だ。しかし男たちを飲み込んだ影は、建物が作り出す影よりも濃いものだった。
 男たちが反応する間もなく、彼らはその影から攻撃を受けていた。
「イリア……!」
 持っていた剣を鞘から抜かずに一振りし、影はイリアを連れ去ろうとしていた男二人組みを倒した。壁に叩き付けられた二人はそのまま動かなくなる。たった一閃で気を失ったようだ。
 男の肩に担がれていたイリアもそのまま男たちと共に壁に払われようとしたが、その前に強い腕がイリアの体を捕らえていた。温かなその腕は、イリアが良く知るものだ。
 イリアは薄暗い視界のなかで必死に視線を動かした。
 先ほど聞こえた声は確かに知っているものだった。自分の元気な姿を見せたいと強く思っていた人物のものだった。けれど彼がこの地にいるはずはない。いてはいけない。それでもイリアは、その人物の姿を見つけて顔を歪めた。嬉しいのか悲しいのか分からない。
「イリア!」
 もう一度、強く名前を呼ばれた。
「お父様……」
 イリアは弱々しく呼びかける。その声にしっかりと応えるようにヴェラークはイリアを抱き締める。安堵の息を洩らす。その深いため息は、彼がこれまで抱えてきた心労の度合いを示しているようで、イリアは心を締め付けられた。同時に強い安堵が押し寄せる。
 イリアはヴェラークの後ろに控えていた青年を見た。薄暗い路地を歩くためのランタンを掲げ、その光でヴェラークとイリアを包んでいる。背の高い壁に影がユラユラと揺れる。
「エスバド」
 弱々しいイリアの声に、口数の少ない幼馴染は少しだけ笑った。イリアを見つめる瞳には深い愛情が感じられる。家族に向けるような暖かいものだ。
 イリアはヴェラークに抱かれながら彼の肩に頬を寄せ、拳を握り締めて泣いた。

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