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第四話

【二】

 ひとしきり泣いたあと、イリアは赤くなった目を擦って笑った。
 場所はスアシャ大陸の玄関口にあたる港町。
 ヴェラークと再会を果たしたイリアは現在地を確認して拍子抜けした。幼い頃に何度か遊びに来たことのある町だ。とはいえ幼かったイリアはヴェラークの側から離れようとせず、町を探索するようなことはなかったのだが。
 まったく見知らぬ土地に来ていたわけではないのだと分かり、安心した。
「どこも、なんともないのか」
 淡々と訊ねるエスバドに頷いてみせる。
 港町にいくつかある宿場に部屋を取り、イリアとエスバドは休んでいた。ヴェラークは宿につくなり亭主と話し込み、二人は追い立てられるように自室へ促された。
「もう大丈夫よ。あんな奴ら、エスバドたちが来てくれたら全然怖くないわ」
 エスバドは複雑な顔をした。彼が聞きたいのはそういうことではない。イリアもそれは分かっている。しかしあえて話題を逸らす。たとえ肉親でも、彼らにダルスの居場所を教えるような真似はできない。
「今回ばかりは私も駄目かと思ったわ。エスバドたち、良くここが分かったわね」
 エスバドはしばらく探るような目を向けていたが、イリアの無邪気な笑みに何を思ったのかため息をついた。イリアの身を案じたのかもしれない。今のイリアは傍目から見てもただの強がりを張っていると容易に知れる様相だ。
「……いいや。分かっていたわけではない。ただ、イリアが生きているなら必ずこちらの大陸にいるはずだとヴェ――艦長が、譲らなかっただけだ。昨日までは父さんもいた。だがさすがに長く艦を置いておくわけにもいかないから、先に戻らせたんだ」
 イリアは首を傾げた。エスバドの言葉が歯切れ悪く感じられた。
「そう。迷惑、かけちゃったわね」
「イリアが無事ならいいんだ」
 殊勝に消沈したイリアを見て、エスバドは笑う。どことなく痛みを孕む笑みだ。そんな彼に、イリアはますます違和感を募らせる。
 そんなときヴェラークが入ってきた。軍服をまとわない姿を見るのは久しぶりだ。まるで家族旅行に来ているかのような錯覚を覚える。
 瞳を細めたイリアをどう思ったのか、ヴェラークが優しく声をかけた。
「イリア」
 イリアは唇を引き結ぶ。ほんの数日見ないだけでずいぶんと老け込んで見えた。頬肉が削げ落ちている。これまでの憔悴ぶりが目に浮かぶようだ。かなりの心配をかけてしまったのだと、イリアは胸を痛めながら彼を見つめた。
 戸惑いながら立ち上がる。上手い言葉が探せない。やっと止まった涙が再び溢れてきそうだ。
「まだ本調子ではないのだろう。ジェフリスにはしばらく戻らない。ここで休んでいこう。ディールアにもそう話をしてきた」
 イリアは少しだけ驚いた。これまで家族よりも仕事が大事という姿勢を見てきた訳ではないが、イリアが無事だと知ったあとでも仕事を投げ続けるような人物ではない。些細な事件ならば部下たちに任せるのだろうが、今回は総督から下された任務だ。その命令を遂行するまでヴェラークは戦線を離れないと思っていた。それとも任務はすべて完了したのだろうか。
 探るようにヴェラークを見たが、彼からはイリアが無事で良かったという安堵感しか伝わってこない。
「……シャルゼは、元気?」
「ああ元気だ」
 ヴェラークは即答した。力強く肯定した。
 イリアは安堵する。目覚めてから今まで、心の片隅でいつも思っていたことだ。自分がダルスに捕らえられたことを知ったら怒るだろう。海で行方不明になったと知ったら、眦をつりあげて、それこそ上官を締め上げてでも指揮を執るだろうと思った。彼女なら些細な無茶も平気でしでかしそうだ。
 イリアは自分の想像に笑う。ヴェラークが肯定するなら彼女に心配は要らないだろう。
 無条件の信頼をヴェラークに預けて頬を緩める。隣で複雑な表情をしているエスバドには気付かない。
「良かった。でもこんなことになってしまえばシャルゼの特進はもう無理かしら。せっかく頑張ったのに、すっごく残念」
 ヴェラークの瞳が伏せられる。
「でも平気よね。シャルゼだったら直ぐに別の道で特進を狙えるわ。そうしたら、私は今度こそシャルゼと二人で上を目指してみせるわ」
 ヴェラークは扉前から一歩も動かないまま微笑んでみせた。
 エスバドが何か言いたそうに体を乗り出す。
「エスバド」
 ヴェラークの声がエスバドを遮る。イリアは首を傾げて二人を見た。
「私は少しイリアと話がある。席を外してくれないか」
 恐らくダルスのことに違いない、とイリアは青褪めてエスバドに助けを求めようとしたが、彼は逡巡したあと、素直に頷いて立ち上がった。声をかける間もなく外に出る。振り返らないその背中に「薄情者」と言葉をぶつけたくなっても仕方ない。
「イリア」
 ヴェラークの声に緊張する。冷や汗を流しながら彼を見上げ、促すように頷く。
「ジェフリスに戻れば嫌でもお前の耳に入るだろう。そうなる前に、私の口から伝えておく」
 イリアは瞳を瞬かせる。どうやら危惧していた話題ではないようだ。肩から力を抜き、あくまで警戒しながら言葉を待つ。ヴェラークはまるで何度も練習してきたかのようにためらいなく口を開いた。
「私は紋章を、総督に、陛下に返上することにした。今の私は艦長ではない」
 イリアは意味が飲み込めずにただ頷いた。彼の言葉を意味づけるように、視線がヴェラークの肩を滑って胸元に落ちる。ヴェラークの私服に紋章は確かにない。しかしその意味がまだ良く分からない。
「近い将来、八番艦隊には別の将軍が任命されるだろう。それまでは実質、八領地は私が治めることになるが、新しい艦長が任命されればその任も解かれる。そのあとは中央に行き、そこで実務を請け負うことになるだろうと思う」
 イリアは瞬きせずにヴェラークを見つめた。冗談を言っている表情ではない。いや、ヴェラークはそのような冗談など決して言わない。
「……え?」
 イリアはようやくそれだけを絞り出した。先ほどエスバドが言い難そうにしていた理由が飲み込めてきた。違和感の正体がヴェラークの言葉に結びつく。艦長を辞任して中央へ行く、それは決して祝福される異動ではない。
「中央へ行くことは打診している最中だからまだ決定とは言えないが。イリアには話しておこうと思った。もしも結果がかんばしくないものならジェフリスを出てヴィダのところへ行こうとも思っている。結婚の準備も進めなければいけないしな」
 目の前にいるこの人物は誰なのだろう、とイリアは思った。いつも大きく見えていたヴェラークが、今はとても小さく見えた。言葉が途切れたところで、混乱したまま唇を開く。
「お父様――将軍を辞職したということ?」
 ヴェラークは深く頷いた。イリアは唇をわななかせる。心が震えて仕方ない。熱い思いが込み上げてくる。涙を呑んで息を吐く。
「私――」
 脳裏にダルスの姿が横切った。赤い海賊船に乗っていたとき、受けた砲撃は味方からのものだった。エルミナとカラドレットの姿も脳裏に浮かび、彼らの意味を考える。イリアを失ったと思い込んだヴェラークが取る行動は、容易く想像できた。すべてが彼に悪く転んでしまった。ヴェラークの経歴に、許されない傷をつけてしまったのだと理解した。
 イリアは押し潰されそうな後悔に胸を押さえ、そのまましゃがみ込もうとした。けれど膝に力を入れて立ち尽くす。震える唇を引き結び、息を吸い込んで顔を上げる。
「このまま引き下がるなんて冗談言わないで。なんでそう一人で決めてしまうの?」
 イリアはもう一度息を吸い込んだ。熱くなった涙が珠を結んで落ちていく。
「今回は私が悪いんだわ。それなのにどうしてお父様一人の責任になってしまうの。陛下の分からず屋! 納得いかない。許さないんだから」
 イリアはもう一息吸い込んだ。
「いつかお母様に会ったとき、張り倒されるわよ!」
 実際にミレーシュナが生きていた頃、彼女がヴェラークを張り倒すなどという場面はなかったのだが、イリアは叫んでいた。子どもから見た母親は最強だ。情けない父親など問答無用で倒してしまえると信じている。
 イリアの怒声にヴェラークは笑う。想像したのだろう。
「それは確かに、そうかもな」
 涙を拭うイリアは小さく笑ったが、ヴェラークがかぶりを振るのを見て表情を翳らせる。
「だが、私の解任は既に決められたことだ」
 イリアは絶句して見上げる。次の言葉が出てこない。すがめるような瞳をしたヴェラークは視線を落とす。
「解任されると聞いたとき、これでイリアを捜しにいけると喜んだ。後の混乱を一つも考えなかった。そんな胸の内を陛下は見透かした。呆れられても仕方ないことだ」
「そんなの……!」
 脳裏に王の姿が浮かぶ。とは言っても実際に対面したことがないので、遠目に見た姿や、書物に描かれた肖像画くらいしか浮かばない。
「誰だってそう思うわよ……! お父様だけじゃない。お父様のような立場になったら、誰だって、絶対に……!」
 ヴェラークは宥めるようにイリアの肩を叩いた。
「今までイリアには寂しい思いをさせたと思っている」
「そんな使い古された台詞なんて聞きたくないわ!」
「イリアの体力が回復したら、このままヴィダのところを訊ねてみよう。別れ際、ヴィダの様子をディールアから聞いて、ずっと気にかかっていた。ディールアも人伝に聞いただけだと言っていたから――イリアも会いたいだろう? 何年も会っていない気がするな」
 イリアは怒りを燻らせる。姉に会いたいという気持ちと、ヴェラークの話に素直に乗りたい気持ちが、首を縦に振らせたがる。しかしこのまま頷いてしまったらヴェラークを怒ることはできなくなる。それはイリアにとって決して許せないことだ。
「寂しいのなんて私は構わない。だってその分、お父様が帰ったときは喜べるもの。艦隊が戻るのを見たとき、私たちがどんなに誇らしい思いでいたのか……お父様は分かってない。青藍の制服を他の人が着るなんて、絶対に嫌……!」
 ヴェラークは困ったように首を傾げた。
「陛下が決められたことだ。私にはどうすることもできない。世の中の流れが私の解任に向かったのだろう。その流れを私一人でねじ曲げることはできないんだ」
「お父様は流されすぎよ! だから私が縄投げて引き上げようとしてるんじゃないの」
 のほほんと激流に流されていくヴェラークと、それを見ながら上流で右往左往して必死に縄を投げるイリア。親子の脳裏に同じ映像が同時に浮かんだ。あながち間違いではない。
 ヴェラークは少しだけため息をついた。
「落ち着かないか、イリア。分かった。ヴィダに会うのは別の機会にする。お前がそんなに取り乱しているようでは先方に迷惑がかかるだろう」
 イリアは絶句した。こんなにも怒りが湧いたのは再婚話を聞かされたとき以来だと冷静な部分が囁いた。頭の中まで白くなるほどの怒り。
「もう、もう、もう!」
 肩を怒らせて拳を震わせる。
 ヴェラークが片目を細めたのが見えた。怒りを受け流そうとするかのような仕草だ。そのことにイリアは怒りを閃かせて息を吸い込んだ。
「お父様なんか大嫌い! 一人で勝手にいじけてヴィダ姉さんのところに行ってしまえばいいんだわ。ヴィダ姉さんの張り手でも食らえば目が覚めるわよ! 私は私でいつか陛下の前に立てたら、陛下の横っ面、ひっぱたいてやるんだから!」
 ヴェラークは肩を竦める。真剣に取り合おうとしない。イリアは怒りに体を震わせながら畳みかけた。
「もう知らない。お父様の馬鹿。こうなったら私、ダルスと駆け落ちでもしてやるからね!」
 さすがにヴェラークは驚いたようだ。イリアは怒り心頭のまま微笑んでみせ、激情のままに溢れた涙を拭う。勢いは止まらず走り出す。乱暴に廊下に飛び出ると、何事かと顔を覗かせている別の宿泊客の視線があった。イリアは構わずに階下へ駆け下りた。
 別の部屋で待機していたエスバドも姿を見せ、イリアの様子に眉を寄せる。いつもの親子喧嘩だと思ったのだろう。なにもこんなときにしなくても、とは彼の胸中であるが、イリアが外に出ようとしていることに気付いて表情を改めた。
 ヴェラーク自身もイリアを追いかけながらエスバドに声をかける。
「頼むエスバド。イリアを止めてくれ!」
 短く、力に溢れた命令。
 エスバドが動かない理由は何もない。そして言えば、ようやく見つけたイリアを再び見失うようなつもりは彼にない。ヴェラークの後を追いかけるような形でイリアを追う。
 イリアは二人の追跡を感じながら外に飛び出た。
 病み上がりとはとても思えない力強さと俊敏さで、匿われていた場所へ戻ろうと、全速力で走り出した。

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