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第四話

【三】

 イリアは夕暮れの町をひた走った。
 港だけあり、男たちに追いかけられたときのように奇異な目で見られることはない。大勢の旅人にまぎれてしまえる。特にイリアは小柄なため、厳つい男たちの群れに飛び込めばその姿は隠されてしまう。
 ヴェラークとエスバドが追いかけてくるが、彼らは人ごみを掻き分けることができずに足止めを余儀なくされている。イリアが制止の声に振り返ることはない。ちょうど最後の客船が入港したこともあり、港は本日最高に混雑していた。
 イリアは持ち前の反射神経を活かしながら人と人の間をスルスルと抜けて行く。そうしながら自分が何をしたいのか良く分かっていなかった。ただ、ヴェラークが艦長の座を遠のいたと聞いて、衝動的に走り出していた。目的地などない。けれどあえて目的地を作るとすれば、自分を助けてくれた女やダルスがいた場所しかなく、足が自然とそちらに向かうだけだ。彼らを突き出そうと本気で考えているわけではない。ただ一人になりたくて、ゆっくりと考えたくて、居場所を求めている。女の家に着くまでにヴェラークたちを撒ければ上等だろう。
 街中を全力疾走し、港町を抜け、人がまばらとなる旧街道に向かう。イリアを匿った女の家は、スラム街と呼べる位置にあった。
 イリアはふと足を止めて眉を寄せる。近くに新街道が通じているため旅人はそちらを使う。往来しているのは地元民ばかりのようだ。人々の往来は頻繁で、イリアは再び奇異な視線にさらされることになった。しかし今はそれもどうでもいい。問題は、女の家が見当たらないことだ。
 イリアは振り返って首を傾げた。
 背の高い樹がそびえ、街道を涼しげに飾っている。石造りの家々が軒を連ね、その脇には天幕が張られて小さな露店も出されている。夕暮れだからなのか、イリアが出てきたときにはなかった露店だ。しかしその存在を差し引いても見覚えのある風景だった。女の家は確かにこの近くにあったはずだ。けれど、何度眺めても女の家がない。
 そんな馬鹿な、とうなる。注意をしながら一歩ずつ港に戻り始める。建物と建物の間に挟まれるようにして、見覚えのある建物を発見する。意図的に隠そうとする意志が感じられる建物の造りだ。やはり女は、なぜかは分からないが逃げているのだろうと確信する。そして更に謎を深めた。どこを見ても、扉がないのだ。
 イリアは頭を抱える。自分の記憶違いなのかもしれないと悩んだ。だが他に思い当たる場所がない。間違っているのは自分ではなくこの建物だ、と唇を尖らせる。
 そのとき、ヴェラークがイリアに追いついた。
「イリア!」
 力強い手に腕をつかまれて、イリアはまるで宙吊りされるかのような錯覚を味わった。彼が来る前に女の家に逃げ込むつもりだったのに、扉がないため不可能となった。心持ち情けない顔をしてヴェラークを見上げる。泣き出してしまいそうな表情だ。
「どうした?」
 様子のおかしさに気付いたヴェラークはイリアを下ろして覗き込んだ。
「ダルスが……」
「ダルス?」
 ヴェラークは眉を寄せる。イリアの視線につられるように建物を見る。
 目の前にあったのは、この地方ではごく一般的な建造物だった。なんの不思議もない石造りの建物だ。他の建物に比べて少々狭いような気もするが、奥に伸びているのだろうと、特段不思議には思わない。
「私、ここから出てきたのよ。それなのに今、来たら扉がないの。どうしよう。私、ダルスをそのままにして出てきてしまったのに」
 ヴェラークはますます険しく顔を歪めた。イリアを放すと壁に手を触れる。探るように砂埃を払ったり、壁を押してみたりしたが、何の仕掛けもない単なる壁にしか思えなかった。
「ダルスがここにいたのか?」
 イリアはただ頷いた。
 その素直な様子にヴェラークは戸惑って視線をさまよわせた。再び壁を凝視する。しかし幾らそうしていても変化はない。窓もないため、中を窺うこともできない。
 ヴェラークは消沈しているイリアの手を引く。
「あのしぶとい男がそう簡単に死ぬことはないだろう。とりあえずお前は養生するんだ。いいな。これは命令だ」
 イリアは黙ったままヴェラークに従った。宿に戻る途中でエスバドと合流したが、彼に語りかけることもない。エスバドは珍しいことがあるものだというようにイリアを見ていたが、そう至るまでの経緯を想像したのか口をつぐんでいた。
 やがて宿に着く頃、イリアは不意に顔を上げた。何かを思いついたように振り返る。そのまま走り出そうとしたが、彼女の手はヴェラークにつかまれていた。
「放して、お父様。さっきの男たちに聞けばきっと分かることよ」
「確かに……な」
 ヴェラークはため息をついた。
「だがそれを知ってどうするつもりだ。この大陸にもイリアのような能力者がいるんだろう。イリアを助けたのは同じ能力者だという可能性が高い。その方には素直に感謝するが、そこにダルスがいた場合、イリアは私に何を望む」
 イリアは何も言えなかった。言葉を喉の奥に隠してしまう。
 俯き、ヴェラークの腕を投げやりに解くと宿に入った。
 エスバドは彼女の後ろ姿を瞳を細めて見送った。普段、口数が少ないエスバドでも声をかけたくなるような姿だ。しかしヴェラークが支配するこの場で、エスバドが口を開くことはできなかった。
 エスバドは静かにヴェラークを見上げた。彼は険しい瞳でイリアを見送っている。そこに潜むものがどんな感情なのか、エスバドに窺い知ることはできない。踏み込ませない雰囲気をまとったままヴェラークもイリアに続いて宿に入って行った。


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 エスバドは宿の入口でしばし立ち尽くした。
 何を思っているのか彼もまた読み取らせない。どこか憂鬱な表情を浮かべる彼を、ときおり町の女たちが声をかけたそうに振り返る。そんな彼女たちが行動に移す前にエスバドは踵を返した。夕暮れに染まる町並みを眺めて足を踏み出す。
 この見知らぬ町で彼が目指す場所は一つだった。
 ダルスがいる場所。
 先ほどイリアが向かい、扉を見つけること叶わなかった場所へもう一度足を向ける。
 エスバドが行って、何かが変わるというわけではない。彼にもなぜ自分がこのような無駄足を踏もうとしているのか分からない。脳裏にイサミアの姿が浮かび、重なるようにダルスの姿が浮かんだだけだ。足は勝手に踵を返していた。
 カーデ領地よりも北緯が高いスアシャ大陸だが、寒いと感じることはない。
 消え行こうとする残照を見ながらエスバドは瞳を細めた。歩き詰めのためか額が汗ばんでいる。振り返ると瑠璃色に染まろうとする空があった。ヴェラークに何も告げないまま来たことに僅か後悔する。しかし行き場所を告げれば彼は渋い顔をするだろう。やはりこの選択しかなかったのだ。
 エスバドはやがてダルスがいるだろう場所に辿り着いた。
 排他的な人々の視線を受けながら建物を見つめる。イリアとヴェラークが見たように、建物と建物の間に挟まれるようにして建つ、小さな家。窓がない建物は窮屈で息が詰まりそうだ。扉はやはり見当たらない。
 エスバドは建物の前に立つと壁に手を押し当てた。ヴェラークがした仕草とほぼ変わらない。砂埃を払ってみたり、他の壁と感触の違いを確かめたりしてみる。そんなエスバドを、町の人々は怪訝な瞳で見つめる。誰も止めようとしないのは厄介ごとに巻き込まれたくないからだろう。
 エスバドはふと周囲を見渡した。彼を見ていた人々は慌てて視線を逸らす。
「異国の軍人さんが何の用?」
 間近から聞こえた声に驚いて視線を戻す。
 目の前に女がいた。
 左目が青く、右目は金に輝くオッドアイ。誰からも認められるような美女だ。
 エスバドは瞳を瞬かせる。彼女がどこから現れたのか分からない。
「私は……」
 なぜだかすべてを見透かされているような気分に襲われたエスバドは言葉を濁す。女は片時も視線を逸らさず、見極めるかのような時間を待つ。
 やがて女はエスバドに背中を向けた。
 女が壁に向けて小さく、円を描くように触れる。単なる壁にしか見えなかったそこは小さく押され、たちまちの内に扉と呼べるようなものに変化した。驚くエスバドの前で開かれる。
「おいでなさいな。私はチェラージ。イリアを見つけてくれて感謝するわ。もう少しで私はあの娘を放り出すところだった」
 薄暗い部屋の中に入ったチェラージは振り返って微笑んだ。
 闇の中、彼女のオッドアイだけが光を含んで眩く見えた。
 エスバドは驚きながら足を踏み入れる。表情だけはいつもと変わりないが、緊張していた。素早く部屋の中を見渡して警戒する。彼女がなぜ自分を招きいれたのか分からない。
 建物に入れたことは大した進歩だが、完全に安心するには至らず、エスバドはそう思った。
「閉めて」
 エスバドが扉の前で立ち尽くしているとチェラージは命令する。一瞥して部屋の奥に入っていく。彼女を追いかけるようにエスバドは二歩目を踏み出し、部屋に染み付く香料に顔をしかめた。占い師が好んで使用する香料だとあたりをつける。カーデ領ではあまり見かけない部類の職業だが、ラード領では露店と並んで生業としている者が多い。もっとも、エスバド自身はそういう類が苦手だが、イリアやシャルゼであれば興味半分で瞳を輝かせるのかもしれないなと思う。
「なぜ、私がイリアの迎えだと?」
 問いかけたエスバドにチェラージは微笑んだ。
「占い師の勘ね」
 はぐらかされようとしているのか。エスバドは小さく嘆息すると二問目を口にした。
「ダルスはここにいるのか」
 チェラージは少しの間をあけて首を振る。
「いいえ。もういないわ」
「そうか」
 視線を落とすエスバドを見て、チェラージはクスリと笑った。その声にエスバドは顔を上げる。チェラージは悪戯が成功したかのような笑みを見せていた。エスバドには意味不明の笑みだ。
「彼はもうここには戻らない。彼の仲間が王国に捕らわれていると知ったら直ぐに飛び出して行ったわ」
 エスバドは目を丸くした。
「私の占いは外れない。私は彼に予言したの。仲間を助け出そうとすれば、貴方はもう戻れない。王国で貴方は死に向かう、と」
 エスバドの脳裏に、死刑台に立たされる海賊たちの顔が浮かんだ。これまで処刑されてきた海賊の顔がダルスに変わり、その隣にイサミアたちが並ぶ情景が浮かび、嫌な汗を滲ませる。
「占い師に守秘義務はないのか」
「このことに限ってはないわね」
 チェラージはクスクスと笑いながらおどけるように肩を竦めて見せた。
「貴方を招いたのは、イリアにこの予言を伝えて欲しかったからよ」
 眉を寄せるエスバドに、チェラージは奥から取り出してきた何かを突き出した。それは手の平に収まるくらいの小さな水晶だ。
「以前に渡した水晶はそろそろ使い物にならなくなるからね。代わりにこれも、あの娘に渡しておいて」
「占い師じゃなく、魔装備の技師なのか」
「どちらも外れ」
 チェラージはテーブルに腰掛けながら微笑み続ける。まるで赤ん坊を見ているかのような眼差しで、エスバドはやや不愉快な気分になりながら渡された水晶を握り締める。用はもうない。部屋から出ようとし、再び振り返った。
「――ひとつ、占いを頼んでもいいか?」
「海賊たちは死ぬわ。私の占いは外れない」
 聞きたいことを見事に言い当てられた上に、その内容にも言葉を失う。
 チェラージは言葉の内容にまったくそぐわない妖艶な笑みを見せるとエスバドを押し出した。
「さようなら」
 チェラージの手が扉を閉めようとしているのを見て、強く止める。少し驚いたようにチェラージが手を引いた。そんな彼女に改めて向き直り、エスバドは深く頭を下げた。
「イリアを救っていただき、深く感謝致します」
 瞳を閉ざして腰を折り続けているとチェラージの手が肩に触れた。エスバドは顔を上げる。
「いい男に感謝されるのは悪い気分ではないわね。誠実な人。少しだけ、あの娘が羨ましくなったよ。いい人脈に恵まれているんだねぇ」
 ふと遠い目をしてチェラージは頬を緩ませる。少しの間をあけ、エスバドが一歩退くとチェラージは柔らかな眼差しで微笑んで、扉を閉めた。
 閉められた扉は見る間に壁となる。つなぎ目も分からなくなる。彼女と接触した記憶すらあいまいになってきた。
 エスバドはただ白い壁を見つめる。
 今度こそその扉が開くことはなかった。

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