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第四話

【一】

 新たな扉を開くのは誰か。
 先が見通せないまま心ばかりが急いていく。
 世界に散りばめられた幾多の光が繋がるまで、あともう少し。


 話はイリアの意識がいまだ戻らぬところにまで遡る。
 オーカキス島の雷季はまだ続くらしい。シャルゼは激しい雨に見舞われながら走っていた。
 本来なら雨が弱まる時期のため島民たちは首を傾げているが、それだけだ。独特な環境にあるがゆえの島民気質なのか取り立てて騒ぐことはしない。なぜそうなったのか、追究することもないのだろう。オーカキス島に駐屯する他国軍たちは厄介な説明責任から逃れられて胸を撫で下ろしている。
 恐らく先日までの戦闘、能力者たちによって天候が狂わされたのだ。カラリと晴れた空は見る影もない。鈍色の雲が広がる。真実を知るサーフォルー海軍の関係者たちは一様に口を噤んでいた。
 シャルゼは雨にけぶる通りをひた走る。鮮やかな金髪をフードに押し込め、辺りを警戒する瞳は険しい。どうしても一般の島民には紛れない気配を全身から放っている。
 雨のため出歩く島民は少ない。代わりに、島に駐屯している各国の軍人に出くわす可能性が高い。そんな中でシャルゼ一人が目立てば、不審人物として目をつけられるだろう。
 シャルゼは走るのをやめて歩き出した。前方から島民たちが小走りに駆けてくるのを見たからだ。走って来るのは複数の少年たち。彼らはこの程度の雨には慣れているのか急ぎながらも笑いあっている。シャルゼに視線を向けたのは一瞬だ。見慣れない姿に不思議そうな顔をしたものの、声をかけることもなくそのまま通り過ぎていく。
 シャルゼは充分な間をあけて小さく振り返った。少年たちの背中が雨に紛れてしまうと嘆息する。島民の前で風を操るわけにもいかないからずぶ濡れだ。衣服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
 島の広場に入ったシャルゼは、前方の建物の窓に、赤い旗がずぶ濡れで立てられているのを見た。その建物は町に置かれたサーフォルー海軍の出張所だ。司令部のような施設と違い、二、三人の軍人が派遣され、町で起こった様々な事件に追われている。
 普段は旗など立てられていない。これは、シャルゼに対するスロットとティニスの目印だった。二人の巡回路が重なるのもこの場所だ。
 シャルゼはゆっくりと歩く。雨を楽しむ暇人のように、広場の中央に設けられた噴水を巡る。主要な町の広場に必ず噴水があるのは何か意味があるのかしらと無意味な詮索で暇を潰す。
 雨音を縫って響いた汽笛に顔を上げた。出航の時間が近づいている合図だ。
 ――イリアが消えてから何日が経っただろうか。
 今でも鮮明に思い出せる。眼前で沈む船。その船にイリアがいると知った瞬間、頭の中が真っ白になり、全身の血が沸騰した。危険を顧みず飛び出そうとした。
 シャルゼを止めたのはヴェラークだった。
 飛び出したい気持ちは彼の方が強かったはずだ。けれど彼はシャルゼほど理性を失ってはいなかった。信じられないほど冷静に状況を分析していた。
 沈もうとするのは大型船。迂闊に近づけば渦潮に巻き込まれて道連れにされてしまう。いくら世界最強の軍艦だとて逆らえない。そしてまた、いつ砲撃が来るか分からない。
 ヴェラークはその海域から離れるよう指示を出した。イートシャン=ドーガに指示が伝わらない以上、部下を危険に巻き込まないよう安全策を取るのが道理だ。
 シャルゼは唇を引き結んで袖をめくった。そこには、白い肌に不似合いな赤い痕が残っていた。ヴェラークがつかんだ手の痕だ。あの日から数日が経っているのに、その痕だけは薄れずに残っている。まるでヴェラークの怒りを宿したように。
 シャルゼはその痕に自分の手を重ねて奥歯を噛み締めた。目深く被ったフードの中から辺りを窺う。このような激しい雨の中では近場の音しか聞こえない。けれどシャルゼにかかれば、どんなに雨が激しかろうと、そこに空気さえあれば障害にならない。風に愛された能力者だ。風を使っての情報収集はお手の物だった。
 サーフォルー海軍の出張所には誰もいなかった。
 再び聞こえた汽笛に首を巡らせる。同時に、この広場に繋がる大通りの一つから、複数の足音を聞き分ける。オーカキス島を巡回するサーフォルー海軍の一部隊だ。その中にはティニスもいる。
 そして広場を挟んだ反対側の通りからも複数の足音が聞こえてきた。こちらはスロットを擁する巡回部隊だ。
 彼らが広場に到着するまであと少し。
 フードを被ったまま噴水の縁に腰掛けたシャルゼは、足元の水溜りをパシャリと踏み、水滴を宙に舞わせて小さく笑う。スッと息を吸い込むと、一本裏通りへと意識を集中させた。
 風を使った情報収集で、隣の裏通りに誰もいないことは確認済みだ。
 裏通りの始まりから終わりまで、シャルゼは鋭い風を一つ送り込んだ。風速何百メートルに達するのだろうと思われる、まるでかまいたちのような風。それは真空となって甲高い音を奏でる。長く細く、女性の悲鳴のように。通りに面したガラスが次々と割れていき、住民たちから本物の悲鳴が上がる。真空が生まれた弊害として、シャルゼのいる広場からも若干空気が引き抜かれる。軽い耳鳴りがしてシャルゼは眉を寄せたが、どうやら目論みは成功したようだ。広場に終結しようとしていた巡回部隊の足が止まる。次いで、猛然と広場から離れていく。
 シャルゼは艶やかな笑みを刻んだ。
 オーカキス島の司令部から港に出るにはどうしても巡回部隊と鉢合わせする。彼らはシャルゼを本土に送還しようとするだろう。けれどこれで彼らの巡回路は狂い、シャルゼが抜け出す隙が生まれた。僅かな時間差を利用しない手はない。
 シャルゼは三度目となった汽笛に眉を寄せた。時間がないと悟る。フードから零れた金髪に気付き、被り直すと慎重に隠した。今ならば通りには誰もいない。港までは直ぐだ。他国の巡回部隊もいない。
 出張所の赤旗の下を通り抜けようとしたが、シャルゼはふと思いとどまって、片足で地面を軽く蹴った。重力に逆らって浮上する。降りしきる雨が鬱陶しいばかりだが、見る者は誰もおらず、気兼ねする必要はない。出張所の屋根に降り立つ。
「戦艦はさすがにもうないようね」
 視界に入る前髪を振り払うように首を振り、シャルゼは呟く。雨の勢いはそろそろ弱まっていた。一度は巡回路から外れた部隊が元に戻りつつある。視界の端にその姿を認めたシャルゼは、身を屈めてやり過ごした。
 部隊の中にはスロットとティニスがいる。彼らは交代とばかりに手を打ち交わした。他の巡回者も同じように別部隊と入れ替わるが、二人に限っては共犯者の笑みを浮かべていた。屋根にシャルゼがいることを知っているのかもしれないが、決して視線を上げない。そのまま何気なく部隊へ戻る。そこで司令部へ戻る者と派出所に待機する者、そして巡回を続ける者に分かれる。スロットとティニスは巡回を続けるようだ。
 シャルゼは彼らが視界から消えるまで屋根で待機し、やがて屋根を蹴ると隣の屋根に飛び移った。幸い、雷季で風には困らない。好奇心旺盛な風たちはシャルゼに力を惜しみなく分けてくれる。
 港ではザグレイが待っているはずだ。外交員に任じられた彼はここ数日で外部との強力な繋がりをつくり、シャルゼを密航させるに充分な信用を取り付けた。だてにカラドレットの部下を務めてはいなかったのだと、シャルゼたち以下イリアを心配する者たちは心強く思ったものだ。
 そうしてシャルゼは、オーカキス島から脱出することに成功した。


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 セヴィラルは温かなお茶をすすりながら空を眺めていた。
 港から男爵領に移って数日。捜し人は見つからない。空は雪が舞い降りそうな気配を醸している。冬の訪れも近いのだろう。彼は領地に残してきた子どもたちを思いながら、もう一口お茶を飲む。
「この寒さです。どこかに宿を取ったのでしょう」
「サフォン」
 かけられた声に振り返ると、捜索隊の様子を確認するため出向いていた事務官が戻ってきていた。彼はセヴィラル専属の事務官だ。セヴィラルが地方領主をしていたときからの右腕で、信頼は厚い。王からの召集がかかったときも従者に名乗り出た。そして彼は着いた城で軍試験を受け、正式な事務官となったのだ。セヴィラルが出かけるときは随行し、彼の身の回りをすべて引き受ける。非常に優秀な事務官だった。
 セヴィラルが治めていた領地は、今は彼の子どもたちが領主代行として一切を仕切っている。サフォンの息子もそれを良くたすけていると聞いている。親子二代でヴァレン侯爵家に尽くしてくれる、有能で有望な人物たちだ。
 サフォンはお茶菓子を出しながら微笑む。
「ディラックはそういう所だけ鼻がきくからな」
「ライデン少将が聞かれたら嘆きますよ」
「ふん、知ったことか。あいつらのせいで無駄足を踏むことになったんだ」
 カップを置いて腕組みするセヴィラルに苦笑が向けられた。
「まだ飲みますか?」
「いや……もう結構だ」
「さようですか」
 サフォンは微笑みながら空になったカップを下げた。用意したお茶菓子は無駄になったかなと思ったが、下げようとする菓子皿をセヴィラルがつかんだため、残した。
「それにしても……暇ですね」
「まったくだ。ジェフリスの奴ら、もう少し留まっていてくれれば、噂の海軍とやらを拝めたっていうのにな。私と入れ違いに出て行ってしまって、結局私はディラックの子守担当だ」
「惜しかったですねぇ」
 憮然とする主人を穏やかに眺めながら、あくまで呑気にサフォンは告げた。
「そういえば……」
 外を眺めていたセヴィラルが思い出したように顔を上げる。
 サフォンは彼が興味を持ちそうな書物をいくつか選びながら振り返った。ディラック=ライデンが見つかるか、国王から呼び戻しがかかるまで、セヴィラルはここに腰を落ち着けるつもりだ。暇潰しは多いほうがいい。
「この前、アイルのところにラミアスの息子が来たらしいな」
「ああ……」
 セヴィラルの指す人物が誰なのか、直ぐに見当がついたサフォンは苦笑した。ずいぶん前のできごとだ。けれど忙しいセヴィラルには『この前』と称されても仕方ないのかもしれない。
 サフォンは頷きながら自身も視線を窓に向けた。息子からは定期的に手紙で連絡が入っていた。親子の会話などないに等しい、無味簡素な報告書だ。そこにはラミアスのことも綴られていた。
 将来の領主になるのが長男のアイルなのか、それとも異例としてルイになるのか、現在はどちらが相応しいか、力量比べの最中だ。
「治安回復に一役買ったそうですね」
 サフォンは脇卓に書物を数冊積み上げながら続ける。
「ディラックが捕まったら、礼も兼ねてラミアスに会いに行くか。長居はできんが」
「ああ。ラミアスには海軍の娘がいるという話ですからね。異国の姫を娶ると評判らしいですよ。海軍を拝めなかった代わりに、というわけですか」
 サフォンは納得したように大きく頷いた。心の内を読まれたセヴィラルは渋い顔だ。しかし咳払いして誤魔化し、積まれた書物を手にした。その中身はなぜか『貿易について』だったが、気にせず表紙を開く。どうせ暇潰しなのだ。いずれ眠くなるだろう。
 窓の外では、白く分厚い雲が両腕を広げていた。

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