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第四話

【二】

 スアシャ大陸は世界一大きな大陸だといわれていた。
 複雑に入り組んだリアス式海岸が多く、船で容易に上陸することができない。
 統一国家となったジェフリス国や、二大王を抱えるミフト大陸に比べ、戦乱の火種も多い。興亡が激しいため正確な地図を作ることも難しい。大陸の半分以上が謎に包まれている場所だった。
 ダルスにとっては馴染みの深い大陸だ。特にここシャルバイラルの港は、世界一流通が盛んだが法的組織は無きに等しく、ダルスたちのようなお尋ね者にとっては格好の逃げ場所といえる。チェラージも恐らくは何らかの理由で隠遁する身なのだろう。
 過去に何度か世話になったことを思い出しながら、ダルスは通りを窺っていた。
 チェラージの住居を後にしたのは先ほどのことだ。先に来ているはずのイリアの姿は見えなかった。そのことに何とはない不安感を覚えながらもダルスは自分の目的を優先する。彼の目的とはすなわち、王都へ行き、捕らわれた仲間たちを助け出すこと。これに他ならない。
「げ」
 港に威圧感のある軍艦を見た瞬間、ダルスはうめく。
「なんでジェフリスの軍艦がここに……」
 最悪だ、と口の中でうめきを殺す。先ほどからやけに軍人が往来しているのはこのせいかと得心がいった。けれどこれでは迂闊な行動はできない。
 ダルスは深いため息を吐き出すと顔を上げた。そして同時に、その艦が出港しようとしていることに気付いた。訝んで瞳を細め、人々の隙間から波止場を眺める。港に停泊しているのは第九番艦ディールア=ラードの艦だ。しかし波止場で艦の出航を見送っているのは見間違えようはずもない、ヴェラークの姿。
 彼の姿を認めた瞬間、心臓が止まる思いだったダルスは細く息を吐き出した。ヴェラークは自分を捕まえにきたわけではないと推測する。けれどそうしたら、彼の目的はただ一つ。イリアだけだ。
 ダルスは鼓動を宥めながら深呼吸した。ヴェラークがこの港に来た以上、イリアは直ぐに保護されるだろう。そうなれば、心残りは何もない。
 ダルスは再び顔を上げる。
 腕の付け根はまだ痛みを宿していた。熱も完全には引いておらず、意識が時々消えそうになる。しかし完治するまでチェラージのもとで安穏としていられない。今回も、早くにチェラージと別れたから、ヴェラークと鉢合わせする危険を逃れたのだ。自分はつくづく運がいい。
 けれど、万全とは言い難い体調にダルスは眉を寄せた。腕の痛みが脳に突き刺さるたび、脳裏に浮かぶのはラヤダの姿だ。身の内を灼くのは強い念。奥歯を噛み締める力は知らず強さを増していく。
 ヴェラークが波止場を離れる充分な時間を見計らって、ダルスは行動を再開した。港には賞金稼ぎ向けの情報も出回るが、顔を隠すことなく堂々と闊歩する。今更この場所でダルスに捕縛の目を向ける地元民はいない。
 少しだけ湿った空気が上空を流れているのが分かる。この分では雨が降り出すだろう。
 ダルスはいつも通り風を操ろうとして顔をしかめた。チェラージによって怪我は塞がっていたが、風を操る能力までは回復できていない。時間が経てば戻るというが、いつも傍にあった風の気配がないことはダルスを不安にさせた。
 波止場に停泊する船を眺め、目的の船を見つけて近づいた。
 ジェフリスに、無理をしてでも向かうのが務めだ。仲間を失うのは二度と御免被りたい。
「フリードはいるか」
 船の近くで積荷作業に勤しんでいた男を一人捕まえて、ダルスは率直に切り出した。男は「はぁ?」と露骨に嫌そうな顔を上げる。
 ダルスは男を睨み据えた。男はまるで相手にしない雰囲気だったが、翡翠の瞳になにを感じたのか少しの間をあけてマジマジと覗き込む。
「あんた親分とどんな関係だ?」
「お前に明かすようなものはない。フリードを呼べ」
 男は腹を立てたようだった。
「他の奴に頼むんだな」
 顎を逸らせて男はツンとした。野菜が入った木箱を持ち上げて船内に入ろうとする。板を渡り、甲板に上がる。ダルスは男の後をついて甲板に上がった。先に上がった男はふと後ろを振り返り、そこにダルスがいることに驚いて「うわ!」と木箱を落とした。甲板には数名の作業員がいて、何事かと顔を上げる。
「な、なんだお前! 誰が甲板に上がる許可したよっ?」
 うるさく喚く男を無視してダルスは船長室と思しき扉に歩き出した。男が慌ててダルスにつかみかかろうとする。その腕に捕らわれる前に、ダルスは跳躍して男の頭を飛び越えた。
「でええ!?」
 飛びかかった男はそのまま甲板に倒れ込んだ。
「おい待て! 行かせるな!」
 甲板にて作業していた男たちが、二人の様子に慌てて叫ぶ。ダルスに近い者たちから順番にダルスを止めようとする。
 ダルスは彼らを一瞥すると頭上を仰いだ。帆綱を見つけると素早くつかむ。片腕で体を持ち上げ、床を蹴り、近づいてくる男たちを文字通り一蹴する。白兵戦など経験したこともない商船の船員たちは完全に腰が引けていた。逃げ惑ってダルスを遠巻きにする。誰かが役人を呼びに行こうと立ち上がる。
 ダルスは息を吸い込んだ。
「フリード! いるなら出てこい! 俺に手間をかけさせるな!」
 なんとも傲慢な言葉だった。男たちがその言葉を理解し、怒りを閃かせる前に、甲板に大きな朗笑が響き渡った。誰もがそちらを振り返って大きな男の姿を目撃する。半袖シャツから覗く太い腕には幾つもの刀傷があり、歴戦を潜り抜けてきただろうことを連想させる男だった。
 甲板に転がっていた男たちは慌てて立ち上がる。役人を呼びに行こうとしていた者も同様で、彼の姿に安堵を洩らす。
 ダルスは口の端に笑みを浮かべて向き直った。手にしていた綱を放す。
 見るからに屈強そうな男、フリードは片目を覆う眼帯とは反対の目で笑い、ダルスに手を挙げた。
「なかなか元気そうな口を叩くな小僧」
「小僧は余計だ。この船が今も健在で嬉しいぜ。話がある」
「ああ、分かってる。話は中でしよう」
 フリードはダルスの意図を察して船長室に促した。ダルスはそのままフリードの脇を抜けて船長室に下りていく。フリードは残された作業員たちに「災難だったな」と笑いかけ、今の男については追及するなと固く口止めをし、ダルスの後を追った。
 ダルスには案内も必要ない。もともとこの船はダルスの船だ。簡単には沈まない、機動力の高い船を造船しては海賊船にしてきた。そして次の船ができるとその船を手放し、再び次の船ができると更にその船を手放す。そうして資金を溜めてきた。現在フリードが使っている船は、ダルスたちがそうして売り払った船の一つだった。
「よくも無事だったものだな」
「お互い様だ」
 勝手知ったる他人の船。船長室に入ったダルスはフリードよりも先に椅子に腰掛け、体を休めた。そんな態度にもフリードは怒らない。小さな棚からグラスを二つ取り出して水を注ぐ。円状のテーブルに置くと、零れない程度に水が揺れた。ダルスの対面に腰を下ろす。
「とするとあれか。さっき出て行った九番艦は」
「事件がらみだ。目的は俺じゃない。俺はこのままジェフリスに行く」
 フリードはあからさまに眉を寄せた。ダルスは彼の口が開かれる前に、鋭く紡ぐ。
「一度だけ俺に力を貸すと誓ったな。言霊を破ることはできない」
 ダルスの瞳が剣呑な光を帯びた。それを悟ったフリードは顎を引いてかぶりを振る。
「そうではない。海賊同士の約束は絶対だ」
 ダルスは視線を窓に向けた。そこからは港の様子が窺える。ヴェラークが戻ってくる様子もなく、港町はいたって平和に見えた。
「だが、俺は送り届ける以上の手は貸せないぞ」
「そんなことは承知している」
 当然だ、と頷くとフリードは微かに動揺する。
「噂には聞いている。お前の仲間はほとんどがジェフリスの本拠に捕らわれたんだろう。一人で乗り込むつもりか。勝機はあるのか」
 ダルスは答えない。
「無謀すぎる。とても正気の沙汰とは思えないな。知っているか? ジェフリスでは、既に海賊ダルスは死亡扱いされている。ここは下手に姿を現すより、引いてほとぼりが冷めるのを待った方がいい。海賊稼業なんて、命あっての物種だろう?」
「フリード。俺は問答しに来たんじゃない。ジェフリスに行く。これは俺の中での決定事項だ。ここに船があったのは幸運だった。ジェフリスまで、俺の道はまだ繋がっている。そうだろう」
 ダルスは強く言い切った。
「貸せないな、と言ったら? 元はお前の船だが、今は俺が買い取った船だ。決定権は俺にあるぞ」
「俺を誰だと思っている? 海賊だぞ。お前がそういう態度を取るなら、強引に奪うまでだ」
 端から見れば誰もがフリードに分があると思われる対局図だったが、ダルスは一歩も引かずに睥睨した。その瞳には苛立ちがある。決して否とは言わせぬ強さでねじ伏せる。
 フリードは呆気に取られた。絶句する。若さゆえに、と笑うことのできない何かがそこにある。更に、ダルスの言葉にはすべてを可能にするかのような力が込められていた。
「それに、サーフォルーの親玉は俺が死んだとは思っちゃいない」
 ダルスは口の端だけで笑った。瞳はまったく笑っていない。出された水を飲み干して息をつく。
「俺が行くのを待っている」
「なぜ」
「イサミアたちを殺さずにいるだろう。俺をおびき寄せるために他ならない」
「罠だ」
「だから何だ」
 フリードを一瞥して淡々と問い返す。
 沈黙が生まれ、ダルスは鼻を鳴らした。腕の付け根を気にして微かに顔をしかめる。
 フリードはそんなダルスの様子には気付かず、ただ深いため息をついた。
「……まぁいい。俺の仲間は解散させ、今じゃただの商船の船長だ。この船は良く働いてくれた。俺との相性もいい。元主人を運んでやるくらいじゃ怒らんだろうよ。ちょうど、向こうで下ろしたい積荷も補充できたしな」
 フリードはそう告げると立ち上がった。ダルスを残して部屋から出て行く。甲板に上がる足音が遠ざかる。船員たちに進路を伝えに行ったのだろう。
 ダルスは大きな息を吐き出して天井を見上げた。昔使っていた船だが、こうして戻ると何とも頼りなく思える。白兵戦から身を守るための装備もなされていない。海賊船から商船へと役割を変えたのだから、それは当然と言えば言える。
 フリードとは昔、このシャルバイラル港で何度か顔を合わせた。軽口を叩き会う仲にまで発展した。そうして、この港で船の取引をした。
 彼は海賊を引退したあと、養った豊富な海路を使い、商いをしている。そういう生き方もあると思った。いつまでも海賊を続けて行くには無理がある。島でも意見が分かれ始めてきたところだ。
 フリードは毎年この時期にシャルバイラル港に寄港するため、今回も運が良ければ会えるだろうと思っていた。赤い海賊に出逢いさえしなければ、今頃はフリードの意見を交え、島の皆と今後について話し合っていたところだ。
 今は何より仲間を救い出すことが先決だ。未来など語れない。
 ダルスはもう一度腕の付け根を気にした。痛みが少し強くなっているような気がした。
 出掛けにチェラージから投げ渡された鎮痛剤を飲み、椅子に深く座り直す。視界に霧が懸かったようだ。酷く疲れていた。ダルスは円卓に足を乗せて伸ばすと、瞳を閉ざした。


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 ヴェラークとダルスがスアシャ大陸に足を着けているのに対し、シャルゼが降り立ったのはミフト大陸だった。港に降り立った彼女は被り物を取り去る。ここまで来ればジェフリスの正規軍に肝を冷やすこともないだろう。
 布に隠されていた金髪は闇夜に大きく揺れ、シャルゼの頬に金の影を落とす。月明かりを帯びて不思議な色にきらめいた。シャルゼの蒼い瞳が港町を映す。
「ここでいいのかい?」
「ええ。ありがとう」
 協力者を振り返ったシャルゼは微笑んだ。ザグレイが手配した異国の協力者だ。
 シャルゼの微笑みに、まだ年若い彼は頬を染めた。彼の背後ではまだ荷物の運搬作業が行われているが、それは間もなく終わる。この港に停泊しているのは僅かな時間だ。物資の積み込みが完了すれば直ぐに出港する。オーカキス島で物資を補充していたため、本来ならば寄港する必要もない場所だった。
「この辺りには野盗が出るという話だ。できれば出歩かない方がいいと忠告したいが、訳ありなんだろう。気をつけてな。そこに大きな宿があるから、まずはそこで朝を待った方がいい」
 男の腕に導かれるままシャルゼは振り返る。確かに大きな宿があった。酒場を兼ねているようで、一階の窓には人影が賑やかに踊っている。店の外には鎖編みされた、洒落た看板も掲げられている。
「忠告に従うわ」
 シャルゼが頷いたとき、甲板で号令が上がった。気付いた男が甲板を振り返ると、乗組員たちが船の点検作業に移っている。積荷作業は終わったらしい。男も早く手伝わなければいけない。
 男は最後にシャルゼを振り返り、縁があったらまた、という決まり文句を残して号令をかける上官の元へ走っていった。シャルゼは彼の背中を見送る。桟橋に佇んだまま船の全貌を眺めた。
 乗船時間は結構な長さだった。早く着けとばかりにシャルゼは密かに風を操っていたのだが、それでもミフト大陸に着くまでは数日かかった。
 シャルゼは金髪をかきあげる。これまで顔を隠していたせいか熱がこもり、わずかに温かい。
 船の銅鑼が鳴らされた。夜の街には少し迷惑な音だ。
 シャルゼが見守るなかで船はゆっくりと離れていく。充分な沖に出ると速度を上げた。船影は数分をかけて海の彼方に消える。そこまで見守ってから、シャルゼは踵を返した。
 案内された宿に足を向ける。肩にかけた小さな荷物袋を確認しながら耳を澄ませた。船を下りた今は能力を隠すこともない。船の者たちはそれでも途中からシャルゼが何者なのか気付いた様子だったが、取り立てて騒ぐことはしなかった。ザグレイの存在が効を奏しているのだろう。
 シャルゼは足元をくすぐる風を捕まえて遊んだ。空を吹き渡る風を自分の位置まで下ろし、目的地の宿の看板を揺らしてみる。金属の擦れる音が響いて距離を示した。一階が酒場であるのに対し、二階は宿だ。窓にはポツポツと明かりが灯っている。その中にひとつ、人影を見つけてシャルゼは瞳を細めた。今の銅鑼に気付いて様子を窺っているのかもしれない。
 目的地に近づくにつれて喧騒が聞こえてくる。だみ声で笑う男たちの声が流れてくる。
「カーデには酒場なんて……そういえばあったわね」
 シャルゼは記憶を探って眉を寄せた。しかしカーデ領に点在していた酒場はもっと落ち着いた雰囲気のもので、品があった。ここの酒場をそのままカーデ領に移したらとんでもない違和感を醸すだろう。
 場所が違えばこれほど雰囲気が違うのかと、シャルゼは妙な感心を覚えながら酒場の扉に手をかけた。
 ――酒場中の視線が集中した。
 と思った瞬間、それらの視線は直ぐに逸らされた。一瞬だけの静寂は時の中に埋もれてしまう。
 シャルゼは呆気に取られた。何が起こったのか良く分からない。だが入口で呆けていても仕方ない。気を取り直して奥に進んだ。酒の匂いが充満して不快になる。人々が通路にまで体を乗り出しているため、シャルゼが進める通路は自然と狭くなっていた。そんな中、見えない視線の集中攻撃にあっているようで不愉快だった。ようやくカウンターに辿り着く頃には肩で荒く息をついている。
「空き部屋はまだあるかしら」
 シャルゼは強い口調で問いかけた。その途端、再び周囲が静まり返る。そして先ほどと同様、直ぐに元の喧騒を取り戻す。まるで全員がシャルゼの声に耳を傾けたようだ。シャルゼは苛々と振り返る。
「もう。何なのかしら」
 シャルゼの声は喧騒に埋もれた。それでも、それを拾い上げたカウンター席の男が低く笑う。
「気にしなさんな。あんたみたいな別嬪さんが珍しいんだよ。加えてついさっき、あんたと同じ金髪の奴がここに来てね。こいつもまたえらい別嬪な人で、俺たちは呆気に取られたもんさ。声をかけたかったんだが鬼気迫るものがあって、誰も誘えなかったんだ。だから、今日二度目の別嬪さんに向かう興味もいつも以上で」
「いい迷惑だわ」
 片目を瞑って面白そうに告げる男に、シャルゼは冷ややかな視線を向けた。カウンター越しの亭主へと体を向け直す。
「それで、部屋は」
「あんたが捜し人ってわけじゃあ、ないかね?」
 懲りずに話しかけてきた男に辟易し、それでも話の内容に眉を寄せて男を見た。
「意味が分からないわね。人を捜しているのは本当ですけど」
「じゃあ」
「誤解を解きます。私の捜し人は金髪ではなく紫髪の女性。もしくは赤髪の男性。金髪の人間に心当たりはないわ」
 苛立ちを雄弁に物語る口調だった。男の顔が残念そうに曇る。
「そうかい。あんたがそうなら、私が一番に話題の主と話ができると思ったんだけどねぇ」
 シャルゼは片足を踏み鳴らせる。巻き込まれてはたまらない。早くもここから出て行ってしまおうかしらと思ったが、普通に考えるのなら同じ町に宿屋は二つもないだろうと諦め、理不尽な怒りを堪える。
「部屋は空いているのかしら」
 シャルゼはカウンターの亭主を振り返った。
 亭主は男とシャルゼのやり取りを興味深そうに聞き、自身もいつ口を挟もうかと機会を狙っていたようだ。だがシャルゼの不機嫌な声を聞いて諦める。顔立ちが整っていることもあり、シャルゼの低い声は凄味を増していた。
 亭主は帳簿を調べにカウンターの下へ潜った。シャルゼと話をしていた男は白けて席に向き直る。酔い直そうというのか、酒を飲み干す。
「二階の右部屋はほぼ空室。左部屋はすべて埋まっているがね」
「そう。では泊まらせていただくわ」
「はいはい。毎度」
 シャルゼがカウンターに金貨を一枚差し出すと、亭主は相好を崩して受け取った。一泊するだけにしては破格の金額だったからだ。不慣れなシャルゼでは相場が分からなかったためで、亭主の様子に眉を寄せたものの、何も言うことはなかった。酒場を一度ぐるりと見回してから先ほど声をかけてきた男に話しかける。
「先ほど私が言った人物に心当たりはない?」
 男は首を傾げてしばらくうなったが、否を告げた。続けて何か口を開こうとした男だが、彼の表情を見れば、それが興味半分の言葉だろうと推測できて男を制す。シャルゼは好奇の目をあっさりと無視して二階に上った。
「冗談ではないわ。金髪なんて山ほどいるじゃないのよ。不愉快だわ」
 唇を尖らせながらシャルゼは怒りを吐き出した。そしてふと、ジェフリスには紫色の髪をした人物自体が珍しいと気付いた。金髪や黒髪、薄い茶髪の人物などはいるが、イリアのように明確な色素を持った人間をシャルゼは知らない。
 そこまで考えて「いいえ」と否定した。確かガヴィルート国王も青い色素を持ち合わせた人物だ。国王の肖像画は広く民衆に伝えられているため、王都に行ったことのないシャルゼにでも分かる。
 人捜しに髪の色だけでは心許ない情報かと思っていたが、これは案外、使えるかもしれない。
 シャルゼは階段をあがりきって足を止めた。
 宿の空室状況は、部屋の扉が開いているか閉まっているかで判断される。亭主の話通り、二階の左部屋はすべての扉が閉められていた。対して右手沿いの部屋にはぽつぽつと空室があるようだ。幾つか扉が全開になっているのが見えた。
 シャルゼは適当に部屋を決めて中に入った。部屋は清潔に保たれており、不潔感は一切なかった。そのことに安堵して荷物を椅子に預ける。皺一つない寝台に腰掛けて横たわる。
 これから途方もない人捜しにかける労力を思い、深いため息を吐き出した。

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