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第四話

【三】

 シャルゼは神経を昂ぶらせながら寝返りを打った。イリアの乗る船が目の前で沈んでから、一度もゆっくりと眠れていない。そのせいで疲労は溜まり、苛立ちは募る一方だ。
 海に縁深い能力者である彼女が死んだとは思っていない。
 それでも、行方が分からないとなれば安否を気にするのが人間として正しい感覚だ。
 シャルゼは胸中でそんな言い訳をしながら深いため息を吐き出した。
 もう一度寝返りを打つ。
 少しだけまどろんだようだが、やはり今日も眠れなかった。深い疲れが澱のように溜まっている。部屋に満ちる光は既に明るさを増し、行動を起こす時間だと告げていた。
 このままひと眠りしようか、起きようか。シャルゼは外から聞こえる声に目を開けた。ずいぶん賑やかな気配がする。体は鉛のように重たいが、気力を振り絞って起き上がる。
「なにかしら……?」
 毎朝のことだが爆発した髪がうっとうしい。
 シャルゼは手櫛で宥めながら窓に向かう。
 隙間風が入ってきていた。
 いつにも増してお喋り好きな風に瞳を瞬かせる。くすくすと笑う女の声が聞こえた気がして思わず部屋を見回すが、誰もいない。外の声が風に乗って入ってきただけなのだろう。釈然としない気持ちで思う。
 それにしても、その笑い声はイリアに良く似ていた。
 小さな痛みを覚えたものの、少しだけ心が軽くなって、苦笑した。どれだけ自分があの小さな貴族の姫に心を寄せていたのか分かって呆れてしまう。最初は物珍しさから近づいたが、あまりの無鉄砲さについつい目が離せなくなった。馬鹿だと切り捨てることもできたが、今まで自分の周囲にそのような人物もいなかったため、呆れながらも楽しんでいた。まさか彼女の安否を知るため、このような異国の地にまで来てしまうとは、付き合い始めた当初からすれば驚愕ものだ。自分がここまで誰かに執着するのも珍しい。
 シャルゼは窓を開けた。通りから聞こえていた声が途端に賑やかさを増して入り込んできた。眼下は港から続く大通りだ。目に映る人の多さに顔をしかめる。
「なんの祭りかしら」
 窓際に頬杖をついて眼下の様子を眺めた。
 通りを幾人かが走り回り、何かの広告を配っている。営業だろうか。彼らは一様に同じ服を着て、同じような雰囲気を醸している。けれど営業団体にしてはどこか不自然だ。
 観察していたシャルゼはふと気付いた。
「軍関係者だわ」
 小さな呟きを洩らす。風がシャルゼの髪を揺らす。まるで、正解だと褒め称えるように。
 そんな賞賛にシャルゼは眉を寄せたが、取り立てて風を遠ざけるようなことはしなかった。ミフトの風は、ジェフリスと違ってずいぶん好奇心旺盛なのだなと、漠然と思っただけだ。
 シャルゼは意識を眼下に戻す。
 なぜこのような場所に軍人がいるのだろうか。見覚えのない制服はミフトの軍人だということを示している。しかし彼らが民間軍に所属するのか、国軍に所属するのかまでは分からない。この港は初めて下りる異国の地だ。自分では計り知れない何かがうごめいているのかもしれない。巻き込まれないようにしなければ。
 シャルゼは嘆息すると窓を閉めた。鏡台に腰掛けると、本格的に髪を梳かし始める。
 ああ、イリアの髪が羨ましい。
 爆発した髪を鏡に映し、シャルゼは苦々しい笑みを浮かべた。


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 外に出たシャルゼは息を吐いた。
 ずいぶんと肌寒い。オーカキス島やジェフリス国とはまったく違った。
 緯度は同じはずなのに、と小さく呟いて肌をさする。海を挟めば気候はこうまで違うのかと驚いてしまう。昨夜は新しい大陸に着いた喜びで知らず興奮し、気付かなかったのだろう。
 防寒具を購入しなければ風邪を引いてしまう。
 シャルゼは無駄な出費を思って眉を寄せる。髪を梳かすのに時間がかかり、広告配りの人たちは消えていた。何の広告を配っていたのか興味があっただけに、残念だ。時間が経っていたため、広告を貰った人も消えている。
 ひとまず諦めることにしてシャルゼは換金所を探した。異国の地では当然、ジェフリスの通貨は使えない。昨夜、亭主に払った金貨はティニスたちに用意してもらった物だ。だがそれとて無限にあるわけではない。防寒具代ぐらいは自分で支払うのが筋だと思った。
 果たして、換金所は直ぐに見つかった。
 中に入ると異国情緒を漂わせた空間が広がっていた。
 さほど広い店内ではない。カウンターには女性が1人腰掛け、そのカウンターを仕切りとして奥には幾人かが控えている。帳簿をつけたり他国と交信しているらしい。
 シャルゼはざっと店内を見渡したあとカウンターへ向かった。
「いらっしゃいませ」
 少しだけ、女性の言葉は聞き取りにくかった。
 シャルゼの間を理解したのか、女性は微笑みながらもう一度「いらっしゃいませ」と告げる。今度ははっきりと聞き取ることができた。
 滑舌が悪いのかしら?
 そう思ったシャルゼだが、直ぐにその考えを否定した。換金所には多くの異国人が訪れる。受付者はそんな異国人を見極め、通じる言語を投げかけている。
 不審な表情をするシャルゼに言葉が通じていないと思ったのか、カウンターの女性は少し首を傾げた。そして、それまでとはまったく違う言語を喋る。それはジェフリスやミフトといった、世界有数の大陸言語ではなく、少数民族しか使っていないような言葉だった。
 こんな所にこんな苦労があるのね、とシャルゼは気付かれないよう驚きながらカウンターの前に立った。
「ご親切にありがとう。ジェフリスの金貨を換金して下さるかしら」
 シャルゼが話したのはミフトやジェフリスで一般に使われている共通語だった。
 カウンターの女性は一瞬だけ驚くように瞳を大きくさせたが、直ぐに笑んだ。金貨袋を受け取って頭を下げる。
「ありがとうございます。この町は初めてでございますか?」
「ええ、そうね。自分の国から出るのも初めてよ」
 女性は作業の手を止めぬまま相好を崩す。
「さようでございますか。我が国にお越しいただきありがとうございます。換金には少々お時間が必要なため、そちらにてお待ち下さい」
 示された腕の先には高級そうな長椅子があった。背の高い観葉樹が横に並んでいる。水をやり終えたばかりなのか、葉はつやつやと健康的な緑色をしていた。
 シャルゼは少し考えて女性に向き直る。
「時間がかかるなら出かけてもいいかしら。観光を済ませたらもう一度寄らせて貰うわ」
「もちろんでございます」
 女性は微笑んで頷いた。カウンターの脇から取り出した何かのカードに署名する。
 渡されたシャルゼは納得した。
 カードにはミフト大陸の北王の姿絵が小さく描かれ、紋章が刻印されている。右下には支店名が印字され、その下には手書きで女性の署名がされていた。
「こちらをお持ちいただければ、この町に限りお買物をしていただくことができます。金額はカード裏に記載されますので、再びこちらにお越しいただいたときに精算となります」
「へぇ」
 シャルゼは唇に笑みを浮かべる。
「散財しないように気をつけるわ」
「ごゆっくりお楽しみ下さい」
 笑うシャルゼに女性は深々とお辞儀した。シャルゼは片手を挙げて応え、踵を返す。外に出て、海から照り返される陽射しの眩しさに瞳を細めた。
 華やぐ港町の雰囲気はカーデ領と似ており、不思議な懐かしさを覚える。
 カードを腰帯に入れてシャルゼは視線を巡らせた。換金所へ来る前に当たりをつけていた衣装店に足を向ける。他の店に比べて旅装が多い店だ。
 その店に足を踏み入れたシャルゼは、暗さに顔をしかめた。想像以上の怪しさだ。
 華やかな大通りがまるで別世界に思える。
「いらっしゃい」
 雑多な店の雰囲気にため息を零しかけたシャルゼだが、奥から聞こえてきた声に顔を向けた。店主らしき男性の声だったが、生憎と姿が見えない。豊富に溢れる衣装が邪魔だ。
「適当に見繕ってくれ」
「そうさせていただくわ」
 苦笑し、手近なところから手早く見て回る。
 その順番がカウンター近くまで及んだとき、ようやく店主の顔が確認できた。眠そうに欠伸を噛み殺している。町の者たちはほとんど利用しない店なのだろう。異国の風情を漂わす衣装が所狭しと並べられ、旅に欠かせない装備品が幾つも揃えられている。旅人にしか利用価値がなさそうな店だ。
 店主の脇には小さな火鉢が置かれ、赤々と炭が燃えていた。オーカキス島では溶けそうなほど暑かったのに、落差が激しすぎる。
 シャルゼは手頃な服を幾つか選んでカウンターに乗せた。
 店主は「まいどあり」と嬉しげに微笑むが、瞳はやはり眠そうだった。
「この査定もお願い」
 シャルゼはまとう衣装を縫いで店主に渡した。この大陸にどれぐらい滞在するか分からないが、手荷物は少ない方がいい。ジェフリスに戻ったら再び服を買えばいいだけだ。
 店主はシャルゼの意図を理解して品定めした。直ぐに値段をつけるが、シャルゼはその数値に眉を寄せた。安すぎる。
 オーカキス島の服はすべて独自の手法で作られ、あるところに持ち込めば非常に高値がつく代物だ。たとえ普段着の中古品であろうと、価値は変わらない。
 値上げを要求すると店主は肩を竦めて応じてくれた。こちらはシャルゼも納得のできる値段だ。小娘だから、と足元を見られたのか。
「なんでも流れ着く海があるという噂を聞いたことがないかしら」
 炭火に照らされ、シャルゼの左頬は赤く染まっていた。
 店主は一瞥し、値札を切り取る。
「生憎と知らねぇな。旅行者から伝説の類は良く聞くが、海については初めてだ。ああ、海に沈んだ遺跡ってのなら聞いたことがあるが」
 シャルゼは黙ったまま首を振った。
「聞いたことがないならいいのよ。あらありがとう。今すぐ着たい気分だったのよね」
 値札を取られ、シャルゼは笑んだ。肩から羽織って瞳を緩める。非常に温かい。
「それにしても寒いわね。こんなに寒いなんて思ってなかったわ。カーデ領はまだ夏だというのに。まぁ、あそこはオーカキスの影響で冬でも暖かいのだけど」
 商売を終えた店主はカウンターに肘をついてシャルゼを見た。
「あんたはジェフリス国の者なのか。あそこの海軍は世界一だというが、本当かい? 一度は行ってみたいと思ってるんだが、店をあける訳にもいかないんでね。ああ、この前ジェフリスの海軍が来ていた。立派な軍艦に乗って、お偉いさんが何人も出迎えてたよ。壮観だったねぇ」
 シャルゼはあいまいに笑って「さぁ」と首を傾げた。
「今は昔ほど軍人が必要な時代ではありませんから。平和に慣れきって、ぼけてる老人がたくさんいるのではないかしら」
 店主は変な顔をしたが、シャルゼは追及を許さなかった。脳裏に浮かんだのは、イリアを海に沈めた号令。飛び出そうとしたシャルゼを止めた、ヴェラークの怒りに満ちた顔。
 宥められていた怒りが沸々と再燃する。
 ふと、店主が思い出したように口を開いた。
「北には今、ミフトの将軍閣下がお見えになっているという話だ。観光ならそっちに行って見るのもいいだろう」
 興味を引かれてシャルゼは顔を上げた。
「将軍?」
「ああ。なんでも、逃亡者を追っているという話だ。さっき通りで近衛たちがお触れを配ってた。軍の厳しい規律に耐え切れず、逃げた奴がいたんだそうだ」
「根性のない奴ね」
 今朝見た軍人たちを思い出しながらシャルゼは冷たく告げた。店主は明るく笑う。
「逃げ出した兵士はお貴族さまだそうだ。奴らにゃ軍事訓練はきついみたいだな」
「貴族、ね」
 シャルゼはふと思いついた。
「ミフト大陸は十数年前に統一戦争を起こしたと習ったわ。今では南北に王が立っているのよね。その戦争を繰り返さないために、貴族たちに軍事訓練を行わせているのだとか」
「ああそうさ。詳しいな」
 店主は誇らしげに胸を張った。二人しかいない店内に、炭の崩れる音が響いた。
「今の将軍はほとんどが戦争経験者さ。ま、あの戦争にゃあ戦死者も色々と出たんだが……今回お見えになってる将軍閣下は英雄の方だな。貴族らが軍事訓練積むおかげで、戦争を繰り返そうなんて馬鹿な奴らは淘汰されるってことさ」
 シャルゼは肩を竦めてみせた。
「力が集中すれば戦争も起こしやすいわ」
 店主に聞こえない程度に呟く。そして笑顔を見せた。
「ありがとう。よい冬を」
「ああ。あんたにも――女神の祝福がありますように」
 店主が唱えたのは旅人に向ける、決まりきった祈りの言葉。シャルゼは素直に受け止めて店を出た。
 いくらか時間が動いている証拠に、白々としていた空は蒼穹に変わっていた。しかしいつもオーカキスやジェフリスで見ていた空の色はない。薄く溶いた、白い青が視界全体を覆っていた。
 今更ながら、ジェフリス国から遠い国に来てしまったのだと、シャルゼは不思議な感傷を覚えた。


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 噂の将軍の軌跡を辿ることにした。
 最初からイリアを捜そうとしても見つかるわけがない。寄り道をしながら地道に情報収集するのが定石だ。将軍ならば異国の情勢にも明るいのではと思い、無謀だとは思いながら謁見を願い出ることにする。
 もどかしくて苛々するが仕方ない。これも勉強のひとつだと、謙虚に受け止める。
 イリアが見つかった暁にはこの苦労を是非とも打ち明けたい。色々な方法で。
 楽しげな未来を想像して笑みを浮かべながら、シャルゼは街道を下っていた。
「あら」
 町を出て少しした頃、変化が訪れた。まるで待ち伏せしているかのように、数人の男が道端に佇んでいる。
 いい気晴らしになるかしら、と物騒な考えを巡らせたシャルゼだが、彼らが軍人だと気付いて考えを改めた。広告を配っていた者と同じ制服に身を包んでいる。
 風が笑うようにシャルゼの足元を通り抜けた。
「こんにちは」
 彼らに近づいて屈託ない笑みを向けると、男たちはシャルゼの頭から爪先までを無遠慮に眺めた。軍人が配慮に欠けるという、いい見本だ。シャルゼは不愉快に思いながらも表情には出さない。
 冷静に分析されているのを感じ、逆に観察し返す。
「次の町まで歩きか?」
 男の一人がシャルゼに笑いかけた。
「そうよ。貴方たち、さっきの街にいた人たちね。宿から見えたわ」
 そう言いながら彼らの服に目を配り、どこの部隊に所属するのか確かめようとする。だが他国の軍属を見極めることは、やはり簡単にはいかない。シャルゼの目の動きに何を思ったのか、男たちがまとう雰囲気がわずかに変わる。
「なにかの広告、配っていたようだけど――確か、指名手配だったかしら? 役人の方なのね」
「違う。だが、同じようなものだと思ってくれて構わない。貴方にもこれを」
 男は、隣に佇む男から一枚の紙を貰うとシャルゼに手渡した。
 ディラック=ライデン。
 紙には、絵師による似顔絵と名前が記載されていた。非常に簡単な手配書だ。広告の下部には『お心当りの方は最寄の屯所まで』と添えられている。
 シャルゼは笑みを零した。
「噂は広がっているわ。厳しい軍律に耐え切れず、逃亡中だという不名誉な噂」
 男は顔をしかめてみせた。
「知らないよ。私たちは上からの命令で手配書を配っているだけだ。心当りはないか?」
「残念ながら、ね。私はこの国に来たばかりですもの」
「どこの国の者だ」
「ジェフリスよ」
 笑みを湛えたまま告げると男たちの表情が微かに変化した。だがそれ以上は何も読み取らせない。男たちは直ぐに表情を消す。
「ジェフリス国よりの旅人か。歓迎しよう。貴方に女神の祝福がありますように」
「ありがとう」
 敬礼されたシャルゼは反射的に腕をあげかけたが、途中で気付いて自分の髪を撫でた。敬礼を仕返したら変に思われるだろう。内心で冷や汗をかく。
「もう一つ、教えて欲しいことがあるの。この手配を指示している指揮官のことなのだけれど……先ほどの町では将軍と伺いましたが、どのような将軍なのかしら?」
 単純に旅の話の種として。シャルゼは軽く問いかける。
「ヴァレン大将か?」
 案の定、男は深く考えぬまま答えをくれた。もっとも、名前を教えてもシャルゼのような娘が将軍に害を与えるようなことはできないと思っているからだろう。しかしシャルゼには名前の情報だけで充分だった。名前さえ判明すれば大抵の情報は分かる。
 貴族の後ろ盾もない一般市民が海軍学校の試験を通るには、並大抵の努力では追いつかない。領立図書館に通い詰めたシャルゼは他国の歴史事情にも精通していた。
 シャルゼはにっこりと微笑んだ。
「機会があったら拝顔できるといいわね」
「どうかな。あまり表立って何かするのはお好きな方ではないから……」
 ぽつりと零された言葉にシャルゼは瞳を瞬かせる。男は気付かず、話を終えた。
「では、なにかその男について情報があったら教えてくれ」
「考えておくわ」
 シャルゼは微笑みながら手配書を荷物入れにしまう。片手を軽く挙げ、挨拶をして見送られた。男たちの視線は、シャルゼが数歩進んだところで別の方へ向けられる。
 シャルゼは振り返っても男たちの姿が見えなくなる位置まで進み、足を止めた。意識を集中させて風を操る。
「表立つのが嫌いな将軍。今回はなぜこんな目立つ真似をして脱走兵を捜しているのか、理解に苦しむわね」
 ミフト大陸の風は、ジェフリスで操るよりも反応が良い。直ぐに反応してくれるのは助かるが、少し手応えがありすぎて力加減が上手くいかない。
 一瞬、暴風とも呼べる風に髪を嬲られて顔をしかめた。気を緩めると竜巻に発達しそうだ。先ほど別れた軍人たちが近くにいるのに、余計な騒動の種は蒔きたくない。
 少しだけ苛立ちを抱えて風を宥める。意外にも風は素直に従ってくれ、シャルゼは胸を撫で下ろした。能力の訓練は毎日行っているが、これほど上手くいったのは初めてだ。ミフト大陸とは能力の相性が良いのだろうか。
 シャルゼはそのまま街道の脇に歩き、休憩するふりをして木の根に腰掛けた。命じられた風が、遠く離れた男たちの声を拾ってくる。冬ということもあってか旅人の姿は見かけない。輸出するであろう荷を積んだ大きな馬車がときおり通り過ぎるのみだ。
 しばらくシャルゼは男たちの話を盗聴していたが、頃合を見計らって立ち上がった。男たちの会話は仕事話ばかりとは言い難い。さすがにプライベートな話ともなれば気が引ける。
 夕暮れまでに次の町へ行きたい、と立ち去りかけたシャルゼは、心惹かれる名前を聞いた気がして立ち止まった。散りかけた風をもう一度集める。声は正確にシャルゼまで届いた。
「ヴィダ=カーデの結婚式……」
 イリアに、異国に嫁ぐ姉がいることは知っていた。名前はヴィダ。軍人の話に昇るほどなのだから、彼女はそれ相応の人物のもとへ嫁ぐのだろう、と予想される。雲の上の人物だ。
 あのイリアの姉なのだから、さぞや奔放で闊達な気性をしているのだろうと思うと笑みが零れた。会ってみたいと思う。
「こんなときに行方不明になるなんて災難よ、あなた」
 シャルゼは唇を歪めて呟きを零す。口調こそ皮肉っているが、その瞳には紛れもない痛みが宿っていた。
 やがてシャルゼは男たちと繋がる風を完全に霧散させ、歩き出した。

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