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第四話

【二】

 ガヴィルートは午前の執務を終えてリライゼの庭に来ていた。せせらぎの音は人工的なものだが美しく思えて耳を傾ける。季節を無視した花々に瞳を緩める。
 ここ数日、やるべきことが山ほどあって、こんな風に外の世界に心を開く時間がなかった。窮屈さが解放されていく。短い休憩時間は充足したものとなる。
 少し遠くには近衛が控えていたが、ガヴィルートは1人の時間に満足した。
 ジェフリス国の初代国王をリライゼという。彼は民衆を指揮して武器を揮い、争いが絶えなかったこの島をひとつにまとめあげた。彼もまたどこかからの移民だったという記録がある。だが人々の心を掌握した彼は仲間として受け入れられ、民衆は彼を支持して国を建てた。その国家はこうして百年以上続いている。
 ガヴィルートは懐から群青色の小箱を取り出した。手触りの良い絹製だ。静かにそれを開けると、磨かれた六分儀が見えた。天体の高度や水平方向の角度を測るための道具で、海軍学校の卒業記念に付与されたものだ。王になってからは使う機会に恵まれないため、たまにこうして眺めて楽しむだけ。これを贈られたときは学友たちと大喜びした、と思い出す。
 すべらかな表面を撫でて取り出す。手にしっくりと馴染む。望遠鏡や歯車を眺め、手元の照明が点くか確認する。もちろんどこにも不備はない。ほとんど使っていないからだろうか。使うために貰ったというのに、皮肉なものだ。
「およしなさい、誤解を招く行動は」
 横から聞こえた声に目を向けるとエーデルバンドがいた。呆れた眼差しでこちらを眺めている。いつからいたのだろう。いや、今来たところか。ゆっくり行動観察するほど暇な人物ではない。
「うるせぇ。人の趣味にケチつけるな」
 エーデルバンドはやれやれ、と言うようにかぶりを振る。ガヴィルートは六分儀を丁寧に箱に戻した。懐に入れ、隣に座った彼を見る。いい匂いが鼻をくすぐった。彼が持つ籠には焼き菓子が入っていた。遠慮なく頬張る。
「ミフトの北王から親書が届いておりました」
「――なぜお前が先に見てるんだ」
「失敬な。開封しておりません」
 憤慨したように語気を強めて白い封筒が差し出された。焼き菓子で汚れた手を裾で拭い、ガヴィルートは封筒を受け取る。エーデルバンドが顔をしかめたのが視界の端に見えた。行儀の悪い、とぶつぶつ呟くのを聞き流しながら封筒を裏返す。
 浅葱色の封蝋はもちろん破かれていなかった。
「正式な外交文書ではありませんでしたので私が受け取ったのです」
 封を破くと北王の紋章が描かれた便箋が現れた。王の直筆だ。力強い文字に溢れている。文字を目で追いながらエーデルバンドが持ってきた焼き菓子をつまむ。
「――相変わらず美味しい。うちの料理長に、焼き方を伝授してくれないか」
 エーデルバンドは横目でガヴィルートを見た。
「この前お伝えしたではありませんか」
「しかし、この焼き菓子のような絶妙さ加減は出せんのだ」
 エーデルバンドの妻は昔、王室の厨房を取り仕切っていた。今でも王室とは何かしらの繋がりがあり、たまに招かれたりすると後任の料理長をうならせる差し入れをする。それが良いか悪いかは別として、ガヴィルートには毎回好評だ。
 ふぅむ、とうなって、エーデルバンドは顎髭を撫でた。
「ならば愛情の差でしょうかな」
 堂々と言ってのけるエーデルバンドに、ガヴィルートは視線を便箋から外さないまま「はっ」と小さく笑って口を閉ざした。皺に隠れそうなほど小さな瞳がガヴィルートを見据える。視線の先で、ガヴィルートは不機嫌そうだ。
「先ほど、散策中のカジェンダ殿をお見かけしました」
「ああ。俺もここに来る前に会った」
「本当に素直な御子で、感心いたしました」
 ガヴィルートは何も答えない。
「王家は安泰でございますな」
「最近、カジェンダは早起きをしている」
「ほう」
 風が吹いて、花の香りが焼き菓子の匂いを少し消す。
「空の色が違うんだそうだ」
「空の色ですか」
 エーデルバンドは空を仰いだ。黒い鳥が空高いところを飛んでいくのが見える。太陽の光が少し眩しい。雲がかかり、絵具の白を薄く溶かしたような色になっていた。
「観測士にでもなるつもりかと笑ってやったら、えくぼを見せて笑いやがった」
「ほんに可愛らしい御子で」
「俺が傍についててやれればいいんだろうが、難しいだろうな」
 さて、とエーデルバンドは首を傾げる。まだ世の毒に当たらず、丁寧に絹の服で守られているような王子だ。父親に甘え、母親に甘え、何にでも興味を示す。目下の興味は海だろうか。海洋冒険小説を読み漁っていると、教育係から報告が上がっている。
 ガヴィルートは便箋を封筒に戻して懐に入れた。両手を後ろについて首を反らす。先ほどエーデルバンドがしたように鳥の姿を目で追った。
「対話はお済みですかな?」
 カジェンダのことではない。瞬間だけ声を詰まらせた。
「これからだ」
「さようでございますか」
 エーデルバンドが立ち上がる。終了の合図だ。
「タイミングを計りすぎていると手遅れになりましょう。ジェフリスの女神は頑固者でございます」
 ガヴィルートは睨みつける。
「くたばれ」
「陛下のご威光を信じておりますよ」
 謎掛けのような言葉の数々に唇を引き結んだ。色とりどりに咲く花を見つめる。水をやると光の加減で虹色に輝くのだと思い出した。横を向くとエーデルバンドはもう遠くへ行っている。あいつめ、菓子を持って行きやがった、と籠がないことに気付いて毒づいた。
 数秒だけ瞑想し、立ち上がる。
 リライゼが愛した庭を一望する。
 統一戦争が終わったあと、この庭は民たちによって造られた。もともと統一戦争が終わった直後の島には城などなかったそうだが、民たちの要望のもと設計されて建設に至ったのだそうだ。その後、当初からリライゼが好きだった草花を一ヶ所にまとめ、皆で育て、そこを王庭としてリライゼに愛でさせた。彼はさぞ信望の厚い王だったのだろうと思わせる逸話だ。
 初代国王リライゼの隣には女神がいた。彼女は様々な奇跡を起こし、リライゼを勝利に導いたとされる。統一戦争が終わっても女神はジェフリス国に留まった。リライゼが亡くなっても。王が何世代変わろうとも。変わらぬ愛情と勇猛さを伝え続けた。
「あいつに会わせんじゃなかったな」
 本気ではない呟きだ。
 数世代前から女神が人前に現れることはなくなった。生身の姿が人々の記憶から薄れていき、やがて伝承となっていくことを望んだ。王族だけに開かれた王宮深くの扉の奥で暮らし、女神自身の力は衰退していった。存在を知る者は、王と、王に近しい者たちだけ。静かに朽ちていくことを彼女は望んだ。そしてそれは、叶った。ガヴィルートの世代で、ついに女神はその力を消失させた。望みを叶えた彼女の嬉しげな笑みは、今でも脳裏に焼きついている。瞼を閉じれば浮かび上がる。
 ガヴィルートは背後から近づいてくる気配に気付いて振り返った。
「お寛ぎの途中、失礼いたします」
 歳若い男が近づいてきていた。彼は慌てて敬礼する。近衛は遠巻きに護衛しているだけで、男の侵入を拒んだ様子はない。伝令役の者だろう、と制服から判断する。
 男はガヴィルートから少し離れた位置に止まる。
「離れの準備が整いました。どうぞ、ご移動願います」
「ああ。ありがとう」
 ガヴィルートは微笑んだ。意識して、言葉を一言ずつ紡ぐ。
「……その前に……やはり、直接会いたいな」
 伝令役の男は瞳を瞬かせた。何を言われたのか分からないようだ。
「対話者を自分の目で選びたい」
「あの」
 一言一言が彼の胸に染みていく様が分かる。ガヴィルートは更に強く力を込める。
「私のわがままではあるが」
 男の目を見つめた。
「駄目とは言えないよな」
「と、当然でございますが」
「それでは、このまま案内してくれないか」
「は」
「世界最強を誇る海軍の総督として、彼を直に見てみたい。大丈夫だよ。彼らが私を害することはできないのだから」
 力を込めて紡がれる言葉に、男はわずかな抵抗を見せつつも抗いきれない。ぎこちなく了承して踵を返す。ガヴィルートを先導してリライゼの庭から出た。
「ご苦労」
 庭の入口で護衛を務める男に声をかけて脇をすり抜ける。彼は言葉もなく敬礼するとガヴィルートの後に続いた。その気配を感じた後、意識を前に向ける。眼差しに力を込めて先導者の背中を見つめた。


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 捕らわれてから何日ぐらい経ったのだろう、とイサミアは思った。
 自由を奪われた。
 ただ眠っては起きて尋問を受ける日々。
 精神が次第に濁っていく。
 海軍が知りたい情報とはつまりダルスが現在どこにいるかといった部分だが、それを知りたいのはこちらの方だ、と思う。
 彼が海に沈むなど考えられない。ならば必ずどこかで生きている。潜伏先は幾つか思い当たるが、教えてやるような親切心はない。
 また、本拠がどこかと聞かれたが、皆は示し合わせたように口を割らなかった。島では家族や友人が帰りを待っている。十数年前のように蹂躙されてはたまらない。
 部屋は分厚い石材で造られており、イサミアのか細い手でいくら叩こうと壊れる兆しもない頑丈なものだった。むき出しの石は冷たさを含み、部屋全体の温度を下げている。常夏の島にいたイサミアには慣れない環境だ。
 青い海が懐かしかった。
 王都の地下に掘られた牢獄はとても広い。イサミアたちだけではなく、他の罪人たちも一緒に入れられている。
「外はどうなっているのかしら……」
 独り言が多くなっているのを自覚しながら零した。横目でちらりと同居人を窺う。どれほど待っても反応はない。相変わらずだ。イサミアはため息をついた。
 イサミアと共に捕らえられているのはリディオールだ。女性牢には何枚かの毛布も共に入れられている。
 女性牢が二人だけなのに対し、男性牢は人で溢れているようだ。二つは向かい合わせに設置されているため、イサミアからはファートンやレナードの様子が良く分かった。
 イサミアは意を決してリディオールに向き直った。
「あなたは気にならないの? ここに入ってからずっと辛気臭い顔ばっかり。このままでは殺されてしまうのよ? ジェフリス国では、海賊は打ち首にされて、海に捨てられるんですって。もしくは高い塔から吊るされて、鳥のエサになったりとか。そんなことされるっていう話よ」
 ほとんどが島の大人たちから聞いた話だ。うろ覚えながらも、聞いたときは恐怖で泣いたことを思い出す。
 リディオールは興味なさそうにイサミアを一瞥し、再び視線を逸らした。正面の石壁を見つめる。彼女は尋問がないときは一日中そうしている。良く飽きないものだ。
 イサミアは今日もまた何の手応えも得られなかったことに落胆した。鉄格子の反対側、男性牢を見る。ファートンが退屈そうに欠伸をして監視兵の呆れを誘っている。
 ファートンはいつも鉄格子の近くにいる。最初のうちは警戒ばかりしていたが、こう何日も放っておかれると気も緩むらしい。今では監視兵の多少の脅しにも平然としている術を身につけたようだ。そんな彼の存在が心強い。
 牢屋の奥ではレナードが歓声を上げていた。鼻歌を歌いながら、牢友達となった見知らぬ罪人と盤でゲームに興じている。勝負の行方を見守り、彼らの周囲には出身も関係ない野次馬ができていた。緊張感の欠片もない光景だ。ふてぶてしさは誰にも負けない。罪人たちと一緒にされても島の住人たちは一種異様な存在感を放っていた。
 因みにレナードたちが遊ぶ盤は牢の備品だ。島にはないそのゲームに、やることもない男たちは直ぐにルールを覚えて遊び始めた。女性牢にはそんなゲームの備品などないため、少しだけ羨ましく思う。
 今日は何を考えて過ごそうかと思ったときだ。
 石造りの牢に、扉の開く音が反響する。
 少し遠くから聞こえてきた音に、イサミアは素早く反応した。視界の端にある地上への階段から、いつもの牢屋番が下りてくるのを見つける。
 イサミアは鉄格子から手を離して少し下がった。
 いつもの牢屋番の後ろに誰かが伴われているのを見て、瞳を瞬かせる。新しい仲間だろうかと思ったが、鎖がかけられていないことに気付く。兵士側の人間なのだろう。
 顎を引いて到着を待っていると、ファートンやレナードもゲームをやめて、気付いたようにその男を見た。
 鉄格子の前にいた監視兵が敬礼する。
「誰……?」
 イサミアが呟くと、高貴そうな服に身を包んだ男の視線が向けられた。好意的な笑みを浮かべられ、イサミアは面食らう。薄暗い地下牢だが、彼の端整な顔立ちや振る舞いは極上のもので、少しも魅力は損なわれていない。
「無礼者! 貴様などがお声がけできる方ではない!」
 男の近くに従っていた若い青年が怒鳴り声を上げた。
 ならず者たちばかりがいるこの場所で何を言うのかとイサミアは辟易する。この牢屋に入れられてから――否、入れられる前から、このような扱いには慣れてきた。
 冷めた目で男を見ると、男は気に入らなかったのか監視兵が持つ槍を奪った。鉄格子の間から、槍の柄でイサミアを打とうとする。
「イサミア!」
 ファートンが叫ぶと同時に、成り行きを見守っていた男が動いた。
「良い。このような子どもに乱暴するのは忍びない」
「はっ」
 頭に血を昇らせた男は我に返ったように恐縮した。頭を下げて鉄格子の前から離れる。槍を監視兵に戻したが、瞳は忌々しそうにイサミアを睨みつけた。
 牢屋内に走った剣呑な空気は流れたが、緊張感は続いていた。現れた男に、誰もが半信半疑の眼差しを向ける。
「陛下。本日はどのようなご用件でございますか?」
「ダルス一味と話がしたい」
 牢屋内――兵士たちがざわめいた。恐らく珍しいことなのだろう。鍵を預かる監視兵が戸惑うように眉を寄せる。
「今の私は国王としてより、総督の立場としてここにいる」
 命令に慣れた男の声には迷いがない。監視兵とやり取りを交わし、イサミアたちがダルスに関係のある者だと聞くと、男はイサミアとファートンを指名した。殺意を向けられても、彼はどこか楽しそうだった。
 彼のおかげで難を逃れたイサミアは呆気に取られていたが、レナードたちが険しい表情をしていることに気付いて、表情を改めた。島の大人たちにとってジェフリス国王は憎悪の象徴だ。国王が海賊たちを淘汰していたら島は平和だった――原因をすべてガヴィルート総督に結び付けている。島の襲撃はいまだ大人たちの記憶に生々しく焼きついている。彼らの憎しみが褪せることはない。
「待て」
 ガヴィルートが踵を返したとき、呼び止める声があった。
 イサミアは振り返る。
 これまで淡々と処罰を待っていたリディオールが立ちはだかり、鉄格子に近づいていた。監視兵が諌めようとしたが、気付いたガヴィルートはまたも手で制し、リディオールを促した。
「私は、お前たちが“赤い海賊”と呼ぶところの頭領だ」
「ほう」
 ガヴィルートの声音が険を含んだ。瞳は興味深そうにリディオールを見る。書類での報告は済んでいても、実物を見るとまた違うのだろう。
「これまでの苛烈さはなりを潜めていたと思ったが、お前たちの罪は消えない。頭領を名乗るのならば覚悟はあるのだろうな。お前の仲間たちはほとんど捕まっていないんだ。たとえ騙りだとしても打ち首にされるぞ」
「海賊に生まれたときから覚悟はしている。愚鈍なお前と一緒にするな。高潔さが穢れるわ」
「不敬な!」
 ガヴィルートのそばに控えていた男がいきり立って自分の剣を手にした。
「逸るな。ここでの殺生沙汰は良くない」
「もとから殺されるべき者たちです! 裁判にかけた後も今も、結果は同じです!」
「お前に全権を預けた覚えはないよ」
 ガヴィルートはあくまで冷静な態度を崩さない。
 勢いを削がれ、男は唇を噛んだ。年齢はかなり若い。今の行動を見ても、血気盛んな若者の代名詞が良く似合う。男は渋々ながら剣を戻す。
「私1人を殺すにも裁判か。その裁判を起こすためにも尋問が必要。その尋問には何日もかかる。ハッ。呆れた道化師だ」
「私1人で動かしているわけではないからな。国とはそういうものだ」
「単にお前が役者不足なだけなんだろう。皆の顔色を窺っているだけではないか」
 傍らの青年が再び激昂しかけたが、二の轍を踏むまいと思ったのか、堪えた。代わりに握った拳は白く色を失くして震えている。
 ガヴィルートはそんな彼の様子に苦笑してリディオールに視線を戻した。
「国王ってのは損な役割でね。みんなの意見を上手くバランスを取りながらまとめなきゃいけないんだ。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず。おまけに今は外国の目も集中している。人が集まれば集まるほど、自分の意見を通すのは難しいものなのさ。海賊船に乗っていたお嬢さんなら分かると思うがね」
 リディオールは歯噛みした。どんなに挑発しても乗ってこない。女、子どもだと思って馬鹿にされているのが良く分かる。この鉄格子がなければ今直ぐにでも飛びかかるのに、と悔しく思う。
 そんな様子のリディオールを見ていたガヴィルートの眼差しが不意に変わった。
「……報告では子どもがいるとか?」
 瞳が痛々しそうにリディオールを捉える。
 リディオールは毅然としたまま彼を見据えた。
「この子が生まれれば、次の頭領だ」
 イサミアは思わずリディオールを見た。これまで体を労わらなかった彼女の言葉に違和感を覚える。リディオールはガヴィルートを睨みつけながら腹に手を当てていたが、その手は決して母親の手ではない。まるで単なる道具を見せつけているかのようだとイサミアは思う。
 挑みかける視線にガヴィルートは嘆息した。
「禍根を残すわけにはいかないな。滅びるときは諸共だ」
「陛下。もうよろしいでしょう」
「ああ。行こう」
 廊下に出ていた別の兵士が迎えに来た。それを区切りとしてガヴィルートは頷く。歩き出す直前に、もう一度だけリディオールを見て嘆息した。後に続く言葉はない。彼はそのまま急ぎ足で牢屋を出て行った。
 リディオールは忌々しくその背中を見送るが、諦めたように瞳を閉じるとまた元の位置に腰を下ろした。彼女の目にはもう他のことは映らないようだ。イサミアは複雑な気分で見やる。彼女の体は華奢でイサミアよりも骨が細い気がした。そのような体だというのに気の強さは誰にも劣らず向かって行くのだ。壊れてしまう。
 イサミアが声をかけためらっていると、錠の外れる音がする。振り返ると鉄格子の扉が開かれていた。
「陛下に剣を向ければその場で切伏せられるからな」
 そう前置きされてイサミアは外に出される。見れば、向かいの牢からファートンも出されていた。イサミアと目が合うと肩を竦めて笑われる。
 二人は後ろ手に縄で縛られ、並んで歩かされた。イサミアが振り返るとレナードが険しい眼差しで見送っていることに気付いた。しかしイサミアと目が合うと、やはりファートンと同じように笑って肩を竦められた。あまつさえ笑顔で手を振る。軽い挨拶だ。
「さすがに二人じゃ暴れられないな」
「あったりまえよ。私たちだけ逃げれても、レナードたちが殺されちゃったら意味ないわ。これまでお兄ちゃんを待ってた甲斐がなくなるじゃない」
 前後を衛兵に挟まれながら囁きを交わす。
 短い階段をのぼると直ぐ外へ出た。陽の光があまり差し込まない廊下には、頑丈そうな鎧をまとう兵士が複数いた。兜の隙間から目だけを出してイサミアたちを観察する。
 イサミアもまた観察し返した。地下牢に入れられるとき、目隠しをされて数名に分け、通された。今は後ろ手に縛られているだけで目隠しはない。薄暗い場所だが、初めて見る王宮の様子に興奮は隠し切れない。
 緑溢れ、水の匂いも濃厚だ。島と同じ気配を感じるが、島にはない静寂さが漂っていた。
 庭には人工の川が流れている。
 イサミアが目を凝らすと魚が見えた。
 高い塀に囲まれた箱庭。造られた庭は神秘的でイサミアを落ち着かなくさせる。どうやらファートンも同じようで、手を握ったり開いたり、視線も落ち着かない。不意に目が合うとどちらからともなく笑みを浮かべてしまう。これから敵に会いに行くのに、ずいぶん余裕だなと感じる。
 牢屋から結構な距離を歩いた頃。先導を務めていた兵が足を止めた。イサミアが兵の脇から覗くと大きな泉が見えた。王宮から延びた細い橋が繋がれ、泉の中心には質素な宮が建てられている。
 宮の入口には別の兵士がいて警備をしていた。
 後ろから槍でつつかれたイサミアは眉を寄せる。
 前を歩いていた兵士が脇に避け、道を開いた。この橋は自分たちで渡れということなのだろう。
「嫌な感じ」
 イサミアは振り返って舌を出してみた。兵士たちの表情は動かない。
「城の中にこんな泉を造って、無駄じゃないのか。王族ってやつは……」
 ファートンもため息まじりに不満を洩らす。橋の上から覗くと泉はとても澄んでいて、小さな魚が泳いでいた。先ほどまでの廊下に沿って川が流れていたから、この魚たちは自由にどこへでも行けるのだろう。
 橋を渡りきると控えていた兵士が二人を値踏みした。武器など持っていないことは分かりきっているだろうに、もう一度身体チェックをする。イサミアは蹴り飛ばそうとしたが、気付いて避けられた。
「よし。中へ入れ」
 反対側に控えていた兵士が扉を開ける。そこには紗幕が張られ、部屋を隠していた。許されたイサミアたちは静かに踏み入る。扉は直ぐに閉められ、外からの光が遮断される。部屋の中は不思議な白さに満ちていた。蝋燭の炎が揺らめいて影を作り出す。
「陛下。御前にお連れしました」
「ご苦労」
 兵士は敬礼すると、軽く頭を下げてから踵を返した。扉の前に立つ。
 彼の姿を横目で追っていたイサミアは、前方にかかっていた紗幕が取り払われたことに気付いて視線を戻した。払われた向こう側には先ほど会った、ガヴィルート王が鎮座していた。頭には、先ほどはなかった王冠が乗せられている。
 イサミアと王を隔てるものはない。矢を放てば届くだろう。もっとも、距離が離れているため王の側に控えている青年が矢を叩き落し、害することは叶わないだろうが。
「敬愛すべき女神の末裔たちよ。再びこうしてまみえることができて、我は嬉しく思う」
 朗々とした声にイサミアは眉を寄せる。尋問だと思っていたが、雰囲気が違う。
 ファートンも同じことを思ったようだ。戸惑いが伝わってくる。二人とも態度をはかりかね、黙したまま待った。
「長年お前たちを捜していた。このような再会となり、至極残念だ。我らの掟に従い、お前たちを処罰しなければならない」
「残念? お前たちは、俺たちを殺すために捜していたんだろう。海賊となり、財産を奪っていた俺たちが憎いんだろう」
「大儀はもちろんそうだ。しかしそれよりももっと前から、お前たちを捜していたんだよ」
 ガヴィルートは王冠を外してかぶりを振った。整えられた髪が解け、柔らかく舞う。額を覆う前髪の間から、瞳がイサミアたちを見つめた。どこか既視感を覚える緑色の瞳だ。冠を外した彼はまるで自分の子どもに向けるかのように、優しい笑みを湛えてイサミアたちを見つめた。
「大人たちは駄目だ。警戒心ばかりが先に立って、我の言葉を考えようとしない。その点、お前たちは惨劇を直接その身で体験したわけではないから、冷静に考えることができるだろう。だから呼んだのだ」
「貴方と話すことなど何もないわ」
「そうかね」
 ガヴィルートは楽しげに瞳を細めた。
「貴方は記憶を失くしたとき、カーデの保護を受けたそうじゃないか。少年は逆に、逸った民によって乱暴を受けたと聞いている。王の元まで正式な報告は上がらないが、知っているんだよ」
 イサミアたちは怪訝に眉を寄せた。彼の意図するところが分からない。
 ガヴィルートはしばらく笑顔で二人を眺めた。そして次に、自分の側に控える青年へと目配せする。彼は嫌そうな顔をして視線を巡らせた。何かを迷っているようだ。その様子に、ガヴィルートが少しだけ険しく口を開く。
「約束だろう。この者たちには聞く意志がある」
「まだ……充分な時間とは思えません」
「これまでの者たちと比べて我が判断してるんだ。充分な時間だ」
 青年は剣の柄尻に置いていた手を離し、渋々ながら足を踏み出した。
 近づいてくる彼にイサミアたちは当然警戒したが、彼は何もせずに通り過ぎた。扉の前で振り返り、敬礼すると、兵士を連れて退室した。
「貴方たち二人に私を害する意志がないと確認すれば、彼は部屋を出て行く。そういう約束だった」
 ガヴィルートの声にイサミアは振り返った。これまでの短い時間で、なぜそう判断されたのか分からない。また、護衛を積極的に離そうとする彼の思惑も分からない。これは罠だろうかと身を固くした。
「私が貴方たちに害されるようなことがあれば、カーデの者たちを処罰させる、と言ったら大人しくなるか?」
 イサミアの脳裏にイリアたちの姿が過ぎった。
「人質にするとでも言うつもりか」
「私は王だ。倒れるわけにはいかない」
「卑怯者」
 笑うガヴィルートを睨みつければ、彼は殊更おかしそうに声を上げた。
「ずいぶんと愛されたものだ。貴方たちはカーデを庇うのだな」
 揶揄られてイサミアは口を噤んだが、ガヴィルートの目には追求する意思などないようだった。素直なイサミアに笑みを見せる。
「海賊に情けをかけられては軍部も良い顔をしないだろう」
 ガヴィルートは立ち上がってイサミアたちに近づいた。
「貴方たちに問おう。なぜ海賊などしている?」
 イサミアたちから三歩ほど離れた場所に止まり、ガヴィルートは笑みを消して問いかけた。
 彼にそうして見つめられると心が騒ぎ、イサミアは考えることを放棄してただ見上げた。頭の奥から何かが引き出されるような不快な感覚。これまで経験してきた様々なことが走馬灯のように流れた。ガヴィルートを見ているのにどこか別の遠くを見ているようだ。自分が罪人としてこの場に立っていることも忘れてしまう。
「……島には、まだ、実りが少なかった。お前たち外の人間が、奪って行ったから」
 島の大人たちから何度も繰り返し聞かされた話。ガヴィルートが最初に言った通り、惨劇に遭ったとき赤ん坊だったイサミアにはその記憶がなかった。ファートンは幼かったため、島の大人たちほど鮮明に覚えているわけではなかった。それでも、憎しみは二人の心の奥深くに刻み込まれている。陽気な島民たちがときおり見せる怒りの炎は、子どもたちに飛び火した。
 ガヴィルートは哀しげに瞳を伏せる。
「そうか」
 イサミアはスッと我に返り、ガヴィルートを見上げた。どうしようもない罪悪感が湧いてきて居た堪れなくなる。後ろ手に縛られた腕を揺する。
 しばらくの沈黙が落ち、ガヴィルートは窓から外を見た。
「ダルスは死んだよ」
 その言葉は何よりも強く二人の心に響いた。低くゆっくりと紡がれた声は無視できない。二人の心を蝕んだ。
「そんなわけないだろう!」
 声を失ったイサミアとは逆に、ファートンは身を乗り出した。
 窓近くの壁に光の影が揺らいでいた。宮を囲む泉の反射光だ。流れる川のせせらぎが聞こえてくる。一定の速度で、永遠に変わらない音を紡ぐ。
 ガヴィルートは静かにファートンを振り返った。彼の瞳は静かで、その中には憐憫さえ含まれていて、否応なく彼の言葉が真実なのだとイサミアは信じ込んだ。しかしファートンが大声で遮る。
「イサミア聞くなよ! 動揺させるための嘘なんだから!」
「嘘……?」
 イサミアの心は揺れる。
「ダルスがどれだけ強いか知ってるだろう。嘘に決まってるさ。今までと同じように、全員を助けてくれる!」
 その言葉にイサミアは引きずられる。ガヴィルートの言葉の呪縛を断ち切って目を瞑る。何度もファートンに頷く。ダルスが死ぬはずがない。彼は生きている。助けに来てくれる。イサミアは自分の手を握り締めて、何度も繰り返す。
 ガヴィルートが囁くように笑う。
「そうやって、彼に頼りきって来たんだね」
 静かだが、何かを含む声だ。
「彼は今、風の力を失っている。復讐を遂げてしまったからね。お前たちの強い恨みの風が彼に力を与えていたんだよ。それが果たされた今、力を失うのは自然の摂理だ」
 思ってもみなかった言葉に、今度はファートンが揺れた。
「ダルスの力が……?」
 しかし今度はイサミアが表情を険しくさせる。眦を吊り上げて叫ぶ。
「貴方、やっぱり私たちを混乱させるのが目的なのね! 先ほどダルスは死んだと言ったのに、やっぱり生きてるんじゃないの!」
「イサミア」
 ファートンは我に返ったようにイサミアを見る。彼女の言葉を反芻し、ガヴィルートを睨みつける。彼の言葉は信用に足りなくなった。
 ガヴィルートはゆっくり息を吐いて笑う。
「お前たちがダルスを頭領だと掲げていたのは、彼に風の能力があったからだろう。その力が失われた今、彼はお前たちにとって、死んだも同然の者だ。力を失った彼が何をできる。武器だけを手にしての戦闘では、却って足手まといではないか。邪魔だよ。お前たちをここから連れ出せる、まるで魔法使いのような芸当はもうできない。彼は死んだんだよ」
 言葉を詰まらせた二人に畳み掛ける。
「諦めたんだよ、彼は。争い続けることに疲れたんだ。もう何年も、何十人もの復讐を支え続けてきたんだ。無理もない。負の力は誘惑が強いからね。そろそろ支障をきたす頃だと思っていた」
 イサミアは目の前が真っ赤に染まるような怒りを覚えた。
「貴方にお兄ちゃんの何が分かるのよ!」
 その強い怒気は宮内に漂っていた不思議な空気を吹き飛ばし、ガヴィルートまでの道を繋いだ。イサミアとファートンは同時に考えた。今ならば彼が携帯している剣を奪い、殺して逃げることができる。二人は視線を一瞬だけ交錯させて互いの考えを読み取った。同時に床を蹴って縄抜けをし、同時に手を伸ばす。
 二人の手が剣に届くことはなかった。
 ガヴィルートが口を開く。その次の瞬間、イサミアたちは奇妙な感覚に襲われた。目の前が蜃気楼のように歪み、立っていられなくなる。膝をつくと隣からも苦しげな声が聞こえ、ファートンも同じ目に遭っていると知る。
 何が起きたのか分からない。ガヴィルートはその場を動いていない。
 二人は床に両手を着いた。
 急激な状態変化に耐えていると、視界にガヴィルートの足が見えた。
「1人でも害されない自信があったのはこういう訳だよ。敵意を示せば意識を奪う。あまり知られていない能力だけどね。ジェフリス国には女神がいたんだ。彼女の意思は多くの人々に受け継がれてる」
 次第に耳も聞こえなくなってきた。霞む視界でイサミアはガヴィルートを見上げる。視界が暗くなっていく。ファートンと同時に床に倒れる。ガヴィルートを憎めば憎むほど、意識が遠のいていく。
「お前たちの血には」
 暗闇に染まる視界の中で聞いたその言葉を最後に、何も分からなくなった。

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