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第四話

【三】

 イリアはアイスス海で帰国船の中にいた。
 出港してからもう一週間。通常航路ならジェフリスに着いてもおかしくない日数だが、今回は迂回して進んでいたため、もう少し時間がかかる。
 ジェフリスの近海に、雷を伴った大きな嵐があるというのだ。
 行き逢った巡視船から警告された船長は直ぐに転進させた。客船では転覆する恐れがある。しかし、アイスス海に嵐が発生することは稀なため、甲板で涼んでいた人々は納得していなかった。
 イリアは潮風に揺れる髪を押さえながら船尾を見た。
 数時間前に転進した船。すなわちそれは、ジェフリスから遠ざかることを意味している。目的地を目の前にしての転進に、イリア自身も歯がゆい思いをしていた。それでも文句を言わないのは、自身が航海術を身につけているからだ。
 低気圧の予兆があった。あのまま進めば降られていただろう。その先には船長から説明された通り、嵐が待っていたはずだ。けれど、海に詳しくない一般人には分からない。
 空を見上げて思考にふけっていたイリアは、にわかに騒がしくなったことに気付いて視線を下げた。いつの間にかヴェラークが出てきて、人々に囲まれていた。漏れ聞こえてくる声によれば、無事に国に戻れる保障が欲しいようだ。ヴェラークの後に続いて船長も出てきたが、人々はその視線をヴェラークに向けていた。
 説明するヴェラークを見ながらイリアは嘆息する。
 こんなにも必要とされているのに、なぜ退陣を選ぶのか。そもそも彼は要領が悪いのだ。オーカキス島にイリアがいなければ。ダルスが島に来なければ。
 要素がひとつでも欠けていれば、これほど深刻な事態にはならなかったように思う。今回はよほど運が悪かったのだろう。
 ヴェラークの説明は専門用語ばかりで一般人には優しくなかった。それでも彼らの表情は安堵に変わる。
 イリアは立ち上がって船内に戻った。
 貴族たちの遊覧船として使われているこの船は、全室が個室だった。扉を閉めると隣の音も聞こえない。誰かが廊下を歩く音が聞こえるだけだ。
 柔らかなひざ掛けを取り上げ、椅子に座って肘杖をついた。


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 迂回航路でオーカキス島に近づいたとき、荒い波に転覆しかけ、船内は再び動揺した。嵐に追いつかれたのだ。
 船には質のいい船乗りたちが乗っていたが、穏やかなアイスス海に突然現れた嵐に動揺し、船内は混乱した。コグ船には二本の帆柱が備わり風上にも進めるように設計されていたが、嵐の中ではあまり意味がない。
 ヴェラークはイリアとエスバドにも指示を出し、できる限り怪我人を出さないよう努めた。救難信号に応えてサーフォルー海軍の船と合流できたのは奇跡だ。駆けつけた二隻は客船を挟むように強行接舷し、安定させながらその海域を離れた。酷い揺れに負傷者は出たものの、誰も海へ投げ出されなかったのは幸運だ。
 波が落ち着く頃、ようやくヴェラークたちは助けてくれた相手の素性を知ることができた。
 一隻は、よく沿岸警備に使われる小型のフリゲート。もう一隻は2本の帆柱を持つカラベル。揺れがおさまると掲げられた旗が良く見えた。どちらもオーカキス島に所属する船だ。恐らく遠洋警備中に救難信号を捉えたのだろう。
 落ち着いた船内から彼らの船へ乗客が次々と乗り込んでいく。激しい嵐に客船が耐え切れず、あちこち傷んでいたためだ。沈むことはないが、人々は安全を求めて海軍の船に移って行く。
「貴方のおかげで助かった。ありがとう」
 掌帆長に声を掛けられてイリアは首を振った。男は少し首を傾げたものの、そのまま救援船の方へ向かっていく。その後ろ姿をイリアは黙ったまま見つめた。救援船からも多くの人員が割かれ、賑わいを大きくしていく様子にため息をつき、イリアは踵を返した。客室に戻ろうとする。
 そのとき、ひときわ大きな声が上がった。
「ヴェラーク大将っ?」
 イリアは思わず振り返る。そしてイリアも「あ!」と大声を上げた。
 たった今、救援船から乗り移ってきた男はイリアに視線を向け、そして元々大きく瞠られていた瞳を更に大きくする。口を大きく開いて絶句した。
「貴方が来てくれたか」
 ヴェラークはイリアたちの反応に笑う。その声に我に返ったのか、男は慌てて両足を揃えた。敬礼する。
 救助船に乗っていたのはオーカキス島の駐屯軍に所属する、スロットとティニスだった。
「お久しぶりです」
 駆け寄ったイリアも敬礼する。スロットたちは瞬きもせずイリアを凝視し、長い沈黙の後にゆっくりと頷いた。スロットの瞳がわずかに潤む。
「生きてるって報告は聞いてたんだ。でも、まさか会えるなんて思わなかった。しかも、こんなときに……」
「ご心配をおかけしました。またお会いできて、嬉しいです」
 偽りない本音でイリアは微笑む。二人の伍長も笑い返した。だがその笑顔はなぜかピタリと止み、スロットとティニスは互いに顔を見合わせた。その意味が分からずイリアは首を傾げる。
「ドーガ」
 隣から低い声が降ってきた。見上げた先ではヴェラークが険しい表情をしている。彼の視線を追いかけると、救難船から下りて来た男が見えた。周囲の様子や男の態度から、彼が一般の軍兵ではないと悟る。
 紅碧の識別服。胸の紋章は、ヴェラークと同じく将軍位。
 イリアは緊張した。
 第七艦隊率いるイートシャン=ドーガ。
 将軍が救難船に乗っているなど信じられなかったが、それよりも不思議だったのは、彼が剣呑な眼差しでイリアを見ていることだ。脇目も振らずに一直線に近づいてくる。
 ヴェラークが半歩だけイリアの前に出た。
 スロットとティニスは脇に寄って道をあける。
「ヴェラーク=カーデ」
 立ちはだかったヴェラークに強い眼差しを向けて、イートシャンは立ち止まった。片眉をあげて唇を歪める。
「この海で貴方に会えるとは思わなかった。イートシャン=ドーガ将軍」
 挨拶しようとしたイリアを遮ってヴェラークが口を開く。
 イリアはその硬い声音に驚いた。近づいてきたイートシャンからも、少なからぬ敵意を感じて困惑する。所属は違うが同僚であるはずの二人がなぜこれほど険悪な雰囲気なのだろう。
 説明を求めるようにイリアはスロットとティニスに視線を向けたが、彼らは気まずそうに視線を逸らした。イリアはますます混乱する。
 そのとき背後に誰かの気配を感じてイリアは振り返った。エスバドが客室から出てきたようだ。幼馴染の姿に安堵した。
「エスバド」
 ヴェラークも振り返った。
 彼の意識が逸れた隙に、イリアは素早く前に出る。背筋を伸ばし、イートシャンの目を見ながら敬礼する。
「このたびは助けていただきありがとうございました。また、非常時に勝手な判断で軍を離れ」
「イリア。いい」
 オーカキス島に派遣された三将軍は、一時的とは言えイリアの上官だった。彼にも道理を通して挨拶しようとしたイリアだが、ヴェラークに肩を引かれて遮られる。強い力にイリアは仰け反った。いつも筋を通すヴェラークが邪魔をするとは珍しい。意図が分からず困惑したが、彼は説明する気がないようだ。イリアの肩をつかんだままイートシャンを見ている。そんな態度に少なからず腹を立ててヴェラークを睨んだ。
 イートシャンの眼差しが再びヴェラークに向けられる。その瞳は先ほどよりも険しいものだ。
「お前が乗っていた船を沈めたのはこの男だ。お前が謝る必要はない」
「え?」
 説明の意味が分からなくて眉を寄せた。イートシャンを見ると、わずかに強張った表情をしていた。沈黙が肯定を示している。
 けれどもイリアは、やはり意味が分からなくて周囲に助けを求めた。スロットとティニスは相変わらず視線を合わせてくれない。少し後ろに立つエスバドに視線を向けると嫌そうな顔をされたが、彼は律儀に補足説明をしてくれた。
「連合軍として赤い海賊の船を包囲したとき、ドーガ大将の命令によって砲撃が行われたと聞いている」
 イリアは忘れもしない瞬間を甦らせた。
 見張り台から飛び降りた瞬間に放たれた砲弾。頭の直ぐ上に直撃し、爆風によって吹き飛ばされた。折れた船檣は海賊たちを押し潰す。ダルスたちの戦いに決着をつけ、赤い海賊の船を沈め、ラヤダを船に閉じ込めた。
「貴方が……」
 イリアは瞳を見開いたままイートシャンを見る。何も言葉が出てこない。
「海賊ダルスと懇意にしていると聞いたが?」
 ヴェラークが絶句した。イリアもまた、先ほどまでとは別の衝撃で絶句した。スロットとティニスが弾かれたように顔を上げる様を、客観的に見る。
「赤い海賊はダルスたち一味の宿敵だったそうだな。海軍学生でありながら海賊の仇討ちに手を貸すなど、見下げた行為である。後悔はしておらんし、謝るつもりもない。ただ、申し開きがあるのなら聞こう。なぜあの船にいた?」
 イリアが息を吸い込んだ瞬間、ヴェラークが飛び出した。彼はそのままイートシャンの左頬を殴りつけた。
「ちょ、ヴェラークッ、カーデ大将!」
 イートシャンを甲板に殴り倒し、つかみかかろうとしたヴェラークを双子が止める。後ろから羽交い絞めにする。しかしヴェラークは凄まじい形相で彼らを振りほどいた。勢いは止まらない。再びイートシャンに腕を伸ばす。
「やめろヴェラーク!」
 少し遠巻きにやり取りをうかがっていた船長たちも間に入った。そんな彼らもヴェラークは張り飛ばしてしまう。
「もう我慢ならん!」
「それはこちらの台詞だ!」
 イートシャンは眩暈に耐えるように額に手を当てて甲板に座り込んでいたが、激昂し、立ち上がりざまにヴェラークの腹を殴りつけた。周囲の妨害もあり、ヴェラークはまともに受けてしまう。よろけ、倒れかけたが踏みとどまった。
「娘を侮辱されて黙っていられるか!」
「公私混同を繰り返すお前の言葉など、もはや聞く耳もたぬ! イリア=カーデの行為は国家反逆罪に問われかねん行いだ!」
「イリアが海賊行為に染まらぬことなど私が良く知っているわ!」
 ティニスとスロット、二人がかりで後ろから羽交い絞めにされているため腕が使えず、ヴェラークは足でイートシャンに攻撃する。イートシャンも駆けつけた船長や船匠たちに羽交い絞めにされ、足で応戦していた。
「ちょっとカーデ大将、これは不味いですって!」
「お二人とも落ち着いて下さい!」
 必死の形相で二人を抑えていたそれぞれが叫ぶ。まだ軍船に移動していない乗組員たちが目を丸くしてその様子を眺めていた。エスバドも呆れた様子で眺めている。
 イリアもまた唖然と二人の応酬を聞いていたが、やがて眦を吊り上げると二人の間に体を滑らせ、声を張り上げた。
「いい加減になさい、二人とも!」
 不思議なことに、その恫喝は将軍たちの声よりも強くその場に響いた。
 エスバドが小さく笑う。
 両肩を怒らせたイリアがヴェラークを睨みつけると、凄まじい形相をしていたヴェラークは一転、情けない顔をする。スロットとティニスが恐る恐る手を放しても、ヴェラークはもう暴れたりしなかった。
 ヴェラークのそんな様子に、イートシャンの拘束も外れる。彼は不機嫌な顔で軍服の乱れを直した。拘束していた船長たちが恐縮して頭を下げる。
 イリアはくるりと体を反転させるとイートシャンを睨む。
「いい大人が話し合いもできないの!?」
 怒りの眼差しにイートシャンは目を丸くした。どこか気まずそうに視線を逸らす。
 イリアは大きく息をついて、腰に当てていた両手を下げた。前のめりにしていた体を伸ばして姿勢を正す。静かに口を開く。
「仇討ちに手を貸したつもりはありません。結果的に誤解されてしまったのは私の力不足です。海賊と癒着していると思われてもおかしくない。そのような行為が民間に知られれば、信頼は揺らぎ、軍力も落ちてしまうでしょう。ドーガ大将の懸念はごもっともです」
 感情が昂ぶって涙が落ちた。潮風が目に染みる。
「私は、海賊行為を許すつもりはありません。奪われるのが当然、力なければ死あるのみ、力こそが正義だと謳う彼らを許せずに海軍に入ろうと決めました」
 ひとつ深呼吸して、再びイートシャンを見た。
「けれど、ダルスたちも、奪われた身です」
 イートシャンはまっすぐイリアを見ていた。ちゃんと話を聞いてくれる人だと安心する。ただ、強すぎる眼差しは足を竦ませるには充分な力を持っていた。その圧力に抗いながら言葉を続ける。
「奪われたものは取り戻したい。海賊行為には賛同できませんけど、彼らが抱いた想いは私たちも普通に思うことだと、思います。彼らと私たちは同じです。だから、話はできませんか? 先ほどドーガ大将が私に訊ねて下さった機会を、彼らにも与えることはできませんか?」
 イートシャンは仏頂面で黙り込んだ。
「私があの船にいたのは、仲間の不審な行動に疑問を覚えて探っていたからです。そこをダルスに捕らえられ、あの船まで同行させられました。私が司令部に戻れば彼らの計画の邪魔になると思われたためです」
「計画?」
「そうです。ダルスたち一味の宿敵は赤い海賊。ダルスたちは自分たちの故郷や家族を奪った者たちに復讐する計画を立てていました。そしてダルスは、赤い海賊に奪われた家族を取り戻そうとしていました」
 スロットとティニスが顔を背けたのが視界の端で見えた。
「私は、ダルスを止めたかったんです。これ以上、何も奪って欲しくなかった。けど、奪われた家族を取り戻したいと思うのは当然だと思います。ドーガ大将はどのように思われますか?」
 沈黙は続き、答えは返らない。
「こうやって、聞かれなければ、話さなければ、誤解のまま終わることは多々あります。私はそれを、海賊だからと、軍人だからと、区別せずに話をしてみたい」
「海賊などと、まともな話ができるものか」
 イートシャンは小さく毒づいた。苦々しく鼻を鳴らす。
「その判断は、話をしてみてからでも遅くないのでは?」
 イリアは唇を震わせながら彼を見つめた。イートシャンの視線が自分に戻るまでしばらくかかったが、それを待ってから頭を下げた。
「ご無礼をいたしました」
 堪えていた涙がパタパタと甲板に落ちていくのが見えた。顔を上げ、誰の顔も見ないまま体を翻す。硬い声音で「客室に戻ります」と告げ、逃げるようにその場を離れた。


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 部屋へは誰も追ってこなかった。
 イリアはなぜ自分が泣いているのか分からないまま、枕に顔をうずめて泣き続けた。
 疑われたことが悲しいのか。考えが理解されなかったことが悔しいのか。一度泣き止んでも直ぐにまた衝動が込み上げてきて、イリアは瞳を閉ざしていた。
 波の音は聞こえない。強制的に接舷する縄のこすれる音が、少し聞こえる。
 あと少しでオーカキス島に着くだろう。それまでは誰にも会いたくない。
 イリアは鏡を覗き込み、鼻が赤くなっていることに気づき、その不細工さに少し笑った。思い切りかぶりを振る。目をこすらなかったお陰で、赤く潤んでいる程度なのが救いだ。寝台に起き上がり、壁に背中をつけて両足を投げ出した。舷窓から海を見ると夕陽が差していた。船が揺れると、ときおり黄金色が眩しく瞳を射る。
「早く王都に行きたいのに」
 頭が重い。ぼんやりと呟き、次第に黄金色が部屋を染めていくのを見守る。その光が寝台から床に落ち、椅子と机を乗り越えて壁に消えていくまでを見ていた。静かな終幕に心が少し寂しくなる。
 舷窓を見ると、もう日は暮れていた。
「イリア」
 扉を叩く音に気づいたイリアは飛び上がった。
 どうしよう、と焦る。今から寝たふりをしようか。イートシャンに訴えたことは後悔していないが、行動の数々を思い返すと顔から火が出そうになる。逃げ道がないかと狭い部屋の中を探してしまう。
「イリア。寝ているのか?」
 扉が再び叩かれる。イリアは覚悟を決めて口を開いた。
「どうぞ。起きているわ」
 姿を覗かせたのはエスバドで、彼はいつも通りの無表情で部屋に入ってきた。彼の後ろに続く者はいない。そのことに少しだけ安堵する。エスバドに椅子を勧めて、イリアは壁に寄りかかった。
「嵐は第五から第八までの海で起こっているらしい。オーカキス島沖の異常気象がそのまま北上したようだ」
 構えていたイリアは直ぐに飲み込めない。今朝の嵐だと気づいて拍子抜けする。
「そう」
 解いた髪を手でとかす。
「他にも、聞いた話では各地に大渦が発生したり潮流が変わったりしているようだ。遠いところではハーブ領の海水浴場で、離岸流がいくつも発生して大騒ぎになったらしい。それほど大きな離岸流ではない。5、6メートル流されただけで済んだらしいのが幸いだったな」
「まだ落ち着かないのね。あれからもう何日も経ってるのに」
 核心に触れないのはエスバドの優しさだ。イリアはそう気付いて落ち着かなく、視線をさまよわせた。鼻をすする。あれからどうなったのか知りたいが、聞くのが恐ろしい。勇気が出ない。
「異変は治まってきているようだ。あの嵐も、もう何日かすれば弱まるだろう。永久的に変わらない潮流もできたようだが、それはまだ、詳しく分かっていない。海図が書き直されるな」
「うわ」
 イリアは気まずいのも忘れてすっかりエスバドに同調した。眉を寄せて舌を出す。試験に出される海図が変わるなど、悪い夢だ。新たな海流に新しい名前がつけられることも考えられる。
 イリアは大きなため息をついて全身から力を抜いた。壁に背中をつけたまま、ずるずると横になる。枕をつかんで抱き締めた。
「こんなことになって。本当、私とシャルゼの特進はどうなるのかしらねぇ」
 わざと立てた軽い笑いは、部屋に虚しく吸い込まれた。
「その前に海賊たちの裁き」
 エスバドの声と共に船が大きく揺れた。大きな波がぶつかったのかもしれない。軍船と結ばれた縄が舷窓をかすめた。大きく揺れている。壁に提げていた服や、固定されていない椅子が部屋を飛んだ。部屋の隅に置いていた荷物袋も、床を滑って壁にぶつかる。
 寝台傍の手すりにしがみついていたイリアは揺り返しに耐えてから力を抜いた。エスバドを見ると、彼も手近な手すりにつかまっていた。
 無事を確認してから舷窓を見る。外は暗い。
「長い付き合いですもの。私の考えてることなんてお見通しなんでしょうね、エスバドには」
 エスバドは微かに眉を動かす。肯定の証だ。イリアは唇を曲げる。
「殺されるなんて嫌よ。私にとっては大切な人たちなんですから」
「個人の真実と国にとっての真実は、往々にして違うものだ」
 淡々と紡がれる否定の言葉。正論は容易く感情を封じ込める。言葉の羅列にはエスバドの感情も含まれていない。イリアは強く息を吐き出して睨みつけた。エスバドも見返してくる。どちらも引かない。
 しばらく睨みあったあと、イリアから先に視線を逸らした。乗り出した体を落ち着ける。深呼吸して顔を上げる。
「今回のことは皆を知る、良い機会になったわ」
 素早く伸びたエスバドの手がイリアの腕をつかんだ。その反応に小さく笑う。今すぐ駆け出していくと思われたのだろうか。イリアはかぶりを振った。
「イサミアは私の妹みたいな子よ。そう簡単に諦めないわ」
「無茶をしそうな性格は似ている」
 エスバドは深いため息と共に手を放す。
「昔から、カーデ家の女に勝てた試しがない」
「え?」
「ヴィダも、イリアも、イリアの母親もだ。きっとヴェラーク大将も同じ気持ちだったはずだ。水を操る力と一緒に、何か宿ってるんじゃないのか」
 珍しい愚痴のようなぼやきに、イリアは思わず笑ってしまう。
 エスバドは顔を上げた。机に肘杖をつきながらイリアを見た。
「ヴェデドース軍曹が」
 懐かしい名前だ。イリアは瞳を瞬かせた。視線で先を促す。
「兵科の実習訓練が明後日に迫っている。本来ならイリアとシャルゼも、特進の審査期間を終えて、演習に入る予定だった」
 複数の冒険に彩られた審査期間。学校行事を思い出そうとしても、なかなか思い出せない。だが、実習訓練ならば海に出られる、と思いつく。乗船許可もあるだろう。それを使って、何とか王都まで行けないかだろうかと考える。
「しかし、俺を含めてイリアとシャルゼの実習は延期になった」
「私、帰国報告はしたわよっ?」
 思わず声を荒げた後、首を傾げる。イリアだけではなくエスバドまでも取り消しとなった理由が分からない。イリア捜しのため外海へ出るとしても、実習が始まるまでに戻る申請をしていれば問題ない。エスバドがその手続きを怠るとは思えない。
 百面相をしながらエスバドを見る。彼の瞳は楽しげに綻んでいた。彼が感情を見せるのは珍しい。
「海賊の裁きに合わせて、今回は各海軍学校から王都への見学船が出されることになった」
「見学船?」
「歴史的な一幕になるということで、ガヴィルート陛下からお声がかかったんだ。軍曹たちは、成績順に選出して派遣することにした」
 イリアは瞳を大きく見開かせる。王が召致をかけるなど想像していなかった。その船に乗れば確実に王都へ行ける。
「俺は乗組員に選ばれた。だから兵科の実習は延期されることになった」
 先ほど彼は、イリアの実習も延期になったと言ってた。その言葉が意味するところは明白だ。
「イリアとシャルゼも乗客名簿にねじ込んだ」
「さっすが!」
 興奮を抑えきれずに叫ぶと、肩をすくめられる。
「通信で父さんから聞いてたんだ。見学船はそれぞれの領海を横断するから、領主に許可を取らないといけない。それで父さんはこの話を知ったんだろう。辞退するかと聞かれたが、断った」
「さすがだわ、エスバド! でもそんなことになってるなら、もっと早く言ってくれてもいいんじゃない? 私、どうやって密航しようかと、そればかり考えていたわ」
 エスバドは深いため息を落とした。膝に片足を乗せて難しい顔をする。
「俺たちが乗る船はカーデ領から出る船だ。予定では、今日が出港日だった」
 イリアは笑顔を凍らせた。素早く体を翻して舷窓に向かう。小さな窓から見える外は暗闇ばかりだ。たとえ見えていたとしても、地平線しかないだろう。それに、もしオーカキス島に着いたとしても、そこからカーデ領へ向かう定期便は欠航している。
「どうしよう。せっかく王都に行けるのに。こんなの……どうしようもないじゃない」
 爪を噛んで首をひねる。
「船が通る場所だけ、海の状態を操作してみたらどうかしら。そうしたら少しは航海が楽になるわ。ああ、でも問題はそこから先。島からの船が欠航してたらどうしようもないわ。いえ、私だけ海上を走って戻るっていうことも……」
 エスバドは何も答えない。
「シャルゼがいてくれたら、きっと素晴らしい案が浮かんでいたのに」
「いない者を頼っても仕方ない」
「ええ……そうね。シャルゼ、無事でいてくれるといいけど……」
「イリアが無事なことは公になっている。案外、こちらに向かっている頃かもしれない」
 本当にそうなっているとは知らず、可能性を上げる。イリアは破顔した。
「そうね」
 それに、オーカキス島の定期便が欠航しているならシャルゼの脱走も伏せておける。本土の軍にはまだ伝えられていないはずだ。
「あの嵐だもの……シャルゼも何か手を打つはずだわ。通常の便は絶対に出せないんだから、軍を使うしかないわよね。でも、直接行っても門前払い。シャルゼだったらどうするかしら……」
 イリアは固く目を瞑った。疲れのせいか脳裏に赤い渦が巻き、頭の奥が少し痺れた。目頭が熱くなる。
 数秒の沈黙後、イリアは顔を上げた。
「ドーガ大将の船なら嵐を越えられるかもしれないわ」
「頼むのか?」
「うん」
「嫌ってそうなのにな」
「でも、ドーガ大将は私の話をちゃんと聞いてくれたわ。理解されたかは別として。だからちゃんと話して、お願いしてみる」
 どうしても譲れないものの前には意地など無意味だ。再び彼と向き合うことには酷く抵抗があるが、背に腹は替えられない。イリアは決意を固める。
「なら」
 エスバドは立ち上がり、複雑そうなため息をついて部屋の扉を内側から叩いた。
 不可解な行動にイリアは眉を寄せる。
「エスバド?」
 詳細を問いかける前に、部屋の扉が開かれた。
 扉の向こう側にはヴェラークとイートシャン。
 イリアは思わず舷窓に張り付いた。
 船室に大男が三人も入ると窮屈だ。イリアは訳が分からずに冷や汗を流した。
 傍らでエスバドが小さなため息をつくのを見逃さず、閃きのごとく勘を働かせて悟った。
「エスバド、あなた……!」
「脅された」
 飄々と暴露されてイリアは激昂した。
「裏切りもの!」
 エスバドは肩をすくめただけだ。
 イリアは悔しさに涙目となってエスバドを睨んだが、それでは事態が解決しないことに気づいてヴェラークたちを見た。彼らの表情から、今の話が筒抜けになっていたことを悟る。海賊を助ける相談をしていたのだから、言い訳はできない。イートシャンには特に、先ほど切々と訴えた手前、気まずさが最高潮に達する。やはり海賊の味方ではないか、と嘲られても仕方ない。拳を握り締めて唇をわななかせた。
「い、言い訳はしません。軍籍から抹消されても構わない。いえ、まだ海軍に入ってないけど。本当は構わなくないけど」
 未練たっぷりに呟いて視線をさまよわせる。
「私、お父さまのように諦め良くなんてありませんから! 最後の最後まであがいてみせます! ダルスの根性叩き直して、他の海賊にも話を聞いて、他人が嫌がることを楽しんでいたら叩きのめしてやります! それで、ジェフリスには今後手出しできないように守備を固めて、イサミアたちが安心して暮らせるような、そんな」
「いいから、早くついてこい」
「へ?」
 ぐずぐずと泣き出したイリアに背を向けてイートシャンがため息をついた。
「ドーガ大将。お頼み申し上げる」
「貴様の頼みなど聞かぬわ。私は私の正義のために、送り届けるのみだ」
 部屋を出ようとするイートシャンに軽く頭を下げ、ヴェラークは微苦笑した。イートシャンは心底嫌そうにヴェラークを一瞥する。そのまま部屋を出て行った。廊下に足音が消えていく。
 ヴェラークがイリアを促した。
「早く追いかけなさい。ドーガ大将の好意を無駄にするな」
「え?」
 急かされたイリアは訳が分からないまま部屋を出た。廊下の先でイートシャンが振り返り、待っている。イリアが出てきたことを確認すると、彼はそのまま踵を返して甲板への階段を上った。
「お父さま?」
 ヴェラークがイリアの背中を押した。
「イリアの言葉は、昔の陛下と同じなんだよ。青臭い理想論だが、ドーガ大将も思い出したんだろう」
 なんだか引っかかる言い方だが、先行き明るい気がして黙った。せっかくの機会を無駄にしたくない。
 エスバドがイリアの脇を通って先を行く。
 イリアは彼を振り返った。早く行かなければ、という思いと、ヴェラークへの後ろめたさの間で足踏みする。
 二人を見比べてしまう。
 ヴェラークは笑った。
「行っておいで。お前たち二人ならば、王からの召集命令ということでドーガ大将の艦を動かせる。私は後で、オーカキス島の定期船で向かうから」
 イリアは瞳を瞬かせて頷いた。
「気が済むまで思うままに動いてくればいい。お前も、ミレーシュナの血を引いているんだから」
 妙な言い回しに眉を寄せたが、これ以上イートシャンを待たせるわけにはいかなくて、ただ頷いた。踵を返してエスバドを追いかけた。

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