目次

最愛の貴女へ

 ダールカが乗船した八番艦は遠洋で警備にあたるため、一定の速度を保ちながらジェフリス国を離れていた。両脇には二艦が控え、主力艦を援護しながら少し後ろを走って来る。
 海軍見習いとして修行を積み、現在の艦に配属されたのは先週のこと。
 今日は初任務の日だ。
 戦闘にはなる可能性は低いが緊張していて、夜になる頃にはもう疲れ果てていた。先輩たちから労わりの声をかけられながら見張りの交代を告げられ、ダールカは張り詰めていた緊張を解きほぐす。
 このまま朝まで眠るだけだ。
 体調管理もしっかりしておかなければいざというとき動けないので、早々に休んでしまうのが吉だ。
 ダールカが部屋へ戻ろうとしていたとき、甲板に誰かが佇んでいるのが船内から見えた。もう夜遅く、いったい何をしているのだろう。明日の準備だろうか? けれど視線の先の人物は空を見上げているだけで何もしていない。寒くないのだろうか。
 不思議に思って外へ出てみると、むき出しの手が凍りつきそうなほどの冷気に襲われた。風が強いため船内の温度が瞬時に下がり、近くを歩いていた先輩隊から罵声を浴びせられる。
「ごめんなさい!」
 慌てて外へ飛び出して扉を閉めるが後悔する。
 なんで外へ出ちまったんだろう。
 吐く息は白く染まるが、それが立ち昇るのも確認できないほど強い風が息を攫っていく。
「うお。すげぇ星の数」
 空を仰ぐと満天の星。艦には必要最低限の明かりしか灯していないため、ダールカの瞳には小さな火を幾つも灯す星空が映りこんだ。ジェフリス国にいた頃には比べ物にならない星の数だ。
「どうした。なにか用か?」
 低く落ち着いた声が聞こえて、ダールカは思わず背筋を伸ばす。何百回と聞いて来た、耳に馴染んだこの声は。
「カーデ艦長っ?」
 視線の先には彼がいた。この艦の統率者だ。
 先ほど船内から見えていたのはカーデ艦長だったのか。
 ダールカは思わぬ事態に慌て、直ぐに退がろうとしたのだが思いとどまる。
 なぜこのような所に一人寂しく佇んでいたのだろう。彼は誰もが憧れる海軍の頂点に位置する一人なのに。望めば船内で陽気な仲間たちに囲まれ、楽しく過ごすことも可能だ。
「ええと……中から誰かがいるのが見えたもので。まさか艦長だとは思いもしませんでした。すいません」
 素直に謝るとヴェラークは「ああ」と微笑んだ。
 けっこういい歳のはずだが、年齢を感じさせない何かが彼にはある。
 ダールカは同じ男ながら威厳の違いを見せられたような気がして萎縮した。
「針路の確認ですか? やっぱり艦長ともなると、一瞬でも気が抜けないんでしょうか」
 それでこそ我らが艦長だと内心誇らしく思っていると、ヴェラークは少し瞳を瞠って笑った。
 なぜ笑われるのか分からない。なにかおかしなことを言ってしまっただろうかと赤くなると「すまない」と謝られた。
「違うんだ。今日は妻の誕生日でね」
「はっ。それは……」
 ダールカは言い淀んだ。この艦に乗る以上、艦長のことは良く知っている。彼の妻はすでに亡くなっているのだ。非常に愛妻家であったと言われていた彼が、何日も悲しみに沈んだことは想像にかたくない。
「妻は体が弱くてね。それでも、上の娘の嫁ぎ先が見つかるまではなんとか頑張ってくれた」
 それも知っている。
 ヴェラークには娘が二人いる。
 姉は異国へ行き、妹はいま海軍学校に入学して勉強に励んでいるという。良くある貴族のこねを使ったような入学ではなく、最も難しいとされる海軍試験を通っての入学だ。八番艦に乗る前の仲間内でも、そのことは結構な噂になっていた。
「娘さんは今年の海軍試験を受けられたんですよね? 艦長の奥さんに生き写しという噂ですけど、さぞかし美人なんでしょうね」
 少し見てみたいと思いながら告げると、ヴェラークはなぜか表情を強張らせた。
 またしても何かまずいことを言っただろうか。
 ダールカは不安になった。
 もしかして娘も亡くなった奥さんと同じで体が弱いのか。いや、しかし海軍学校にいるぐらいだから体は丈夫なはずだ。
 ダールカは自問自答を繰り返しながら、またしてもヴェラークにまつわる話を思い出した。
 カーデ艦は去年、謹慎を言い渡されていた。二ヶ月ほど公務に出なかったのだ。その原因は、海賊に攫われた娘を取り戻しに、カーデ艦を無断使用したためだと聞いている。
 艦長にその真相も聞いてみろよと、仲間たちは決まった異動に祝杯を掲げながらダールカをつつき、ダールカもまた「機会があったらな」と酔いながら気軽に言っていたものだ。実際ヴェラークの前に立つだけで萎縮してしまい、そのようなことを軽々しく聞けるような雰囲気ではないというのに。
「イリアはなぁ……」
 長く自分の回想に没頭していたダールカを呼び戻したのは、どこか苦い艦長の声だった。顔を上げると彼は空を仰いでおり、ダールカも視線を追って空を見上げる。
 先ほどと変わらぬ満天の星空だ。雲ひとつないそれに感動するも、寒くて鼻水が出てくる。啜り上げるとヴェラークが気付いて振り返り、「中に入りなさい」と促される。
「引き止めて悪かったね、ダールカ」
 名乗った覚えはないのに呼ばれて瞠目した。いや、名乗ったことはある。艦に乗るとき、同期生たちと艦長の前でひとりひとり自己紹介をしたときだ。だが今回異動命令が出た同期は大勢いる。今回の航海に参加しているのもかなりの数だ。ダールカはその中の一人。まさかあれだけで覚えてくれていたのだろうか。
 ダールカは信じられずにヴェラークを見る。彼は優しい笑みを浮かべてダールカの肩を叩いた。
「私に命を預けてもらう以上、全員の名前は把握済みだよ」
 その言葉に感銘を受ける。見習いのときに配属されていた部隊の隊長は厳しいだけで、人を呼ぶときも「おい」や「お前」と名前で呼ばない。優しい言葉の一つもなかった。
 ダールカはすっかりヴェラークに惚れこんで「いいえ!」と声を張り上げた。
 不思議そうな目をするヴェラークを見つめる。
「ちょっと厨房に行って、あったまるように酒でもかっぱらってきます。奥さんのこと、いろいろ話して下さいよ」
 ヴェラークが何か言う前にダールカは駆け出していた。
 眠気など吹き飛び、気分は高揚していた。笑い出したいような気持ちで船内を走る。もう深夜を回り、仕事のある者以外はほとんど眠っている。ダールカを注意する者はいなかった。
 ――俺、絶対あの人の役に立とう。
 いつか絶対あの人のために何かしよう。
 そんな決意を固めながら厨房に入る。火は落とされており、冷え冷えとした空気が漂っていた。ダールカは暗がりで漁り、酒を一瓶と、コップを二つ拝借した。
 上司と部下との線を超えるなど考えたこともなかった。だが今回ばかりは、艦長の人隣を知りたい。ダールカは急いで駆け戻る。甲板ではヴェラークが先ほどと変わらぬ位置におり、ダールカを振り返ると「本当に戻ってきたのか」と驚いた目をしていた。
「俺、仲間からは親しみやすいって評判なんですよ。艦長もたまには仕事を忘れて飲んで下さい。ひとまず今日は、艦長の奥さんに乾杯! ですね」
 コップを手渡し酒を注ぎ、次いで自分のコップにも注いでカチンと鳴り合わせると苦笑された。その仕草に内心でドキリとしたダールカだが、ヴェラークが浮かべていたのは嫌そうな表情ではなく、嬉しそうな表情だった。意外にも表情を読み取りやすい艦長に、ダールカはさらに惚れ込んだ。
 体内に酒を入れると、腹の中から燃えるような熱が湧きあがり、温まっていく。同時にほろ酔い気分になってくるが、これぐらの酒量は一般的だ。見ればヴェラークも寒かったのか、あっと言う間にコップを空にしていた。
 ダールカは遠慮なく酒を注ぎ足した。

 :::::::::::::::

 甲板で酒盛りを始めた新入りと艦長に、甲板が見える窓から見下ろしていた乗組員――ダールカの上司にあたる者たちはため息を吐き出した。
「今年はあいつが洗礼者か」
「ダールカって言ったな? 真面目な奴なだけに、放っとけなかったんだろうな」
「ま、あと少しあいつが出て行くのが遅かったら、俺らが行ってただろうけどな」
 長くヴェラークの部下を務めてきた男たちは目配せしあって苦笑する。
「艦長、普段はめちゃめちゃいい人なんですけどね」
「ああ。いい人過ぎるくらいいい人なんだけどな」
 皆は悟りきったように、同時に深いため息を洩らす。
「酒が入ると絡んでくるからな」
「それも延々と」
「家族に対する愚痴と」
「奥さんに対する惚気と」
「今年はイリアちゃんが海軍学校に入ったから、それも聞かされるな」
 皆はしみじみと頷きながら挙げ連ねた。
「ダールカの仕事は明日、俺らで少し手伝ってやるか」
 毎年この日に航海となると、我らが艦長ヴェラーク=カーデは甲板に一人で出て、亡き妻ミレーシュナを思い出している。それを見かねた新人が情けを出すと、なぜか皆、酒を入れたがる。けれどそれが大間違いだ。酒が入った艦長は人が変わったように三人上戸となってしまうのだ。
 三人上戸とは「笑い上戸」「泣き上戸」「怒り上戸」の三連打だ。さらに底抜け上戸という酒豪な上、酒飲みには厄介な絡み酒ときたもんだ。
 皆この日に航海となると、なるべく艦長には近づかないようにと、密かな警報を発している。艦長の人の良さに、近づけば何かしてやらないではいられないような気分にさせられるからだ。
 そういう訳で既存の船員は艦長に近づかないため、犠牲になるのはたいてい何も知らない新人ばかりだった。
 甲板が見渡せる船内の一角に集まった乗組員たちは、鼻の頭を赤くしながら酒を注ぐダールカを、憐れみと感謝を込めて見下ろしていた。
 ダールカが後悔するのは直ぐ側まで迫っているが、彼はまだ何も知らない。

 :::::::::::::::

 酒を注がれながら、ヴェラーク=カーデは空を仰ぐ。
 満天の夜空。その一角を切り取ったかのような瞳をしていた、最愛の妻。
 彼女の面影を宿す娘と、今日は妻の誕生日を祝うつもりだったのに、やはり今年も仕事が入ってしまった。屋敷ではイリアが盛大にわめいていることだろう。まったく、どこであんなわがままに育ってしまったのか。
 ヴェラークは頬を緩めながら酒をあおった。


 今日は特別な日。
 最愛の――貴女へ。

目次