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魔王の受難

 【三】

「さー今日も元気に出発ですよーっ!」
 プラチナの元気な声が響いた。
 魔王は暁の空を見上げる。白い鳥が群れをなして空を横断していく。ようやく白み始めた頃だ。何時になるのかは分からないが、かなりの早朝であることに間違いない。
 ――なぜ我がこのような。
 まだ眠りたい、と天秤は傾き続ける。忘我の境地に至る魔王はそう思ったが、言葉にされることはなかった。
「ほらほら魔王さまってばー。早くしないと勇者宅に着く前に日が暮れてしまいますよー」
 先陣で張り切るプラチナは豆粒大まで遠くに行っている。彼女の力によって、声は鮮明に届いていた。
 魔王は大人びたため息をつくと黙ったまま屋上から飛び降りる。わざわざ勇者の家にまで出向く親切な魔王など我ぐらいしかおらぬのではないかと思う。いや、出向かねばならぬほど極貧状態に陥ってる魔王など――と加えた方が正しいのか。
 魔王は空間を渡ってプラチナに追いついた。
「うーん。こうして魔王さまと出歩くのも二十年ぶりですねぇ」
「うむ。やはり下界は何十年経とうと、劇的な変化はないのだな」
 空気は冷たく澄んでいた。朝の閑寂な空気のなかで、樹木は一種の荘厳な雰囲気を湛えている。朝露を含んだ道を踏み分けると、どこからか豊かな水源の音も聞こえてくる。二十年ぶりの世界だ。
 魔王は大きく息を吸い込んで自然を堪能したあと、プラチナを振り返った。
「さてプラチナ。問題の勇者宅までの道筋だが」
 魔王の絶大な力は長い睡眠によって上手く揮えなくなっていた。プラチナの元へ飛ぶにも結構な集中力を要した。勘を取り戻すには時間が必要だ。そのため、勇者宅までの道を開くことができない。このまま歩いて行くか、プラチナに頼るしかないのだろう。
 しかし、力をプラチナに頼るのがプライドが許さなかった。必然的に選ぶ道は歩きとなる。
 二十年も眠っていたため人間たちが暮らす地上の様子はさっぱり分からない。不安だらけの旅路だが、その辺りはプラチナに任せておけば間違いないだろう。彼女が魔王に不利なことをしたことはない。プラチナの悪戯心が勝ることもあるが、本質的に彼女は魔王の配下だ。――多分。
「ふっふっふっふー」
 魔王はぎょっとした。不気味な笑い声を上げるプラチナの背中をハラハラと見守る。今まさにプラチナの忠誠心について考えていたため余計に恐ろしい。しかしプラチナは不気味な笑い声に不釣合いな、可愛らしい笑顔を魔王に向けた。その笑顔のまま「はい」と魔王に一枚の羊皮紙を押し付ける。渡された魔王は不思議に思いながらそれを見やった。
「魔王さま。今度は私のいない苦しみを味わって下さい。あの城の中で、私はかなり寂しかったんですから」
 しかしプラチナの表情は言葉を裏切っていた。溢れんばかりの微笑みが浮かんでいる。嬉々として魔王を突き放す。肩を押された魔王はよろめいた。
「私は一足先に勇者宅でお待ちしてますね。魔王さまはお一人で、後からおいでください」
「お、おい、プラチナ?」
 慌てる魔王をよそに、プラチナは一足飛びに後退すると距離を保った。
 この近辺は高山地帯だ。魔王が手ずから植林した丈夫な桜が幾つも根を下ろしている。無骨な岩がごろごろとしているこんな不毛の地でも花を咲かせる、丈夫な樹だ。
 桜以外は雑草すら生えぬ岩肌に足をつけて、プラチナは肩を竦めた。
「お待ちしてまーす」
 プラチナの姿は舞い上がった風と共に消えた。季節外れに狂い咲いた桜の花弁が細かく舞い散る。プラチナが良く使う幻惑の魔術に似ていたが、今回は本物の花弁だ。
 魔王は呆然とした。何が起こったのか分からなかった。
 視界の端を舞う花弁を何気なく見ながら、とりあえず渡された羊皮紙に視線を落とす。二つ折りにされたその紙を開くと。
『魔王さまへ。ラブリープラチナちゃんが勇者宅までご案内しまーす』
 というテンションの高い言葉で始まり、終わった。
 裏返しても何もない。
 振ってみても何も出ない。
 何度読み返しても謎などない。
「何がしたいんだプラチナはっ?」
 耐え切れず魔王が叫んだ直後だ。
『はいはーい。何か御用ですか魔王さま?』
 可愛らしい声がした。
「……プラチナ?」
『はいはーい。何か御用ですか魔王さま?』
 先ほどと同じ言葉が繰り返された。
 魔王は周囲を見渡したが彼女の姿はない。先ほどプラチナが消えた空間を見たが、そちらはピタリと閉じられていて、開いた様子もない。魔王の力を持ってすればその軌跡を追ってプラチナの居場所を突き止めることが可能だ。しかし今は力が寝ぼけている状態のため、上手くいく自信はない。
「遊んでおるのか?」
 魔王は慎重に問いかけた。今度はしばらく待っても反応がなかった。
「おいっ?」
 やはりプラチナからの返答はない。
 魔王はなんだか虚しい気分になってきた。城は眠る前と比べて閑散としていたし、力も上手く揮えない。プラチナにまで弄ばれて、己の価値はいったい何なのだと、思考が暗いところにまで落ち込んでしまう。
「プラチナめ。我をこのような目に合わせて、どうなるか」
『はいはーい。何か御用ですか魔王さま?』
 三度目の台詞。
 魔王はすかさず力ある瞳で声の方向を睨みつけた。その空間が音を立てて裂ける。
「きゃー、さっすが魔王さま。見事に案内役入手! ですね!」
 パチパチと小さな拍手をしながら転がり出てきたのは、プラチナの姿をして笑う、小さな小さな悪魔だった。


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「何なのだお前は」
「だからぁ。貴方のプラチナですって、魔王さま」
 語尾にハートマークでもつけられそうな声だ。可愛らしい姿に可愛らしい笑顔。しかし魔王は騙されなかった。パタパタと小さな羽根を動かしながら楽しげに笑う、その小さな物体にデコピンをしかけた。
「きゃー!」
 小さなプラチナは勢い良く吹っ飛んだ。涙目になって戻ってくる。
「魔王さまヒドイです!」
「うるさい。我は寝不足だ。お前は幻覚だと思うことにする。プラチナめ。いったい何のつもりなのだ」
 魔王は暗い瞳でブツブツと呟き始める。
 小悪魔は本物のプラチナと同じスミレ色の瞳で魔王を見上げた。
「とにかく私、プラチナ様に案内役を頼まれたんですー。そのお役目だけでも果たしますねー」
 小悪魔は間延びした声でアピールした。
 魔王が止める間もなく、彼女は羊皮紙を取り上げる。そしてそのままムシャムシャと食べ始めた。
「何をするのだ貴様ーっ?」
 仰天した魔王は小悪魔の体をつかんで上下に振るが、食べ終えた彼女はニンマリと笑うだけだった。
「これで勇者宅までの道はインプットされましたですぅー」
 思い切りシェイクされた小悪魔は具合が悪くなったのか、怪しい呂律で述べた。魔王は彼女を放して睨みつける。魔王が本気で望めば、このような小さな悪魔など瞬く間に無に還される。しかし彼女は消えなかった。


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 午後のうららかな昼下がり。
 スミレ色の瞳で太陽を眺めていたプラチナは物憂げなため息をついた。使い魔を残してきたとはいえ、到着が遅すぎる気がした。魔王の身に何事かあったのだろうかと不安になる。こうなれば、作戦は失敗だが迎えに行ってしまおうかと首を傾げたプラチナは、漂ってきたご飯の匂いに鼻をひくつかせた。
「きゃあ。今日は野菜ソテーだわ」
 肉より野菜が好きなプラチナは顔を輝かせた。
 魔王と昼飯とを天秤にかける。
 天秤は直ぐに傾いた。
「平気よね。なんたって魔王さまだもの!」
 適当な理由をつけたプラチナは野菜ソテーに向かう。
 二十年間、寝顔しか見ることが出来なかった小さな子ども魔王への、それはささやかな嫌がらせ。

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