目次次へ

第一章

 【一】

「名前は?」
 かけられた言葉は少ない。それは、ともすれば不機嫌にも聞こえる声音。
 紅葉《くれは》はただ無口を通す。初対面の少年に語りかけられても警戒心が強まるばかりだ。いくら年齢が近かろうが関係ない。頑なに心を閉ざし続ける。
「自分の名前くらい言えないのか、お前」
 先ほども強められた声に紅葉は小さく拳を握った。
 顔を上げれば気付いただろう。見下ろす瞳には心配の色が浮かび、声音にも気遣いが含まれていたことに。けれど紅葉は戸惑うばかりの現状が恐ろしくて震えることしかできなかった。膝を抱えて俯き続ける。
 母と引き剥がされたのはもう何時間前のことなのだろう。周りにいるのは知らない者ばかりだ。向けられる視線に温かさは感じない。悪辣な視線ばかりが突き刺さる。
 紅葉は膝を抱える手に、さらに力を込めるのだ。
 泣き顔だけは見せたくない。そう思って膝に顔を押し付けたのだが、そうすると泣きたい衝動は強まった。肩が震えてしまう。嗚咽を堪えることができずにすすり泣く。
 ――なぜ私はこんなところにいるの?
 自問しても答えは出ない。今頃は新しい家で、家族と一緒に笑顔を浮かべていたはずだったのに。見知らぬ大人たちに攫われ、冷たく薄暗いこのような部屋に閉じ込められる予定などなかった。どこで間違えてしまったのだろうか。
 紅葉は何度も逃げ出す隙を窺った。しかし、唯一の扉は大人たちが塞いでいる。彼らの持つ銃や剣が、いつ自分に向けられるか分からない。部屋に満ちるのは松明の明かりだけで心許ない。揺れる影が不吉さを連想させる。
 紅葉の頬を涙が伝った。鼻を啜り上げると、すぐ側から舌打ちが聞こえて心臓を跳ね上げた。
 先ほど話しかけてきた少年だ。
 紅葉は震える肩をなんとか宥めようとしたが無駄な努力だった。衝動が止まる前に衣擦れの音が響く。
 ――行ってしまうのだろうか。
 不安と安堵を同時に浮かべながらそう思ったが、それは間違いだと直ぐに気付く。少年は先ほどよりも紅葉に近づき、直ぐ隣に腰を下ろす。小さくなる紅葉の背中に手を伸ばしてきた。
 視界の端で彼の行動を見ていた紅葉は、殴られるのだろうかと体を硬くしたが、彼はただ紅葉の背中を撫でただけだった。
 紅葉は顔を上げる。少年は赤味がかった黒い瞳を紅葉に向けていた。そこには気遣う色が確かにある。紅葉よりも少し年上らしい彼は黙ったまま紅葉の背中を撫でる。笑顔はないが、紅葉の中から恐怖心が拭われた。背中を撫でる手は大きい。弟よりも、母よりも。父とまではいかないが、兄という存在があったら彼のようなものだろうかと紅葉は思った。
「……名前は?」
 紅葉が泣き止んで少しして、もう一度そう訊ねられる。そこには明らかに、気遣う優しいものが含まれていて紅葉は戸惑う。少年を窺えば、そんな優しい声音を作るために彼がずいぶんと苦心したのだと思われる表情がある。困惑した彼の瞳が紅葉を見つめている。
「私の名前は……紅葉」
 なぜかもどかしくなって、紅葉は声を絞り出した。嗚咽を堪えていたときと違い、声はするりと自然に零れてくる。途端に少年が笑みを零し、紅葉は目を奪われた。
「紅葉」
 心底から嬉しそうに復唱する。
 ――彼は誰だろう。
 名前を教えただけでこんなに喜ぶなんて、変な奴。
 紅葉はそう思ったが、少年の笑顔に救われた。心が確かに軽くなる。ごく自然に微笑み返した。恐怖など嘘のようだ。代わりに浮かんだのは興味だった。
 彼は誰だろう。どんな人だろう。どうしてここにいるのだろう。
 紅葉は膝に頬をつけて観察する。
 不意に、少年は呆けたように紅葉を見た。何を驚くのだろうと不審に思ったものの、その表情がおかしかったので笑う。小さくも明るい紅葉の笑い声が確かに響く。
 周りにいた人間たちが一斉に紅葉を振り返った。その気配に気付いた紅葉は呼吸を止めて足を縮める。背中は壁についていたが、紅葉はさらに後退しようと足に力を込めていた。
「貴方の名前は?」
 自分を勇気付けるように少年を振り返る。見れば、笑われたのが不愉快だったのか彼は渋い顔をしていた。それでも紅葉に訊ねられれば嬉しそうな顔をする。一瞬ごとに変わるその表情を、紅葉は不思議に思いながら見つめていた。とても感情豊かなのだと悟る。
「俺は夜人《やと》」
 紅葉は口の中だけで復唱する。
 嬉しげに見つめられるとくすぐったくなって奇妙な気持ちになる。
 しばらく見つめ合っていると、夜人は何を思ったのか紅葉の両肩をつかんだ。辺りに満ちる冷たさとは異なる溌剌とした笑顔だ。彼の腕は力強い。ここが夢の世界ではない現実なのだと、嫌でも思い知らされる。
 戸惑う紅葉を意に介さず、少年はこのあと、紅葉を唖然とさせる発言をする。
 すなわち。
「お前を俺の嫁にしてやるから、安心しろ」
 紅葉が表情を凍らせたのも無理はない。けれど夜人は一人で満足そうに頷いている。
「今は無理だけど、俺さ、未来はここを受け継ぐらしいんだ。だから、そのときには紅葉を嫁にしてやるから。安心して待ってろよな」
 言い切る夜人の表情は覇気に満ちていた。紅葉が断ることなど微塵も考えていないに違いない。
 呆気に取られていると夜人は落ち着きなく視線を漂わせた。夜人の声に注目していた周囲の視線は再び無関心という名のものに戻っている。紅葉たちを意識しているのは、扉を固める大人たちだけだった。
 けれどもそんな視線をも忘れるほど紅葉は夜人を凝視する。
 対して、もともと周りを気にしていなかった夜人は当然のように紅葉の右手を取った。その小指を絡ませる。
「指きりな。絶対に約束だ」
 勝手な約束を取り付けられる。
 まだ呆然としていると、夜人は満足気な笑顔を見せた。指切りをしたまま顔を近づけてくる。
「誓いのキス――」
 勝手に幸せ絶頂だった夜人だが、ここにきてようやく我に返った紅葉に、奈落へ突き落とされることになった。

目次次へ