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第一章

 【二】

「……悪夢だ」
 狭い部屋。簡素な調度品。壁高くに取り付けられた、手が届かない明かり取りの窓。
 固い寝台で目覚めた紅葉は顔をしかめた。
 明瞭には程遠い視界が徐々に冴え、鋭利さを増す。汗の浮いた額を手で拭う。
「最悪」
 目尻に滲んだ涙を、痕が残らないように軽く払う。泣いていたとは決して知られたくない。
 毎朝のことなので慣れていた。
 紅葉は薄い掛け布団を蹴るようにして起き上がる。不愉快な気分のまま畳んで寝台の脇に寄せる。あらかじめ用意されていた服を手にして少し唇を引き結ぶ。脳裏に過ぎった影を振り払うように、止まった分、手を早める。
 着替えてしばらくしても、紅葉は不機嫌なままだった。単なる夢になぜこれほど怒りを覚えなければいけないのか。仕方がない。なぜなら、今朝見た夢は、まだ続いているのだから。
 そのとき部屋に低い音が響いた。
 紅葉は舌打ちして振り返る。先ほどまで何もなかった壁が、今では変化していた。壁を造る煉瓦が一つ床に落ちている。寝台側の壁だ。
 先ほどの音は煉瓦が落ちた音。壁には煉瓦一つ分、不自然にポッカリと穴があいている。
 ここに逃げ場などない。扉には外から施錠されており、紅葉は開けられない。扉以外から侵入しようとする何者かは、壁を壊して通路にしようというのだ。
 紅葉は冷めた瞳でその様子を見守っていた。
 初めて見たときは何事かと恐怖したものだが、毎日のように続けられると嫌でも慣れる。煉瓦造りの壁は、欠けた一点を起点として徐々に穴を広げていく。
 一つ、二つ、煉瓦が重い音を立てながら落ちていった。
 紅葉は部屋を見渡して、武器になりそうな物がないことに舌打ちを重ねた。仕方がないので黙ったままその壁に近づく。壊されていく壁の向こう側から姿が見えないように、壁に背中をつけた。
 三つほども落とせばあとは容易いのだろう。最初は時間をかけて奮闘していた煉瓦落としだが、徐々にその速度を増して穴を大きくしていく。
 やがて壁の向こう側から腕が現われた。
 半袖から覗く二の腕は逞しく、鍛えられている。訓練でついたと思われる幾筋もの傷痕が残っていた。まるで勲章のように肌を飾っている。
 頑丈な腕が床を確かめ、いよいよ本体が部屋に侵入しようというとき。
 紅葉はためらいも力加減もなく、力いっぱい、その手を踏みつけた。素足ではあるが。
「いってーーっ!」
「この馬鹿夜人! いい加減にしなさいよね! この前、蓮夜《れんや》にお咎め食らったの、もう忘れたって言うのっ?」
 まだ手だけしか見せていない夜人を怒鳴りつけると、伸びていた手が引っ込められた。代わりに、飛び跳ねるようにして夜人が入ってくる。紅葉は頭を抱えた。
「痛ぇだろうが! 優しく迎え入れるくらいしろよ」
「ふざけんな。なんで私が夜人に優しくしなきゃいけないの。今すぐ部屋に戻れ、馬鹿!」
 出会った当初に比べてかなり大きく成長した夜人を見上げ、紅葉は怒鳴りつけた。
 少し伸びた黒髪から覗く瞳が紅葉を見つめている。少しだけ幼さを残した顔立ちではあるが、ある時は鋭く、誰よりも冷徹になると知っている。彼が大人びた表情を見せるたびに、紅葉はまるで置いていかれたような寂しさを味わう。しかし今ばかりはそんな寂しさなど忘れ、紅葉はひたすら憤っていた。無駄な筋肉など一切ない頑健な肉体。
 紅葉は鼻息も荒く睨みつけ、夜人の隣部屋になった不運を激しく嘆く。毎朝のことだ。恨みが積もっているとすれば、今頃はきっと凝縮して黒曜石のような塊になっていることだろう。それをこいつに投げつけてやりたい、と紅葉は思った。磨けば何よりも鋭い凶器になるのが黒曜石だ。
 夜人は一つため息をつくと紅葉をひたりと見据えた。
「未来の夫に向かって“馬鹿”はないだろう」
「ば――馬鹿で充分、そのものよ! 誰が未来の夫! 私は承知した覚えなんてないんだからね!」
 どこからこの発想が浮かぶものか。
 紅葉は一瞬だけ言葉を詰まらせ、飄々とする夜人に殴りかかろうとした。夜人はその攻撃を簡単に受け止めてニコリと笑う。
「昔、約束した」
「あんな一方的なの無効に決まってるでしょう!」
 つかまれた拳は解けない。憤りは強まり、紅葉は顔を真っ赤にさせて夜人を睨む。間近に迫った彼の額に頭突きしてやろうかと思ったが、こちらの頭も痛くなりそうだったので思いとどまる。夜人は余裕を見せるかのようにニコニコと笑みを湛えたまま紅葉を覗き込んだ。
「一方的じゃねぇよ。紅葉、あのとき笑ってたじゃねぇか」
「肯定の笑みなんかじゃもちろんないわよ! 夜人の馬鹿さ加減に笑ってただけよ。言うなれば、苦笑、冷笑、嘲笑よ!」
 笑っていたら夜人には全て肯定に取られるのか。冗談ではない。二度と笑ってやるもんかと紅葉は決意を新たにする。思いつくまま言葉をぶつけると夜人は口を閉じる。唸り声を上げるのは反論する言葉を持たないためか。
 夜人は言葉で策を練るより力づくで体当たりする、まさに単純馬鹿である。回り道することすら思い浮かばず一直線に突っ走る。明朗快活はいいが、夜人を見ていると天然記念物に指定してやりたいと思ってしまう。
(駄目だ。飾る場所を取りたくない)
 夜人と力比べ――否、紅葉だけが全力で腕に力を入れている状態だが、夜人はやがて搾り出すように唸った。
「なら一方的かそうじゃないか、証明してみればいいんだろ」
 ふっ、と。拮抗していた力が不意に抜かれた。紅葉はつんのめるようにして夜人に倒れる。かと思えば肩と膝裏に腕を回され、抱えあげられる。
「きゃあっ?」
 突然高くなった視界に驚いて、紅葉はそのまま夜人の肩にしがみついた。
 夜人はそのまま紅葉を寝台に下ろすと、その上から圧し掛かる。固い寝台で背中が痛い。という問題ではない。
「何するのよ、この馬鹿夜人ーっ!」
 突き飛ばそうとしても体格差がありすぎて敵わない。それでも嫌いなら突き飛ばせと、夜人は言うつもりなのだろう。
「ふざけるなーっ!」
 足をバタバタとさせて夜人を蹴り上げようとしたが、一向に当たらない。明らかにこのような状況に慣れている。それは、女性関係というよりかは、訓練のたまものと言った方が正しいだろう。
「証明すればいいって言ったのは紅葉だろうが」
「誰が言ったかそんなこと!」
 立て続けに怒鳴りすぎて酸欠になってきた。
 怒りの沸点を軽く越えて顔を真っ赤にさせれば「恥ずかしがるな」という言葉が来るのだろう。予想できてしまうことすら頭が痛い。
 両手はいつの間にか頭の上で固定されていた。夜人の顔が近くに迫る。様々な罵声が脳裏に浮かぶが言葉にはならない。夜人に深く口付けられる。その熱に肌が粟立った。睡眠は足りているはずなのに、再び眠りたくなるような錯覚に陥る。直ぐ近くから聞こえた夜人の呼吸に体が震えた。
 紅葉は瞳を固く閉じたまま夜人が離れるのを待つ。与えられる熱に溺れまいとする。
(いつか教会の床に埋めてやるから、覚えておきなさいよ!)
 不穏な言葉をいくら叫んだとしても、実行できないと知っている。それでも固く誓う。ようやく解放された隙を縫って、紅葉は叫んだ。
「どけってば夜人! 蓮夜《れんや》に見つかったらどうするのよ!」
 抵抗する材料が違うんじゃないかとどこかで突っ込みを入れる自分がいたが、気にしない。どうせこの馬鹿には分からない。
 涙目で睨みつけた紅葉を、夜人は愛しそうに見つめたあと「あー」と気のない声を返した。いつもならもう少し押し問答が続くのだが、夜人は抵抗されるがまま紅葉を解放した。そんな態度に紅葉は眉を寄せる。
「蓮夜のことなら心配ないだろう」
 断言する夜人に苛立ちが募る。
「何が心配ないの。むしろ夜人は怒られろ!」
「いやぁ、だから大丈夫だろう」
「何言ってるの!」
 さっぱり要領を得ない夜人に苛立ちは強くなる。起き上がった彼に合わせて紅葉も体を起こし、そして彼の視線を辿って蒼白となった。
 話題に上っていた男の痩身がそこにあった。
 いったいいつからそこにいたのか。紅葉用の食事を載せたトレイを棚に置いた彼は扉の前で食事の準備を続けている。その動きから、部屋に入ってきて間もない頃だと推測するが、安心できるわけもない。
 ――蓮夜。紅葉の世話役といった青年だ。
「れ、れ、蓮夜。いつからそこに……」
 紅葉の声が上ずるのも無理はない。対して夜人は飄々とした態度を崩さずにいる。両手を頭の後ろに組んでいた。罪悪感など欠片もない。まるで口笛まで吹きそうな雰囲気だ。さすがにそんなことになったら紅葉は殺すつもりで夜人に飛びかかるだろう。
 しかし、現在の紅葉は蓮夜の姿に動揺するばかりで夜人にまで気が回らない。蓮夜にどう声を掛けていいかも分からない。青くなって口を空回りさせ、意味もなく両手をさまよわせる。その一部始終を面白そうに見守っている夜人に気付いて鋭く睨む。
 紅葉の苛立ちが頂点に達したとき、蓮夜が紅葉たちに向き直った。持ってきた食事を並び終えて笑顔を見せた。とはいえ口の端を軽く持ち上げるだけの嘲笑。瞳には多分に昏い闇が含まれている。
 そして。
 空気を震撼させて、空になった銀のトレイが壁に突き立った。煉瓦と煉瓦の境目に丁度はまった。
 見事としか言い様がない早業だ。投げた腕の動きすら見えなかった。そして、それを避けた夜人も見事だ。私の周りは異次元な奴らばかりらしい。
 紅葉は表情を強張らせたまま今更なことを思った。
「夜人」
 地の底から這うように響く声が部屋を包んだ。
 蓮夜の声だ。その顔には酷薄な笑みが浮かべられており、紅葉は背筋が凍るのを止められない。
「ちっ。蓮夜さえ来なければあとちょっとだったのに」
(なにがあとちょっとなんだこら)
 非常に突っ込みたい発言だったが、蓮夜の前では何も言えない。
 蓮夜と紅葉と、二人の無言を悟った夜人はあっさりと立ち上がった。
「わーかった分かった。大人しく部屋に戻るから睨むなよ。じゃあな、紅葉」
 背中越しに手を振って、夜人は壊した壁から部屋に戻ろうとする。
「……壁も戻せと、何度も言わせるな」
 蓮夜の眼差しの前で、夜人は文句のような軽口を叩きながら煉瓦を手にした。パズルのように壁を直していく手際は見事なものだったが、逆に言えばそれだけ彼がその作業に慣れていると言える。夜人の姿は一分も経たずに煉瓦の向こうに隠される。
 見守っていた紅葉は嘆息した。
 毎朝のこととはいえ、今日のは心臓に悪かった。蓮夜が来なければ確実に危なかっただろう。それとも、夜人は蓮夜が来る時間までも計算に入れていたのだろうか。いつも馬鹿だ馬鹿だと扱き下ろしているが、肝心のところで夜人は本領を発揮する。もっとも、その力は別のところに発揮して欲しいと思うけれど。
 考えていたら終わりがないような気になって、紅葉は顔をしかめた。
(でも、蓮夜に感謝なんて絶対しないけど)
 夜人の作業は続いていく。蓮夜はそれを監視しながら紅葉に目配せした。その意味に気付いた紅葉は立ち上がり、食事を取りに向かおうとする。しかしその前に、壁に埋まったままのトレイを引き抜いた。いったいどんな力だったのか、トレイは結構な力を入れなければ抜けなかった。
 今日もまた何も変わらないこの組織での一日が始まるのだ。
 紅葉は憂鬱な気分でゆっくりと息を吐き出した。

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