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第一章

 【三】

 黙々と壁を直す夜人を、蓮夜はただ監視していた。彼の赤い瞳に優しさはない。飢えた野獣を連想させる。彼の視線は夜人にのみ注がれていたが、その意識は部屋の全体に向けられていた。紅葉が背後から忍び寄っても直ぐに気付かれるだろう。
 夜人と蓮夜は組織の幹部だという話だ。
 着々と積み上げられていく壁を眺めた蓮夜は、不意にその壁を蹴り飛ばした。今しがた直していた煉瓦の壁はあっけなく崩壊する。夜人の手抜きによるものだ。
「何しやがる、この馬鹿蓮夜!」
 ――馬鹿はお前だ。夜人。
 紅葉は胸中で一人呟きながら食事を続ける。これしきで動揺していたら身が持たない。
 夜人は唇を尖らせながら散らばった煉瓦を見た。面倒くさい、と顔全体に書いてある。
 蓮夜がひたりと夜人を見据える。その瞳が細められた。
「こんなに脆く組み立ててどうする? 紅葉を逃がすつもりか、夜人。俺の役目は紅葉をここに繋ぎ止めておくことだ。そのためにお前を隣部屋にしたんだからな。なんなら本職を呼んでコンクリートで固めるか? これまで以上にこの部屋の圧迫感を強めてやろうか」
 夜人のだらけきった顔に怒りが差した。蓮夜を見上げる瞳から幼さが消える。年長者である蓮夜に負けないほどの威圧感を醸しだす。
 紅葉が夜人のことを分からなくなるのはこんなときだ。
 食事を続けながら二人のやり取りを眺めていた紅葉は、胸のなかに沈む重たいものが、さらに重さを増した気がして手を下ろす。睨み合っていた夜人たちは、やがて夜人が踵を返すことで緊迫状態を脱した。再び黙々と壁を直し始める。それを見て紅葉も食事を再開する。
 蓮夜の視線が振り返り、紅葉は射抜かれたような気になった。
 どうせ明日にはまた崩れるのに、と呟いた胸中を見透かされたような気がした。
 夜人と出会ってから十年が流れた。紅葉はもう子どもではない。夜人も充分に男らしさを備えた十八歳の青年に成長した。彼から逃げ回るのも、そろそろ限界が近づいてきている。
 次に迫られたらどうしようか。
 紅葉は唇を噛み締める。
(まったく。頭には全然栄養足りてないくせに、なんで図体ばかり大きくなるのよ。その成長ホルモンを私にも分けて欲しいものだわ)
 部屋の隅には険悪な雰囲気が漂っているが、それもいつものことだ。紅葉は意識してそちらを頭から締め出し、苛立ちを募らせる。
 夜人には応えられないのだ。絶対に。
 音を立ててスプーンを皿に置くと、蓮夜が振り返る。
「終わったか」
「ええ」
 残さず食べ終えた。体力だけはつけておかないと抵抗もできない。
 挑むように蓮夜を見ると、彼もまた同じように紅葉を見返した。
「では外へ出ましょうか。子どもたちが待っていますので」
 声音はそのままに、言葉だけを丁寧語に変えて蓮夜が促した。そんな様を恐ろしく思いながら紅葉は頷く。立ち上がって扉に向かいかけ、夜人と視線が合った。笑いかけられたが無視を貫く。蓮夜の後を追いかけた。
「紅葉ぁ。あとで俺も行くから待ってろよ」
「来るな!」
 気が抜けるような声に反射的に答えて舌打ちした。結局、無視することも叶わない。
 紅葉は憮然として足を早め、部屋の外に出た。夜人の視線が追ってきている気がして、勢い良く扉を閉めた。


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「自分の立場を理解しているか?」
 扉を閉めた直後の言葉に顔をしかめた。苛立ちが湧く。
「なら夜人に言えば。私にはそんな気、まったくないんだから」
 紅葉は乱暴な足取りで歩き出す。
 灰色の廊下を照らす、蛍光灯の明かり。この曲がりくねった廊下を抜けると外の明かりが見えてくる。紅葉はただ外に出ることだけを考えて笑みを浮かべる。背後からついてくる見張り役には決して分からないように、ひっそりと。
「余計な口出しは無用だぞ」
「分かってるって言ってる!」
 早く外へ行きたくて足取りが早くなる。薄暗い廊下には、紅葉と蓮夜の足音だけが響いていく。息がつまりそうだ。気持ちは嘘のように沈んでいく。早く蓮夜から離れたい。
「貴方が組織に入れば話は簡単になるんですけどね」
 再び言葉を変えての促す声。
 紅葉は答えない。蓮夜もそれは分かっているため、何の催促もしてこない。彼は単に紅葉の気持ちを追いつめるためだけに言葉を投げかけるのだ。そんな精神攻撃にはもう慣れたいと思いながらも、今日もまた紅葉は表情が険しくなっていくのを自覚していた。無言で前を見据える。
 母から無理に引き剥がされ、幼かった紅葉に絶対の恐怖と孤独を刻んだ組織。当初は何も分からないまま翻弄されていた紅葉だが、ここ数年の間に何となく理解していた。ここは巨大な犯罪組織。巻き込まれて攫われた紅葉はお荷物で、いつ殺されても不思議ではない場所。そのような場所で、組織のために働くなど耐えられない。いつか絶対、ここを抜け出し、母のもとへ帰る日が来る。そのときのためにも組織になど入らない。
 紅葉は唇を引き結んだ。
 だから、夜人には決して応えられない。なぜなら、彼はこの組織を継ぐ者なのだから。
 遥か遠くに外の明かりが見えた。
 狭い空間から開放的な外へ。
 紅葉は瞳を細めて安堵した。


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「紅葉!」
 外へ出た途端に掛けられた声があった。それが誰のものか、知っていた紅葉は笑顔で振り返る。駆け寄ってきた幼い少女を抱きとめるために両手を広げる。
 真っ直ぐ紅葉に飛び込んだ少女は麻奈《まな》。あどけなさを多分に含む、紅葉の親友だ。
 紅葉は麻奈を抱き締めたまま芝生に倒れ込んだ。
 二人の笑い声が高く上がる。
「麻奈一人?」
「ううん。みんないるよ。紅葉を待ってたの」
 ひとしきり笑ったあと、麻奈は弾けるように紅葉から離れて背後を示した。
 空は真白い雲に覆われていて、太陽は見えない。少しだけ厚い生地を一枚、空一面に貼り付けたような光が降り注ぐのみ。その下で、麻奈が指したのは養護施設の友人たちだった。
 いつもの顔ぶれを確かめた紅葉は顔をしかめた。幼い子どもたちに混じって夜人の姿がある。先ほど別れたばかりだというのに、素晴らしい早業だ。
 子どもたちの中にあって身長一つ飛び抜けた夜人は笑顔で紅葉に手を振っていた。子どもたちにせがまれて少々面倒くさそうに遊んでいるが、そのわりに面倒見が良く、好かれている。ときおり、夜人の方が遊ばれているのではないかと思うほど打ち解けている。
 紅葉としては少々複雑な絵である。
 ふと振り返り、そこに蓮夜の姿がないことを確認する。彼がいつ離れたのか、いつものことながら分からない。蓮夜は建物に戻ったのだろう。彼も、いつまでも紅葉たちに構っていられないのだ。身分相応というのか、結構な忙しさを漂わせている。
 彼が請け負う仕事が何なのか、それは考えないようにしているけれど。
「おっそいぞー、紅葉!」
 その場を動こうとしない紅葉に焦れたのか、視線の先で子どもたちの声が上がった。少年たちに混じった夜人までもが手招きしている。先ほどより勢いが増しているのは気のせいではない。可愛くない上に憎らしい。
 麻奈に袖を引かれ、紅葉は頷いた。
「夜人!」
 少しだけ丘になっていた斜面を駆け下りて、紅葉は夜人に笑顔を向けた。
 自身に向けられた、滅多に見られない紅葉の満面の笑みに、夜人は嬉しそうな顔で両手を広げた。
「だりゃ!」
 紅葉は気合を入れてヘッドロックを仕掛けた。
「だぁ!」
 夜人は紅葉と共に芝生に倒れる。期待を裏切られて情けない顔だ。子どもたちが楽しそうな歓声を上げた。
「さっきの恨み、倍返し!」
 紅葉は夜人の首に力を込めようとしたが、仰向けに倒れた夜人はそのままの体勢を許さなかった。いとも簡単に紅葉を抱え込み、クルリと体を入れ替える。夜人が紅葉の首に手をかけることはないが、圧し掛かるように抱き締めてくる。
「ぎゃあああ!」
 地面に押し倒された紅葉は奇声を上げた。
(子どもたちが見てる前で何しようとしてやがる、この変態!)
 夜人の腕から抜け出そうともがくが、その腕はなかなか外れない。冷や汗を流した紅葉の耳に、意外な助けの声が入ってきた。
「紅葉姉ちゃんに乱暴するなー!」
 いつも一緒に遊んでいる三人の少年が、紅葉に被さろうとする夜人の脇腹に、息が揃った動作で蹴りを入れた。子どもたちは紅葉の味方だった。
 子どもの力とは言え、蹴られれば痛い。しかも力を合わせてとなると、夜人は吹っ飛ぶしかない。
「僕らは紅葉姉ちゃんを守る戦士だー!」
 何の戦隊ものの影響か、三人の少年はそれぞれポーズを決めながら名乗りを上げた。
 可愛らしい三人組に、紅葉は堪らず笑い声を上げた。地面に打ち伏せて肩を震わせる。自分を守ろうとする三人組にも、そんな少年たちにあっけなく負ける夜人にも、笑いが込み上げてくる。
「てっめぇら……」
 恨みがましい目で三人組を見る夜人は、本気で彼らを邪魔だと思ったようだ。どう見ても大人気ない視線と声である。そんな彼の様子にも、紅葉は笑いが込み上げてきて止まらない。
「今日は夜人が鬼だよ!」
 必死で笑いを堪えた紅葉は涙目になりながら叫んだ。
 紅葉の号令と共に、周りの子どもたちが「おー!」と団結して夜人を取り囲む。やはり子どもたちは全員が紅葉の味方らしい。
(ざまぁみろ、夜人)
 紅葉は胸中で夜人に舌を出した。
「汚ねぇぞ紅葉!」
「純粋な子どもたちに触れて、夜人の心も浄化されてしまえ!」
 とんでもないことを言う紅葉に、夜人は二の句が告げずに子どもたちに群がられた。
「だぁ、鬱陶しい!」
 子どもたちを蹴散らす夜人だが、それでも子どもたちはめげずに夜人の体に取り付いていく。やがて処理しきれなくなったのか、夜人は子どもたちに押し倒された。参加しなかった女子の集団はそれを見て笑い声を上げる。
 紅葉もその内の一人だ。あっさりと潰された夜人に笑い声を上げた。

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